1689日目・・・「親孝行」とは・・・「自立」し、尚且つ「親の世話」が出来るような「余裕」を持てるようになること・・・TVの「ダーウインが来た」を観れば、生物界の「親子関係」の本質は「子育て」で、歴然のように思うのだが、「家族(親、子、兄弟姉妹、孫)」での「共同(協同)の相互扶助生活」も歴然のようだ。昆虫も、サカナも・・・「孝行」と特殊に呼ばれるコトバがある「人間界」では例外も多い・・・

 「親の気持ち」は親になってみないと解らないが・・・宗教対立とか、思想対立とか、人種対立とか、部族対立とか、キリストの時代以前も、以後も、敢て「汝の隣人を愛せ」であったのだから、「汝の隣人は身内の者のようには愛せなかった」のだ・・・そして、「身内の争い」は「人間界」にのみあるようだ。そう簡単には「子羊」にはなれない・・・「無目的(?)」にヒトをアヤメル奴もいる・・・
 「家畜」はいずれ喰われてしまうが、「餌」を与えてもらう限り、「狭い囲われている枠内」で、生きている間は「身内のトラブル」は起こさないだろう・・・
 ほとんどの子供達、知らないだろうな、牛が涙(泪・涕)を流すのを・・・家畜動物たちの「屠殺現場」を知らないで「美味しい肉」を食べている・・・動物園や水族館に生息している「生き物」は、子供たちに「愛」されているのか・・・TVで放映される野生動物の過酷な生き方を「子供達」は観させてもらっているのかな・・・
 いつまでも、アルと思うな「P & M」・・・
ーーーーー
 以下のスベテは「ウイッキペデア」の原文から抜粋参照、参考にしたモノ・・・
  ↓
 二十四孝(孝行)の人物
  ↓
 陸績
 六歳の時に
 袁術(えんじゅつ)
 という人の所に居た。
 袁術
 陸績のために、
 オヤツとして
 蜜柑を与えた。
 陸績はそれを
 三つ取って帰ろうとすると、
 袖から蜜柑がこぼれてしまった。
 袁術
 「陸績君は
  幼いのに
  泥棒のようなことをするのかね」
 と言ったところ、
 陸績は
 「あまりに
  見事な
  蜜柑なので、
  家に持ち帰って
  母に食べさせ、
  恩に報いようと思いました」
 と言った。
 袁術はこれを聞いて
 「幼いのに何という
  親孝行な子供であろうか、
  過去現在において稀な心がけである」
 と褒め称えた
 ・・・盗むことが「親孝行」とは思えないが、「親が飢えて餓死しようとする寸前」の条件があれば・・・しかし、「親」が食うかどうかは別である・・・小説「大地」では飢饉で難民となって「家族」が南下し、都市の貧困生活の中で子供の「盗んできた肉」に怒って泣いたのは「車夫」として働いていた父親の「王龍」だった。妻の「阿藍」は現実的で「肉は肉です」と云って「王龍」が路に捨てた「肉」を拾って、料理し、子供たちとそれを食べた・・・「王龍」は喰わなかった・・・
  ↓
 田眞兄弟
 田眞(でんしん)
 田廣(でんこう)
 田慶(でんけい)
 三兄弟は、
 親亡き後に
 財産を
 三等分したが、
 庭に
 大きく繁り
 花を咲かせた木があった。
 兄弟はこれも
 三等分しようと
 徹夜で考えた。
 夜が明けたので、
 木を切ろうと
 庭に出てみると、
 昨日まで繁っていた
 木が急に枯れていた。
 田眞はこれを見て
 「草木にまで心があって、
  切られようとして
  枯れたのであれば、
  人間ではなおさらである。
  なんと至らないことであっただろうか」
 と言い、切らずにおくと、
 木はまた元のように見事に繁った。
 ・・・「切るか切らないか」は「木(き)」に対する「その状況的な時のヒトの利用度」ではある。「無駄なコト」はしないのが原則だろう・・・「薪(まき)」するか、「建材(ケンザイ)」するか、「花見の木(き)」とするか・・・
  ↓
 剡子(ぜんし)
 彼には年老いた両親がおり、
 眼を患っていた。
 鹿の乳が
 眼の薬になると聞いた両親は、
 剡子に欲しいと願った。
 剡子は鹿の皮を身にまとい、
