2008日目・・・早く夏が来てツバメがヤッてコナイかなぁ・・・本日はガンガンの御天気、雪解け・・・前々回、「歌垣(うたがき)=嬥歌(かがい)=懸け合い=歌掛き(懸き)」に触れたが・・・「嬥歌」の「嬥」の漢字構成は「嬥=女+翟」である・・・「翟=羽+隹=キジ(雉)の尾羽」の漢字部首は「曜・耀」=「かがやく・ヨウ」で・・・「隹(ふるとり)」は「誰(だれ・スイ)、焦(あせる・ショウ)、進(すすむ・シン)、衢(ちまた・)、讎(あだ・むくい・シュウ・ズ)、癱(タン)、推(おしはかる・スイ)」などである・・・「民進

 兎に角、「歴史」は記録された「文字」自体であるから、「文字」自体を先ずは知らなくちゃぁハジマらない・・・
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 「邪馬台国
 『三国志魏志倭人伝)』の版本・・・邪馬「壹」國
 『三国志』は晋の時代に
 陳寿(233-297)が編纂したモノだが
 現存する
 刊本で最古のものは、
 12世紀の宋代の
 紹興本(紹興年間(1131年〜1162年)の刻版)
 紹煕本(紹煕年間(1190年〜1194年)の刻版)
  ↓↑
 ・・・原本が無い「復刻版」とは
   「写本」と同類であろうが・・・
    その文字も内容も、オリジナルと
    同じモノであるとは限らない・・・
  ↓↑
 勅撰の類書
 宋代の
 『太平御覧』は成本が10世紀
 『三国志』を引用した箇所で
 「邪馬臺国」・・・・・・・・・・・・邪馬「臺」国
 の表記
 『三国志』より後の
 5世紀に書かれた
 『後漢書』倭伝では
 「邪馬臺国」・・・・・・・・・・・・邪馬「臺」国
 7世紀の
 『梁書』倭伝では
 「祁馬臺国」・・・・・・・・・・・「祁」馬「臺」国
 7世紀の
 『隋書』では「俀国」について
 「都於
  邪靡堆・・・・・・・・・・・・・・邪「靡」「堆」
  則魏志所謂
  邪馬臺・・・・・・・・・・・・
  者也(魏志にいう邪馬臺)」
 唐代の
 『北史』四夷伝では
 「居于
  邪摩堆・・・・・・・・・・・・・・邪「摩」「堆」
  則魏志所謂
  邪馬臺
  者也」
 これらの正史は、
 現存の
 宋代の
 『三国志』より古い写本を引用・・・だが、「写本」である・・・
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 「燕(鳦・鷰・乙鳥・津羽目・つばめ・ツバクラメ・ツバクロ)」は、「渡り鳥」でもあり、「越冬ツバメ」としても棲息する「背は光沢のある藍黒色で、喉と額が赤い。腹は白く、胸に黒い横帯がある。尾は長く切れ込みの深い二股形で、この尾の形をツバメにちなんで燕尾形」、ツバメの天敵は「カラス・鴉・烏」であり、「空中で蜂を餌食」にもする・・・北海道ではボク自身は観たコトがない・・・以下は例の如く「ウイッキペデア」から参照、参考にしたモノの抜粋、添付・・・で、「尾張名古屋」の地名の謎がワカったような気がする・・・「燕尾服」の「尾張の名護埜(哉)」カナ?・・・



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 つばめ
  ↓↑
 綱は鳥綱 Aves
 目はスズメ目 Passeriformes
 科はツバメ科 Hirundinidae
 属はツバメ属 Hirundo
 種はツバメ H. rustica
  ↓↑
 日本語ではその生態を反映して
 「土食て虫食て口渋い」
 などと聞きなしされる。
 囀(さえず・哢)りは
 日中よりも早朝から午前中にかけて耳にする・・・
 飛翔する昆虫などを空中で捕食
 水面上を飛行しながら水を飲む
 一部、越冬する個体があり、
 「越冬ツバメ」と呼ばれる
 特に
 中日本から西日本各地で越冬し、
 多くは集団で民家内や軒下などで
 就塒(シュウジ)する
 日本で越冬している個体が
 日本で繁殖したものか、
 シベリアなど日本より
 北方で夏に繁殖したものなのかは不詳
 泥と枯草を唾液で固めて巣を造る
 ほとんど人工物に造巣し、
 民家の軒先など人が住む環境と同じ場所で繁殖
 これは、
 天敵であるカラスなどが近寄りにくいから・・・
 巣は通常は新しく作るが、
 古い巣を修復して使用することもある
 産卵期は4〜7月ごろ
 一腹卵数は3〜7
 主にメスが抱卵
 抱卵日数は13〜17日
 その後の巣内での
 育雛日数は20〜24日
 1回目の繁殖の巣立ち率は
 概ね50%程度と推定
 1回目繁殖に成功した
 つがい
 あるいは失敗した
 つがいのうち、
 詳細は不明だが、
 相当数のつがいがその後
 2回目
 あるいは
 やり直しの繁殖をする
