2107日目・・・「七夕(たなばた・シチユウ)・乞巧奠(キッコウデン)=乞巧祭会(キッコウサイエ)・乞巧」・・・書き込んだモノが消えた・・・去年も同じようなコトを書き込んでいたが、ボクの脳ミソの記憶容量と、脳ミソ機能としては同じものを書き込むのは無理であるカナ・・・「沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられ、墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告。また往時は洗骨をこの日に行った」・・・沖縄では「洗骨の日」ですか・・・一般的には「七夕は作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では

 「太陰太陽暦では、7日の月は必ず上弦の月、これを「船」に見立て、夜遅くには月(舟・船)が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる」・・・なるほど、漢字の「月扁」が「肉」と同時に「舟」の漢字の代用がコレ・・・「グレゴリオ暦新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なり、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い」、「グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降で、古来の七夕は秋の季語である」・・・「アキ」です・・・「安芸」は長州・・・ホンダワケである・・・
 ・・・以下、例の如く、ウイッキペデア等からの抜粋「コピペ」部分・・・
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 七夕に関する記録
 ↓↑
 六朝・梁代の
 殷芸(インウン)が著した
 「小説」
 ↓↑
 「西京雑記
 「葛洪(カッコウ・283年・太康四年〜343年・建元元年)、西晋東晋時代の道教研究家」の著述らしいが?劉歆、呉均とする説も・・・兎に角、著作は南北朝の「梁王朝(502年〜557年)」以前・・・
 「前漢采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されている」・・・「織女」とは記されていない・・・
 だが「采女」の仕事の一つは「機織り」でもあったハズ・・・
 ↓↑
 「月令広義(ゲツリョウコウギ・月令廣義)」
 ・・・「月齢(朔望の月・月齢分野)講義」だろう・・・
 中国・明代の官僚
 馮應京(ヒョウオウキョウ)・・・馮(憑依)
                 應(応仁・応答・応神)
                 京(京都)
 が
 万暦年間・・・・万暦(バンレキ・マンレキ)
         明代の元号(1573年〜1620年7月)
         第十四代皇帝
         神宗の在位中に使用
         神宗は
        「万暦帝」と呼ばれる
          ↓           
        「よろず」の「こよみ」の「綴り」です・・・
          ↓
         諱は
         翊鈞(ヨクキン)
         廟号は
         神宗
         諡号
        「範・・・・・範疇・模範
         天合・・・・転合
         道哲・・・・転道の哲学
         粛・・・・・弁声粛々
         敦・・・・・敦煌は遁甲、
               シルクロード分岐点
               粛省北西部の都市
               酒泉市の管轄下の市
               オアシス都市
               近隣の
               莫高窟から出た
               敦煌文書
               歴史的な敦煌は現在の
               敦煌市
               瓜州県の領域
         簡光・・・・刊行
         文章
         武安・・・・伏按
         仁止・・・・仁徳天皇に留める
         孝顕・・・・後見、公権
         皇帝」・・・校訂・更訂
 に著した、
 中国の伝統的な
 年中
 行事
 儀式
 しきたり
 などの解説記録
 ↓↑
 日本の「たなばた=七夕」は
 奈良時代に伝わり、
 元からあった・・・?・・・元々も中国大陸伝来・・・
 棚機津女(たなばたつめ)の伝説と
 合体して生まれた・・・?・・・複数の合体は江戸時代
 ↓↑
 「荊楚歳時記」・・・
 「六朝時代の荊楚(湖北・湖南省)地方の
  年中行事や風俗を記録したもの
  梁の宗懍(ソウリン)の撰
  6世紀半ばごろ成立
  全1巻」
 「揚子江中流域地方を中心とした
  年中行事記
  6世紀、
  梁の宗懍撰」
  ↓↑
 「当時の
  庶民の信仰、習俗など
  7世紀の初頭
  隋の
  杜公膽
  が改編増補し、注をつけた
  ↓↑
 「杜公膽」は
 「隋の杜公瞻
 (玉燭寶典の著者)
  杜臺卿の甥・・・・・・杜臺卿→「杜撰(ずさん)」で
                 「臺(台)」が
                 「経」の
                 「笈(おい)」・・・?
