1903日目・・・朝、目を覚まし、まだ生きているな、ッて・・・朝は冷え込んで寒かったが、昼はガンガンのお天気・・・回覧板を町内会の班長さん宅に届けたが、途中、カラスが二、三羽、道で餌を漁っていたのか、ボクが近ずくと地面から飛び立って電柱の上に。つられて、空を見上げ、ピンネ(神威・カムイ)の山を遠くに仰ぐと白い雪を被っていた・・・冬も生きている間には楽しまなくちゃぁネッ・・・とは思うが・・・「常夏のハワイ(Hawaii・布哇→羽合)」や、「タヒチ(Tahiti・大渓地→対比地)」がイイ・・・キィボードを叩

 深夜には再度、TVスペシャルで「縄文時代三内丸山遺跡」を観たけれど・・・「青森市大字三内字丸山・縄文時代前期中頃〜中期末葉の大規模集落跡・八甲田山系から伸びる丘陵の先端部の沖館川右岸(南)の河岸段丘上に立地」・・・一度は訪ねてみたい場所であるが・・・
 それにしても、「栗(くり・おののく・リツ」・・・「栗子・股栗 ・栗色・栗飯・甘栗・毬栗 (いがぐり)・天津栗・団栗 (どんぐり) ・栗鼠 (りす) 」の漢字である・・・「栗」が「戦慄(おののく・センリツ)とは毬栗(いがぐり)の針のトゲトゲ(棘々・朿々)殻からか・・・旨いモノにはトゲがあるって・・・バラの花にはトゲ・・・・
 三内丸山遺跡の「栗の木の柱が6本」だが、それが「三層の大型建物」の柱となって天空に聳え立っていたのか・・・「約4500年前のものと推定される直径1.8mの柱穴6個と、直径80cmのクリ材と思われる木柱3本が発見」された・・・
  ↓↑
 六本柱建物跡
 巨大な栗の木の柱
 柱穴の間隔
 4.2メートル、
 幅
 2メートル、・・・柱の太さは「80cm」
 深さ
 2メートル
 で全て統一
 その当時、既に測量の技術が備わっていた
 特に
 4.2メートルというのは
 35センチメートルの倍数
 35センチメートルの単位は
 他の遺跡でも確認
 「縄文尺」ともいうべき当時の
 モノサシとして
 何らかの
 技術の共有をしていた可能性・・・
 柱本体に
 腐食を防ぐため
 周囲を
 焦がすという技術を使って、
 腐食を長い間防いだ・・・腐食の部分があっても
 (80cm+α)〈(2m)
 だろう・・・だが、旧ソ連の何処かの村落には高さ40メートル以上の太い「栗の木」がゴロゴロしているらしい・・・縄文時代三内丸山遺跡は「栗林」が高々とコンモリと茂っていた・・・
  ↓↑
 ・・・柱の「太さ」は発掘の現物があるから納得だが、高さは「?」である・・・「出雲大社」は「杵築大社(きづきタイシャ・きづきのおおやしろ)」と呼ばれ、1871年(明治四年)に「出雲大社」と改称・・・「出雲大社の柱は発掘時の「岩根御柱は約3.6m」・・・
 「太古は32丈(96.96m)、
  中古は16丈(48.48m)、
  近古は8丈(24.24m)」
 平安時代
 源為憲の
 「口遊」で数え歌に歌われている
 「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」
 というもので、
 「雲太、和二、京三。
  今案、
  雲太謂
  出雲国城築明神神殿。
  和二謂
  大和国東大寺大仏殿。
  京三謂
  大極殿
  八省(律令制太政官に属する八つの中央行政官庁)」
 ・・・と言い伝え・・・「中古の出雲大社は16丈(48.48m)」であった・・・らしい・・・出雲大社の境内からは
 「2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な
 宇豆(うず)柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘
 古代社殿の柱ではと騒がれ、
 高さ・・・「太カサ」?
