2085日目・・・中央の官僚、企業の管理職の「リストラ(restructuring→理素訳等)」と、「左遷(demotion・relegation)・左遷する(demote to・relegate to )」は地方を活性化させる・・・更に他国、「後進、途上国」の産業発展を促す・・・「敗者」は地方で復活する・・・結果の「敗北者の科学技能、技術、政治行政の技能、技術」を必要とするのは「地方の後進行政官僚」だけではない。「武力で勝者」になった奴をもである。古代〜現代まで、エジプト、中東、ギリシャ、ローマ、ヨー

 なんか、「石田三成」の正室「皎月院(父=宇多頼忠)=うた」をブログ記事で色々調べていたら、負けて生き延びたモノこそ「地方」を活性化するんじゃぁないかと・・・なんせ、「皎月院」の「うた」である・・・「皎=白(曰)+交(亠+ハ+乂)」、「月(肉)」、「院=阝+宀+元(二儿)」で、「うた=歌・唄・唱・詩・卯多」である・・・兎(うさぎ=兔・莵・菟)が多い地方は「スペイン・イスパニアエスパーニャ」で「西班牙」である・・・そして犬(いぬ=狗・戌)でもあった・・・
 フェニキア語=shaphan(ウサギ)
 古ラテン語=hispan(イヌ)
 ラテン語=Esperia(エスペリア)
 古代ギリシア語=イベリア半島(Península Ibérica)の
        「エスペリア(日の沈む国)」
         イベレス人の国
        「雄牛の皮の形状の国」
        「球状の四角形の国」
 バスク語=ezpana(岸)
 などの説・・・なるど、「吉士・吉師・旗幟・紀氏・輾」で、「キシ(舞)=新羅の舞」は「アベ」の配下であったらしい・・・
 「エスペリア(日の沈む国=西の国)」も地球上の観察位置からは「ジャポン・ジャパン」も「日の沈む国=西の国」になるだろうに、時代は「アメリカの建国の位置」から「西」を眺めるのには未だであった・・・そして、古代から「西の半島・大陸」を眺めていたのが「ジャポン」であった・・・「つつがなきや」って・・・
 ・・・以下は色々な説を「コペピィ」で貼り付けたが、重複掛所も多く、それに読んでいても「人物の流れ」には混乱する・・・
 要は「敗北者(石田三成)」の血が、「勝者(徳川家康)」の血統に混ざっていく、と云うコトである・・・「家系」を護るコトは必ずしも「血統」を護ると云うことではない・・・「武士の魂(精神)」とは「お家の従業員(お抱え武士の食い扶持)の組織」を護る、と、云うコトである・・・「葉隠れ」の「虫」とは「蚕」・・・
 そして、この「組織」を「身内の利害」からも、「外敵との利害」からも、掻っ攫おう、とする「戦い」である・・・「戦時には一族郎党の命」、「平時には女の命」を賭けて・・・
ーーーーー
 ↓↑
 石田三成(1560〜1600
 父
 石田正継
 幼名=佐吉
 初名=三也
 1585 従五位下
 1585 治部少輔
 1586〜1588 堺町奉行
 1590 忍城攻め失敗
 1595-1600 近江佐和山城
 1600 関ヶ原の戦い
 ↓↑
 前妻=朽木氏の娘
 正室=皎月院(父=宇多頼忠)=うた
 ↓↑
 子供達
 1583〜1686 重家
 1589〜1641 重成
   〜1623 荘厳院(辰姫)=たつひめ
      (陸奥弘前藩二代藩主
       津軽信枚の室)
 娘(山田某室)
 娘(岡重政室)
ーーーーー
 ↓↑
 石田重家(1583〜1686)
 父
 近江
 佐和山城
 石田三成の長男
 ↓
 隼人正
 1600 出家
 妙心寺寿聖院住職
