1767日目・・・似ているモノは「双子」で、幾何学では「相似」である・・・人物は違うが「天若日子=あめノわかヒコ)=天稚彦」と「阿遅鋤高日子根神=あじすきたかひこねノかみ=味耜高彦根神」の似ている友達同志のハナシ・・・兄弟でもないのに「瓜二つ」であった。同士の裏切りは何をいみするのか?・・・それに「天照大御神」と「下照姫(下光姫・高姫)」は対語の「天と下」である「天照」、「下照」・・・ナゼ、「天と地」の「天照」、「地照」としなかったんだろう。

 「天照大御神」は別記で「大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)」、「大日女尊(おおひるめのみこと)」、「大日霊(おおひるめ)」、「大日女(おおひめ)」、「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」である。同一人物(神・かみ)だが、漢字表記は別漢字である。「万葉仮名」的に「漢字音」を採り「表記」した。「音」だけで「同一人物だと理解してくれ」って・・・比較する同一内容の書物がなければムリかも・・・
 「天照大御神」の弟(おとうと・おと・で・ダイ)が「月夜見尊月読命」で性別不詳だが記録からは女性だろう。もう一人の弟は「須佐之男=建素戔嗚尊=速素戔男尊素戔嗚尊」で「男」であるが、この別表記の漢字から同一人物かどうかを理解するのには、それなりの知識としての「既知」が無ければムリである・・・
 「音と文字」の関係からはドウか・・・文明の初源、始源を時間的に考えれば「第一に音声ありき」である。そして「第二に文字の発明」である。「コトバありき」とは「音声ありき」であった。
 だが、日本の「文字文化の輸入」は「渡来人・帰化人」の「存在」だった。彼らは「既に漢字文字の知識」を知っていて「日本人の発声言語」と接したのである。
 それらの「漢字知識を日本語に翻訳」したのが「訓読」である・・・「訓読」は「日本語発声音の概念・本質・範疇・カテゴリー」である。
 「渡来人・帰化人」には「第一に文字知識ありき」であったのだ。そして「漢字文字」を「日本語に音声化」したのである・・・漢字の「同音異字漢字」は多数あり、言語数に乏しかった「日本語」には、その日本語音声の意味する漢字を選択して使用するのは簡単だった・・・
 「万葉仮名」は「漢字」である。当然、「漢字の意味内容」も「同音」として採ったのである。だからこそ「独自の日本文学」は「同音異字漢字のアソビ」として発展してきた・・・
 「和歌」は「同音異字漢字」の「複数の意味」を「掛けコトバ」として「文明、文化」されてきたのである。
 そして、当然にも「アルファベットの横文字」も「片仮名」にしてしまった。その「片仮名」を更に「漢字化」して「日本語として意味化」したのである・・・「究理=キュウリ=胡瓜・窮理」である・・・カナ。
ーーーーー
 天稚彦(あめわかひこ)=天若日子
 テンチガン      テンジャクヒシ
 ↓↑  若=わかい・もし・もしくは・ごとし・if
 ↓↑    ジャク・ニャク・ニャ
 ↓↑    若年・若輩
 ↓↑    〜の ようだ・ごとし
 ↓↑    傍若無人
 ↓↑    形容の語を作る助字
 ↓↑    自若・瞠若 
 豊葦原(とよあしはら)の
 ホウロゲン
 千秋長五百秋(ながいおあき)の
 センシュウチョウゴヒャクシュウ
 水穂國へ
 スイホコク
 第一次に派遣した
 天照大御神
 第二子
 天之菩卑能命天穂日命=天菩比神
 天菩比神(あめのほひのみこと)からは、
 テンホヒジン
 三年が過ぎても、
 連絡が無し
 迎えに遣った
 武三熊之大人(たけみくまのおとな)からも、
 ブサンユウシダイジン
 報告なし
  ↓
