2027日目・・・イヤァ〜ッ、書き込んだモノには「誤り」で、「謝り」が多いわッ・・・編集者や校正者の「原文・文章・文字・原稿」等の修正の苦労のチェックがヨク、ワカル・・・ボクの「ブログ日記」も、そのつもりで「ヨン」でホシイ・・・だが、過去の権力に追従するように観える「小官僚の舎人(とねり)の細(ささ)やかな抵抗」が「記録した文字や文章の中にある」としたら大したもんだ。「現在の官僚」の記録した文字も、文章も、文章解釈も出世のための「おべっか」で「太鼓持ち・幇間(ホウカン)」の「官僚作文」とはチョッと違うか

 その疑問点は
 「葛=艸(草冠)+曷(日+勹+人+L)」の
 「人+L」の字が
 「ヒ」ではないか?、と云うモノだが、
  ↓↑
              勹部首の類字
 「勹+人+L=匃」か?・・・勹=包・・・勹+己
   ↓          句=ク・・・勹+口
             文句   
   ↓          稹=ソウ・・・匆の異字
                あわただしい
                いそがしい
                夕暮れ時を勹(包む)
   ↓          甸=デン
                かる(狩)
             魯甸県
             樺甸市
             羅甸県
   ↓         匑=キュウ・ク・キク・コク
                うやまう(敬・畏敬)
   ↓          包=ホウ・ヒョウ
                つつむ
              匁=もんめ・・・勹+メ=ホウメ
                          ヒョウメ
                      句目・粂
              匆=稹
              旬=ジュン
   ↓          匋=トウ
                やく・・・ 匋=陶磁器
              匐=フク・ブク
                はう=腹這う=匍匐
             匍匐(ホフク)前進
   ↓          匓=キョウ・ク
                きらう
                倦厭(厭う・嫌う・あきる)
   ↓          匍=ホ
              葡萄牙ポルトガル
              匈=キョウ・むね(胸)
                おそれる
              匈牙利(ハンガリー
              匈奴
   ↓          貫匈国・貫匈人
 「勹+ヒ=匂」か?
  ↓↑
 「曷(なんぞ・いずくに・カツ・ガチ)」
 はその音訓の意味自体で、更には
 「曷」は、
 「水分がない、乾ききっている」
 の意であるらしいが「渇水」の「渇」だろう。
 「蠍座のオンナ」である・・・
 「ムシ(虫)」の「歇」は「やめる・つきる・ケツ・コチ」である・・・蠍(さそり)はナニをヤメルのか・・・渇いた欠伸(あくび)って、ナニ・・・?
 検索したこの字には「匂→ヒ」が使用されている。
 類字の「遏(とめり・とどめる・アツ・アチ)」が解答の回答で、「掛意訳得」である・・・
 「人(ひと・びと・ジン・ニン)」
 が
 「ヒ(匙・匕首・牝・七)=比」
 となる事情はこの漢字を使用した記録者の遺志であったかも・・・ちなみに「柴又帝釈天」は本尊ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅(中央に南無妙法蓮華経の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)」であるらしい。そして「寺が柴又七福神のうちの毘沙門天であることから、帝釈天毘沙門天と解説するのは誤りであり、双方の起源が異なる。柴又七福神毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)である」らしいが・・・「帝釈天(たいシャクテン)=テイシャクテン=綴写句転」で、「毘沙門天ビシャモンテン=尾(備)写文典」である・・・時代に現存した信者にとって「元々の神仏の能書き」はどうでもイイのである。その時点での「御利益の有無」が問題である・・・後利益がアレば、なんでも「習合」されたモノはその意味でアリガタイのであるから・・・
 「パナマ(巴奈馬)文書=(Panama Papers)=租税回避地(タックスヘブン)への法人設立=闇の金融取引」ですか、「アイスランドのグンロイグソン首相は、4月5日に退陣」、英国キャメロンの親族、露西亜プーチンの関係者、大陸中国習近平李鵬らの家族・親族に関する記載・・・
 中国外務省の洪磊・副報道局長は5日の記者会見で「われわれは雲をつかむようなことにはコメントしない」ですか、「クモ」を掴んだらナニが出てくるんだか・・・
 習近平、「大漢帝国民族主義者?」であるらしい「習近平(シュキンペイ・シージンピン、キンペー)」は自国歴史と自国漢字の勉強不足でもあるらしいが。もっとも、簡易(官意)文字化の「習金兵」であっても同じ輩(やから)であるかな・・・
 そして明治帝国日本を引き摺る「日本人」は記載されていたのか?独逸(ドイツ)も仏蘭西(フランス)も国内の「タクッスヘブン」を利用した脱税者を調べているらしい・・・
