1960日目・・・「やまとはくにのマホロバ(まほろば)たたなづくあおがきやまごもれるやまとしうるはし」・・・「まほろば」とはナニか?・・・一般的に漢字としては「真秀ろば」が当てられて訓まれているが・・・「ま-ほ-ろ-ば」で、「ま-ほろ=秀ろ-ば」・・・?・・・「真秀=マシュウ・まほ・まさひで・シンシュウ」・・・「信州・神州」・・・「眞周」・・・本当に「日本国」は「真秀ろば」なのか?・・・猿飛佐助、霧隠才蔵・・・

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 「秀(すぐれる・ほ・しょう・ひいでる・ひで・ひでし
    シュウ・シュ)
    =禾(のぎ・カ)+乃」
 「禾(のぎ・カ)」・・・乃木・野木・能義・野儀・能木・埜木
             芒・鯁・能城・野城・能伎
 「乃(の・すなわち・なんじ・もし
    ダイ・ナイ・アイ・エ)」
  乃=丂(コウ)+丿(ヘツ・ヘチ)
    丂=曲がった釘(刀)の形
    丿=ひく・はらう・ヘツ・ヒツ・エイ
      撆(ヘツ)=㡀攵手
            敝=やぶれる・おおう
              敗衣・衣の敗れ
              巾にほつれ
              膝かけの破れ    
      撆=略也、引也
      掠(かする・かすめる・リャク・リョウ
        ムチ(笞・鞭)でたたく(叩・敲)
        奪う・かすめる
           掠取・掠奪・寇掠
           侵掠
           掠笞 (リョウチ)
 「乃」=なんぢ(汝)・これ(是)
     かれ(彼)・その(其)
     それがし・なにがし(某)
     乃者
     むかし(乃昔)
     をさむ(治)
 ブログ辞典では・・・
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 「禾(穀物の穂)と
  乃(なよなよする様の穀物
  若い芽が伸びる様子、
  穀物が穂を出していることを意味
  禾が穂を出した様相から、
  ひいでる・すぐれる」
 という意、
 「後漢-光武帝-劉秀の諱であり、
  説文解字には、
  避諱から
  秀の記事(記録)はない」
 ですか?・・・
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 「乃木希典(のぎ まれすけ
  嘉永二年十一月十一日
  1849年12月25日
   〜
  1912年
  大正元年九月十三日
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 「秀」の名前を有する人物・・・豊臣秀吉徳川秀忠
 熟語は
  秀才・秀逸・秀偉・秀伟(偉)・秀出
  秀穗・秀拔・秀美・作秀・選秀・选秀・優秀
 ・・・「禾(のぎ)+乃(すなわち→砂和地・洲名和地)」・・・
 「乃(すなわち・曽・曾・迺・即)」が
 「すなわち=輙・輒=チョウ(テフ)・チョウ(テフ)
       耳たぶ
       車の両脇につける薄いもたれ木
       わきぎ(脇木)
       輒筋穴(チョウキンケツ)は
       23番目の経穴(つぼ)の部位で
       前鋸筋、肋間筋が薄い耳たぶ状になっている
       武道・武術では脇下穴
       たやすい」
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 ・・・砂の窪(くぼ・ワ=穴+洼)の地なら「砂漠、砂丘」の「穴の 水たまり・牛の蹄の跡のたまり水・へこむ・深い池・澄んだ水」、「説文解字の本字は漥で(説文・巻十一)に、清水。窊(くぼみ)」で・・・沙漠のオアシス(oasis)の中のテント(tent・雨や風、日除け守る天幕、幌)、あるいはオアシス(oasis)向かう「馬車」に「幌」をかけたモノである・・・
 北海道ならむかしは「馬糞風」が飛び散っていた場所は
 「札幌=乾いた大きな川」
 「サッ・ポロ・ペツ
  アイヌ語のサリ・ ポロ・ペッ(葦原が・広大な・川)」
 「サツ=乾いた・ポロ=大きい・ベツ=かわ」
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 ・・・「乾いた」とは石、礫の川原か、砂の川原だろう・・・コトバを拡大すれば「沙漠」の水の乾上がった石川、砂川・・・石川啄木?・・・「砂川」市は「轢逃げ事件」のあった北海道空知郡の地名だが・・・
 ???
