1691日目・・・二人の「和帝(後漢と南朝の斉)」の記録の「数字」と「人名・地名・書名」等・・・以前にも書き込んだが・・・「和帝=倭帝」の「話(ワ・はなし)の綴(テイ・つづり)」・・・「明治人」の「文化文明」の「開化」の脳ミソの根拠を知るには「和国・倭国」を新生「日本」とする彼らの「コトバ」の探求、追求を知るコトである・・・しかし、彼らは単なる「反尚古主義」ではなく、「再生(蘇生)尚古主義」であった・・・「尚古」の「尚」の漢字の音を採れば「尚=なお=猶」である・・・「猶」とは「Judaea=猶太」にあて

ーーーーー
 和帝(わてい)
 後漢
 第四代皇帝・・・・・四
 諱は劉肇
 章帝の子(四男)・・四
 生母の梁貴人は
 章帝の皇后
 竇氏によって殺害
 章和二年・・・・・・二
 (88年)二月・・・88・二
 九歳で即位・・・・・九
 平原・・・・・・・・平と原(源)
 懐王・・・・・・・・懐の王
 劉勝、
 殤帝の父・・・・・殤(若死に)の帝
            わかじに=和歌字尼
                 話化事似
          殤(歹+𠂉+日+一+勿)=傷
         「16才〜19才までに死ぬのを長殤
          12才〜15才までに死ぬのを中殤
          8才〜11までに死ぬのを下殤
          7才以下で死ぬのを無服の殤
          生後3ヶ月未満で死ぬのは
          殤とは言わない(儀礼・喪服伝)」
         「二十未満で死ぬモノ(釈名・釈喪制)」
 幼少時は
 継母(ままはは・ケイボ)の
 竇太后と・・・・・「竇(トウ)」=穴の意・弊害の点
 竇憲ら・・・・・・憲法等の「弊害・穴」=ザル法
 竇一族の専横
 竇氏誅滅を計画し
 和帝は
 宦官の・・・・・・・宦の官・・・ヨセフ(Joseph)?
 鄭衆(ていしゅう)・・・鄭=酋+大+阝(邑)
               酋+長
               酋+犭=猶→猶太(ユダヤ
             鄭(かさねる
               ジョウ・ヂャゥ・テイ)
             ヨセフ、ユダの衆?
 の協力を得て
 実権を握る
 鄭衆は
 鄲郷侯に封じられ、
 大長秋・・・・・・・・大(一人)の長の秋(安芸)
 の官を授与された
  ↓↑
 和帝の時代人物
 蔡愔(?〜?)
 明帝時代
 郎中に任ぜられ、
 秦景らとともに
 仏法を求めて・・・・・ほとけ・仏蘭西の法?
 西域に・・・・・・・・西域
 天竺で・・・・・・・・天竺(典字句)
 摂摩騰
 竺法蘭・・・・・・・・竺(字句)の法は
            蘭(阿蘭陀・和蘭
 の
 二人の高僧に・・・・・二・高僧(構想・抗争)
 出会い、
 同道して帰国
 仏教が
 初めて中国に入った・・・中の国=長州
  ↓
 竇固(?〜88) ・・・・・88
 字は
 孟孫・・・・・・・・・タケルの孫
 扶風郡平陵の人・・・・扶風=風のタスケ→風聞の扶余
 竇融の子
 光武帝の娘
 涅陽公主を娶(めと)った・・・涅(氵日十一)の陽(阝+易)
 中元十五年(70)・・・・十五・70
 奉車都尉となり
 耿忠とともに・・・・・耿(耳+火)忠
 一万二千騎を率いて・・一万二千
 酒泉・・・・・・・・・酒(堺)・泉
 から出撃し、
 天山にいたり、・・・・天の山
 北匈奴
 呼衍王を討ち、・・・・呼衍(はびこる)
 千余の・・・・・・・・千余
 首級をえた・・・・・・首級(和歌の首のクラス)
 追撃して
 蒲類海にいたった
 翌年、
 玉門から出撃して、
 車師の匈奴を討った
 大鴻臚・光禄勲・衛尉を歴任
  ↓
 王充(27〜91) ・・・・・王充→木戸孝允
 字は仲任
 会稽郡・・・・・・・・会稽
 上虞の人
 家が貧しく書物が
 買えなかったため、
 市場の
 書肆の店頭の書を
 一読して記憶し、
 諸子百家の言に通じた・・・万能通訳?