 天菩比神(天穂日命)の
 地上への
 第一次派遣が失敗
  ↓
 高皇産霊(たかみむすひ)尊=高御産巣日神=高木神
 コウコウサンレイ         コウボクジン
 高御産巣日神
 コウオンサンスヒジン
 と
 天照大神
 テンショウダイジン
 第二次派遣として
 高御産巣日神の子である
 思金神(おもひかねのかみ)の提案で
 シキンジン
  ↓
 伊耶那美の嘔吐物から生まれた
 金山彦の子である
 天津国玉(あまつくにたま)神の子の
 テンシンコクギョクジン
 (伊耶那美→金山彦→天津国玉→天若日子
  ↓
 天若日子天稚彦
 テンジャクヒコ
 に
 天之麻迦古弓
 テンシマカコキュウ
 と
 天之波波矢
 テンシハハヤ
 を与え
  ↓
 葦原中国(あしはらのなかつくに)征討に
 第二次として派遣
  ↓
 だが
 大国主神
 ダイコクシュジン
 と
 胸形(むなかた)の
 キョウケイ
 奥津宮(おきつみや)の神、
 オウシンキュウ
 多紀理毘賣命(田霧姫命)
 タキリビバイメイ(デンムヒメイ)
 との
 間に生まれた
 阿遅鋤高日子根神の妹
 アチジョコウヒシコンジン
 の
 下照姫(したてるひめ
 ゲショウヒ
     亦の名は
     下光比賣命)
     ゲコウヒバイメイ
 と
 結婚し
 八年(やとせ)も
 復命しないので,
  ↓
 雉(きざし・きじ・きぎし・きぎす
   チ
   名は
   鳴女(なきめ・ななきめ)
   「メイ・ミョウ・ミャウ」のジョ
 が派遣され、
 これに詰問されたが
 天佐具賣(あめのさぐめ)
 テンサグバイ
 に唆された
 天若日子天稚彦)は
 雉を射殺
 雉が帰らなかったことから、
 雉之頓使(きぎしのひたづかひ・記事の頓詞?)
 チシトンシ
 という
  ↓
 新嘗(にいなめ)祭をしていたとき
 シンショウサイ・・・臥薪嘗胆の(歳・差異)
 その矢が
 高天原に到達し
 コウテンゲン
 なげかえされ
 天稚彦天若日子)は
 それに
 中(あた)って
 死んだ・・・カミの子も死ぬ?
  ↓
 葬儀のとき
 訪ねてきた
 味耜高彦根神(あじすきたかひこねノかみ)
 ミシコウゲンコンジン
 が
 似ていたため
 天稚彦
 が生き返ったものと
 父の
 天津国玉に勘違いされる・・・
  ↓↑
 天にいた
 天若日子の父や母が、
 地上に降りて来、
 息子の死を悲しみ、
 その地に
 喪屋(もや)を作って、
 八日八夜にわたって弔った
  ↓↑
 その場にいた
 阿遅志貴高日子根神が、
 天若日子にも似ていたことから、
 天津国玉が
 我が子と勘違いして
 手足に取り縋って泣いた。
  ↓↑
 間違えられた
 阿遅志貴高日子根神は、
 怒って、
 穢(よご)れた
 死人と比べるなと言って、
 十掬劔(とつかのつるぎ)を抜いて、
 その喪屋(もや)を斬り伏せて、
 さらに
 足で蹴飛ばした。
 これが
 美濃國(みののくに)の
 藍見河(あゐみがわ)の・・・・岐阜県
               武儀郡
               江戸時代末期の
               地域は天領
               1889年(明治22年)
               七月一日
               笠神村、極楽寺村、横越村
               が合併し、
               藍見村
 河上にある
 喪山(もやま)である
 喪屋を斬った大刀の名は
 大量(おほはかり)、
 またの名は
 神度劔(かむどのつるぎ)・・・
 ・・・喪山を
    美濃國(みののくに)の
    藍見河(あゐみがわ)のほとりに
    蹴飛ばした
   「阿遅鋤高日子根神