 雛(ヒナ)を育てている間に
 親鳥のうち
 どちらか一方が何らかの理由で欠けると、
 つがい外のツバメがやってきて
 育てている
 ヒナを巣から落して殺してしまう行動が観察・・・
 一方、
 つがいの内
 メスが欠けた場合なのか
 どこからともなく
 複数の他のツバメが集まり、
 その中から選ばれたように
 一羽のツバメが
 新たなつがい相手となって、
 子育てを継続するさまも観察されている・・・
 「ことわざ(諺)」に
 燕雀、安くんぞ、鴻鵠の志を知らんや(陳勝
 ツバメが低く飛ぶと雨が降る
 観天望気(天気のことわざ)の一つで、
 天気が悪くなる前には
 湿度が高くなり、
 ツバメの餌である
 昆虫の羽根が
 水分で重くなって
 低く飛ぶようになり、
 それを餌とする
 ツバメも低空を飛ぶことになるから・・・
 「ものがたり(物語)」に
 『竹取物語
 かぐや姫が5人の貴公子に出す結婚の条件の中に、
 燕の子安貝がある
 『幸福な王子』
 金色に輝く王子の像が、
 越冬のためエジプトに渡ろうとする
 ツバメを使いにして、
 貧しく不幸な人々のために
 自らがまとう宝石や金箔を分け与える物語
 『秋物語』
 NHKみんなのうた
 越冬できなかったツバメの物語を歌詞にした歌
 『雀孝行』
 「昔、
  燕と雀は姉妹であった。
  あるとき親の死に目に際して、
  雀はなりふり構わず
  駆けつけたので間に合った。
  しかし
  燕は紅をさしたりして
  着飾っていたので
  親の死に目に間に合わなかった。
  以来、
  神様は親孝行の
  雀には
  五穀を食べて暮らせるようにしたが、
  燕には
  虫しか食べられないようにした」
  という説話・・・
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 ・・・らしい・・・
 そして、シベリアからも来ているらしいから北海道にも渡ってきているハズ・・・?
 そして、
 中国古代国家の「燕の国」の事情であるが・・・
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 ↓↑
 翟=キジ(雉)の尾羽
   中国の舞楽で舞人が右手に持つ
   キジ(雉)の尾羽
 ↓↑
 墨翟(ボクテキ)
    前480頃〜前390頃の
    戦国時代の思想家
    墨子、子墨子は敬称
    宋または
    魯の人・・・
    伝記はほとんど不詳
    宋の大夫・・・
    工作者の出身という説も・・・コウサクって、スパイ?
                  交錯?・・・間諜
   墨翟の後を継ぐ指導者を
   鉅子=キョシ=巨子・・・という・・・虚史?
  ↓↑
 翟魏(テキギ・タクギ)
    388年〜392年・・・邪馬台国は238年〜266年〜
    五胡十六国時代
    丁零人の・・・・丁の「零」の人?
    ↓↑     「零=こぼれる・こぼす・わずか・はした
              レイ・・・数字の「0」ではない
              水滴がおちる・零雨・零露
              枯れおちる・おちぶれる
              零落・飄零 (ヒョウレイ)
              零細・零墨・零本
              ゼロ?
              零下・零点・零敗
              零落」
    ↓↑        ↓↑    ↓↑
             『諸橋大漢和』は「邦訓」とする
              中国でも『漢語大字典』に
              新用例として「数字のゼロの意」
             『大漢林』は
    ↓↑       「現代の用法」として数字のゼロ
             「天明七(1787)年ころの
             「たとへづくし」という本には
             「零=算法に一ッ
                間置(あひをく)ことをいふ
                又○(まる)を代(かは)りとす」
    ↓↑         「○を零」に当て使用することは
    ↓↑         「元」代以来、13世紀以降
    ↓↑        上記は以下のブログ記事を参照
    ↓↑         ↓↑
http://hp.vector.co.jp/authors/VA000964/html/zero.htm
    ↓↑
    翟遼により、
    河南省
    黄河南岸に
    建てられた政権・・・落ちこぼれ人は
             「丁(偶数)」の姓?