 「16丈(48.48m)説が事実であるかのごとく報道された・・・
  だが、中世の遺構で
  現在とほぼ同大平面であり、
  柱の分析や出土品からも
  1248年(宝治二年)造営の本殿である」・・・らしい・・・
 「宇豆(うず)柱」ですか・・・「宇受女」が鳴門の渦ならば、「宇豆(うず)」は柱を埋める「うずめ」で、「うづ・うつ」は「穴(あな)=坎・坑・孔・阿名」の意味だろう。「坎(カン・くぼみ・あな)」は「方角は北、象意は水・間歇(欠)泉・六十四卦の一つ(坎為水)・液体・穴・秘密・密通・罠=落とし穴」・・・
 で、縄文人の高層の建築柱が六本・・・ならば、「出雲(杵築)の大国主の神社」は「縄文人の技術」・・・日本の高層木造建築は縄文人のオリジナルであったカモ・・・だが、神社の須賀の地の建築依頼は「大国主の国譲りの条件」だった・・・
  ↓↑
 「於
  出雲國
  之
  多藝志
  之
  小濱、
  造
  天之御舍(古事記)」
 「又(また)
  汝が住(す)むべき
  天日隅宮(あまのひすみのみや)は、
  今供
  造(つく)りまつらむこと、
  即ち
  千尋の栲縄(たくなわ)を以て、
  結(ゆ)ひて
  百八十紐(ももむすびあまりやそむすび)にせむ。
  其の宮(みや)を造(つく)る制(のり)は、
  柱(はしら)は
  高(たか)く
  太(ふと)し。
  板(いた)は
  広(ひろ)く
  厚(あつ)くせむ。
  又
  田(みた)供佃(つく)らむ。
  又
  汝が往来(かよ)ひて
  海(わたつみ)に
  遊(あそぶ)ぶ具(そなえ)の為(ため)には、
  高橋(たかはし)
  浮橋(うきはし)
  及び
  天鳥船(あまのとりふね)、
  亦供
  造(つく)りまつらむ。
  又
  天安河(あまのやすかは)に、
  亦
  打橋(うちはし)造らむ。
  又
  百八十縫(ももぬひあまりやそぬひ)の
  白楯(しらたて)供造(つく)らむ。
  又
  汝が祭祀(まつり)を
  主(つかさど)らむは、
  天穂日命(あまのほひのみこと)、
  是なり。とのたまふ。」
   ↓
 ・・・高さは「16丈(48.48m)」でなくてもイイが、「8丈(24.24m)」であっても、巨大ではあるナッ・・・大仏殿の高さは「12丈6尺(約37m)」である・・・
 そんな「高いところ」で何を観ていたのか・・・攻めてくる敵の存在が無いならば、見張り矢倉(櫓)ではなく、常識的には「空の天体移動位置」と「地球方位」の関係性の観測場所だったろう・・・地上の「環状列石(二重・三重)の輪」との関係性はドウなのか?・・・なぜ、「重(おもい)」が、「重(かさなる)」のか・・・この「重(ジュウ・ヂュウ・チョウ)」の字形は何を意味しているのか・・・ブログ辞典には、
 会意形声
 「壬(人が土の上に立ったさま)+東(トウ・つきとおす)」?
 「東(両端を縛った袋)+土」?
 と、あるが、「壬と土」はわかるが、「東」とは思われない。
 ・・・素直に分解すれば、
 「重」=「千+里」=「千+申+土」=「千+甲+二」
    =「ノ+十+田+十+一」=「千+甲+十+一」
    =「ノ+車+一」
 である・・・理屈では、
 「ノ(ヘツ・ヘチ)+車(シャ)+一(イチ)」
 であるかな・・・「丿=ひく・ヘツ・ヒツ・エイ=左払い・右上から左下へ引く象形」、「右より戾るなり・左に引く形に象る(説文解字)」、「左払いの筆画で、書法の撆(ヘツ)、掠(リャク)」であるらしい・・・すなわち、重い物は、その地点(一)から車で運ぶ、移す、引(曳)く、と云うことである。
 「動=重い力」・・・重力・・・力(𠃌+ノ)を重ねる=動く
                𠃌=gǔn・カン・ケン・コン
                司=𠃌+一+口
                幻=幺+𠃌→幻想・幻覚
        重力とは目では見えない「力」なのだ・・・?