 班彪に師事・・・・・・・・班の彪・師事(指示)
 のち郷里に帰り、
 会稽郡の各県の・・・・・・会稽(会計)
 功曹を歴任
 永平年間に官を退いて、
 弟子への教育と著述に専念
 「論衡」を著し、・・・・・論の衡
 鬼神や
 讖緯を否定する・・・・・・讖緯
 唯物論
 や
 命定論(宿命論)
 に基づく
 漢朝
 絶対を唱えた・・・?
  ↓
 竇憲(?〜92)
 字は伯度
 扶風郡平陵の人
 妹が
 章帝の皇后・・・・章帝(章綴)
 はじめ
 郎となり、
 侍中
 虎賁中郎将に遷った
 和帝が即位すると、
 皇太后
 垂簾政治のもと、
 朝政を専断
 車騎将軍
  ↓
 永元元年(89)
 軍を率いて北匈奴を討ち、
 稽落山で戦い、・・・・・稽落山(計等句算)
 追撃して
 和渠・・・・・・・和渠
 比鞮海にいたった
 捕虜
 二十余万人を得・・二十余万
 大将軍に任ぜられ、
 武陽侯に封ぜられた・・・武陽
 再び出撃して
 北匈奴を討ち、
 金微山にいたった
 匈奴を平らげた後、
 一門は顕位を占めた
 財産に貪欲で、
 民衆に苛斂誅求を加え、
 京師で横暴
 四年(92)・・・・・・・・四・92
 和帝と
 宦官の・・・・・・・・・宦官
 鄭衆の謀略により、・・・鄭衆
 竇氏一門は誅滅
 竇憲も自殺
  ↓
 班固(32〜92)・・・・・・班の固・32・92
 字は孟堅
 扶風郡安陵の人
 班彪の長男・・・・・・・班(まだら)の彪(ヒョウ)
 父の死後、父の撰による
 「史記後伝」の
 未完部分を補って
 完成させようとした
 国史
 私改していることを・・・私改
 告発され、
 獄に下されたが、
 弟の
 班超らの尽力で釈放
 蘭台令史に任ぜられ、・・蘭台の例の詞
 陳宗らとともに
 「世祖本紀」を撰
 郎に遷り、
 典校秘書となった・・・・典校の秘書
 およそ
 二十年をかけて・・・・・二十
 「漢書」を撰した
 賦をよくし、・・・・・・賦=貝+武
 「両都賦」・・・・・・・両通譜
 などをものした
 「白虎通義」を著・・・・白虎の通義
 永元元年(89)
 中護軍となり、
 竇憲の匈奴征討に参謀として従軍
 竇憲が失脚して自殺すると、
 投獄されて獄中で死亡
  ↓
 崔駰(?〜92)
 字は亭伯・・・・・・亭伯(碇泊・鄭伯)
 涿郡
 安平の人
 十三にして
 「詩経易経・春秋」
 および古今の
 「訓詁諸説」に通じた
 文章をよくして、
 「班固・傅毅」と
 ならび称された
 元和年間・・・・・・・元和(話)
 「四巡頌」を献上・・・四
 章帝にたたえられた
 外戚
 竇憲のもとで・・・・・竇の憲
 上客となり、掾属となり、
 しばしば
 竇憲の
 驕恣を諌(いさ)めた・・・驕の恣の諌
 竇憲が匈奴に対して出撃すると、
 軍の
 主簿・・・・・・・・・・・主簿
 をつとめた
 竇憲の
 不法の事数十を・・・・・・不法の事(字)数の十
 記して奏上
 長岑長に左遷・・・・・・・長の岑の長
 詩文二十一篇を作った・・・二十一
 「崔亭伯集」
  ↓
 賈逵(30〜101) ・・・・・・賈の逵・30・101
 右扶風郡平陵の人
 五経や左伝、
 穀梁に通じた
 永平年間に
 「春秋左氏伝解詁」
 「国語解詁」を撰
 郎に任ぜられ
 班固とともに
 同校秘書・・・・・・・・・同校(行)の秘書
 北宮および南宮で学問を講じた
 衛士令・左中郎将・侍中を歴任
  ↓
 班超(32?〜102) ・・・・・班の超・32・102
 字は仲昇
 扶風郡安陵の人
 班彪の次男・・・・・・・・次男
 班固の弟、・・・・・・・・弟(乙・音・出)