 ↓↑
 石田重成(1589〜1641)
 父
 近江
 佐和山城
 石田三成の次男
 ↓
 別名=杉山源吾、杉山俊成
 隼人正
 妻=朽木氏
 ↓↑
 1610〜1672 杉山吉成
 石田掃部
 妻=柘植氏
 杉山成保
 杉山吉成(1610〜1672)
 ↓↑
 父=石田重成
 弘前藩家老
 妻=(父=陸奥弘前藩二代藩主 津軽信枚)
 ↓↑
 三成の妻
 最初の妻=朽木氏の娘
 その死後
 宇多頼忠の娘(皎月院=おりん)・・・うた
 ↓↑
 長女=山田隼人正の室
 次女=岡半兵衛重政の室
 長男=隼人正-重家
 次男=隼人正-重成
 三女=辰姫(津軽信枚の室)
 三男=佐吉
 ↓↑
 高僧(長男の重家と、三男の佐吉が出家して)
 ↓
 長男の重家
 三男の佐吉
 は
 関ヶ原合戦当時、三成の居城
 佐和山城に居た
 ↓
 関ヶ原の敗北後、
 佐和山城は東軍に寝返った
 小早川秀秋軍の攻撃を受け、
 三成の妻・皎月院
 三成の父・正継、兄・正澄
 皎月院の父・宇多頼忠は自害
 ↓↑
 長男の
 重家は祖父
 石田正継に命じられて城を脱出
 三成との親交が厚かった
 京都妙心寺・寿聖院の
 伯蒲和尚を頼った
 和尚の奔走により
 家康に助命され、出家し、
 「宗亨」と改名
 40歳で寿聖院住職
 85歳で隠居
 後は
 岸和田藩主
 岡部宣勝
 (岡部家は今川氏旧臣で徳川譜代大名
 の庇護
 享年
 108歳(五代将軍綱吉の時代)
 ・・・108は煩悩の数だが?
 ↓↑
 三男の佐吉は
 伯父正澄の家臣
 津田清幽により救出
 清幽の徳川家との交渉で助命
 高野山へ入り、出家
 のち
 甲斐(山梨県
 多門院薬王寺の住職となり
 「深長坊清幽和尚」と称される
 「清幽」という法名は命の恩人である
 津田清幽の名前をもらった・・・
 没年80余歳
 ↓↑
 三成の長女
 石田家重臣であった
 山田上野介の子の
 隼人正の妻となり、
 四人の子(三男一女)を産
 ↓
 上野介は
 関ヶ原合戦の時には
 佐和山城にあり、
 皎月院らと共に自決したが、
 息子の
 隼人正は脱出し、
 遠縁にあたる
 豊臣秀吉正室
 高台院(おね)の
 筆頭侍女
 孝蔵主(こうぞうず)を頼った
 孝蔵主は三成とも遠縁
 ↓
 父
 山田上野介の妹(隼人正の叔母)が
 徳川家康の側室
 茶阿局であった
 茶阿局の子
 松平忠輝(家康六男・伊達政宗の娘婿)
 に仕え、
 家老を務めた
 忠輝が
 大坂夏の陣での不行跡を咎められ
 改易・流罪となり
 弘前藩
 津軽家の援助を受けて江戸に住み、
 山田草山と号した
 享年80歳
 ↓
 妻(三成の長女)は
 その八年前に
 69歳で江戸で没
 ↓↑
 三成の次女
 会津の領主
 上杉景勝に仕えていた
 岡半兵衛重政に嫁ぎ、
 六人の子に産
 この婚姻は、
 景勝家臣である
 直江兼続の斡旋
 岡半兵衛も
 孝蔵主の縁
 (孝蔵主の弟の子
  川副久左衛門正真の妻が
  半兵衛の姉)
 半兵衛は
 上杉家の前に
 会津を領していた
 蒲生氏郷の旧臣
 関ヶ原の後に
 上杉家が減封、
 会津から米沢に移され
 再び会津を復した
 蒲生家に仕え、
 家老を務めた
 慶長会津地震(1611年)
 の復興策を巡って
 藩主
 蒲生忠郷(氏郷の孫)
 の生母
 振姫(家康三女)と対立し、のち切腹
 ↓
 岡半兵衛の
 妻である
 三成の次女と子らは
 半兵衛の故郷
 若狭国福井県)小浜へ移り
 医師
 半井驢庵(豊臣家・徳川家の主治医)
 の保護を受けた
 三成の次女はこの地で亡くなった
 没年は不詳