    味耜高彦根神
    阿治志貴高日子根」の
    妹の
   「高比賣命」が兄の
   「思顯」を
    誇らかに歌ったのが
   「夷振(ひなぶり)」・・・
  ↓
 古事記原文
  ↓
 爾高御產巢日藭・天照大御藭之命以、
 於天安河之河原、藭集八百萬藭集而、
 思金藭令思而詔
 「此葦原中國者、我御子之所知國、
  言依所賜之國也。
  故、
  以爲於此國
  道
  速振
  荒振國藭等之多在。
  是使何藭而、將言趣。」
 爾思金藭及八百萬藭、
 議白之
 「天菩比藭、是可遣。」
 故、
 遣天菩比藭者、
 乃媚附大國主藭、
 至于三年、不復奏。
 是以、
 高御產巢日藭・天照大御藭、
 亦問諸藭等
 「所遣
  葦原中國
  之
  天菩比藭、
  久不復奏。亦使何藭之吉。」
 爾思金藭
 答白
 「可遣天津國玉藭之子、天若日子。」
 故爾、
 以
 天之麻迦古弓
 (自麻下三字以音)
 天之波波
 (此二字以音)
 矢、
 賜
 天若日子
 而遣。
 於是、天若日子、降到其國、
 卽
 娶
 大國主藭之女、
 下照比賣、
 亦
 慮獲其國、
 至于八年、不復奏。
 故爾、
 天照大御藭・高御產巢日藭、
 亦問諸藭等
 「天若日子、久不復奏。
  又
  遣曷藭以問
  天若日子
  之
  淹留所由。」
  於是諸藭及思金藭、
 答白
 「可遣
  雉
  名
  鳴女」
 時、詔之
 「汝、
  行問
  天若日子狀者、
  汝所以使
  葦原中國者、
  言趣和
  其國
  之
  荒振藭等之者也、
  何至于
  八年不復奏。」
 故爾
 鳴女、自天降到、
 居
 天若日子
 之
 門湯津楓上而、
 言委曲如
 天藭之詔命。
 爾
 天佐具賣(此三字以音)
 聞此鳥言而、
 語
 天若日子
 「此鳥者、其鳴音甚惡。故、可射殺。」
 云進、卽
 天若日子
 持
 天藭所
 賜
 天之波士弓
 ・
 天之加久矢、
 射殺其雉。
 爾
 其矢、
 自雉胸通而、
 逆射上、
 逮坐
 天安河之河原、
 天照大御藭
 ・
 高木藭之
 御所。
 是
 高木藭者、高御產巢日藭
 之
 別名。
 故、
 高木藭、取其矢見者、血著其矢羽。
 於是、
 高木藭告之
 「此矢者、
  所
  賜
  天若日子
  之矢。」
 卽示諸藭等、
 詔者
 「或天若日子、不誤命、
  爲射
  惡藭之矢之至者、
  不中
  天若日子
  或有邪心者、
  天若日子
  於此矢
  麻賀禮(此三字以音)。」
 云而、
 取其矢、
 自其矢
 穴衝返下者、
 中
 天若日子
 寢朝床
 之
 高胸坂
 以死。
 此
 還矢
 之
 本也。
 亦其
 雉
 不還、
 故於
 今諺曰
 「雉之頓使」
 是也。
 故、
 天若日子之妻・下照比賣之哭聲、與風響到天。
 於是在天、
 天若日子之父
 ・
 天津國玉藭、
 及
 其
 妻子聞而、
 降來哭悲、
 乃於其處
 作
 喪屋而、
 河雁爲岐佐理持(自岐下三字以音)、
 鷺 爲掃持、
 翠鳥爲御食人、
 雀 爲碓女、
 雉 爲哭女、
 如此行定而、
 日
 八日
 夜
 八夜
 遊也。
 此時、
 阿遲志貴高日子根藭
 (自阿下四字以音)
 到而、弔
 天若日子
 之喪時、
 自天降到
 天若日子之父、
 亦其
 妻、
 皆哭云
 「我子者
  不死有祁理。(此二字以音)、下效此。」
 「我君者
  不死坐祁理。」
 云、
 取懸
 手足而哭悲也。其過所以者、
 此二柱藭之容姿、甚能相似、故是以過也。
 於是
 阿遲志貴高日子根藭、
 大怒曰
 「我者
  愛友
  故
  弔來耳。
  何
  吾比
  穢死人。」
 云而、
 拔所
 御佩之十掬劒、
 切伏
 其
 喪屋、
 以
 足蹶離遣。