 班昭の兄・・・・・・・・・兄(経・景・桂)
 文人の家に生まれたが、
 文筆を嫌って軍人となった
 永平十六年(73)・・・・・・十六・73
 竇固の
 北匈奴遠征に従って功を挙げた
 竇固の命で西域に使いし、
 鄯善に赴いたとき、
 匈奴の使者が来あわせていた
 「虎穴に入らずんば虎児をえず」
 と言って三十六人の部下を率いて・・・三十六
 匈奴の宿舎を襲い、
 使者ら百三十人余を斬り殺して、・・・百三十人余
 鄯善を服属させた
 翌年、
 疎勒へ行き、・・・・・・疎の勒
 北匈奴が擁立した
 疎勒王を廃して、
 元の王子を復位させた
 北匈奴の力を背景に
 焉耆・亀慈・・・・・・・焉の耆・亀の慈
 が疎勒を攻めると、
 わずか千人の援兵で死守し、・・・千
 疎勒・于闐の兵を率いて、
 一旦背いた・・・・・・・・一の旦
 疎勒王も降伏させた
 のち
 西域都護に任ぜられ、
 都護府
 亀慈に置いた・・・・・・亀慈(キジ・記事)
 永元六年(94)
 亀慈・鄯善など
 八ヶ国の軍を率いて、
 焉耆を攻め、
 焉耆王を殺し
 定遠侯に上り、
 西域五十余国を従えた
 部下の
 甘英を・・・・・・甘の英
 大秦国・・・・・・羅馬
 への使者として派遣
 西域にとどまること
 三十一年・・・・・三十一
 「但だ生きて玉門関に入らんことを願う」
 と上書して聞き入れられ、
 永元十四年(102)八月に・・・十四・102・八
 洛陽に呼び戻された
 翌九月に病没・・・・・・・・九
  ↓
 甘英(?〜?) ・・・・・・甘の英
 西域都護・班超の部将
 班超の命をうけて・・・・班の超の命
 大秦国(ローマ)を目指し、
 パルティア(安息)を過ぎ、・・・安息
 条支国(シリア)に・・・・条支
 いたって引き返した
 彼によって
 西アジア地方の知識が
 漢朝にもたらされた
  ↓
 班昭(45?〜117?) ・・・・班の昭
 字は恵班
 一名に姫・・・一の名の姫(比・碑・秘)
 曹大家と尊称
 扶風郡安陵の人
 班彪の娘
 班固・班超の妹
 経史・天文・算数・・・経史・天文・算数
 に通じた
 十四歳で同郷の・・・・・十四
 曹寿(世叔)に嫁いだ
 数人の子女を生んだ・・・数人(数訊)
 永元四年(92)・・・・・・四・92
 和帝に召されて
 班固の「漢書」の
 続成を命じられ、
 馬融らとともに・・・・・馬の融
 「八表・天文志」・・・・八表・天文志
 を補い、完成
 蠟太后の信任が厚く、
 宮中での講学につとめた
 「女誡」を著して、・・・女の誡
 婦道を説いた
 永初七年(113)・・・・・七・113
 息子に随従して
 陳留郡長垣に向かい、
 「東征賦」に唱った
  ↓↓
 和帝 (南朝斉)
 和帝(わてい)
 南朝斉(南斉)
 第七代(最後の)皇帝
 明帝の八男
 488年(永明六年)・・・488・六
 西昌侯
 蕭鸞と
 劉恵端の父母に生まれた
 494年(建武元年)・・・494・建武
 隨郡王に封じられた
 496年(建武三年)・・・496・建武三年
 冠軍将軍
 領石頭戍軍事・・・・・領石・頭戍
   ↓↑
 和帝(わてい)=蕭宝融・・・蕭の宝の融
 南朝斉(南斉)の
 第七代(最後の)皇帝・・・・七
 明帝の八男・・・・・・・・・八
 499年(永元元年)・・・・・499・元
 南康王に改封
 西中郎将・・・・・・・・・・西の中
 荊州刺史に任じられて、
 江陵に駐屯
 宝融の
 同母兄の
 東昏侯・・・・東の昏(氏+日)=たそがれ
 蕭宝巻が
 帝位にあったが、・・・・・・帝位(綴意)
