2066日目・・・夏日の北海道に絨毯のように赤桃色を敷きつめている「芝桜」は花弁が7枚・・・熱中症ですか・・・「労働」すれば身体がコワバッて、両足、両肩、両腕、両手、頸もイタくなる。バランス感覚も益々危うくなるが・・・古代の人びとの「労働の産物」、道具が限られていたハズなのに巨大な建造物・・・「西洋(Europe)」と「東洋(China・Japan)」の一般的な「巨大建造物(王宮・神殿)」のチガイは素材が「石」か、「木」である・・・「中東(Mesopotamia)」は「日干し煉瓦」だが・・・いずれも、イ

 「家屋」はモチロン、生活者の為、「お墓」も生き残っている人びとが亡くなった人びとの「追憶の為のモノ」であるだろう・・・









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 明治三年(1870年)
 会津戊辰戦争戦後は
 藩士とその家族
 1万7,000余名に新政府から
 陸奥国(岩手県の一部と下北半島)、
 斗南藩(となみはん)3万石を与えられ移住
 斗南藩は実収高は僅か7,000石ほど
 冷涼で不毛な土地で
 作物は殆ど実らず、その生活は悲惨を極め
 多くは会津に帰ったが、
 中には
 東京・北海道などに移住するものもあり、
 斗南に残ったものは
 約300戸・・・
 「鶴ヶ城」は
 1874年(明治七年)に取り壊された
 ↓
 東蝦夷地(根室国開拓使直轄領に編入
 ネモロ場所(目梨郡
 ネモロ場所(標津郡
 西蝦夷地(北見国。開拓使直轄領に編入
 モンベツ場所(紋別郡
 モンベツ場所(常呂郡
 シャリ場所(斜里郡
 ↓↑
 斗南藩(廃藩時)
 陸奥国
 二戸郡 - 16村
 三戸郡 - 67村
 北郡 - 48村
 後志国
 太櫓郡
 瀬棚郡
 歌棄郡
 胆振国
 山越郡

 幕末時点では陸奥国に所属、会津藩
 陸奥国(むつのくに)
 東北戦争終結直後に旧・陸奥国から分立
 東山道に位置
 領域は現在の
 青森県および岩手県
 二戸郡にあたる
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 旧・陸奥国
 7世紀に設置された令制国の1
 分割直前の範囲は
 福島県宮城県岩手県青森県
 および
 秋田県鹿角郡
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 会津藩士、家族約
 1万3000人は
 恐山山麓一帯(青森県下北半島むつ市)に強制移住
 明治三年(1870年)
 旧南部領内
 斗南藩会津藩士族が移される
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 「鶴ヶ城」は落城後、
 松平容保は官軍に捕らえられ
 市内妙国寺に謹慎後
 和歌山藩に移され
 明治5年に謹慎を解かれ、
 13年より
 東照宮宮司
 職のかたわら
 歌道に没頭し死亡
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 斗南藩(廃藩時)
 陸奥国
 二戸郡 - 16村
 三戸郡 - 67村
 北郡 - 48村
 後志国
 太櫓郡
 瀬棚郡
 歌棄郡
 胆振国
 山越郡
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 1869年1月19日(明治元年12月7日)
 戊辰戦争
 奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分
 同日、
 陸奥国出羽国は分割され、
 陸奥国は、
 陸奥国陸中国陸前国岩代国磐城国
 の5国に分割
 陸奥国(りくおう)は、
 青森県
 岩手県西北の二戸郡を加えた範囲
 初期の陸奥国(みちのく)から
 300kmも離れた土地を指す
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 陸奥国領域の藩
 斗南藩
 七戸藩盛岡藩支藩
 弘前藩
 黒石藩(弘前藩支藩
 八戸藩
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 陸奥・陸中・陸前の三国
 を総称した「三陸」の呼称は定着
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 斗南藩(となみはん)は、
 明治二年(1869年)11月3日
 松平容保の嫡男
 松平容大
 に家名存続が許されて成立
 七戸藩を挟む形で
 現青森県の東部にあった藩
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 会津藩を没収された会津松平家は、
 改めて
 元、盛岡藩南部藩)領に設置された
 旧三戸県5万2,339石の内、
 北郡・三戸郡二戸郡内に
 3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)
 東蝦夷地(根室国。いずれも開拓使直轄領に編入
 ネモロ場所(目梨郡
 ネモロ場所(標津郡
 西蝦夷地(北見国、開拓使直轄領に編入
 モンベツ場所(紋別郡
 モンベツ場所(常呂郡
 シャリ場所(斜里郡
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 石背国(いわせのくに)
 日本の地方行政区分だった令制国の一つ
 奈良時代
 陸奥国から分立したが、
 短期間しか存続しなかった・・・
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 ・・・スベテは衣食住で「生きている人間の問題」・・・