1766日目・・・「耳(みみ・のみ・ジ」の漢字・・・平家の滅亡は「耳なし芳一(みみなしほういち)」によって語られた「安徳天皇や平家一門を祀った阿弥陀寺(赤間神宮、山口県下関市)を舞台とした物語」で、「小泉八雲」の「怪談」でも語られた。八雲が典拠としたのは、「一夕散人(いっせきさんじん)」著の「臥遊奇談・第二巻」の「琵琶秘曲泣幽霊」であった。「小泉八雲」は「1850年6月27日〜1904年(明治37年)9月26日)は、 ギリシャ出身の新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、 日本民俗

 「撒母耳(サムエル)記」・・・ダイタイからして、ナゼ「サムエル(Samuel)=彼の名は神の意?=先見者→預言者」が「撒母耳」の漢字が与えられているんだか・・・妄想をタケてみる・・・「Hearn=ハーン」である。
 「Hearn」は日本語で「ヘルン」と表記された・・・「ウイッキペデア」の注記には「一般的には本人がサギ(heron・ヘレン・ヘロン)=鴫(シギ・ゴイ鷺も含む)と発音が似ていたから気に入ったとされる」・・・「鷺(さぎ・ロ)」の英語が「heron(ヘレン・ヘロン・エロン)」である。
 モチロン、「サギ」の漢字は「詐欺・詐偽」であり「茶義・茶木・佐木・作義」である・・・
 「撒(サン)・母耳(モジ)」
 「撒母(サンボ)・耳(ジ・ニ)」
 「撒(まく)=手+散(廿+月+攵)」
 「母(はは・も・カァ・カカ)→類字は毌(つらぬく・カン)、毋(ない・なかれ・ブ・ム)」、「耳(みみ・のみ・だけ)」・・・
 「サムエル(Samuel)」の
 父の名前は
 「エルカナ」、
 母の名前は
 「ハンナ(Hanna・Hanna; Hannah)」である・・・
 預けられた所が「シロ」、預けられた人物は神殿祭司の「エリ」・・・「日本書紀古事記」にこれらの「カタカナ」を重ねるならば、
 「重留中(えるなか)」、
 「判名(ハンナ)」、
 「シロ(白・城・代・詞賂・史賂」
 である。「白」は「源氏」であり、「清和」であり、「新羅」である・・・天皇別に21(3×7)の流派であり、清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下し「武家団」を形成した・・・
ーーーーー
 ゲンジ
  ↓↑
 第六皇子
 貞純親王の子の
 経基王源経基)の子孫が繁栄
 経基の子の
 源満仲
 (多田満仲)・・・・多田(ただ・オオタ)
           大田・太田→多伝
           おほたタネコ(種子)
 は、
 藤原北家
 摂関政治に協力し
 摂津国
 川辺郡
 多田・・・・・・・・
 の地に武士団を形成
 彼の子である
 頼光、
 頼親、
 頼信
 らも父と同様に
 藤原摂関家に仕え
 主流となる
 頼信の嫡流
 東国の武士団を支配下に置き
 源頼朝・・・妻は
       北条政子=尼将軍
       保元二年(1157年)
         〜
       嘉禄元年七月十一日(1225年8月16日)
 が
 鎌倉幕府
 の武家政権を確立
ーーーーー
  ↓↑
 「耳(みみ・のみ・ジ・ニ)」にコダワル・・・
 ↓
 漢文で限定(〜だけ・〜のみ)
 「耳」
 「而已」
 「已」
 「爾(尓)」
 「已矣」
 「而已矣」
 などは
 いずれも
 「〜のみ」と読む
 非定形では
 「〜ざるのみ」
 以下の漢字は単独でも
 「唯・惟・只・徒・特・独(獨)」
 「ただ〜のみ」と読む
  ↓↑
  多他(他拿・多汰)の
 「蚤・鑿・呑・飲・爾・已・鐫」
 の「能美(濃尾)の能見」
  ↓
 耳元・空耳・早耳・福耳
  ↓
 耳垢・耳茸・耳朶・茸腫・耳漏
  ↓
 白耳義(ベルギー)
  ↓
 耳·耶·耿·耻·耽·耺·聊·聆·聒·聖
 聘·聡·聞·聟·聢·聚·聨·聦·聴·聲
  ↓
 以下は「直字」のボク的な解釈から程遠いが併記・・・?