 人心は離反していた・・・・・人心(壬申・訊審)
 500年(永元二年)11月・・・500・二・11
 荊州長史の・・・・荊(茨・いばら)州の長の史
 蕭穎冑は
 雍州刺史の
 蕭衍を盟主とする・・・・蕭の衍(彳+氵+亍)
            「よもぎ(代模擬)」の
             エン・あまる・余分・余計 
 東昏侯打倒の起兵を計画し、
 宝融に迫って
 蕭衍を左将軍に、
 蕭穎冑を右将軍に任じさせた
 12月・・・・・・・・・12
 宣徳太后の令により、・宣の徳・太の后の令(例)
 宝融は・・・・・・・・宝の融(とける)
 宣城王・・・・・・・・宣城(宣欺・詮議)
 相国・荊州・・・・・・相馬・茨城
 牧を称した・・・・・・牧(まき・薪・巻)
 501年(永元三年)2月・・・501・三・2
 蕭衍が
 襄陽を出立して、東征
 同年(中興元年)3月・・・中の興の元・3
 宝融は
 江陵で帝位につく
 蕭穎冑を
 尚書令に、・・・・・・・尚の書の令(例)
 晋安王
 蕭宝義を
 司空に、
 廬陵王
 蕭宝源を
 車騎将軍に、
 建安王
 蕭宝寅を
 徐州刺史に、
 夏侯詳を・・・夏の侯の詳(言+羊)=くわしい
 中領軍に、
 蕭偉を
 雍州刺史に任じた
 兄の東昏侯は
 建康で皇帝を称していたが、
 涪陵王に貶めた
 12月
 東昏侯が殺害され、
 蕭衍率いる東征軍が
 建康城を平定
 蕭衍は皇太后の令により
 大司馬・・・・・・・・大の司の馬
 揚州刺史の任についた
 502年(中興二年)1月・・・502・中興・二・1
 和帝は
 蕭衍を
 相国・総百揆・揚州牧に任じ・・・総百揆
 梁公に封じた
 3月・・・・・・・・・・3
 蕭衍を梁王に進め
 同年(天監元年)4月・・天の監・4
 和帝による
 禅譲の詔が
 蕭衍のもとに届けられ、
 蕭衍が皇帝に即位し、
 梁が建国
 和帝は
 武帝
 蕭衍により
 巴陵王に封じられ、・・・・巴の陵の王
 姑熟に宮を構えたが、・・・姑の熟
 殺害された
ーーーーー
 旧約聖書
 創世記
 第48章
48:1
これらの事の後に、
「あなたの父は、いま病気です」

ヨセフに告げる者があったので、
彼はふたりの子、
マナセ

エフライムと
を連れて行った
48:2
時に人がヤコブに告げて、
「あなたの子
 ヨセフがあなたのもとにきました」
と言ったので、
イスラエルは努めて床の上にすわった
48:3
そしてヤコブはヨセフに言った、
「先に全能の神がカナンの地ルズで
 私(わたし・ム・よこしま)に現れ、
 私(わたし・ム・よこしま)を祝福して、
48:4
 言われた、
 『私(わたし・ム・よこしま)は
  おまえに多くの子を得させ、
  おまえをふやし、
  おまえを
  多くの
  国(くに・コク)民(たみ・ミン)としよう。
  また、
  この地を
  おまえの後の子孫に
  与えて永久の所有とさせる』
48:5
 エジプトにいる
 あなたの所に
 私(わたし・ム・よこしま)が来る前に、
 エジプトの国(くに・コク)で生れた
 あなたの
 ふたりの子は
 いま
 私(わたし・ム・よこしま)の子とします。
 すなわち
 エフライム
 と
 マナセ
 とは
 ルベン
 と
 シメオン
 と同じように
 私(わたし・ム・よこしま)の子とします
48:6
 ただし
 彼らの後に
 あなたに生れた子らは
 あなたのものとなります。
 しかし、
 その嗣業は
 その
 兄弟の名で
 呼ばれるでしょう
48:7
 私(わたし・ム・よこしま)が
 パダンから帰って来る途中