 ↓
 岡半兵衛
 と
 三成の次女の
 嫡男
 岡吉右衛門
 妻は
 祖心尼の娘
 ↓↑
 祖心尼
 江戸城大奥の
 春日局の姪にあたる人で、
 叔母の
 春日局の補佐役を務め、
 のちに跡をついで
 大奥の最高実力者となった
 ↓↑
 祖心尼の
 娘(三成の次女の孫)は
 最初の結婚(加賀藩前田利長の甥・直知)
 に失敗したのち、
 京都妙心寺で禅学の修行を努め
 のちに、
 宗亨とその義兄
 岡半兵衛の仲介により、
 彼女は
 会津
 蒲生家の重臣
 町野幸和の
 後妻となり、
 娘「於たあ」を産
 ↓↑
 「於たあ」は
 岡半兵衛の子の
 吉右衛門に嫁ぎ
 吉右衛門
 と
 「於たあ」の娘
 「お振」は、
 大奥の
 祖心尼の推挙で
 三代将軍家光の側室となり
 千代姫を産んだ
 千代姫は徳川御三家のひとつ
 尾張家の二代藩主
 光友に嫁ぎ、
 三代藩主となる
 綱誠を産んだ
 三成の血は徳川家に入った
 ↓↑
 三成の次男
 重成
 関ヶ原合戦当時、
 豊臣秀頼の小姓として大坂城にあり、
 ↓↑
 三成の三女の
 辰姫
 は
 秀吉正室
 高台院の養女となって
 弘前藩津軽家に匿われた
ーーーーーー
 ↓↑
 三成と津軽
 津軽地方は戦国期に於いては、
 陸奥国北部(青森県岩手県)を本拠とする
 南部家の領土
 戦国末期、南部家で内紛
 その隙をついて
 津軽為信(当時、大浦為信)は独立し、
 津軽地方を平定
 この時が
 豊臣秀吉の小田原攻めの時
 秀吉は
 「惣無事令」を発して
 大名間の
 私闘を禁じ、
 関東・東北の諸勢力に
 小田原に参陣するよう促したが
 伊達政宗がこれに反し
 会津
 芦名氏を滅ぼし、
 小田原に遅参し、
 後日罰を受けた
 しかし、
 津軽為信
 伊達政宗と違って
 いち早く
 小田原の秀吉のもとに駆けつけ
 所領を安堵された
 この時、
 石田三成
 津軽為信の為に恩義を売っていた・・・
 その後、
 為信の長男
 津軽信建の元服の際の
 烏帽子親を三成が務めたり、
 親密な関係にあった・・・
 だが、
 津軽為信
 関ヶ原の時には
 東軍についたが
 関ヶ原の戦後、
 石田三成の子を保護
 豊臣秀頼の小姓として
 大坂城に居た
 石田三成の嫡男
 津軽信建をして敦賀に脱出させ、
 日本海沿いに渡らせて
 弘前に迎えた
 ↓↑
 辰姫はこの時に兄の
 重成と行動を共にした・・・
 後日、
 高台院のもとから津軽へ送られたとも・・・
 ↓
 信建も為信も相次いで病死した為、
 津軽家は
 信建の弟(為信三男)
 信枚(のぶひら)が継ぐ
 辰姫
 は
 信枚の正室となった
 のち
 徳川家康が養女(異父弟・松平康元の娘)の
 満天姫(まてひめ)を
 津軽家に輿入れさせることを決めた為、
 津軽家としては
 三成の娘が居てはまずいということになり、
 辰姫は側室に降格され、
 弘前藩
 飛び地で関ヶ原後に加増された
 上野国大館(群馬県太田市)に移された
 以後、
 辰姫は
 「大館御前」と称される。
 ↓↑
 信枚は、参勤交代のたびに大館を訪れ、
 辰姫はこの地で
 信義という子を産んだ
 享年32歳
 ↓
 信義は
 満天姫の養子となり、
 津軽家を継いだ
 信枚が
 「どうしても信義を世継ぎにしたい」
 と
 満天姫に懇願した為・・・
 信義の妻は
 満天姫の姪にあたる
 富宇姫
 (満天姫の実父松平康元の子・康久の娘)で、
 石田家と徳川家は縁が繋がった・・・
 ↓↑
 石田重成は
 「杉山源吾」と名を変え、
 津軽家の客分となった
 妹の
 辰姫が大館に移されると、