 ↓
 四字熟語・・・カタカナを同音異字漢字にトライ・・・
 馬耳東風=聞き流し
      馬の耳は東の風
      バのジのトウのフウ
 掩耳盗鐘=耳をふさいで鐘を盗む
      エンのジのトウのショウ
 掩耳盗鈴=耳をふさいで鈴を盗む
      頭隠して尻を隠さず
      掩(エン)=被う・隠す・かばう
      掩護・掩蔽
      隠した耳で鐘(鈴)を盗む
      掩=手+奄→奄美
      エンのジのトウのレイ     
 鳶目兎耳=観察、傍聴、間諜・情報収集
      ワシのモク、ウサギのジ
 貴耳賤目=聞いて信じ込み、見て不信
      現実軽視、前例慣行重視
      キジのセンモク
 口耳講説=受け売り・エピゴーネン
      コウジのコウセツ
 口耳之学=軽薄、浅はかな学問、知識
      コウジ、シ、学
 口耳末学=軽薄な学問、知識
      コウジのマツのガク
 口耳四寸=受け売り・エピゴーネン
      コウジのシスン
 交頭接耳=内緒のハナシはアのネのネ
      コウトウのセツジ
 衆目衆耳=皆が知る、周知
      シュウモクのシュウジ
 飛耳長目=書籍・書物
      ヒジのチョウモク
 耳視目食=見栄張る
      ジシのモクショク(モクジキ)
 耳食之学=耳で聞いて実証せず
      ジショク、シ、学
 耳食之談=噂を信じて撒き散らす
      ジショクのダン
 耳豎垂肩=耳をたて、肩をおとす
      若造青二才のガッカリ?
      ジトウのスイケン
 耳聡目明=賢い
      ジソウのモクメイ(モクミョウ)
 耳提面訓=よく含み聞かせる
      ジテイのメンクン
 耳提面命=よく含み聞かせる
      ジテイのメンレイ
 耳聞目見=百聞は一見に如かず
      聴くよりも見れ
      ジブンのモクケン
 耳聞目撃=確かな見聞
      ジブンのモクゲキ
 耳聞目睹=確かなことは視覚
      ジブンのモクト
 耳目聡明=賢い奴
      ジモクのソウメイ
 耳目之欲=証拠不十分である
      ジモク、シ、ヨク
 充耳不聞=浮の空
      ジュウジぼフモン
 垂頭塞耳=頭を垂れ耳を塞ぐ
      スイトウのヘイジ
 舌敝耳聾=お喋りは厭(倦)きられる
      ゼツヘイのジロウ
 忠言逆耳=忠告は煩い
      チュウゲンの逆字→言中のジ・みみ
 長目飛耳=情報収集
      チョウモクのヒジ
 提耳面命=直面で命令、訓令
      テイジのメンレイ
 踏足付耳=踏む足に耳を付ける?
      トウソクのフジ
 俛首帖耳=ご機嫌取り・太鼓持ち
      フシュのチョウジ
 附耳之言=秘密は漏れやすい
      フジ、シ、ゲン→至言
         箴 言
       戒め、教訓の言葉
      「箴言集」=旧約聖書中の一書
 付耳之言=秘密は漏れやすい
      壁に耳あり
      フジ、シ、ゲン
 面命耳提=よく含み聞かせる
      メンレイのジテイ
 目食耳視=味よりも外見
      モクショクのジシ
 六十耳順=云い分は判るけど
      ロクジュウのジ順→陸拾の字順
      六拾(干支)の字順
      納音(ナッチン・ノウオン)
ーーーーー
 「日本書紀
  ↓↑
 允恭天皇(インギョウテンコウ)
 第十九代天皇
 雄朝津間稚子宿禰
 (おあさづま わくごの-すく-ねの-みこと)
 男浅津間若子宿禰
  ↓↑
 二年春二月丙申朔己酉
 ・・・
 初皇后
 隨母在家、
 獨遊苑中、
 時
 鬪鶏國造、
 從傍徑行之、
 乘馬而莅籬、
 謂
 皇后
 嘲
 之曰
 「能作園乎、汝者也。」
 汝、此云
 那鼻苔也。
 且曰
 「壓乞、
 戸母、・・・・・戸母 (とじ・トボ) ?
 其
 蘭一莖焉。」
 壓乞、
 此云
 異提。
 戸母、・・・・・戸母 (とじ・トボ) ?