 砂川(すながわ→素名臥話)・・・砂川事件・・・1957年7月8日、当時の東京都北多摩郡砂川町(立川市)でアメリカ軍立川基地拡張反対運動で起きた事件・・・
 最高裁判所(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)
 1957年12月16日
 「憲法第9条は日本が主権国として持つ
  固有の自衛権を否定しておらず、
  同条が禁止する戦力とは
  日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、
  外国の軍隊は戦力にあたらない。
  したがって、
  アメリカ軍の駐留は
  憲法及び前文の趣旨に反しない。
  他方で、
  日米安全保障条約のように
  高度な政治性をもつ条約については、
  一見してきわめて
  明白に
  違憲無効と認められない限り、
  その内容について
  違憲かどうかの法的判断を下すことはできない
 (最高裁大法廷判決昭和34.12.16
  最高裁判所刑事判例集13・13・3225)」
  差戻し審と確定判決
  1961年3月27日
  再度審理の東京地裁(裁判長・岸盛一)
  罰金2000円の有罪判決
  上告を受けた最高裁
  1963年12月7日
  上告棄却を決定
  有罪判決が確定
 ・・・???
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 砂川捨丸(1890年、明治23年12月27日〜1971年10月12日)
 本名、池上捨吉
 兄の砂川千丸の
 江州音頭一座をへて、万歳師
 串本節も取り入れ全国に広めた
 最後の相方は
 春代(1923年大正十二癸亥年正月コンビを組む)=中村春代
 ↓    ↓↑
 ↓ (大正12年・5月北一輝日本改造法案大綱
         6月18日エトナ火山噴火
         9月1日関東大震災発生
         9月4日〜5日亀戸事件
         9月16日甘粕事件
            憲兵大尉
 ↓          甘粕正彦
            大杉栄伊藤野枝らを殺害
         11月8日ミュンヘン一揆
            アドルフ・ヒトラー
            国家社会主義ドイツ労働者党
 ↓       12月27日虎ノ門事件
             警視庁警務部長
             正力松太郎が懲戒免官
             難波大助の父で衆議院議員
             難波作之進
 ↓          (庚申倶楽部所属)は
             辞表提出し、蟄居し、餓死
             大助の長兄は鉱業会社を退職
             難波作之進の選挙地盤は
             松岡洋右が引き継ぐ
             戦後は
             岸信介
             佐藤栄作に引き継がれた)
   (モンゴル国元号
 ↓  共戴12年11月15日〜共戴13年11月24日)・・・共戴?
 ↓
 出囃子(でハヤシ)は
 「岩見」・・・「岩見沢」は北海道空知郡の支庁?
 大阪府三島郡
 味舌(ました)村(摂津市)の生まれ
 1971年9月
 神戸松竹座が最後の舞台
 演題は「舞い込み」
 同年11月
 角座で引退興行を予定していたが、
 10月12日急死
 祖父は糸桜、
 父は駒嵐という名の
 大阪相撲の力士
 アメリカ巡業に3ヶ月公演に渡り、
 アメリカ空港税関で調べられ、
 鼓や帯、袴など係員に質問され
 捨丸は「ジャパン・チャップリン」と答え、
 税関をパスし
 これが元で捨丸は
 「和製チャップリン」の異名をとった
 ・・・???