        天秤は重さと重さを比較するモノである
 「衝=彳(テキ・チャク)を重る亍(チョク)」
    彳=左足
    亍=右足・少し歩いては止まる
         たたずむこと
    行=彳+亍=いく・ゆく・ギョウ・コウ
    衝は「両足が重い」か、「両足が重って転倒」か
    当藝(たぎタギ)しいのは
    三重の「ヤマトタケルの命」
   「然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖」
    衝動・衝突・衝撃
 「種=禾(のぎ・カ・ワ)が重なる」・・・種子
  ↓↑
 ・・・「三層構造の櫓」・・・兎に角、そんな「高いところ」で何を観ていたのか・・・「縄文人」・・・宇宙だろう・・・そして、「季節の移り変わり」の予兆である・・・
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 渾天説
 古代中国天文学の宇宙構造論
 天は鶏の卵殻のように球形
 地は卵黄のようにその内部に位置
 天の表面・裏面には水があり、
 天と地は気に支えられて定立
 水にのって運行
 天の
 半分は地上を覆い、
 半分は地下を囲んでいる
 二十八宿
 半分が見え、
 半分が隠れて見えない
 天の両端には
 南極・北極の両極
 天は極を軸として
 車のこしき(轂)のように
 回転して端がない
 天体はこの天に付随し
 日周運動
 渾天説は
 赤道環・地平環・子午環といった
 環を組み合わせ
 天体を観測する
 渾天儀と呼ばれる観測器にもとづく
 渾天説を唱えたのは
 前漢武帝
 太初改暦を行った
 「落下閎」?・・・落下の
         「閎=コウ・オウ
          gate,barrier=障壁・国境の砦
          wide,vast=広大、広漠な
          expand=広げる」・・・巨大な門から落下
 らであった・・・そんな、名前の奴って、お巫山戯である・・・
 ↓↑
『晋書』天文志上引渾天儀注
「天如雞子、地如雞中黄、孤居於天内、天大而地小。
 天表裏有水、天地各乗気而立、載水而行。
 周天三百六十五度四分度之一、
 又
 中分之、
 則
 半覆地上、
 半繞地下、
 故
 二十八宿半見半隠、
 天
 転如車轂之運也」
 揚雄『法言』重黎
 「或問渾天。
  曰落下閎営之、
  鮮于妄人度之、耿中丞象之」
 揚雄(ヨウユウ)
 紀元前53年・宣帝の甘露元年〜18年・王莽の天鳳五年
 中国前漢時代末期の文人、学者
 四川省に当たる
 蜀郡成都の人
 字は子雲、また楊雄とも表記
 10年(新の始建国二年)
 揚雄63歳
 漢の高祖の廟から
 王莽を天子に指名する符(ふだ)が出たと称して
 帝位についた
 8年
 王莽は、
 その符の神秘性・高貴さを保持するために
 新たに符命を称することを禁じた
 これに違反して
 劉歆の子の
 劉棻らが
 改めて符を莽に献上
 莽は激怒、
 劉棻は
 揚雄の門人で、
 以前符の書式について
 棻に助言したことがあるなどの経緯から、
 司直の手を逃れられぬと感じた
 揚雄は、
 天禄閣の上から投身自殺未遂・・・「落下閎」だろう・・・
 揚雄と顔見知りの間柄であった
 王莽は事を荒立てるつもりはなかったが、
 揚雄の一人合点で大事に至った。
 結局大怪我はしたものの、
 生命に別状はなく、
 都中に知れ渡り
 流行俗謡に
 「惟(こ)れ寂惟れ寞にして自ら閣より投じ、
  爰(ここ)に清爰に静にして符命を作る」
  (揚雄自身が作った「解嘲賦」の一節を捩っている)
 後、揚雄は8年ほど生き長らえ、
 18年(天鳳五年)卒
 享年71
  ↓
 『晋書』天文志上
 「漢王仲任拠蓋天之説、以駁渾儀云、