 彼も大館に移った
 ↓↑
 重成の長男の
 八兵衛(吉成)
 と
 次男の
 掃部(石田掃部)は
 弘前に呼ばれて
 津軽家に仕官
 辰姫が死ぬと、
 重成は三男の
 嘉兵衛(成保)と共に江戸に移り、
 義兄(三成長女の婿)の
 山田草山の隠宅近くに住んだ・・・
 重成は享年53
 ↓
 重成の長男
 八兵衛吉成は、
 津軽信枚が
 別の側室に生ませた娘
 「子々姫」
 を妻とし、
 弘前藩家老を務めた。
 以後、
 杉山家は津軽家にあっては
 準一門格として家老を輩出する家
 ↓
 幕末の家老
 杉山上総(かずさ)
 は当初
 弘前藩
 佐幕派のリーダー格だったが、
 戊辰戦争が始まると
 新政府軍に味方することを決めた
 藩主
 津軽承昭(つぐあきら)の命に従い、
 箱館戦争に官軍として参戦
 維新後、
 名を
 杉山龍江(りゅうこう)と改め、
 青森県の要職を歴任
 三成の子孫が
 龍江は
 明治天皇
 東北巡幸を願い出る
 長文の建白書を提出
 海老原穆(えびはら・ぼく。旧薩摩藩士)の
 「評論新聞」
 (大久保利通太政官政府に対する批判した新聞)
 にも参加
 ↓↑
 三成と皎月院の子ら
 孝蔵主の実家・川副家の人々
 (久左衛門正真とその子・弟たち)は
 関ヶ原では会津の上杉軍に加わり、
 直江兼続らと共に徳川方と戦った
 ↓↑↓
 石田三成
 ↓
 父=石田正継
  (武将
   近江国
   坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田)出身)
 母=岩田氏(瑞岳院)
 兄=石田正澄
  (豊臣氏の家臣。子孫に参議院議員石田昌宏
 妹=女(福原長堯室)
 妹=女(熊谷直盛室)
 ↓↑
 正室=皎月院(宇多頼忠の娘)・・・「うた」
 ↓↑
 子供
 男子
 長男=石田重家
   (関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家)
 次男=石田重成
   (関ヶ原の戦い後、
    津軽信建の助力で畿内を脱出し生き延びる)
 女子
 娘(山田隼人正室)、
 荘厳院(津軽信枚室)
 娘(岡重政室)
 ↓↑
 子孫=石田ミサキ(16代目)
 ↓↑
 津軽信枚のもう一人の妻
 満天姫
 彼女は信枚とは再婚
 初め
 福島正則の養子(正則姉の子)
 正之に嫁いだ
 正則に実子が生まれると
 正之は養父とは不和となり、
 正之は幽閉されて死に、
 満天姫は実家に戻され、
 身籠っていた正之の子を産んだ
 満天姫は信枚との間には
 信英という子を産む
 信英は異母兄
 信重(三成の孫)の死後、
 その子
 信政の補佐役を務め、
 弘前藩
 支藩・黒石藩の祖となった
 ↓
 満天姫の実父は、
 徳川家康の異父弟
 松平康元
 康元は
 家康の母
 「於大」の
 再婚相手、
 久松俊勝の次男で
 関ヶ原の当時は
 家康名代として
 江戸城留守居役を務めた
 下総国(千葉県)関宿藩四万石
 ↓
 この
 松平康元の孫娘である
 富宇姫が、
 三成の孫にあたる
 津軽信義に嫁いだ
 ↓
 三成の長男の
 宗亨(重家)の晩年の面倒を見たのが、
 岸和田藩主
 岡部宣勝である
 岡部宣勝も
 松平康元の孫(康元の娘の子)
 ↓↑
 火の中で死んでいったヒト(比訳)
 皎潔(こうけつ)
 皎月院(こうげついん)とは・・・
 皎月院の名前は
 「うた」
 父は
 「宇多頼忠
 天正七年(1579年)には長女誕生
 ↓↑
 皎月院ら子女は家臣の
 土田桃雲が刺し
 土田桃雲は