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 北海道(蝦夷地)の他の「幌」が付く地名
 ↓↑
 「幌向アイヌ語のポロ=大きな・モ=澱んだ・イ=ところ」、
 「幌別=ポロ・ペツ(大きい川)
     明治二年に太政官布告により
     仙台藩
     白石城主の
     片倉小十郎邦憲が
     幌別郡の支配を命ぜられる
     明治三年に幌別鉱山の開発
     金、銀、胴、硫黄の採掘
     硫黄は大正五年〜大正八年
     日本一の産出量」
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 の「幌(ほろ)」で、西部劇の幌馬車である・・・黄砂の「ゴビ(戈壁・瀚海・戈壁滩・大漠・Govi)=モンゴル語で沙漠、乾燥地、礫の広がる草原)砂漠・沙漠」、「エジプト(埃及)カイロ(改羅・開羅・該禄)」、「サハラ(アラビア語で砂漠)沙漠」の「幌駱駝(らくだ)車」か、「幌-驢馬(ろば)車」の引き車でもある・・・
 「語備(ゴビ)、作(佐)葉等」を「捌(さば)く・佐波句・鯖句」と「勤皇佐幕」である・・・「尊王攘夷」の「幌(ほろ→補賂)」でもあるカナ?・・・ここでは「夷人」は「外国人」のみならず、「蝦夷・甲斐・會(津)」の意味でもある・・・
 以下は「ウイッキペデア」や他のブログ記事を参照、参考にし、少々改作して添付・・・
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 幌(ホロ)
 風雨や砂ぼこりなどを防ぐ
 車両などに取り付けた覆い
 トラック、オープンカー、
 鉄道車両、乳母車、馬車などに用いられ、
 取り付けた馬車は幌馬車
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 母衣(ほろ)
 日本の武具、旗指物の一種
 「幌・保侶・保呂・母蘆」とも
 甲冑の補助武具
 兜や鎧の背に
 巾広の布つけて膨らませ、
 流れ矢や石などを避けるために使用
 母衣は武士の「七つ道具」の一
 甲冑着用の際に、
 縦に縫い合わせた
 長い布を背中につけたもの
 馬で駆けると
 風をはらんでふくらみ、
 背後に長く引いて
 背面からの流れ矢を防ぐ役割を果たし、
 大鎧とともに馬を駆り
 弓を主武器とする武士の戦闘法
 騎馬戦闘が廃れた室町時代の頃からは、
 内部に鯨のひげや竹などで作った
 骨を入れ常にふくらんだ形状を維持した
 背負う装飾具に変化
 差物(さしもの)の一種となった
 「母衣」という表記
 形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえた
 存在を示す標識
 防寒のためとする説もある・・・
 ↓↑ 
 「日本三代実録貞観十二年(870年)三月十六日の条」
 小野春風
 甲冑の薄さを補うために
 大量の「保侶」を朝廷に乞うたという記事
 「中右記・永久元年(1113年)」
 源重時の郎従が
 甲冑の上に流れ矢を防ぐための
 保侶という布をまとい、
 これを一族の風として習い、
 源重武の郎従達も
 久安三年(1147年)の合戦で
 身にまとい、人目を驚かせた
 12世紀中頃では、
 武士甲冑による集団(一門)が揃って
 保侶を身にまとうという行為は、珍しかった
 「吾妻鑑第18巻・建仁三年(1203年)九月九日」
 実朝公が初めて鎧を着し給わりし時
 甲冑は
 母廬
 等を着する次第故事をさづけ奉った」
 の記述・・・
 ↓↑
 文永の役
 紅の母衣をかけた
 肥後国の大将
 菊池二郎武房が
 蒙古人の首ふたつを
 太刀と長刀(なぎなた)の先に
 刺して持っていたという記録
 ↓↑
 15世紀末前後成立の
 『鴉鷺合戦物語・第八
  母衣次第、正素嫡子七郎折檻、鵠越後守上洛之事」
 の条には
 母衣について詳しい記述
 本式は紅
 赤白の色もあり
 陰陽の2色
 白は老武者
 「五幅五尺」の布を5枚縫合わせたもの
 「五大五仏」を表し、
 他に
 「八幅八尺・十幅一丈(一丈は10尺)」のものもあると記し、
 縫う糸についても口伝あり
 陣中でかける母衣、
 合戦時にかける母衣、
 勝戦にかける母衣、
 歩立(かちだち)のかける母衣、
 討死が確定した状況でかける母衣と、
 状況によって使用する
 母衣は異なるとしている・・・
 『鴉鷺物語』が記述された
 15世紀時点では、
 紅・赤・白以外の色の記述は見られない。
 ↓↑
 上泉信綱伝の『訓閲集』(大江氏の兵法書を改良)の巻十「実検」には、
 母衣をかけた武者の首は獄門にかけてはならず、
 仏法で母衣武者の首を何の配慮もなしに獄門にすれば、
 その首は成仏できないとの理由から