 ↓↑
 建国以前
 翟斌の一族は代々・・・翟の斌(文+武)
 康居に住み、・・・康居=中央アジアの古代の
             遊牧民族、その国家
            『漢書』によれば
             本拠は
             卑闐城と記され
             王は
             冬は
             楽越匿
             夏は蕃内にいた
             後に中国に移った
             中国の漢・魏・晋代の
             史書に見える
             トルコ(土耳古)系遊牧民
             中央アジア
             シル川下流域から
             キルギス平原を本拠地とした
ーーーーー
 ↓↑
 330年
 翟斌は後趙に入朝
 句町王に封ぜられる
 371年1月
 前秦
 苻堅は
 関東の豪傑、
 及び
 雑夷15万戸を関中に、
 烏桓族を
 馮翊郡、北地郡に、
 丁零族の翟斌を
 新安郡
 澠池郡に移住させた
 383年12月
 前秦
 衛軍従事中郎であった
 翟斌は河南で挙兵し、
 前秦
 豫州牧で
 平原公の
 苻暉を洛陽で攻めた
 長楽公の
 苻丕は
 慕容垂
 と
 苻飛龍
 にこれを討たせたが、
 慕容垂
 は南下して
 丁零と結び、
 苻飛龍を殺し、
 その衆を生き埋めにした
 慕容垂は密かに
 前燕・・・・・・燕
 の
 旧臣と
 燕国・・・・・・「ツバメ」の「クニ」
 を
 復興させることを謀っており、
 丁零の
 翟斌
 と兵を起こして
 前秦に叛いた
 慕容鳳
 及び
 燕の故臣の子である
 燕郡の
 王騰、
 遼西の
 段延らは
 翟斌の挙兵を聞き、
 各部曲
 を率いてこれに帰した
 平原公の
 苻暉は
 武平武侯の
 毛当
 に
 翟斌を討たせた
 丁零の衆は
 翟斌に随従し、
 秦兵を大敗させ、
 毛当を斬った
 翟斌は遂に
 陵雲台戍に侵攻し、
 万余人の甲仗を収める
 384年1月
 慕容鳳,
 王騰,
 段延
 らが
 慕容垂
 を盟主に奉じることを勧めたので、
 翟斌はこれに従った
 慕容垂は
 大将軍、大都督、
 燕王
 と称して
 後燕を建国
 弟の
 慕容徳を
 車騎大将軍
 范陽王とし、
 兄子の
 慕容楷
 を
 征西大将軍・太原王
 とし、
 翟斌
 を
 建義大将軍
 河南王
 とし、
 元
 扶餘王・・・朝鮮半島の王族
 の
 餘蔚
 を
 征東将軍
 扶餘王
 とし、
 昌黎
 鮮卑
 の
 衛駒
 を
 鷹揚将軍とし、
 慕容鳳
 を
 建策将軍とした
 2月、
 慕容垂
 は
 丁零、
 烏桓
 の衆20余万を率いて
 鄴
 を攻めたが、陥落できなかった
 7月、
 翟斌は功を恃んで驕り高ぶり、
 鄴城を陥落できずにいる
 慕容垂に対して密かに
 弐心を抱いき
 気付いた
 太子の
 慕容宝,
 范陽王の
 慕容徳,
 陳留王の
 慕容紹,
 驃騎大将軍の
 慕容農
 らは
 翟斌を排除することを
 慕容垂に請うたが、
 功績のある
 翟斌を排除することはできないと、
 申し出を却下
 翟斌は
 尚書令になることを請うたが、
 慕容垂に断られたため、
 密かに
 前秦
 長楽公
 である
 苻丕
 と通謀し、
 丁零人たちに
 堤防を決壊させた
 この事が発覚し、
 翟斌
 及び
 その弟
 翟檀、
 翟敏
 は
 慕容垂に殺された
 翟斌の兄の子である
 翟真は夜に営衆を率いて
 北の
 邯鄲に奔走
 翟真は兵を引き連れて
 鄴に戻り、
 前秦
 苻丕と内外で呼応しようとしたが
 後燕太子
 の
 慕容宝が
 冠軍大将軍の
 慕容隆とこれを撃破したので、
 翟真は
 邯鄲に逃げ帰った
 8月、
 翟真が