 ↓↑
 「たなばた」の語源
 「古事記」の
 「アメのワカヒコ」が死に・・・・・話掛比古
 「アヂスキタカヒコネ」・・・・・・蛙字素記他化比古音
 が来た折に詠まれた歌
 「淤登多那婆多=(弟棚機)」・・・弟棚機=テイビョウキ
                      テイホウキ
                      テイボウキ
                  おとたなばた
                  音他名葉多?
 「日本書紀」の
 葦原中国平定
 「乙登多奈婆多」・・・・・・・・・おとたなばた
 お盆の
 精霊棚とその幡から「棚幡(たなばた)」・・・?
 「萬葉集・卷十・春雜歌2080
 「織女之・・・・・・・たなばたの
  今夜相奈婆・・・・・今夜あひなば
  如常・・・・・・・・つねのごと
  明日乎阻而・・・・・明日をへだてて
  年者将長」・・・・・年は長けむ
            訳詞葉、まさに、おさ・・・省重
 ↓↑
 牽牛、織女
 それぞれ
 耕作
 と
 蚕織(かいこおり・サンシキ)
 をつかさどるため、
 種物(たなつもの・シュブツ)・・・・・多田田根子
 機物(はたつもの・キブツ)・・・・・・機織り=夕鶴
 という語が
 「たなばた」の由来・・・江戸期の文献・・・?
 ↓↑
 雑令によって
 七月七日が・・・・・・・漆塗りツキ、漆塗りヒ
 節日
 相撲御覧(相撲節会)、・・・素摸得を御覧
 七夕の詩賦、
 乞巧奠
 などが
 奈良時代以来行われていた
 後、
 平城天皇
 七月七日に亡くなると、
 826年(天長三年)
 相撲御覧が
 別の日に移され
 行事は分化して
 星合(ほしあわせ)・・・命(ほし)あわせ
 と
 乞巧奠
 が盛んになった
 ↓↑
 乞巧奠(キッコウデン)
 乞巧祭会(きっこうさいえ)
 乞巧とも言い
 7月7日の夜、
 織女に対して
 手芸上達を願う祭
 「荊楚歳時記(ケイソサイジキ)」・・・いばら
                    ソ=素・蘇・鼠
                      移鼠はキリスト
 に見え、
 唐の
 玄宗
 のときは盛んに行われた
 宮中では、
 清涼殿の東の庭に敷いた
 筵(むしろ)の上に
 机を
 四脚並べて
 果物などを供え、
 楸(檟・ヒサギ)の
 葉1枚に
 金銀の針を
 それぞれ
 七本刺して、
 五色の糸を
 撚(より)合わせたもので
 針の孔(あな)を貫いた
 一晩中
 香をたき灯明を捧げて、
 天皇は庭の倚子に出御して
 牽牛と織女が合うことを祈った
  ↓↑
 「平家物語」によれば、
 貴族の邸では願い事を
 カジ(楫・梶)の葉に書いた・・・小田村伊之助=楫取素彦
                 久坂文=杉文=楫取美和
 二星会合(織女と牽牛が合うこと)
 詩歌・裁縫・染織などの
 技芸上達が願われた
 江戸時代には
 手習い事の願掛けとして
 一般庶民にも広がった
 ↓↑
 風習
 「荊楚歳時記(ケイソサイジキ)」
 ば古代の女性は
 七夕の夜に
 「閨中秘戲=七月七日は牽牛と織女が会う日」
 この夜、婦女は
 飾り付けのある小屋を作り、
 七孔針に糸を通し、
 筵(むしろ)をしいて
 酒や
 干し肉や・・・・・・星字句
 瓜や・・・・・・・・得理
 果物・・・・・・・・果(田木=デンキ=伝記)モノ
           化部通