 此云
 覩自。
 皇后
 則
 採
 一根
 蘭、
 與於
 乘馬者、
 因以、
 問曰
 「何用
  求
  蘭
  耶。」
 乘馬者
 對曰
 「行山撥蠛也。」
 蠛、
 此云
 摩愚那岐。
 時
 皇后、
 結之
 意裏
 乘馬者
 辭旡禮、
 卽謂
 之曰
 「首也、
 余
 不忘矣。」
 是後、
 皇后
 登祚之年、
 覓乘馬乞
 蘭者
 而
 數
 昔日
 之罪
 以
 欲殺、
 爰乞
 蘭者、
 顙搶地
 叩頭曰
 「臣
 之罪
 實當
 萬死。
 然
 當
 其日、
 不知貴者。」
 於是
 皇后、
 赦
 死刑、
 貶其
 姓
 謂
 稻置。
 五年秋七月丙子朔己丑、
 地震
 先是、
 命
 葛城襲津彥
 之
 孫
 玉田宿禰
 主
 瑞齒別天皇之殯。
 則當
 地震夕、
 遣
 尾張
 吾襲、
 察
 殯宮之消息、
 時
 諸人悉聚無闕、
 唯
 玉田宿禰
 無之也。
 吾襲奏言
 「殯宮大夫
  玉田宿禰
  非見
  殯所。」
 則
 亦
 遣
 吾襲
 於
 葛城、
 令視
 玉田宿禰
 是日、
 玉田宿禰
 方集
 男女而酒宴焉。
 吾襲、
 舉狀、
 具告
 玉田宿禰
 宿禰
 則
 畏有事、
 以
 馬
 一匹
 授
 吾
 襲
 爲
 禮幣、
 乃
 密遮
 吾襲
 而
 殺
 于道路、
 卽
 逃隱
 武內宿禰
 之
 墓域。
 冬十有一月甲戌朔甲申、
 葬
 瑞齒別天皇・・・
 于
 耳原陵。
  ↓↑
 卌二年春正月乙亥朔戊子、
 天皇崩、
 時年若干。
 於是
 新羅王、
 聞
 天皇
 既
 崩
 而
 驚愁之、
 貢上
 調船
 八十艘
 及
 種々
 樂人
 八十、
 是
 泊
 對馬
 而
 大哭、
 到
 筑紫
 亦
 大哭、
 泊于
 難波津
 則
 皆
 素服之、
 悉捧
 御調
 且
 張
 種々樂器、
 自
 難波
 至
 于
 京、
 或
 哭泣
 或
 儛歌、
 遂
 參會
 於
 殯宮也。
 冬十一月、
 新羅
 弔使等、
 喪禮
 既
 闋
 而
 還之。
 爰
 新羅人
 恆愛
 京城
 傍
 耳成山・・・・
 ・
 畝傍山、・・・
 則
 到
 琴引坂、
 顧之曰
 「宇泥竎巴椰、
  彌々巴椰。」
 是
 未習
 風俗
 之
 言語、
 故
 訛
 畝傍山・・・
 謂
 宇泥竎、・・
 訛
 耳成山・・・
 謂
 瀰々耳。・・
 時、
 倭飼部、
 從
 新羅人
 聞
 是辭
 而
 疑之以爲、
 新羅人
 通
 采女耳、
 乃
 返之
 啓于
 大泊瀬皇子。
 皇子
 則
 悉禁固
 新羅使者
 而推問、
 時
 新羅使者
 啓之曰
 「無犯采女
  唯
  愛京
  傍之
  兩山
  而
  言
  耳。」
 則
 知
 虛言、
 皆原之。
 於
 是
 新羅人
 大恨、
 更
 減
 貢上
 之
 物色
 及
 船數。
 冬十月庚午朔己卯、
 葬
 天皇
 於
 河內
 長野原陵。
ーーーーー
 ↓↑
 大和三山
 畝傍山(うねびやま)
  ↓
 「畝」=せ・うねる・ホウ・ボ
     亠(トウ・ズ)+田(た・デン)
             +
             久(ひさしい・キュウ)
     亠(なべぶた・音の略字→おと・おん・ね)
             田=囗(くに・コク)
               +
               十(とう・ジュウ)
 「傍」=かたわら・そぼ・ボウ・ホウ
     イ(人・イ)+旁(かたわら・ボウ)
       旁=亠+八+冖+方
 「山」=やま・サン・ザン
     |(ぼう・コン)+凵(くぼむ・あな
                カン・コン)
  ↓
 畝=トウデンキュウ→東伝究(求)・唐伝求(究)
 傍=ジンボウ→人望・神保・訊氓(流民)・尋虻
 山=サンカン→三巻・三韓・纂刊・残痕
  ↓
 かつては
 「畝火山」は、
 「雲根火山」、・・・・ウンコン火山
 「宇禰縻夜摩」・・・・ウネビ山
            宇=のき・いえ・そら
              ウ
            禰=みたまや・おたまや
              ネ・デイ
            縻=きづな・つなぐ
              ビ・ミ
              類字は
              「靡(なびく)」
              邪靡堆→堆→小碓
              則
              魏志
              所謂
              邪馬臺者也
              隋書俀国伝
 とも記され、
 「慈明寺山」、・・・・ジメイジサン
 「御峯山」・・・・・・オンホウサン
 などと呼ばれることもあった
 万葉集の中では
 「瑞山(みずやま)」・・・ズイザン・スイサン
             瑞=たま・しるし・みず
