1875日目・・・「モルデカイ」を「木に吊るす」・・・「きしのあかしや」・・・木下藤吉郎でも太閤・豊臣秀吉でもない・・・木下杢太郎は「禿げ鼠」か?・・・尾張名古屋には住んでいたことはタシカなコトである・・・

ーーーーー
 「木下杢太郎」
 (きのした もくたろう)・・・号名は「きしのあかしや」・・・
 1885年(明治十八年)8月1日
 〜
 1945年(昭和20年)10月15日
 静岡県伊東市湯川で
 呉服や雑貨を扱う素封家の商家
 「米惣」の
 「惣五郎」
 と
 「いと」
 の
 七人兄姉(姉四人・兄二人)
 の末子として誕生
 ↓
 本名
 太田正雄・・・・・・太田・・・「太安万侶」伝
 皮膚科の医学者・・・皮膚科・・「比附掛」
 詩人、劇作家
 翻訳家、美術史
 切支丹史研究家
 大学医学部の教授を歴任
 南蛮情緒的
 切支丹趣味
 耽美享楽的
 などと言われる
 煌(きらび)やかな
 詩や戯曲を残した
 ↓
 号名
 きしのあかしや・・・・・記史の証し哉(埜)
 堀花村(ほりかそん)・・補理掛存(孫・尊・噂)
 地下一尺生(チゲイチシャクセイ?)
       知解位置シャク所為(声)
      (チカイッシャクソウ?)
       地掛意通写 句双
 葱南(そうなん)・・・ねぎみなみ
    遭 難     音義視名実
            み・ミ=箕・巳・味・眉・壬
    桑 南         美・観
    相 南
    双 拿務
    叢 納夢
       ム=戊=ボ・土の兄→十一の重・画・絵
 ↓
 などの筆名も用いた・・・
 1907年(明治四十年)
 与謝野鉄幹
 新詩社の機関誌、
 『明星』の
 同人となり、
 短編
 『蒸氣のにほひ』
 を発表
 夏に、
 与謝野鉄幹・・・謝り之、与え、鉄(鐡)の視記
 北原白秋・・・・捕句言の葉句集
 吉井勇・・・・・記知意異作務
 平野万里・・・・比等之萬理
 と
 九州北部の
 南蛮遺跡を探訪し、
 新聞に連載された
 紀行文
 『五足の靴』で、・・・語則之句通
 南蛮情緒の濃い、
 切支丹趣味の
 耽美享楽的な詩を詠んだ・・・
 ↓↑
 1908年(明治43年
 北原白秋
 山本鼎・・・・・纂本掛名重
 らと
 パンの会・・・・麺麭の會(掛意・甲斐・蝦夷
         pan・版・班・犯・般
         凡・汎→天音史
 を結成
 1909年(明治42年
 石川啄木創刊の
 『昴(すばる)』の編集を手伝い、
 白秋・長田秀雄と季刊誌
 『屋上庭園』を創刊し、・・・オクジョウテイエン
               於句定  綴 縁
 「昴(すばる)」に
 切支丹ものの・・・・・・・・基督教
               耶楚教
               耶蘇教・邪蘇教
               景 教(ネストリウス)
 「南蛮寺門前・(1909作)」・・・何版・何番・何晩・何判
                事文 字文 時分 耳聞
                前  万重 間柄 眞重
  ↓
 「絵踏(えぶみ)・・・・・・・重文・得聞
  長崎
  殉教奇談・(1913作)」・・・・順境記(紀)談
 「天草四郎(1914作)」・・・・「伝奏・転叢」史賂得
 「常長(1928作)」・・・・・・把施句等通音名臥
 「訴人(1928作)」・・・・・・素訊
               曽(曾)訊
               鼠訊→移鼠=イエス
  ↓
 1911年(明治44年
 東大医学部を卒業
 翌年衛生学教室を経て、
 森鴎外・・・・・・・・・・漏り欧害(臥意・雅意)
 の勧めに従い
 皮膚科の
 土肥慶蔵教授・・・・・・・・土肥・土居・土井