 邯鄲から北走したので、
 慕容垂は
 太原王の
 慕容楷、
 驃騎大将軍の
 慕容農
 に騎馬を率いて追撃させた
 両者は
 下邑で戦い、
 翟真が勝利
 10月、
 翟真は
 承営に在って、
 公孫希
 宋敞遙
 と首尾となった
 長楽公の苻丕は
 宦者
 冗従僕射
 の
 清河光祚
 を遣わし、
 将兵数百を中山に赴かせて
 翟真と結んだ
 陽平太守の
 邵興を遣わして数千騎を率い、
 冀州
 故郡県に召集し、
 光祚
 と
 襄国
 で会した
 この時、
 後燕軍は疲弊しており、
 前秦の勢いは復振していたので、
 趙郡人の
 趙粟らは
 柏郷で兵を起こして
 邵興に応じた
 後燕王の
 慕容垂は
 冠軍大将軍の
 慕容隆,
 龍驤将軍の
 張崇に
 邵興を撃たせるべく、
 驃騎大将軍の
 慕容農と合流させた
 慕容隆は
 邵興と襄国で戦い、これを大破
 邵興は広阿まで逃走したが、
 慕容農と遭遇して捕えられた
 光祚はこれを聞き、鄴に逃げ帰った
 慕容隆は
 趙粟らを撃破し、
 冀州の郡県は再び
 後燕に従った
 独孤部の
 劉庫仁は
 公孫希
 がすでに
 平規を破ったことを聞き、
 大挙兵して
 長楽公の苻丕を救おうと、
 雁門
 上谷
 代郡の兵を発し、
 繁畤に駐屯した
 劉庫仁の所にいた
 慕輿文、
 慕輿常
 の2人は
 三郡の兵が
 遠征に嫌気がさしていることを知り、
 造反して
 劉庫仁を夜襲して殺害し、
 その駿馬を盗んで
 後燕
 に奔走した
 公孫希の衆は
 動揺して自潰したので、
 公孫希は
 翟真の所へ奔走
 11月、
 後燕
 慕容農は
 信都の西から
 翟真の従兄である
 翟遼を
 魯口で撃ち、これを破った
 翟遼は退いて
 無極に駐屯し、
 慕容農は
 蒿城
 に駐屯してこれに迫った
 12月、
 後燕
 慕容麟,
 慕容農は
 翟遼を襲って大破し、
 翟遼は単騎で翟真の所へ奔走
 385年4月、
 翟真が
 承営から
 行唐に移ると、
 翟真の司馬である
 鮮于乞は
 翟真
 および
 諸翟人を殺し、自ら立って
 趙王となった
 営人は共に
 鮮于乞を殺し、
 翟真の従弟である
 翟成を立てて主としたが
 その衆の多くは
 後燕に降り、
 翟遼は
 黎陽に奔走
 5月、
 燕王の
 慕容垂は常山に至り、
 翟成を行唐で包囲
 7月、
 翟成の長史である
 鮮于得は
 翟成を斬って慕容垂に降った
 慕容垂は行唐を攻め落とし、
 翟成の衆をことごとく穴埋めにした
 386年1月、
 黎陽に逃れた
 翟遼は
 黎陽太守の
 滕恬之
 に甚だ寵愛されるが、
 滕恬之が
 士卒から信用されていないことを知ると、
 密かに謀りごとを企て
 滕恬之
 が南の
 鹿鳴城を攻めた際、
 後方にいた
 翟遼は閉門して
 滕恬之
 が帰って来れないようにし、
 東の
 鄄城に奔走しようとした
 滕恬之を追って捕え、
 黎陽を乗っ取った
 これを知った
 豫州刺史の
 朱序
 は
 将軍の
 秦膺,
 童斌
 を遣わし、
 淮、
 泗
 の諸郡と共にこれを討った
 3月、
 泰山太守の
 張願は郡ごと叛いて
 翟遼に降った
 8月、
 翟遼は
 譙で略奪をおこなったため、
 朱序
 によって撃退された
 387年1月、
 翟遼は子の
 翟訢に
 陳、
 穎
 を略奪させたが、
 朱序
 が派遣した
 秦膺
 によって撃退された
 4月、
 高平の
 翟暢は
 太守の
 徐含遠を捕え、
 郡ごと
 翟遼に降った
 5月、
 後燕
 慕容垂は自ら諸将を率いて
 南の
 翟遼を攻め、
 太原王の
 慕容楷
 を前鋒都督とした
 翟遼の衆は皆、
 燕、
 趙
 の出身であったため、
 慕容楷
 が攻めてくるのを聞くとこれに帰順
 懼れた
 翟遼は使者を送って降伏を請うた
 慕容垂はこれを承諾し、
 翟遼を