             瑞皐=高野長英
             瑞典=スエーデン
             瑞西=スイス
 とも
 詠まれた
  ↓
 畝傍=「火がうねる」
    田の畝のように
    くねくねした尾根を多く持つことから
 瀬戸内火山帯に属し
 古代人がこの山を火山と認識していた・・・
 頂上近くの緩い傾斜面部分は、
 黒雲-母安山岩から形成
 柘榴(石榴・ざくろ)石・・・
 黒-雲母-流紋岩・・・・・・・
 の
 流離構造を示す
 貫入岩も存在
 釣鐘型・・・・・・・・・・
 の火山のような
 山容を持つが、
 第三紀に噴出した
 火山岩が侵食されて、
 その一部のみが残存した
 侵食地形である。
 噴火時の大きさは
 現在の2倍以上であった・・・
 中腹以下の部分は
 片麻岩・・・・・・・・・・
 で形成
 江戸時代より以前
 山に70以上もの寺院があった・・・
 現代でも西麓には
 曹洞宗慈明寺が残る。
  ↓↑
 明治に入ってから、
 国は
 神武天皇
 宮(畝傍橿原宮)があったとされる
 畝傍山の麓に
 橿原神宮を興し、
 それまで
 多武峰
 で
 奉斎してきた
 神武天皇
 「御霊」を移した
  ↓
 付近には
 藤原京跡、
 飛鳥京
 などの
 都城跡や古墳群がある。
 万葉集
 「思ひあまり
  甚(いた)もすべ無み
  玉だすき
  畝火の山に
  われは
  標(しめ)結ふ (巻7-1335)・作者不詳」
  ↓↑
 天香久山
 天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)
 香久山、香具山(かぐやま)
 三山の中では標高は
 2番目
 他の二山が
 単独峰であることに比して
 多武峰から続く
 竜門山地の端にあたる
  ↓↑
 太古の時代
 多武峰から続く山裾の部分
 その後の
 浸食作用で失われなかった
 残り部分といわれている。
 小高い丘
 古代から
 「天」という尊称が付く
 天から山が
 2つに分かれて落ち、
 1つが伊予国愛媛県
 「天山(あめやま)」となり
 1つが大和国
 「天加具山」になったと
 『伊予国風土記逸文に記録
 藤原京の東にある
 山頂からは畝傍山を望むことができる
 山頂には
 國常立命を祭神とする
 國常立(くにとこたち)神社
 小さな祠のうちの1つには
 高靇神が祀られている。
 北麓には
 櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)を
 祭神とする
 天香山(あまのかぐやま)神社
 南麓には
 天照大神
 岩戸隠れの伝承地とされる
 岩穴や巨石を神体とした
 天岩戸(あまのいわと)神社がある
  ↓↑
 「天」を含む
 「天香久山
 と
 「天香具山」、
 および
 「天」を含まない
 「香久山」
 と
 「香具山」
 の各表記があるが、
 国土地理院の地図では
 「天香久山
  ↓↑
 この山は
 万葉集
 単独で
 9首
  ↓↑
 舒明天皇の歌
 「大和には
  群山あれど
  とりよろふ
  天の香具山
  登り立ち
  国見をすれば
  国原は
  煙り立ち立つ
  海原は
  かまめ立ち立つ
  うまし国ぞ
  あきづ島
  大和の国は (巻1-2)」
 原文
 「山常庭
  村山有等取
  與呂布
  天乃香具山
  騰立
  國見乎為者
  國原波
  煙立龍
  海原波
  加萬目立多都
  怜𪫧國曽
  蜻嶋
  八間跡能國者」
  ↓↑
 中大兄皇子の歌
 「香具山は
  畝傍を
  をしと
  耳梨と
  相争ひき
  神代より
  かくにあるらし
  古(いにしへ)も
  然(しか)にあれこそ
  うつせみも
  妻をあらそふ
  らしき (巻1-13)」
 原文
 「高山波
  雲根火雄
  男志等
  耳梨與
  相諍競伎
  神代従
  如此尓有良之
  古昔母
  然尓有許曽
  虚蝉毛
  嬬乎相挌
  良思吉」
  ↓↑
 持統天皇の歌
 「春過ぎて
  夏来たるらし
  白たへの
  衣干したり
  天香具山 (巻1-28)」
  ↓↑
 大伴旅人の歌
 「わすれ草
  わが紐に付く
  香具山の
  故(ふ)りにし里を
  忘れむがため (巻3-334)」
  ↓↑
 作者不詳
 「いにしへの
  事は知らぬを
  われ見ても
  久しくなりぬ
  天の香具山 (巻7-1096)」
  ↓↑
 柿本人麻呂の歌
 「久方の
  天の香具山
  このゆふべ
  霞たなびく
  春立つらしも (巻10-1812)」
  ↓↑
 膳(かしわで)氏の・・・高橋膳部
 本拠地にして、
  ↓↑
 聖徳太子妃、
 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)
 の生家
 山の
 北の地名は
 膳夫町(かしわてちょう)・・・
ーーーーー
 ・・・