2135日目・・・オリンピック、ニッポン・・・地球儀を眺めて・・・各国の名前由来をブログ記事で調べて行くと「国名」は単純な「地形(山・川・平野・湖・沼)」と自称の「ワタシの住んでいる処」と、異邦人がその国を訪問し、そこの住民に訊ねた名からついているモノが多い。しかも漢字を発明し、その使用の国であった中国各王朝は異国を漢字で記録する命名権があった。当然ではある、が・・・ 自称「日本(にっぽん・にほん・ひのもと)」は、「豊葦原(とよあしはら)・葦原中(あしはらなかつ)-國・秋津島・大倭豊秋津島・師木島・敷島

 ナゼ、「大陸中国の福建語」なんだか・・・「ジーペン(字意変)」・・・?・・・ボクの妄想の連鎖の根源・・・「客家」・・・「却下」・・・
 アレッ!?、停電(2時15分頃)、朝から追加で書き込んでいたモノがスベテ消滅・・・コレを書き込んでいて再度の停電(2時20分頃)・・・何処かで落雷してのコトらしいが・・・同じモノを書き込
むのはボクの記憶能力には限界・・・ショウガナイが思い出しながらも・・・2時36分、近辺にド〜ンと雷光と轟音が鳴り響いた・・・雨はショボショボだけれども、落雷したらしい・・・停電しないうちに、これを保存してチョと中断・・・
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 「戦国時代、自治都市・堺と呂宋(ルソン=フィリピン)の交易を開いた商人、呂宋-助左衛門(納屋-助左衛門)」・・・「永禄八年(1565年)?〜没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。納屋-助左衛門(なや-すけざえもん)。堺の貿易商 ・納屋才助の子。呂宋以外にも別名で菜屋-助左衛門(なや-すけざえもん)や魚屋-助左衛門(ちや-すけざえもん)」・・・
 ボク的にはこれらの名前をみて、哂(嗤・笑・听・噱・咲)っちゃう、が・・・
 呂宋(ロソウ)-助左衛門=呂の宗
    呂=背骨・長い
      音楽のリズム・十二律の一
      声または楽器の低い音域
      甲(かん)に対して乙(おつ)
      十二律の陰(偶数律)に属する六音
    呂=リョ・ロ(呉音)
      おと・とも・なが・ふえ
      雅楽の陰の調子
      大呂・南呂・律呂
      語呂・風呂
      呂律 (ろれつ)
      呂律がまわらない
      吃音・吶音
      音節の繰り返し
 納屋(ノウヲク・ノウヤ)-助左衛門=納める屋
    納=ノウ・ナフ
      呉音はナッ・ナ・ナン・トウ・タフ
      納豆・納得・収納・奉納・上納・献納
    屋=尸+至(一ム十一)
 菜屋(サイヲク・サイヤ)-助左衛門=菜の屋
    菜=サイ=艹(艸)+爫(爪)+木(十八)
      菜(な)の花
      菜種(なたね)・野菜(やさい)
      菜花・彩華・・・・うぬめ(采女
      サイカ・サイガ
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      雑賀衆・雑賀党=鉄砲傭兵集団
      雑賀孫一鈴木孫一
      天文三年・1534年
       〜
      天正17年5月2日(1589年6月14日?)
      鉄砲の名人
      紀伊国和歌山県)の地侍集団の頭領、頭目
      関ヶ原の戦い(1600年)では西軍
      合戦後は浪人を経て
      水戸藩に仕えた・・・
      采女世阿弥世阿弥元清
             芸名は世阿彌陀佛
             通称は三郎
             幼名は藤若丸、鬼夜叉)
         正平十八年/貞治二年(1363年)
          〜
         嘉吉三年八月八日(1443年9月1日)?
         観阿弥(父)、世阿弥(子)、
        「観世流
         猿楽能(能楽)の大成者の作品
        「大和物語」からアレンジ(arrange)
         佐渡島へ流刑
         永享八年・1436年
         「金島書」著作
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        『複式夢幻能』形式・・・?