 を
 庭に並べて・・・・・綴り並べて
 乞巧を行った
 もし
 蜘蛛(くも)が
 瓜に
 網(あみ)を
 張っていれば、
 印があったとする」・・・音(韻・陰・殷)が合った・・・
 (七月七日
  為
  牽牛
  織女
  聚會之夜。
  是夕
  人家
  婦女
  結
  采縷
  穿
  七孔針
  或
  陳幾
  筵
  酒脯
  瓜果
  於庭中
  以
  乞巧。
  有
  喜子
  網
  於
  瓜上。
  則以
  為
  符應)
 ・・・喜子とは小型の蜘蛛(クモ)・・・
 「東京夢華録」に
 「婦人は月に向かって糸を通し、
  また小さな蜘蛛を箱に入れて、
  次の日に見て、
  もし網が丸く張っていれば、
  器用になるという」
 (婦女
  望月
  穿針
  或以
  小蜘蛛
  安合子内
  次日看之
  若
  網
  圓正
  謂之得巧)
 ↓↑
 杜甫
 「牽牛織女」
 「蛛絲小人態
  曲綴瓜果中
  劉言史『七夕歌』
  (碧空露重新盤濕
   花上乞得蜘蛛絲)
 ↓↑
 梁(リョウ・502年〜557年)の歴史
 斉の始祖
 蕭道成の族・・・「蕭」=ショウ(セウ)
             草の名・ヨモギ(蓬)の一種
            「蕭艾(ショウガイ)」
             ものさびしい
            「蕭蕭・蕭条・蕭然」
 弟
 蕭順之の子
 蕭衍は、
 斉の皇帝
 東昏侯の暴政で
 兄
 蕭懿
 が殺害された事に怒って、
 501年に
 荊州
 襄陽において
 藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵
 建康に進撃し
 東昏侯や側近を粛清
 蕭衍は
 新帝に東昏侯の弟
 和帝を擁立し、
 502年
 和帝から禅譲
 梁を建国
 ↓↑
 武帝の時代
 武帝
 宋や斉のために疲弊した
 民政の回復を図った
 創業当初の
 天監年間(502年〜519年)・・・天監=天文所
 九品中正法の改定
 梁律の頒布・・・・・・・・・・頒(分+頁)布(ナ+巾)
 租税の軽減等の政策
 などで安定
 武帝は、
 旧来の貴族の子弟が入る
 国子学以外に、
 寒門の子弟を対象とした
 教育施設として
 新たに
 五館を設置
 武帝の長男である皇太子
 蕭統(昭明太子)の
 「文選」
 蕭統の死後皇太子となった
 蕭綱(簡文帝)・・・・・・簡文帝→漢文綴
 らによる
 宮体詩を収録した
 「玉台新詠」の編纂
 後半
 「捨身」など
 過度の仏教保護や経済政策の失敗
 貴族層の実務忌避
 寒門側近による専権が
 官吏の綱紀弛緩
 社会不安が深刻化
 ↓↑
 548年
 北朝東魏の降将
 侯景が
 河南13州を手土産にして
 武帝に帰順
 武帝は侯景の帰順を受け入れたが、
 東魏軍は
 侯景・梁軍を破って河南を奪還
 東魏
 梁との和睦を図り、
 武帝もそれに乗った
 東魏に破れて寿春に逃れていた
 侯景は窮地に立たされ
 臨賀王
 蕭正徳という人物と内通して
 1000名の軍を率いて
 548年
 10月22日
 首都建康を包囲
 梁軍の名将
 羊侃が急死
 549年2月
 偽りの和議を
 侯景と結んだ挙句に
 3月12日
 にはその
 和議を破棄されて
 建康は落城
 武帝
 侯景に捕縛されて幽閉
 2ヵ月後に
 86歳で崩御
 ↓↑