 徐州牧、
 河南公
 に封じて帰還
 10月、
 翟遼は
 後燕に叛き、
 王祖,
 張申とともに
 清河郡
 平原郡を略奪
 ↓
 翟魏の建国
 ↓↑
 388年2月、
 翟遼は司馬の
 眭瓊
 を
 後燕に遣わして謝罪したが、
 慕容垂はこれを聞き入れず、
 眭瓊を斬って関係を絶った
 そこで
 翟遼は自ら
 魏天王と称し、
 改元して
 建光
 とし、
 百官を置いた
 5月、
 翟遼は
 滑台に移って駐屯
 ↓↑
 建光二年(389年)4月、
 翟遼は
 滎陽を略奪し、
 太守の
 張卓を捕えた
 10月、
 後燕
 楽浪
 悼王の
 慕容温が
 冀州刺史
 となったため、
 翟遼は
 丁零人の
 故堤
 に
 偽りの降伏をさせて
 慕容温の帳下に入れ、
 慕容温を殺害
 ↓↑
 建光三年(390年)1月、
 豫州刺史の
 朱序は
 翟遼を撃ち破った
 8月、
 劉牢之は
 翟訢を
 鄄城で撃ち、
 翟訢は河北に奔走
 劉牢之はさらに
 翟遼を
 滑台で破り、
 張願が来降
 ↓↑
 建光四年(391年)10月、
 翟遼
 が死去し、
 子の
 翟訢
 が代わって立ち、
 改元して
 定鼎
 とした
 翟訢は
 後燕の鄴城を攻めたが、
 後燕の遼西王である
 慕容農
 によって撃退された
 ↓↑
 定鼎二年(392年)2月、
 後燕の君主である
 慕容垂は
 魯口から
 河間
 渤海
 平原
 に及んだ
 翟訢はその将
 翟都を遣わして
 館陶を侵し、
 蘇康塁に駐屯させた
 3月、
 慕容垂は兵を率いて
 南の
 翟訢を撃った
 4月、
 翟都は
 南の
 滑台に奔走
 翟訢
 は
 滑台で
 慕容垂に討たれ、
 黎陽に退いた
 6月、
 慕容垂が
 黎陽津に到達し、
 渡河しようとするのを、
 翟訢は南岸に列兵してこれを拒んだ
 慕容垂は偽の兵をつかって
 翟訢の注意を引き、
 その隙に渡河を成功させた
 これを聞いた
 翟訢は妻子と数百騎を連れて
 北の
 白鹿山に奔走
 慕容農
 はこれを追撃して
 その衆を捕えたが、
 翟訢のみは単騎で
 西燕
 の
 長子に奔走
 慕容垂は
 翟訢は統領していた
 七郡3万8千戸を以前のように処遇し、
 徐州の流人
 7千数戸を
 黎陽に遷した
 翟訢は
 西燕の君主
 慕容永
 に救いを求めて
 西燕に降り、
 慕容永から
 車騎大将軍,
 東郡王に封ぜられたが
 1年余りして、
 翟訢は
 慕容永を殺そうと謀ったため、
 慕容永によって誅殺された
 ↓↑
 歴代君主
 翟斌
 翟真…翟斌の甥
 翟成…翟真の従弟
 翟遼(在位:388年〜391年)…翟真の子か、従兄
 翟訢(在位:391年〜392年)…翟遼の子
 ↓↑
 使用元号
 建光
 定鼎
ーーーーー
 ↓↑
 「邪馬台国卑弥呼」と
 「壹與(壱与)=臺與(台与)」の時代は
 〜238年〜240年〜243年〜
 〜245年〜247年〜266年〜
 ↓↑
  魏・晋との外交
 「魏志倭人伝
 帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉記録
 景初二年(238年)以降、
 帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者
 皇帝から親魏倭王に任じられた
 正始八年(248年)
 使者が
 狗奴国との紛争を報告
 帯方郡から
 塞曹掾史
 張政
 が派遣
  ↓↑
 建安年間(196年〜220年)
 公孫康
 が
 屯有県以南の荒地の一部に
 帯方郡を置いた
 後漢の遺民を集めるため
 公孫摸
 や
 張敞
 などを派遣し
 兵を興して
 韓
 と
 濊を討伐
 後漢の旧民は少ししか見い出せなかった
 後、
 倭
 と
 韓
 は
 帯方郡に服属
 景初二年(238年)六月?