         ↓↑
         過去と現在、
         時間を自在に交差させる表現法
      ・・・これって、ボク的ではある、かなナッ・・・
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        「風姿花伝」の秘伝に
        「秘すれば花なり。
         秘せずは花なるべからず」
        「花伝書」の奥書などで名前が記され
         著作者とされてきたが
         明治以降に彼自身の著作が発見され
         江戸時代の版本に記された
         仮託の名前・・・らしい・・・
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 「呂宋助左衛門」がまた。跳んでしまったがジャンプは、
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 魚屋(ギョヲク・ギョヤ)-助左衛門=魚の屋
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 ・・・の「眞名(まな)→眞魚(空海・佐伯一族)」の「黄金の日々」・・・「大陸中国客家の福建語」・・・
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 福建-省
 中国語=Fújiàn-Shěng・・・ふじあん→「富士・不死」編?
 英語=Fujian・・・・・・・フジアン?
 中国の省の一つ
 中華人民共和国が統治
 一部の島嶼
 中華民国(台湾)が統治
 省都は福州市
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 福建省
 略称は「閩(ビン)」・・・閩=門+虫(中ム)
                虫=蝮、蛇の意味
                蛇(商業の象徴)の崇拝
                商業一族(門閥
 中国大陸南東
 台湾海峡を挟み、台湾は対岸
 武夷山脈・・・ナゼか「武の夷の山」
 と
 載雲山脈・・・ナゼか「載の雲の山」・・・八雲?
        載録=記載・掲載・所載・転載・連載
        載=年を数える語
          千載一遇・・・デス
 が存在
 省内の地域差が大
 宋代に・・・・・「宋の代」デス
 福州、建州、
 泉州、漳州、・・・「泉の州」デス
 汀州、南剣
 の
 六州と
 邵武・・・邵=たかく・ショウ・shào・ジョウ・ゼゥ
       =召+阝・・・召す邑(or阜)
              召し抱える
              召人(めしうど・めしゅうど)
              呼び出す
              客として来るように誘う
              召喚・召還
              召集(令状)=赤紙
              召致・応召
 興化・・・興=おこす・コウ・キョウ
        復興・再興
        興味・勃興
 に二つに分かれていたことから、
 八閩(ハチビン・パァビン)とも称される
 言語的に
 福建省は地域による
 方言差が激しい
 主に福建省で使用される
 閩語(広義の福建語)は
 中国語の7大方言のひとつ
 閩北語、閩東語、莆仙語、閩南語、閩中語、閩贛語
 などに分れ、
 異なる区分の方言同士では会話が困難
 閩西ともよばれる西の内陸部では
 「客家語」を話す
 歴史
 福建省
 古代閩(越)人の領域
 戦国時代に
 楚に滅ぼされた
 越王族が・・・・・越王=勾践=句践(?〜紀元前465年)
             会稽の恥=臥薪嘗胆の故事
             ライバルは呉王=夫差
             滅亡寸前の
             勾践は呉の人質となり
             夫差の「召し使い」となった
 閩に逃げ込んで
 閩越と呼ばれた
 紀元前221年
 秦に征服されたが、
 秦末の動乱期に
 閩越国として独立
 東冶(福州)・・・・・会稽東冶の東に「邪馬台国」あり
            緯度は北緯33度→阿蘇山頂←横島
            「よこしま=邪」デス
 に都を置き
 92年間にわたって
 漢に抵抗したが、
 武帝に滅ぼされた・・・武帝とはダレ?→大海人皇子
 唐代後期に
 地の利から
 沿岸地域で国内・海外貿易
 中原の戦乱を避けて
 様々な階層の人間がこの地に移住
 909年
 王審知・・・・・・ナゼか「王の審の知」デス
 によって福建の開発
 945年
 閩は南唐に併合
 1087年
 北宋時代では
 泉州・・・・・浪速(難波・浪華)の
       「和泉」は「客家」の植民地?
        織田信長の岐阜の「阜」=阝
        豊臣秀吉の半島、明国侵略
        二人の野望の根源は「和の泉の商人」?
        千利休とは「客家」か?