 釈迦である「ほとけ=佛=人+弗(ドル・フツ・ホチ・ホツ・もとる・はらう・あらず)」は「仏=人+ム(シ・よこしま・私)」になったのである。「腐乱す」ですか・・・いまや、「フッ素=弗素」は北極のオゾン層破壊の元凶である・・・
 「弗」は「撟(もと)るなり、丿(へつ)に從ひ乀(ふつ)に從ひ、韋省の從ふ・たわみを直す意の会意(説文解字)・丿乀は左右に戻る形。ほかに棒状のものを紐で結びまとめる象形説」があるらしい・・・
 だが、ブログ辞典を検索すると、その漢字意味の使用法は「払いさる・取り去る・去る・もとる・祓う・(弼と通じて)助ける・(怫と通じて)憂える・不・勿と通じ否定詞として使用」とある。一漢字文字の意味幅は「矛と盾」であるが・・・源(旧)漢字使用の「日本人官僚」も大変だが、生活が掛かっちゃているから「狡さ」では大陸中国の高級官僚にも劣らない・・・
 で、本日も朝からお天気・・・ボロ屋敷の外でヤルコトがワンサカあるが、御天気次第・・・玄関横の花壇の雪を除けて、コンクリートブロックで囲んで造り直したが、腰痛・・・それに切り取った大量の「蔦(つた)≒葛(かつら・くづ)」の置き場がない・・・燃やしてしまえばイイのだが、「火災」が怖ろしい・・・如何したものか、桂小五郎君・・・「葛=くず・つる・かずら・つづら・カツ=艸(草冠)+日+曷(勹+人+L)→「人+L」→「ヒ+L」」・・・「かづら=葛・蔓」の絡みつく混乱記録・・・
 「葛王=加豆良王」は
 「平安時代前期の三嶋王の王女
  父の三嶋王が淳仁天皇の弟で
  天平宝字(テンピョウホウジ)八年 (764)
  天皇廃位に連座し、
  伊豆に流刑
  宝亀(ホウキ)二年に
  皇籍回復」
 した女性・・・
 あいャァ、アイヤァァ〜ッ・・・「葛野王」や「葛城王」に訊いてみたい・・・
 以下は「ウイッキペデア」を参照にしたモノ・・・
ーーーーー
 ↓↑
 葛城王 (敏達天皇の子)は 、
 敏達天皇推古天皇の息子
 同名の
 葛城王 (天武朝の人)は 、七世紀の皇族で
 「葛城王」は
 橘諸兄臣籍降下以前の名
 ↓↑
 橘 諸兄(たちばな もろえ)
 天武天皇十三年(684年)
 〜
 天平勝宝九歳一月六日(757年1月30日)死亡?
 天平勝宝八歳二月二日(756年)死亡?
 ・・・どっちが、本当なんだか、シボウネン・・・
 ↓↑
 官位は正一位左大臣
 号は
 井手左大臣・・・・・意出差拿意訊?
 西院大臣・・・・・・差異隠拿意訊?
 奈良時代の皇族・公卿
 初名は
 葛城王(葛木王)
 臣籍降下して
 橘宿禰
 のち
 橘朝臣
 敏達天皇の後裔で、
 大宰帥
 「美努王」の子?・・・句理句間尾生(呉・奥生)?
 弥努王・美奴王・美弩王・三野王などで記録
 敏達天皇の後裔で、
 四位
 「栗隈王」の子・・・
 ↓↑
 和銅三年(710年)
 無位から従五位下
 和銅四年(711年)
 馬寮監
 ↓
 元正(女帝)朝
 霊亀三年(717年)
 従五位上
 養老五年(721年)
 正五位下
 養老七年(723年)
 正五位上
 ↓
 神亀元年(724年)
 聖武天皇の即位後
 従四位下
 神亀六年(729年)
 正四位下
 左大弁に叙任
 天平三年(731年)
 藤原宇合
 藤原麻呂
 兄弟や
 多治比県守らとともに
 参議、公卿
 天平四年(732年)
 従三位
 天平八年(736年)
 弟の
 佐為王と共に
 母・橘三千代
 氏姓である
 橘宿禰姓を継ぎ
 橘諸兄と名乗る
 天平九年(737年)四月〜八月
 天然痘の流行
 太政官の首班
 右大臣
 藤原武智麻呂
 ら
 藤原四兄弟
 中納言
 多治比県守
 ら
 議政官が次々に死亡
 公卿、参議は
 生き残った
 鈴鹿
 橘諸兄
 のみ
 鈴鹿王を知太政官
 橘諸兄を大納言に任命
 ↓
 天平十年(738年)
 正三位・右大臣
 国政を橘諸兄が担当
 下道真備(吉備真備
 玄硃
 を抜擢して、
 聖武天皇を補佐
 ↓
 天平十二年(740年)八月
 大宰少弐
 藤原広嗣が、政権批判し
 僧正・玄硃
 右衛士督・下道真備を追放する上表
 九月
 藤原広嗣
 九州で反乱(藤原広嗣の乱
 十月末
 聖武天皇伊勢国行幸
 平定後も天皇平城京に戻らず、
 十二月
 橘諸兄の本拠地
 (山城国・・・・葛城
  綴喜郡・・・・綴る喜びの訓
  井手)・・・・意出
 に近い
 恭仁郷に整備した
 恭仁宮に遷都
 ↓
 天平十五年(743年)
 従一位左大臣
 天平感宝元年(749年)
 正一位
 生前に
 正一位に叙された人物は
 六人
 ↓
 孝謙天皇
 (女帝・阿部皇女・重祚、稱紱天皇
 即位
 藤原仲麻呂
 国母
 光明皇后の威光を背景に、
 大納言
 兼
 紫微令
 として発言力を増し
 天平勝宝七歳(755年)
 聖武上皇の病気に際して
 橘諸兄
 酒の席で不敬の言があったと讒言
 翌
 天平勝宝八歳(756年)
 辞職、引退
 ↓
 天平勝宝九歳(757年)一月六日薨去
 享年74
 最終官位
 前左大臣正一位
 同年5月
 子息の
 奈良麻呂は謀反(橘奈良麻呂の乱
 獄死
 ↓
 「大伴家持」と親交
 「万葉集」の撰者の1人とする説・・・
 「栄花物語・月の宴の巻」に、
 「むかし
  高野の女帝の御代、
  天平勝宝五年には
  左大臣
  橘卿
  諸兄
  諸卿大夫等集りて
  万葉集をえらび給」
  と記録・・・・・・?