 城に火をはなって自害
 ↓
 皎月院は
 佐和山城落城当日は城におらず、
 三成の処刑後に自害・・・
 ↓↑
 皎月院と三成の子供
 ↓↑
 石田重家(いしだ しげいえ)
 三成の嫡男
 天正11年(1583年)
 または
 天正15年(1587年)生まれ
 関ヶ原の戦い当日は、
 人質として大坂城にいた
 敗戦の情報後
 石田家重臣
 津山甚内らによって逃がされ
 京都の
 寿聖院で出家
 ↓↑
 石田重成(いしだ しげなり)
 三成の次男
 天正17年(1589年)ごろ誕生
 豊臣秀頼の小姓
 関ヶ原の戦い当日は
 大坂城にいた
 石田家家臣
 津軽信建
 によって逃がされ
 津軽の実家
 陸奥国津軽家を頼る
 後は、
 杉山源吾と名乗り
 津軽家の領内で暮らし
 子の
 杉山吉成は
 弘前藩津軽家の家老を勤めた
 ↓↑
 辰姫(たつひめ)
 三成の三女
 豊臣秀吉の死後、
 慶長3年(1598年)ごろに
 高台院(おね)の養女
 慶長15年(1610年)ごろ
 弘前藩
 津軽信枚に嫁ぐ
 慶長18年(1613年)
 家康の養女
 満天姫が信牧のもとに嫁ぐ
 津軽家は
 満天姫を正室にし、
 辰姫を側室にした
 辰姫は津軽家の領地となった
 上野国大舘に移され、
 大舘御前と呼ばれた
 元和5年(1619年)
 長男
 平蔵が誕生
 元和9年(1623年)
 辰姫は大舘で死亡
 享年32
 ↓↑
 子の
 平蔵は弘前藩邸に引き取られ
 津軽信義と名を改め
 信枚の死後、
 弘前藩主となる
 ↓↑
 真田家とのつながり
 皎月院の父、
 宇多頼忠
 真田昌幸正室
 山手殿の弟・・・
 昌幸の娘
 趙州院(於菊)が
 皎月院の従兄弟
 宇多頼次に嫁いでいる
 ↓↑
 皎月院(こうげついん)
 宇多頼忠の女(娘)
 姉は
 真田昌幸の妻
 妹は
 大谷吉継と親戚関係
 三成との間に二男一女をもうけた
 ↓↑
 1595(文禄4)年
 豊臣秀次の処刑に際しては、
 その姫の一人を匿う
 姫は真田昌幸の妻
 寒松院を通じて
 昌幸に預けられ、
 後に
 真田幸村の側室
 ↓
 1600(慶長5)年
 関ヶ原の戦い
 父頼忠や石田正継・正澄とともに
 佐和山城を守備
 小早川秀秋らに攻撃され、自害
 ↓↑
 初芽局
 徳川家康が三成に側室として送り込んだ
 「くノ一」・・・物語上の人物・・・
 ↓↑
 宇多頼忠の姓である
 「宇多」は
 後から名乗った姓
 元々は
 尾藤姓
 ↓↑
 尾藤氏は
 信濃国守護
 小笠原氏に臣従
 武田氏の侵攻により
 小笠原氏が所領を失うと、
 遠江に移り、
 今川氏に仕えた
 桶狭間
 今川義元が敗死すると、
 父
 重吉と長兄は
 森可成に、
 次兄の
 知宣は
 秀吉といずれも
 織田家家臣に、
 頼忠は武田氏に臣従
 ↓↑
 宇多頼忠は、
 武田家の宿将
 真田昌幸
 長女を嫁がせ
 兄の伝手によって
 羽柴秀長の家来となる
 ↓↑
 皎月院が
 三成に嫁ぐのは、
 この後の時期
 頼忠は
 尾藤姓を捨てる
 ↓↑
 秀吉の九州平定の際、
 秀長に随行していた
 知宣は、
 失策を重ね、
 秀吉の逆鱗に触れ
 所領没収・追放
 知宣は、その後放浪の末に
 後北条に仕えた
 ↓
 秀吉の小田原平定を好機とみて、
 剃髪し宥恕を請いたが
 却って秀吉の怒りを招き、処刑
 ↓↑
 尾藤姓を捨て、
 宇多姓にしたのは
 累を避けるため・・・
 慶長5年
 関ヶ原の合戦
 佐和山城
 子の頼重、
 三成の父
 正継、
 三成の兄
 正澄らとともに自刃・・・
 ↓↑
 石田三成と皎月院の子供