 に
 貿易官庁である
 市舶司が設置
 朱熹をはじめ多くの文人・官僚を輩出
 福建は山地が海に迫り、耕地が少ない
 人口密度が過剰状態
 海上貿易が盛ん
 海外に移住する者が続出
 台湾の本省人
 東南アジア華僑の多くは
 福建からの移住者の子孫
 大部分は閩南地方の
 泉州、漳州、
 アモイ(廈門・厦門)・・白話字で
             漳州方言
             Ē-mûi(エームイ)
             泉州方言
             Ē-mn̂g エームン
             北京語
             Xiàmén (シァメン)
             閩南語
             Amoy(アモイ)
              ↓↑
             1722年に発見された
             チリ領イースター島
             モアイ(Moai)の
             置換文字?
            (substitute string
             replacement text)
             康熙六十一年十一月十三日
             1722年12月20日
             清で康熙帝が没し雍正帝が即位
             康熙字典康熙字典
            「康熙字典
            (コウキジテン・Kāngxī Zìdiǎn)
             清王朝康熙帝の勅撰
             漢代の『説文解字』以降の
             歴代の字書の集大」
 からの移民
 シンガポール
 マレーシアなどには
 閩中地方の
 莆田(興化)
 閩東地方の福州などからの移民が多
 ↓↑
 古代中国(周から春秋戦国時代)の
 中原や
 中国東北部・・・・満州・金・女直(女眞)
 の
 王族の末裔が多い
 戦乱から逃れるため
 中原から南へと
 移動、定住を繰り返していった
 移住先では原住民から見て
 「よそ者」であるため、
 「客家」と呼ばれ、
 原住民との軋轢も多く
 この争いを
 「土客械闘」という・・・
 移動・定着の歴史
 およそ6段階
 最初が秦の時代辺りから
 江西地帯への入植、
 第2段階が
 西晋
 「八王の乱永嘉の乱」にかけて
 黄河流域の中原や華北の北方住人が
 長江以南に避難
 第3段階が
 唐末の
 「黄巣の乱」に
 江西、福建、広東の奥地に南下
 第4段階が
 南宋末期の
 元軍の侵攻により広東に拡がり、
 第5段階で
 清の時代の領土拡大に伴い、
 西は四川省
 東は台湾に展開
 最後の段階は
 海南島まで南下
 ほとんどの家に古代からの
 族譜があり、
 祖先信仰が強く、
 風習も頑なに守って
 周囲から隔絶されて発達した
 客家語には古代の文語がうずもれ残っている
 ↓↑
 客家の人々は、
 周辺に住む他の集団とは異なり、
 山間部に好んで居住し
 独特の言語・文化を持っている
 言語は
 古代の漢族語を今に伝えている・・・
 他の集団と軋轢が多い
 少数派であるがゆえに劣勢であるため、
 中央政権や王朝と
 良好な関係を保とうとする傾向がある
 客家
 漢人としての意識が比較的強い・・・?
 ↓↑
 移民の通例として
 土地の所有が困難で
 流通や商業に従事
 子弟の教育にも熱心
 商業の他には教育の高さから
 教職に就くことが多い
 これらの特色から
 「中国のユダヤ人」などと呼ばれる
 客家を含む華僑は
 ユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に
 「四大移民集団」の一つ・・・
 ↓↑
 太平天国の指導者
 洪秀全
 孫文
 蠟小平
 シンガポール
 リー・クアンユー李光耀)などを輩出
 台湾総統
 李登輝
 映画監督の
 侯孝賢
 も出自は客家
 タイの首相を務めた
 タクシン・チナワット
 インラック・シナワトラ
 兄妹も
 客家
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 ↓↑
 魏書では卑弥呼の時代は「邪馬臺-國」、で、「倭-國」、「日本書紀」では「夜摩苔」、隋書では「耶靡堆-國」で、「俀-國」と表記・・・・
 なぜ、「隋・唐」はワザワザ「耶靡堆-國」、「俀-國」と漢字文字を変えたのか?
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 ↓↑
 都於
 邪靡堆、
 則
 魏志所謂
 邪馬臺
 者也
 (隋書)
 ↓↑
 謂之、倭奴國
 (「後漢書・安帝紀、永初元年(107年)」)
 ↓↑
 倭國者、古、倭奴國也
 日本國者
 倭國之別種也
 以其國在日邊
 故以
 日本
 爲名
 或曰
 倭國、自惡其名、不雅
 改爲
 日本
 或云
 日本、舊小國
 併、倭國之地
(「舊唐書・東夷伝・倭國」)
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 今夜はココまで・・・