 此者
 在
 美濃國
 藍見河之河上、
 喪山
 之者也。
 其持所切
 大刀名、
 謂
 大量、
 亦名
 謂
 藭度劒。(度字以音)。
 故、
 阿治志貴高日子根藭者、
 忿而飛去之時、
 ↓
 其
 伊呂
 妹
 高比賣命、・・・妹の
         高比賣命(たかひめみこと)
         またの名は
         下光比賣命(したてるひめのみこと)
         兄は
         阿遅鋤高日子根藭=鉏高日子根藭
                  迦毛大御藭
               (かものおほみかみ)
 思顯
 其
 御名、
 故
 歌曰、
 ↓↑
 阿米那流夜 淤登多那婆多能
 あめなるや おとたなばたの→亜米名留也
               音多名葉他埜
 宇那賀世流 多麻能美須麻流
 うながせる たまのみすまる→有名臥施留
 促がせる          多真之見諏間留
 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 →見素真留似
 みすまるに あなだまはや  亜名拿万葉也
 美多邇   布多和多良須 →見他似
 みたに   ふたわたらす  二渡らす
       蓋=亠(なべぶた冠)=「音」の略字
 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也
 あじしきたか ひこねのかびそや
 亜字史記多寡 比虚音廼歌美素也
 此歌者、
 夷振(ひなぶり)→比名振理
 イシン・・・・・維新・異心・遺臣・以心
         医診・威信
 也。
 (天なるや 弟棚機の 項(うな)がせる
  玉の御統(みすまる)
  御統に
  穴玉はや
  み谷
  二渡らす
  阿治志貴高
  日子根の神ぞ)・・・?・・・岩波解釈
 「天上にいる機織女が首に掛けている玉の首飾り
  首飾りの穴の開いた玉のように、
  谷二つに渡っているのは
  阿治志貴高日子根藭である」・・・?
   ↓↑
 「日本書紀
   ↓↑
 時
 味耜高彦根神
 光儀華艶映
 于(まわる・迂回)
 二丘
 二谷
 之間。
 故
 喪會者
 歌之曰。
 或云。
 味耜高彦根神
 之妹
 下照媛。・・・別名は「高姫・下照」
 欲令
 衆人
 知
 映
 丘谷者。
 是
 味耜高彦根神
 故
 歌之曰。
 阿妹奈屢夜 乙登多奈婆多廼
 あめなるや おとたなばたの
 汚奈餓勢屢 多磨廼彌素磨屢廼
 うながせる たまのみすまるの
 阿奈陀磨波夜 彌多爾
 あなだまはや みたに
 輔柁和柁邏須 阿泥素企多伽避顧禰
 ふたわたらす あにそきたかひこね
 又歌之曰、
 阿磨佐箇屢 避奈菟謎廼
 あまさかる ひなとめの
 以和多邏素西渡 以嗣箇播箇柁輔智
 いわたらそせと いしかはかだふち
 箇多輔智爾 阿彌播利和柁嗣
 かたふちに あやはりわだし
 妹慮豫嗣爾 豫嗣豫利據禰→據=拠
 めしよしに よしよりこね
 以
 嗣箇播箇柁輔智
 しかはかだふち
 此
 兩首歌辭、
 今號
 夷曲。
 イキョク
  ↓↑
ーーーーー
 旧約聖書
 サムエル記
 撒母耳 記(下)
 ↓
第2章
2:1
この後、ダビデは主に問うて言った、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は
 ユダ
 の一つの町に
 上るべきでしょうか」。
主は彼に言われた、
「上りなさい」。
ダビデは言った、
「どこへ上るべきでしょうか」。
主は言われた、
ヘブロンへ」。
2:2
そこで
ダビデはその所へ上った。
彼の
二人(ふたり)の妻、
エズレル
の女
アヒノアム
と、
カルメル
びと
ナバル