               土佐+肥前・肥後
 についた
 「昴(すばる)」へ・・・・・素葉留
 『和泉屋染物店』・・・・・・異事(亠)視埜
               甦女(眼)摸埜填(転)
 を載せた
 癩病研究を志す・・・・・・・等意描
  ↓
 1916年(大正5年)
 〜
 1920年大正9年
 奉天瀋陽)の
 満鉄付属地の
 南満医学堂教授
 兼
 奉天医院
 皮膚科部長を勤めた・・・・・皮膚科→比附掛
 河合正子・・・・・・・・・・掛蛙意正史(音)
 と結婚
 中国・朝鮮の美術を探訪
 正子との間に、
 二男三女を得た
  ↓
 1921年(大正10年)
 〜
 1924年大正13年
 米欧に留学
 フランスの・・・・・・・・・仏蘭西・仏国
               腐乱素(主)
               France
 ソルボンヌ・サン・ルイ病院
 (Hôpital Saint-Louis)
 リヨン大学で研究・・・・・・理与務・理読
 語学を学び、各国に旅行
 南蛮・切支丹の文献を集めた
  ↓
 1922年(大正11年
 医学博士号
 1924年大正13年
 帰国
 愛知県立・・・・・・・・・・尾張
 医学専門学校
 (名古屋大学医学部)教授・・名古耶・納拠埜
  ↓
 1926年(大正15年)
 東北大学医学部教授に転じ
 皮膚病・・・・・・・・・・・比附描(尾様)
 黴毒学講座を担当・・・・・・葉意記務
 医真菌学の研究・・・・・・・維新禁臥句
  ↓
 1930年(昭和5年
 日本
 ミコロギー学会を設立・・・・視子賂義意
  ↓
 1934年(昭和9年
 皮膚科学会総会で
 『中毒疹』を報告・・・・・・註独神(身)
 1937年(昭和12年
 東京帝国大学医学部教授
 皮膚科学講座を担当
 伝染病研究所(東京大学医科学研究所)
 研究員を兼ね、
 癩病の研究
 思想弾圧を受けた学生たちと
 「鴎外の会」を作った
 1938年(昭和13年
 『眼上顎部青色母斑』・・・・贋条臥伏声色簿版
 を独立疾患として発表
 『太田母斑』・・・・・・・「太田・多田・巨田」
               簿版・戊叛・模判
 とも呼ばれている
  ↓
 1941年(昭和16年
 日仏交換教授として、
 日本軍が
 強行進駐していた
 フランス領
 インドシナへ出張
 レジョン・ドヌール勲章を受けた
 1943年(昭和18年
 『百花譜』・・・・比訳掛附
 と自ら呼んだ
 植物写生を始め、
 872枚を描く・・・・八百七十二
           八百七拾弐
  捌陌漆足貮
  ↓
 1944年(昭和19年
 上海・南京の医学会に出席
  ↓
 1945年(昭和20年)
 4月
 『わらい蕈』・・・・笑(わら)い
           咲(わら)い
           蕈=ジン(ジム)・シン(シム)
             きのこ(茸)・たけ(茸)
 5月に
 『すかんぽ』・・・・素漢補
           イタドリ(虎杖・痛取
                Fallopia japonica)
           タデ科の多年生植物
           別名
           スカンポ・イタンポ
           ドングイ・スッポン
           ゴンパチ・エッタン
 を、
 『文芸』誌に掲載
 6月より腹部の変調を訴え、
 10月15日
 胃幽門の癌のため、・・・畏友文(聞)の元
 東大病院
 柿沼内科で没・・・・・掛記奴間(渟)名意掛
              沼(ぬま・ショウ)
             天渟中原瀛真人=天武天皇
          (あまのぬなはらおきのまひと)