 扱いに気をつけるようにといった内容の記述があり、
 あえて討死にする際は母衣をつけたともあり、
 母衣で首を包むのが決まりとなっていた。
 つまり
 母衣を身に付けているのといないのでは、
 首の扱いに待遇差があった・・・
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 ↓↑
やまとは・・・・・・耶混訳葉
くにの・・・・・・・・句似埜
まほろば・・・・・・眞補賂場(馬補驢馬)・・・馬幌場・間保呂羽
                    母衣(ほろ)
                    幌
                    保侶・保呂・母蘆
たたなづく・・・・多々名通句
あおがき・・・・・・蛙尾臥記
やまごもれる・・埜万語摸例留
やまとし・・・・・・耶摩訳詞(史)
うるはし・・・・・・得留葉詞(史)
↓↑
夜麻登波(やまとハ)
  ↓↑
    久爾能(クニの)
     ↓↑
       麻本呂婆(まほロバ)・・・マ本賂葉
         ↓↑     婆=波+女→名視音名
           多多(タタ・おほい・おおい)
           ↓↑
             那豆久(名づく)
              ↓↑
                阿袁(あお)
                  加岐(下記・書・柿・牡蠣)
                  ↓↑
                   夜麻(やま)
                     碁母(ごも)
                       禮流(れる)
                       ↓↑
                     夜麻登
                      志(シ)
                      宇流(うる)
                      波斯(話詞)
↓↑
やまとは
   くにの
     まほろ
        たた
         なづく
           青がき
             山ごもれる
                 大和し
                   うるはし
↓↑
やまと・・・・・・邪馬台・邪魔拿意・耶摩問・山門→纂文・纂訳
はくにの・・・・葉句似埜
まほ・・・・・・・・馬補・万補・磨補
ろば・・・・・・・・驢馬・賂場
たた・・・・・・・・多々・他太・太田・田太
なづく・・・・・・名通句
あおがき・・・・蛙尾臥記・阿嗚画記
やまご・・・・・・埜万語
もれる・・・・・・洩れる・漏れる・盛れる・守れる・灤
やまとし・・・・大和詞・大和史
うるはし・・・・有留和史
↓↑
大和は 国 の
    真秀ろば
    畳 なづく
    青垣 
    山籠 れる
大和し
    うるはし
↓↑
倭(やまと)は
国の真秀(まほ)ろば
たたなづく青垣(あをかき)
山籠(やまごも)れる
倭(やまと)し
麗(うるは)し
↓↑
大和(やまと)は 国(くに)の真秀(まほ)ろば
畳(たた)なづく青垣(あをかき)
山籠(やまご)もれる 大和(やまと)し
美(うるは)し
↓↑
日本書紀
十七年春三月戊戌朔己酉、
幸子湯縣、
遊于丹裳小野、


望之
謂左右曰
「是國也
 直向
 於日出方」
故號其國曰
日向也。
是日、
陟野中大石、

京都
而歌之曰、
↓↑
波辭枳豫辭
(はじきよじ)
和藝幣能伽多由
(わぎへのかたゆ)
區毛位多知區暮
(くもいたちくも)
↓↑
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩
やまとは くにのまほらば
多々儺豆久 阿烏伽枳
たたなづく あおかき
夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試
やまこもれる やまとしうるはし

異能知能 摩曾祁務比苔破
(いのちの まかきむひたは)
多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能
(たたみこも へぐりのやまの)
志邏伽之餓延塢 于受珥左勢
(しらかのげえを うづじさせ)
許能固
(このこ)
是謂思邦歌也。
(是を云う、国を思う歌也)
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 ・・・猿飛佐助(乍留訳備佐助)、霧隠才蔵(歳三・歳造・作意副胡)・・・
 真田十勇士・・・猿飛佐助、霧隠才蔵三好清海入道三好伊三入道穴山小介穴山小助)、由利鎌之介(鎌之助)、筧十蔵海野六郎根津甚八望月六郎 ・・・立川文庫デス・・・
ーーーーー