 鹿の群れに紛れて入った。
 そこへ猟師が
 本物の鹿と間違えて
 剡子を射ようとしたが、
 剡子が
 「私は本物の鹿ではありません。
  剡子と言いまして、
  親の願いを叶えたいと思い、
  こうやって
  鹿の格好をしているのです」
 と言うと、
 猟師は驚いてその訳を聞いた。
 孝行の志が篤いので射られずに帰り、
 親孝行をすることが出来た。
 ・・・「訳を訊く前」に猟師は「人間」であると確認していたならば「射らない」のが鉄則であるが、「戦争」ともなれば、「射る」だろう・・・「鹿(しか・ロク)の乳(ちち・ニュウ)」が「目(め・モク)の薬(くすり・ヤク)」になるだか、どうなんだか・・・「鹿鳴館」・・・蝦夷鹿が増えすぎて射殺され「鹿肉の缶詰」が売れているらしい・・・「鹿」は「王」であり、「神」だったのに・・・「バンビの肉」は「エキス」として大陸中国では売れているらしい・・・
  ↓
 蔡順(さいじゅん)
 王莽の時代
 天下は乱れ、
 また飢饉が訪れ、
 食べる物もなかった。
 蔡順は母のために
 桑の実を採り、
 熟していない物と
 熟した物に分けていた。
 その時、
 盗賊(赤眉の盗賊?)が現れ
 「何故桑の実を
  二つに分けるのか」
 と尋ねたところ、
 蔡順は
 「私には一人の母親がおりますが、
  熟した物は母親に、
  熟していない物は自分に
  と思っていたのです」
 と言った。
 盗賊も
 蔡順の
 孝行の心を知り、
 米と
 牛の足
 を与えて去って行った。
 蔡順はその
 米と
 牛の足も
 母親に与えた。
 ・・・「盗賊」には「余裕」があった・・・「親」もいた・・・
  ↓
 閔子騫(びんしけん)
 孔子の弟子の
 閔子騫(子騫は字・諱は損)は
 幼い時に母を亡くし、
 父が再婚して
 異母弟二人ができた。
 継母は
 実子二人を愛したが
 継子の閔子騫を憎んで、
 冬になると実子には
 綿入りの着物を与えたが、
 閔子騫には
 蘆の穂を入れた着物を与えた。
 閔子騫が寒さに凍えているのを見て、
 父が継母と離縁しようと言うと、
 閔子騫
 「母上が去られては、
  三人の子供は凍えます。
  私
  一人が凍えていれば、
  弟
  二人は暖かいので
  どうか
  離縁しないで下さい」
 と言った。
 継母はこれに感激し、
 以後は
 実母のように
 閔子騫を可愛がったという。
 ・・・「自己犠牲」以前に「父親の問題」ではあるナッ・・・一般的に「継母」は「継子いじめ」をするのは「サラ(アブラハムの妻)の時代」からアタリマエである・・・「イシュマエル(アブラハムと奴隷女ハガルの子)」を苛(虐・いじ)めた・・・「イスラム教徒」の母は「ハガル」であるらしい・・・「恨み」を払拭出来ない人間・・・
  ↓
 黄香(こうこう)
 彼は母を亡くし、
 残された父によく仕えた。
 夏の暑い時には
 枕や椅子を
 団扇で扇いで冷やし、
 冬の寒い時には
 布団が冷たいのを心配し、
 自分の身体で暖めた。
 これを知った
 安陵の太守
 劉讙(又は劉護)は、
 高札を立てて
 黄香の孝行を褒め称えた。
 ・・・この時代、「黄香」のような人物はいなかった・・・もちろん、クーラーも暖房機も無かった・・・
  ↓
 呉猛(ごもう)
 彼が
 八歳の時、
 家は貧しく、
 蚊帳を買う金もなかった。
 呉猛は考え、
 自分の着物を親に着せ、
 自分は
 裸になって蚊に刺された。
 それを毎日続けると、
 蚊も呉猛だけを刺し、
 親を刺すことはなくなったと言う。
 ・・・「酒を彼の身体に振り撒いた(?)のハナシ」がココにはないが、「福沢諭吉」には同感である・・・むかし、絵本で「福沢諭吉」が父のために、酒屋に酒を買いに行ったハナシを読んだコトがあるが・・・頬かむりしてか、どうかは記憶が定かでない・・・
  ↓
 楊香(ようこう)
 彼には一人の父がいた。
 ある時、
 父と山に行った際に
 虎が躍り出て、
 今にも