              渟(停)泊・渟(停)滞
          ちぬ(茅渟)=和泉国の沿岸の古称
                 大阪湾の東部、
                 堺市岸和田市
                 を経て泉南郡
                 至る一帯
 戒名
 「斐文院指学葱南居士」・・・斐文院指学葱南居士
              甲斐文隠
                  史学音義
                     何異史
  ↓↑
 「渟名城入姫命
  渟名城稚姫命(日本書紀
  沼名木之入日売命(古事記)」
 第十代
 崇神天皇
  御間城入彦五十瓊殖天皇
 (みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
  御肇國天皇
 (はつくにしらすすめらみこと)
 (日本書紀
  御真木入日子印恵命
 (みまきいりひこいにえ)
  所知初國御眞木天皇
 (はつくにしらししみまきのすめらみこと)
 (古事記
  美萬貴天皇
 (みまきのすめらみこと)
 (常陸風土記
 開化天皇の第二子
 母は
  伊香色謎命・・・・・・意掛詞記の謎の名
  伊迦賀色許売命・・・・如何、史記の葉異名を許す
             医家臥職の虚葉意名
             以加賀の異賂の葉異名を許す
 (いかがしこめのみこと)・・・伊香色謎
                イスラエル
                以 色列
                伊 色剌
                  色=愛人・愛妾
                    側女(そばめ)
                       蕎麦目
 ↓↑
 と、
 妃
 の
 尾張
 大海媛(意富阿麻比売)
     意附阿万比葉意
     異附海人秘
 の間に生まれた
 皇女
 兄弟
 同母兄に
 八坂入彦命(八坂之入日子命)
 同母妹に
 十市瓊入姫命(十市之入日売命)・・・十一
 長兄に
 大入杵命古事記)の記録
  ↓↑
 「渟葉田瓊入媛」
 第十一代
 垂仁天皇
  活目入彦五十狭茅尊
 (いくめいりびこいさちのみこと)
  活目尊
 (日本書紀
  伊久米伊理毘古伊佐知命
 (いくめいりびこいさちのみこと)
  生目命
 (古事記
  伊久牟尼利比古大王
 (いくむにりひこ)
 (上宮文逸文
  ↓↑
 の
 妃
 垂仁天皇
 の
 皇后
 狭穂(さほ)姫=沙本毘売=佐波遅比売命
        作本・差本・佐和字比目名 
 誉津別命(本牟智和気御子)の生母
  ↓↑
 が
 兄
 狭穂彦=沙本毘古
 の謀反に連座
 自殺する前に
 後宮にいれることを
 進言した
 丹波道主命
 (たにわのみちぬしのみこと)の
  5人の娘のひとり
  ↓↑
 「後訊・語訊・呉人」の「務蘇埋」の比訳理
ーーーーー
  ↓↑
 2人の作家が
 一つのペンネームで
 発表を続けたり
 (アメリカ推理作家E.クイーン)
 一作家が
 二つのペンネームで
 異なる作風のシリーズを続けたり
 (イギリス推理作家
 ディクソン・カー=カーター・ディクソンなど)
 する多作家が現れた・・・時代・・・
 ・・・木下杢太郎(きのした もくたろう)は、
 ・・・「きしのあかしや」・・・?
ーーーーー
 旧約聖書
 エステル記・・・重素照(手留・弖留・氐留)記
         重棲弟留記
         恵諏弖留記
 以斯帖 記
第7章
7:1
王と
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞

王妃(オウヒ)・・・・歐秘
           鴎秘=比視通
          森鴎外→漏理歐臥意
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留

酒宴(シュエン)に
臨(のぞ・リン)んだ。
7:2
この
ふつか(二日)目の・・・布津掛目
            仏掛目
酒宴(シュエン)に
王は
また
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留
に言った、
「王妃・・・・歐秘
       鴎秘=比視通
      森鴎外→漏理歐臥意
 エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
        重棲弟留
 よ、
 あなたの
 求めることは
 何か。
 必ず聞かれる。
 あなたの
 願いは
 何か。
 国の半ばでも
 聞きとどけられる」。
7:3
王妃・・・・歐秘
      鴎秘=比視通
     森鴎外→漏理歐臥意
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留

答えて言った、
「王よ、
 もし
 わたしが
 王の
 目の前に
 恵みを得、
 また
 王が
 もし
 よしと
 されるならば、
 わたしの
 求めにしたがって
 わたしの
 命を
 わたしに与え、
 また
 わたしの
 願いにしたがって
 わたしの民を
 わたしに
 与えてください。
7:4
 わたし
 と
 わたしの民は
 売られて
 滅ぼされ、
 殺され、
 絶やされようとしています。
 もし
 わたしたちが
 男女の
 奴隷として
 売られただけなら、
 わたしは
 黙っていたでしょう。
 わたしたちの
 難儀(ナンギ)は・・・難義
 王の
 損失(ソンシツ)とは
 比較(ヒカク)
 に
 ならないからです」。
7:5
アハシュエロス・・・蛙葉取重賂素


王妃・・・・歐秘
      鴎秘=比視通
     森鴎外→漏理歐臥意
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留
に言った、
「そんな事をしようと
 心に
 企(たくら・キ)んでいる者は・・・多句等務
                  記・紀
 だれ(誰)か。
 また
 どこ(何処・何所)にいるのか」。
7:6
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留
は言った、
「そのあだ、
 その敵は
 この悪い
 ハマン・・・葉萬
       頗萬・嵌摩(磨・混)務
       頗瞞
 です」。
そこで
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞



王妃・・・・歐秘
      鴎秘=比視通
     森鴎外→漏理歐臥意
の前に
恐(おそ・キョウ)れ
慄(おのの・リツ)いた。
7:7
王は
怒って
酒宴(シュエン)の
席(セキ)を・・・・世記・籍
立ち、
宮殿(キュウデン)の・・・求伝
園(その・エン)へ・・・・素之
             縁
行ったが、
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞

残(のこ・ザン)って
王妃・・・・歐秘
      鴎秘=比視通
     森鴎外→漏理歐臥意
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留

命乞(いのちご・メイコツ)いをした。
彼は
王が
自分に
害を
加えようと
定めたのを
見たからである。
7:8
王が
宮殿の園から
酒宴の場所に
帰(かえ・キ)って
みると、
エステル・・・重素照(手留・弖留・氐留)
       重棲弟留

いた
長椅子(ながいす・チョウキシ)の
上に
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞

伏(ふ・ふせ・フ)していたので、
王は言った、
「彼は
 また
 わたしの家で、
 しかも
 わたしの前で
 王妃・・・歐秘
      鴎秘=比視通
     森鴎外→漏理歐臥意
 を
 恥(は・チ)ずかしめ・・・恥=耳+心
 ようとするのか」。
この
言葉が
王の
口から
出たとき、
人々は、
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞



おおった。
7:9
その時、
王に
付き添っていた
ひとりの
侍従(ジジュウ)・・・自重
ハルボナ・・・・葉留模名

「王のために
 よい事を告げた
 あの
 モルデカイ・・・模留出掛意
         漏出甲斐(皆)
 のために
 ハマン・・・葉萬
       頗萬・嵌摩(磨・混)務
       頗瞞
 が
 用意(ヨウイ)した
 高さ
 五十
 キュビト
 の
 木(き・モク)・・・記・紀・企
           摸句
           目
 が
 ハマン・・・葉萬
       頗萬・嵌摩(磨・混)務
       頗瞞
 の
 家に立っています」
と言ったので、
王は
「彼を
 それに
 掛けよ」
と言った。
7:10
そこで
人々は
ハマン・・・葉萬
      頗萬・嵌摩(磨・混)務
      頗瞞

モルデカイ・・・模留出掛意
        漏出甲斐(皆)
のために
備(そな・ビ)えてあった
その
木(き・モク)・・・記・紀・企
          摸句
          目

掛けた。
こうして
王の
怒(いかり・ド)りは・・・意掛理
和(やわ・にぎ・ワ)らいだ。
ーーーーー
 ・・・