 侯景は
 武帝に代わる新しい皇帝として
 皇太子の
 簡文帝
 を擁立し
 傀儡化した
 侯景は自ら軍を率いて
 三呉地域の平定に乗り出す
 武帝
 七男
 蕭繹は建康から逃れてくる
 梁の残党や避難民を吸収して勢力拡大
 江陵を中心にして
 侯景と対峙
 侯景と
 巴陵で激突し、
 蕭繹軍の名将
 王僧弁の活躍で
 侯景軍は大敗
 王僧弁や
 陳覇先により
 建康に追い詰められ
 侯景は
 簡文帝を殺害し、
 梁皇帝に擁立した
 蕭棟(予章王)も
 天正元年(551年)
 十月に廃し、
 国号を漢として
 皇帝に即位(漢の順武帝
 (侯景の乱)
 梁は一旦滅亡
 ↓↑
 梁の皇族
 蕭紀(武帝の八男、武陵王)
 蕭繹(武帝の七男)
 たちは
 侯景の即位を認めず
 蕭紀は
 552年に
 蜀の地で
 皇帝即位
 蕭繹は
 陳覇先や王僧弁に擁立されて
 梁の正統の後継者であると名乗った
 侯景は
 陳覇先や王僧弁の軍を迎撃したが敗北
 逃走中に部下に裏切られ
 552年4月に殺害
 漢は5ヶ月で滅亡
 侯景を討ち滅ぼした
 蕭繹は
 552年11月
 根拠地の江陵で
 梁の皇帝に即位して
 元帝
 となり、
 蕭紀をも討ち滅ぼして
 梁を復興させた
 一連の混乱の間に
 西魏が梁に侵攻・・・
 西魏は襄陽にいた
 蕭詧(武帝の孫、昭明太子の子)
 を擁立
 梁の重要都市であった
 江陵に迫る
 王僧弁ら梁の主力は
 建康周辺の鎮撫や北周の防衛で
 援軍の派遣は間に合わず、
 江陵は
 554年11月
 西魏軍5万により陥落
 元帝は戦死
 元帝崩御の報せを受けて
 旧都
 建康を守備していた
 王僧弁
 陳霸先
 は、
 元帝の九男
 蕭方智を新皇帝に擁立
 江陵を掌握した
 西魏は、江陵において
 蕭詧を
 新たな梁の皇帝(宣帝)として即位させ
 後梁とした
 これによって、
 梁は分裂
 ↓↑
 王僧弁は梁再興のために
 北斉と同盟を結ぶ事を説く
 徐陵の提言を受け、
 敬帝蕭方智を廃して
 皇太子に格下げし、
 武帝の甥
 蕭淵明(蕭懿の五男)を
 北斉から迎え入れて皇帝に擁立
 蕭淵明の即位に
 陳覇先が反対し
 王僧弁と陳覇先が対立
 555年9月
 陳覇先は
 王僧弁を
 建康において殺害
 再び
 蕭方智を皇帝とした
 梁の実権を掌握した
 陳覇先は、
 2年後の
 557年10月
 敬帝から禅譲を受けて
 陳を建国
 梁は滅亡
 ↓↑
 梁の将軍
 王琳は
 陳の建国と陳覇先の皇帝即位を認めず、
 北斉の人質となっていた
 蕭荘(永嘉王)を取り戻し、
 郢州において
 梁の皇帝に即位させた
 王琳と蕭荘によって復興された梁は
 「南梁」と呼ばれ、
 長江の中・上流域を勢力範囲として
 陳に対峙
 南梁は
 天啓三年(560年)
 陳に敗れ、
 蕭荘と王琳は北斉へと亡命
 北斉も滅亡
 ↓↑
 後梁
 西魏とそれに代わった
 北周・隋の傀儡政権
 後主蕭螬まで3代続き、
 587年
 隋の
 文帝によって廃された
 ↓↑
 後梁の宣帝(蕭詧)の曾孫
 蕭銑が自立し、
 618年には
 梁の皇帝を称したが
 621年
 唐によって滅ぼされた
 ↓↑
 三国・・・魏・呉・蜀
 晋・・・・西晋
 東晋・・・十六国
 南北朝・・宋・北魏
      斉
      梁・西魏東魏
      陳・北周北斉
 隋
ーーーーー
 ・・・「た・な・ば・た」・・・