  旧説天転従下過。
  今掘地一丈輒有水、
  天何
  得従水中行乎。
  甚不然也。
  日随天而転、
  非入地・・・」
 ↓↑
 蓋天説
 古代中国天文学の宇宙構造論
 天は円く広げられた傘のようであり、
 地は方形の碁盤のようである
 後に、
 天はドーム状(蓋笠)で、
 地はひっくり返した皿(覆槃)の形
 天は
 石臼を挽くように
 北極を中心に左回転
 太陽や月は右へ向かっているが、
 天の回転に引っぱられて左回転
 蓋天説は
 ノーモン(髀)による
 日影の観察に基づいたもの
 周髀説(しゅうひせつ)ということもある
 数学書の『周髀算経』にも収められている
 天と地は
 平行しており、
 太陽や月が
 地下へ潜ったりする考え方はなく、
 南極という考え方もない
 このため夜が生じるのは、
 太陽が観察者の視界から
 遠く離れるため
 1年を通じて昼夜の長さが変化すること、
 太陽が南北に上下することは、
 太陽の日周運動の軌道である
 北極を中心とした
 同心円の大きさが
 季節により変化すると考えられた
 昼の最も長い
 夏至のときは
 円が最も小さくなって
 北極に近い軌道をとる。これを「内衡」
 逆に昼の最も短い
 冬至のとき
 円が最も大きくなって
 北極から離れた軌道をとる。これを「外衡」
 内衡と外衡の間を
 6分割し、
 その境界となる
 7つの同心円を内衡から順に
 第一衡・第二衡・第三衡…第七衡とし、
 それぞれを
 二十四節気の中気に当てはめ、
 その衡と衡の間を
 第一間・第二間・第三間…第六間とし、
 それぞれ
 二十四節気の節気に当てはめた
 これを総称して
 「七衡六間」と呼ぶ
 蓋天説ではこの
 七衡六間を
 平面上に写し取った
 七衡六間図が用いられた
 ↓↑
 宣夜説
 古代中国天文学における宇宙構造論
 蓋天説や渾天説と違い、
 天には形体というものがなく
 虚空である
 天には形質というものがなく、
 仰ぎ見れば、
 高く遠く果てがない
 遠道の黄山を望み見ると
 青く、
 千尋深谷をのぞき込むと
 窈黒
 であるように
 天の青も本当の色ではなく、
 黒も形体があるからではない
 天体は
 形体ある天に
 くっついているようなものではなく、
 虚空のなかに
 おのずから浮かんでいる
 どこにも繋がれていないからこそ
 天体ごとに動きに遅速が異なる
 ↓↑
 宣夜説を唱えたものには
 中国ではじめて
 歳差を発見した
 虞喜(281年 - 356年)
 宣夜説にもとづいて『安天論』を著した
 ↓↑
 1980年代の初頭に、
 河南省
 濮陽の
 西水坡で墓が見つかった。
 そこでは貝殻と骨が
  (星座の) 青竜、 白虎
 おおぐま座の形をしていた
 墓は
 新石器時代のもので、
 およそ
 6000年前のもの・・・縄文時代と重なった・・・
 ↓↑
 二十八宿に関連した星の名前が、
 およそ
 3200年前の
 「武丁」
 の頃の
 占いの骨に見出された
 ↓↑
 1977年
 湖北省
 随県で
 曾侯乙(曾 (Zeng) の侯爵 (marquis) である Yi)
 の墓から
 漆の箱が見つかった
 二十八宿の名前が箱の
 蓋(ふた)に見つかり、
 この分類法の使用が
 BC 433 年以前
 になされていたことが立証・・・
 ↓↑
 紀元前4世紀
 星表を提供した天文学者
 戦国時代の
 石申(石申天文)・・・石猿・・・医師覚留
 甘徳(天文星占)・・・監督・寛徳・感得・巻説く
 ・・・???・・・
ーーーーー
 旧約聖書
 約伯 記
 ヨブ・・・「与分・余部」記
   ・・・・呼ぶ記(紀)
第29章
29:1
ヨブ

また
言葉をついで言った、
29:2
「ああ
 過ぎた年月のようであったら
 よいのだが、