妻であった
アビガイル
も上った。
2:3
ダビデ
また
自分と共にいた人々を、
皆その家族と共に連れて上った。
そして
彼らは
ヘブロン
の町々に住んだ。
2:4
時に
ユダの人々がきて、
その所で
ダビデに油を注ぎ、
ユダ



王とした。
人々が
ダビデに告げて、
「サウルを
 葬ったのは
 ヤベシ
 ・
 ギレアデ
 の人々である」
と言ったので、
2:5
ダビデは使者を
ヤベシ

ギレアデ

人々に
つかわして
彼らに言った、
「彼方(あなた・貴方)がたは、
 主君
 サウル
 にこの
 忠誠を
 あらわして
 彼を葬った。
 どうぞ
 主が彼方(あなた・貴方)がたを
 祝福されるように。
2:6
 どうぞ
 主が
 いま
 彼方(あなた・貴方)がたに、
 慈(いつく・愛・ジ)しみ
 と
 真実を示されるように。
 彼方(あなた・貴方)がたが、
 この事をしたので、
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)も
 また
 彼方(あなた・貴方)がたに
 好意を示すであろう。
2:7
 今
 彼方(あなた・貴方)がたは
 手を強くし、
 雄々しくあれ。
 彼方(あなた・貴方)がたの
 主君
 サウル
 は
 死に、
 ユダ
 の
 家が
 私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
 油を注いで、
 彼らの
 王としたからである」。
2:8
さて
サウルの軍の長、
ネル
の子
アブネル
は、
さきに
サウルの子
イシボセテ
を取り、
マハナイム
に連れて渡り、
2:9
彼を
ギレアデ、
アシュル
びと、
エズレル、
エフライム、
ベニヤミン
および
イスラエル


とした。
2:10
サウルの子
イシボセテ

イスラエル


となった時、
四十歳
であって、
二年の間、
世を治めたが、
ユダの家は
ダビデ
に従った。
2:11
ダビデ
ヘブロン
にいて
ユダの家の
王であった
日数は
七年

六か月
であった。
2:12
ネル
の子
アブネル、
および
サウルの子
イシボセテ
の家来たちは
マハナイム
を出て
ギベオン
へ行った。
2:13
ゼルヤ
の子
ヨアブ

ダビデの家来たちも出ていって、
ギベオン



そば
で彼らと出会い、
一方は
池のこちら側に、
一方は
池のあちら側に
すわった。
2:14
アブネル

ヨアブ
に言った、
「さあ、
 若者(わかもの・ジャクシャ)たちを
 立たせて、
 我々(われわれ・ガガ)の前で
 勝負をさせよう」。
ヨアブ
は言った、
「彼らを立たせよう」。
2:15
こうして
サウルの子
イシボセテ

ベニヤミン
びととのために
十二人、
および
ダビデの家来たち
十二人
を数えて出した。
彼らは立って進み、
2:16
おのおの
相手の
頭を捕え、
剣(つるぎ・ケン)を
相手の
脇腹(わきばら)