 長女・某
 石田家家臣の
 山田隼人正に嫁いだ
 次女・某
 蒲生家家臣の
 岡重政に嫁いだ
 後に
 重政は、
 蒲生家の御家騒動
 幕府から江戸に呼び出され、切腹
 重政との間には、
 「お振り」の方と呼ばれた娘があり
 三代将軍
 家光の側室となり、
 千代姫が生また
 千代姫は後年、
 尾張徳川家に嫁し
 千代姫の次男は
 高須松平家の祖となり、
 幕末の会津藩
 松平容保へとその血は受け継がれて
 重政亡き後は
 会津を離れ、
 若狭・小浜にて晩年を過ごした・・・
 ↓↑
 三成の三女
 辰姫
 高台院(秀吉の正室・ねね)の
 養女となり
 弘前藩二代藩主
 津軽信枚の正室として嫁ぐ
 後に
 家康の養女である
 満天姫が嫁したことにより
 側室に降格
 弘前藩の飛び地である
 上野・大館に移った
 信枚は参勤交代の折に必ず
 大館に立ち寄り
 大館で
 平蔵(後の三代藩主・信義)を出産
 辰姫は33歳で死亡
 平蔵は信枚の嗣子となる
 ↓↑
 三成の三男
 石田佐吉
 関ヶ原の合戦時、
 佐和山城に篭っていた
 津田清幽の交渉により助命
 父
 三成と親交のあった
 木食応其・・・・・・?
 の弟子となり出家し、
 津田清幽
 の忠義を思い
 法名
 清幽と名乗る
ーーーーー
 木食応其(もくじきおうご)
 天文五年(1536年)
  〜
 慶長十三年十月一日(1608年11月8日)
 安土桃山時代真言宗の僧
 外交僧・勧進僧・連歌学者
 法名法諱)は応其(應其)
 字を順良
 房号を深覚
 深覚坊応其と称
 木食は木食行を修めた者への称
 木食応其は通称
 ↓↑
 五穀断ち
 十穀断ちの
 木食行を行う
 ↓↑
 生きながらにして土中入定する
 ↓
 土の中で鉦を
  打ち鳴らし読経しながら即身成仏する
 ↓
 三年三ヶ月後に掘り出される
 ↓
 衣を着せられ 厨子に安置され、
  即身仏として祀られる
  ↓↑
  湯殿山即身仏
ーーーーー
 ・・・「木食(木喰)行」・・・「記紀」の「織→識」の「行」・・・「摸句字記の行」・・・「即身成仏」・・・「測深状部通」・・・乞喰(コツジキ)・・・「古事記」・・・
 「木食(木喰)行」は「栗鼠(りす)」の生態だが冬眠もするが・・・「リス(栗鼠)は、ネズミ目(齧歯目)リス科に属する動物の総称。リス科は、5亜科 58属285種。樹上で暮らすリスのほか、地上で暮らすマーモット、プレーリードッグシマリス、ジリス、滑空能力のあるモモンガ、ムササビもリスの仲間」・・・「ジリス(地上生活)」は冬眠し、「樹上性リス」は冬眠しなく、毛のふさふさした大きな尾を持つ。「シマリス類」は、樹上性リスとジリスの中間的な存在らしい。みんな、木の実だけではなく昆虫類も小鳥の卵も雛も食べる「雑食」らしい・・・
  ↓↑
 以下は
 「尻尾の使い道が意外とおもしろい。リスの意外な雑学」
http://matome.naver.jp/odai/2139625888066173701
 からの部分添付です・・・
 「高いところから落ちたとき尻尾をパラシュートの代わりにして着地」、
 「寝るときに尻尾を抱き枕にする」、
 「尻尾をお腹に巻くような恰好で、うつぶせで寝る」、
 「雪が降ったら尻尾を傘の代わりにする」、
 「砂漠に住むリスは尻尾をパラソル代わりにして暑さをしのぐ」、
 「尻尾は緊急時にはトカゲのようにとれる」、
 「嵐が来るのを予知する」
 「尾っぽ・尻尾」と云えば、すぐ「尾張名古屋」を思いだし、「古事記」の漢字を妄想してしまう・・・
 ・・・「石田」調査のボクの混乱、重複です・・・