 神が
 わたしを
 守ってくださった日のようで
 あったらよいのだが。
29:3
 あの時には、
 彼(神)の
 ともしび(灯火・灯・燈・燭)・・・「丶(チュウ)」
                  「ヽ(てん)」
                  「ゝ(チョン・々・同)」
                 「主=丶+王」の「丶」
 が
 わたしの頭の上に輝き、
 彼の光によって
 わたしは
 暗闇(くらやみ・アンアン・アンオン)
    ・・・・・暗=日+音=日+立+日・・・常陸
           比音
         闇=門+音=門+立+日・・・文立比
           文音(問音・聞音)・・文隠・悶怨
         くらやみ=句等哉視

 を歩んだ。
29:4
 わたしの
 盛んな時のようであったなら
 よいのだが。
 あの時には、
 神の親しみが
 わたしの
 天幕の上にあった。
29:5
 あの時には、
 全能者が
 なお
 わたしと共にいまし、
 わたしの子供たちも
 わたしの周囲にいた。
29:6
 あの時、
 わたしの
 足跡は
 乳で洗われ、
 岩も
 わたしのために
 油の流れを
 注ぎだした。
29:7
 あの時には、
 わたしは
 町の門に出て行き、
 わたしの
 座を
 広場に設けた。
29:8
 若い者は
 わたしを見て
 しりぞき、
 老いた者は
 身をおこして立ち、
29:9
 君たる者も
 物言うことをやめて、
 その口に手を当て、
29:10
 尊い者も
 声をおさめて、
 その舌を
 上あご(顎)
 に
 つけた。
29:11
 耳に聞いた者は
 わたしを
 祝福された者となし、
 目に見た者は
 これを
 あかしした。
29:12
 これは
 助けを求める貧しい者を救い、
 また、
 みなしご
 および
 助ける人のない者を
 救ったからである。
29:13
 今にも
 滅びようとした者
 の祝福が
 わたしに来た。
 わたしは
 また
 やもめ
 の心をして
 喜び歌わせた。
29:14
 わたしは
 正義を着、
 正義は
 わたしをおおった。
 わたしの
 公義は
 上着のごとく、
 また
 冠
 のようであった。
29:15
 わたしは
 目しい
 の目となり、
 足なえ
 の足となり、
29:16
 貧しい者
 の父となり、
 知らない人
 の訴えの
 理由を
 調べてやった。
29:17
 わたしは
 また
 悪しき者の
 きばを折り、
 その歯の間から
 獲物を引き出した。
29:18
 その時、
 わたしは言った、
 『わたしは
  自分の巣の中で死に、
  わたしの日は
  砂のように
  多くなるであろう。
29:19
  わたしの根は
  水のほとりに
  はびこり、
  露は
  夜もすがら
  わたしの枝に
  おくであろう。
29:20
  わたしの栄えは
  わたしと共に新しく、
  わたしの弓は
  わたしの手に
  いつも強い』
 と。
29:21
 人々は
 わたしに
 聞いて待ち、
 黙して、
 わたしの教に
 従った。
29:22
 わたしが言った後は
 彼らは再び言わなかった。
 わたしの言葉は
 彼らの上に
 雨のように
 降りそそいだ。
29:23
 彼らは
 雨を待つように、
 わたしを待ち望み、
 春の雨を仰ぐように
 口を開いて仰いだ。
29:24
 彼らが
 希望を失った時にも、
 わたしは
 彼らにむかって
 ほほえんだ。
 彼らは
 わたしの顔の光を
 除くことができなかった。
29:25
 わたしは
 彼らのために
 道を選び、
 その
 かしら
 として座し、
 軍中の
 王のようにしており、
 嘆く者を
 慰める人のようであった。
ーーーーー
 ・・・