刺し、
こうして
彼らは
共に倒れた。
それゆえ、
その所は
ヘルカテ

ハヅリム
と呼ばれた。
それは
ギベオン
にある。
2:17
その日、
戦いは
非常(ひじょう)に
激しく、
アブネル

イスラエルの人々は
ダビデ

家来たちの前に
敗れた。
2:18
その所に
ゼルヤ

三人の子、
ヨアブ、
アビシャイ、
および
アサヘル
がいたが、
アサヘル



早いこと、
野の
カモ鹿(しか・ロク)
のようであった。
2:19
アサヘル

アブネル

後(あと・のち・ゴ)

追っていったが、
行(い・ギョウ・コウ・アン)くのに
右にも
左にも
曲ることなく、
アブネル
のあとに走った。
2:20
アブネル

後を
振向(ふりむ)いて言った、
「彼方(あなた・貴方)は
 アサヘル
 であったか」。
アサヘル
は答えた、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)です」。
2:21
アブネルは彼に言った、
「右か左に曲って、
 若者(わかもの・ジャクシャ)の
 ひとりを捕え、
 その
 よろいを奪いなさい」。
しかし
アサヘル

アブネル
を追うことを
止(や・とめ・シ)めず、
ほかに
向かおうともしなかった。
2:22
アブネル

再(ふたた)び
アサヘル
に言った、
「私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)を
追うことをやめて、
ほかに向かいなさい。
彼方(あなた・貴方)を


撃ち倒すことなど、
どうして
私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)に
できようか。
それをすれば、
私(わたし・わたくし・ヨコシマ・シ・ム)は、
どうして
彼方(あなた・貴方)の

ヨアブ



合わせる
ことが
できようか」。
2:23
それでも
なお
彼は、
ほかに
向かうことを
拒んだので、
アブネル
は、
槍(やり・ソウ)

石突きで
彼の腹を突いたので、
槍(やり・ソウ)は
その
背中(せなか・ハイチュウ)
に出た。
彼は
そこに倒れて、
その場で死んだ。
そして
アサヘル
が倒れて
死んでいる場所に来る者は
皆立ちとどまった。
2:24
しかし
ヨアブ

アビシャイ
とは、
なお
アブネル

あとを追ったが、
彼らが
ギベオン
の荒野の
道の
畔(ほとり・ハン・辺)、
ギア
の前にある
アンマ

山にきた時、
日は暮れた。
2:25
ベニヤミンの人々は
アブネル

あとについてきて、
集まり、
一隊となって、
一つの
山の頂に立った。
2:26
その時
アブネルは
ヨアブに呼ばわって言った、
「いつまでも
 剣(つるぎ・ケン)を
 もって
 滅ぼそうとするのか。
 彼方(あなた・貴方)は
 その結果の
 悲惨なのを知らないのか。
 いつまで
 民に
 その
 兄弟
 を
 追うことをやめよと
 命じないのか」。
2:27
ヨアブは言った、
「神は
 生きておられる。
 もし
 彼方(あなた・貴方)が
 言いださなかったならば、
 民は
 おのおの
 その
 兄弟を追わずに、
 朝のうちに
 去っていたであろう」。
2:28
こうして
ヨアブは
角笛

吹いたので、
民はみな立ちとどまって、
もはや
イスラエル
あとを追わず、
また
重ねて
戦わなかった。
2:29
アブネルとその従者たちは、
夜もすがら、
アラバ
を通って行き、
ヨルダン
を渡り、
昼まで
行進を続けて
マハナイム
に着いた。
2:30
ヨアブ

アブネル
を追うことをやめて帰り、
民をみな集めたが、
ダビデ
の家来たち
十九人

アサヘル
とが
見当らなかった。
2:31
しかし、
ダビデの家来たちは、
アブネルの従者である
ベニヤミンの人々
三百六十人

撃ち殺した。
2:32
人々は
アサヘル
を取り上げて
ベツレヘム
にある
その父の墓に葬った。
ヨアブ

その従者たちは、
夜もすがら行って、
夜明けに
ヘブロン
に着いた。
ーーーーー
 ・・・権力の有頂天・・・傍若無人・・・