 二人を食べようとした。
 楊香は虎が去るように願ったが
 叶わないと知ると、
 父が食べられないように
 「天の神よ、
  どうか
  私だけを食べて、
  父は助けて下さいませ」
 と懸命に願ったところ、
 それまで猛り狂っていた
 虎が
 尻尾を巻いて逃げてしまい、
 父子共に命が助かった。
 ・・・作りハナシか、虎が「飢え」ていなかったか、「不味い」と思ったか、それとも、虎には状況的なそこから離れる事情があったのか・・・虎に訊いてみないコトにはネッ・・・「尻の尾を巻いて逃げた」か、どうかは「本居宣長」に訊いてみたい・・・
  ↓
 張孝兄弟
 張孝(ちょうこう)
 張禮(ちょうれい)の兄弟は、
 飢饉の時に
 八〇歳を超えた母を養っていた。
 木(き・モク)の実(み・ジツ)を
 拾いに
 行ったところ、
 盗賊が現れて
 張禮を食おうとした。
 張禮は
 「私には一人の年老いた母親がいます。
  今日はまだ母が食事をしていないので、
  少しだけ時間を下さい。
  母に食事をさせればすぐに戻って来ます。
  もしこの約束を破れば、
  家に来て
  一家もろとも殺して下さい」
 と言って、
 母親の食事を済ませて
 盗賊の所に戻って来た。
 張孝はこれを聞き、
 走って盗賊の所に行って
 「私の方が弟より太っています。
  私を食べて、
  弟を助けて下さい」
 と言う。
 張禮は
 「これは
  最初の約束なので、
  私が食べられます」
 と言って死を争った。
 それを見た
 非道な盗賊も
 兄弟の孝行心に打たれ、
 このような兄弟は見たことがないと
 二人の命を助け、
 さらに
 沢山の
 米と塩を与えた。
 兄弟はそれらを持って帰り、
 さらに孝行を尽くした。
 ・・・「非道な盗賊」の「心情の方」をカタルべきだろう・・・
  ↓
 丁蘭(ていらん)
 丁蘭の母が亡くなると、
 丁蘭はその死を悲しみ、
 母の
 木像を作って
 生きている時のように尽くした。
 丁蘭の妻がある夜、
 母の木像の
 顔を火で焦がしてしまうと、
 木像は腫れて血が流れ、
 二日経つと
 妻の髪の毛が
 全てなくなってしまった。
 妻は
 何度も詫びをするが
 一向に変わらないので、
 丁蘭は驚いて
 木像を大通りに移し、
 妻に
 三年間詫びをさせた。
 すると、
 一夜のうちに
 風雨の音がして、
 木像は元の場所に戻ったと言う。
 ・・・「夫の問題」であるだろうが、「妻の脱毛」は彼女の無意識の「深層心理」であるだろうカモ・・・それで、その後、「妻の脱毛」はどうなったんだろう・・・「盗んだ仏像」はどうするつもりなんだ・・・「文化財」なのか、「金になる骨董品」なのか・・・
  ↓
 王裒(おうほう)の父
 王義(おうぎ)が
 時の皇帝の怒りに触れて、
 罪も無いのに亡くなった。
 王裒はこれを恨み、
 皇帝の居る方角には
 決して向かないで座った。
 王裒は
 父の墓の前で礼拝し、
 傍らにあった
 柏の木にすがって泣き続けたために、
 柏の木は枯れてしまうほどであった。
 母は雷が怖い人であったが、
 その死後も雷が鳴ると、
 王裒は母の墓に急ぎ行った。
 死後の孝行もこれほどであるから、
 生前の孝行は計り知れないであろう。
 ・・・「墓前礼拝」は当たり前だが、「生前の孝行」は「?」である・・・「親離れが出来ない男のハナシ」かも?・・・
  ↓
 王祥(おうしょう)
 彼は母を亡くした。
 父は後妻をもらい、
 王祥は
 継母からひどい扱いを受けたが
 恨みに思わず、
 継母にも大変孝行をした。
 実母が健在の折、
 冬の極寒の際に
 魚が食べたいと言い、
 王祥は河に行った。
 しかし、
 河は
 氷に覆われ
 魚はどこにも見えなかった。
 悲しみのあまり、
 衣服を脱ぎ
 氷の上に伏していると、
 氷が少し融けて
 魚が二匹出て来た。
 早速獲って帰って母に与えた。
 この孝行のためか、
 王祥が伏した所には毎年、
 人が