 ラケルはカナンの地で死に、
 私(わたし・ム・よこしま)は悲しんだ。
 そこは
 エフラタに行くまでには、
 なお隔たりがあった。
 私(わたし・ム・よこしま)は
 エフラタ、
 すなわち
 ベツレヘムへ行く道のかたわらに彼女を葬った」
48:8
ところで、
イスラエルはヨセフの子らを見て言った、
「これはだれですか」
48:9
ヨセフは父に言った、
「神がここで
 私(わたし・ム・よこしま)に
 くださった子どもです」。
父は言った、
「彼らを
 私(わたし・ム・よこしま)の所に連れてきて、
 私(わたし・ム・よこしま)に祝福させてください」
48:10
イスラエル
目は老齢のゆえに、
かすんで見えなかったが、
ヨセフが彼らを
父の所に近寄らせたので、
父は
彼らに
口づけし、
彼らを
抱いた
48:11
そして
イスラエルはヨセフに言った、
「あなたの顔が見られようとは
 思わなかったのに、
 神は
 あなたの子らをも
 私(わたし・ム・よこしま)に
 見させてくださった」
48:12
そこで
ヨセフは
彼らを
ヤコブ
ひざの間から取り出し、
地に伏して拝した
48:13
ヨセフは
エフライムを右の手に取って
イスラエルの左の手に向かわせ、
マナセを左の手に取って
イスラエルの右の手に向かわせ、
ふたりを近寄らせた
48:14
すると、
イスラエル
右の手を伸べて
弟エフライムの頭に置き、
左の手を
マナセの頭に置いた。
マナセは長子であるが、
ことさらそのように手を置いたのである
48:15
そしてヨセフを祝福して言った、
「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、
 生れてからきょうまで
 私(わたし・ム・よこしま)を養われた神、
48:16
 すべての災(わざわい・サイ)から
 私(わたし・ム・よこしま)を
 あがなわれたみ使よ、
 この子供たちを祝福してください。
 またわが名と
 先祖アブラハムとイサクの名とが、
 彼らによって唱えられますように、
 また彼らが
 地の上にふえひろがりますように」
48:17
ヨセフは
父が右の手を
エフライムの頭に置いているのを
見て不満に思い、
父の手を取って
エフライムの頭から
マナセの頭へ移そうとした
48:18
そして
ヨセフは父に言った、
「父よ、そうではありません。
 こちらが長子です。
 その頭に
 右の手を置いてください」
48:19
父は拒んで言った、
「わかっている。子よ、
 私(わたし・ム・よこしま)にはわかっている。
 彼もまた一つの民(たみ・ミン)となり、
 また大いなる者となるであろう。
 しかし
 弟は彼よりも大いなる者となり、
 その子孫は
 多くの国(くに・コク)民(たみ・ミン)
 となるであろう」
48:20
こうして
彼はこの日、
彼らを祝福して言った、
「あなたを指して、イスラエルは、
 人を祝福して言うであろう、
 『神があなたをエフライムのごとく、
  また
  マナセのごとくにせられるように』」。
このように、
彼は
エフライム

マナセ
の先に立てた
48:21
イスラエルはまた
ヨセフに言った、
「私(わたし・ム・よこしま)はやがて死にます。
しかし、
神はあなたがたと共におられて、
あなたがたを
先祖の国(くに・コク)に導き返されるであろう
48:22
なお
私(わたし・ム・よこしま)は
一つの分を
兄弟よりも
多くあなたに与える。
これは
私(わたし・ム・よこしま)が
つるぎ

弓とを持って
アモリびと
の手から取ったものである」
ーーーーー
 ・・・・