 魏
 の
 明帝
 は
 劉繒
 を帯方太守、
 鮮于嗣
 を楽浪太守に任じ、
 両者は海路で
 帯方郡楽浪郡をそれぞれ収めた
 (『三国志』魏書東夷伝序文)。
 または
 景初三年(239年)六月?
 女王は
 大夫の
 難升米
 と
 次使
 の
 都市牛利
 を
 帯方郡に派遣し、
 天子に拝謁を願い出た
 帯方太守の
 劉夏
 は彼らを都に送り、
 使者は
 男の生口(奴隷)四人と
 女の生口六人、
 班布二匹二丈を献じた
 12月
 悦んだ
 魏の皇帝
 (景初二年だとすると
  明帝(12月8日から病床、27日の
  曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった
  『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)
  景初三年だとすると
  曹芳)
 は女王を
 親魏倭王とし、
 金印紫綬を授けるとともに
 銅鏡百枚を含む莫大な下賜品を与えた
 また、
 難升米
 を
 率善中郎将、
 牛利
 を
 率善校尉とした
 8月23日
 帯方郡楽浪郡を支配していた
 公孫淵
 が
 司馬懿により
 斬首
 帯方郡
 と
 楽浪郡
 が魏に占領
 景初三年(239年)春正月丁亥日(1月1日)
 明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀
 正始元年(240年)
 帯方太守
 弓遵
 は
 建中校尉
 梯儁
 らに詔書印綬を持たせて倭国へ派遣し、
 倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた
 正始四年(243年)十二月
 女王
 俾彌呼・・・・「俾」彌呼・・・「俾=イ+卑」?
 は
 魏に使者として
 大夫
 伊聲耆、
 掖邪狗らを送り、
 生口と布を献上
 皇帝(斉王)
 は
 掖邪狗らを
 率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
 正始六年(245年)
 皇帝(斉王)は帯方郡を通じ
 難升米に
 黄幢(黄色の旗さし)を下賜した。
 正始六年(245年)
 帯方太守
 弓遵
 と
 楽浪太守
 劉茂
 は
 嶺東へ遠征して
 濊を討った後、
 郡内の
 韓族が反乱して
 崎離営を襲ったため、
 軍を出して
 韓族を討ち滅ぼしたが
 弓遵
 は戦死
 正始八年(247年)
 女王は
 太守
 王頎に
 載斯烏越を使者として派遣し、
 狗奴国との戦いについて報告
 太守は
 塞曹掾史
 張政らを倭国に派遣
 女王に就いた
 壹与は、
 帰任する
 張政に
 掖邪狗
 ら
 20人を同行させ、
 掖邪狗らはそのまま都に向かい
 男女の
 生口30人
 と
 白珠5,000孔、
 青大句珠2枚、
 異文の
 雑錦20匹を貢いだ
 『日本書紀』の「神功紀」に引用される
 『晋書』起居註に、
 泰始二年(266年)
 倭の女王の使者が朝貢したとの記述
 この女王は
 壹與で、
 魏に代って成立した
 晋の皇帝
 武帝
 に朝貢した・・・
 ・・・200年〜300年の期間、「燕の国」との関係は?・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/himiko.htm
  ↓↑
 国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、
      遼東郡を遼西、中遼の二郡とし自らの太守を置く
      また、山東半島に営州刺史を置き、
      「遼東侯・平州牧」と号した
      「公孫度」の子、「公孫康」が継ぎ、
      「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」となり、
      「康」は
      西暦196〜220年まで
      楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡。
      魏王・「曹丕」、
     「献帝」を廃し、
      魏の「文帝」となる。
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、
      「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授
 232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
     「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
     「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮」、呉から「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし
      「淵」軍と戦い敗北
 238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の
司馬懿」を将軍とする軍隊に
「淵」軍敗北、戦死
 239年 帯方郡・太守「弓遵(辷+尊)」が
「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
 244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守「王・(斤+頁)」、
塞曹掾史「張政」を「倭国」に派遣
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と
「狗奴国」の交戦
卑弥呼」の死亡?
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 ・・・「歌垣(うたがき)=嬥歌(かがい)歌掛(懸)き=懸け合い」と関係ありや、なしや・・・
 山頂、海浜、川、市
 など、
 境界性を
 帯びた地が多く、
 常陸筑波山
 同童子女松原、
 肥前杵島岳
 摂津歌垣山、
 大和海石榴市、
 軽市
 などの例がある・・・