  後に
 仙覚は
 橘諸兄大伴家持
 2人の
 共撰説を唱えた
 「万葉集」に
 七首の歌がある・・・
 ↓↑
ーーーーー
 葛城王(かずらきのおおきみ)
 生年不明
  〜
 天武天皇八年(679年)七月十七日
 四位で死亡(日本書紀
 父母、子孫とも不明
 敏達天皇の子で
 同名の葛城王の子孫・・・?
ーーーーー
 ↓↑
 葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)・・・?
 天智天皇八年(669年)
  〜
 慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
 弘文天皇大友皇子)の
 第一皇子
 孫に
 淡海三船
 官位は
 正四位上・式部卿
 ↓
 持統朝で
 浄大肆
 治部卿
 持統天皇十年(696年)
 太政大臣高市皇子薨去
 持統天皇が皇族・公卿・官人を宮中に召して
 皇太子の擁立について議論
 葛野王
 直系による皇位継承を主張し
 兄弟間での継承は
 争いの元と主張
 天武天皇の皇子である
 弓削皇子が・・・・・・「弓削の道鏡」は
             稱紱(阿部)女帝の側近
 葛野王に問いかけたが
 葛野王
 弓削皇子を一喝
 天武天皇の皇子達は
 スベテ皇位継承から退けられ、
 草壁皇子の子で
 持統天皇の孫の
 軽皇子
 (珂瑠皇子・文武天皇)・・・珂瑠=軽(キン)
 が
 皇太子になった
 ↓
 文武朝で
 正四位上
 式部卿に叙任
 慶雲二年(706年)
 十二月二十日卒去・・・・拾似解通-似拾似知
                  二十=念
 享年三十七・・・・・・・参(纂)拾七(漆)
             37=みそ、ななつ
  ↓
 「懐風藻」に・・・・・・開封叢(装)?
 二首の漢詩採録
 ↓↑
 「懐風藻」に
 「王子者、淡海帝之孫、
  大友太子之長子也、
  母-
  淨御原之帝長女
  -
  十市親王
  懷風撰述、未詳其人。
  或有
  淡海三船
  石上宅嗣、・・・・・・石の上の宅の嗣→ペテロ?
             石の上に教会を築く?
  葛井廣成之說。
  書成於皇紀一千四百一十一年、
  納
  近江朝
  以至
  奈良朝間
  漢詩
  起
  大友皇子以下,
  迄
  葛井廣成
  以上、
  六十四名之作、
  共一百二十首錄之。
  文風
  受
  中國詩集
  影響至大、
  乃為
  現存
  最古
  日本漢詩集」・・・?・・・ナゼかカンシである?
 ↓↑
 持統天皇の統治期間
 高市皇子が・・・・・・武市半平太=号は瑞山・茗澗
            茗=艸+名・・・くさかむむりな
                 久坂(日下)務無理納?
              メイ・ミョウ(ミャウ)
              茶の木・茶
 太政大臣
 高市は母の身分が低かったが、
 壬申の乱
 での功績が著しく、
 政務にあたった・・・
 持統天皇十年七月十日に
 高市皇子薨去
 「懐風藻」に
 持統天皇の後継者決定で
 皇族・臣下が集り
 「葛野王」・・・・かどのおう
          鹿渡の王・過度の尾生(横・奥州)?
 の発言で
 697年2月
 「軽皇子」が皇太子になった
 ↓↑
 8月1日
 持統天皇
 十五才の
 軽皇子に譲位
 存命中の天皇が譲位したのは
 皇極天皇に次ぐ
 二番目
 持統女帝・・・・地名の佳字政策
         ジトウジョテイ
         字問(とう・訳得)序綴?
 は
 初の
 太上天皇上皇)になった・・・
ーーーーー
 ジトウテンノウ・・・字訳得転之得は・・・オンナ(音納)?