 伏せた形の
 氷が出るという。
 ・・・「自然現象」の後付けモノガタリ・・・「継母のハナシ」ではなく、「生きていた時の実母のハナシ」である・・・「元正女帝(680〜748)」は第四十四代天皇(在位715〜724)だが、名は「氷高(ひだか)」だった。草壁皇子の皇女で、母は元明天皇(阿閉)。「養老律令」や,「三世一身法の発布」をしたらしいが、貴族豪族の「私有欲」には勝てなかった・・・
  ↓
 姜詩(きょうし)
 彼の母は、
 いつも
 綺麗な川の水を飲みたいと思い、
 魚を食べたいと言っていた。
 姜詩と妻は、
 いつも
 長い距離を歩き、
 母に
 水と魚を与えてよく仕えた。
 するとある時、
 姜詩の家のすぐ傍に
 綺麗な川の水が湧き出て、
 毎朝
 その水の中に
 鯉がいた。
 姜詩と妻の孝行を感心に思って
 天が授けたものであろう。
 ・・・砂漠や草原の生活では遠距離の水汲みと水の運搬は「家族」の日常性であろう・・・生活空間の近くには「井戸」が必要である・・・それにしても「鯉(こい)=魚(まな・うお・ギョ)+里(さと・リ)」なんだか・・・
  ↓
 孟宗(もうそう)
 幼い時に父を亡くし
 年老いた母を養っていた。
 病気になった母は、
 あれやこれやと食べ物を欲しがった。
 ある冬に筍が食べたいと言った。
 孟宗は竹林に行ったが、
 冬に筍があるはずもない。
 孟宗は涙ながらに
 天に祈りながら
 雪を掘っていた。
 すると、
 あっと言う間に
 雪が融け、
 土の中から筍が沢山出て来た。
 孟宗は大変喜び、
 筍を採って帰り、
 熱い汁物を作って母に与えると、
 たちまち病も癒えて
 天寿を全うした。
 これも深い孝行の思いが
 天に通じたのであろう。
 ・・・問題は「母の天寿を全うする寸前」の「彼の行動」である・・・「戦争」がなければ、アタリマエの行動だが・・・「母の臨終」への立会・・・「タケのコ」・・・
  ↓
 郭巨(かくきょ)
 彼の家は貧しかったが、
 母と妻を養っていた。
 妻に子供が産まれ、
 三歳になった。
 郭巨の母は孫を可愛がり、
 自分の少ない食事を分け与えていた。
 郭巨が妻に言うには
 「我が家は貧しく
  母の食事さえも足りないのに、
  孫に分けていてはとても無理だ。
  夫婦であれば
  子供はまた授かるだろうが、
  母親は
  二度と授からない。
  ここは
  この子を埋めて母を養おう」
 と。
 妻は悲嘆に暮れたが、
 夫の命には従う他なく、
 三歳の子を連れて埋めに行く。
 郭巨が涙を流しながら
 地面を少し掘ると、
 黄金の釜が出て、
 その釜に
 文字が書いてあった。
 「孝行な郭巨に天からこれを与える。
  他人は盗ってはいけない」
 と。
 郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、
 子供と一緒に家に帰って、
 さらに母に孝行を尽くした。
 ・・・「間引き」は日常茶飯の時代だった・・・今現在は・・・「黄金(こがね)の釜(かま)」は「藤原鎌足」、「郭巨(カクキョ)=「郭(くるわ・カク)」の「巨(おおきい・キョ・ゴ)」で、「郭務悰」と「巨勢」だろう。「巨勢=許勢・許世・居勢・己西・既洒」の当て字があるらしい。意味深長である・・・「姓は初め、臣(おみ)」であり、天武天皇十三年(684年)の「八色(やくさ)の姓(かばね)」制定で「朝臣(あそみ・あそん・チョウシン)」となった・・・先祖は「武内宿禰」・・・
 「巨勢 人(こせ の ひと)」
 飛鳥時代の人物
 名は
 比等・・・「不比等」ではない?「比等=人」とは
      ならば「不比等=不人」で人にあらず?
 毘登・・・「毘登(びとう)」→尾藤→尾張を問う?
 とも
 姓(カバネ)は臣
 小徳位
 巨勢大海の子
 天智天皇に仕えて御史大夫
 672年
 壬申の乱
 大友皇子弘文天皇)側の将軍
 内訌をおこして敗れ、・・・内訌(ナイコウ)=うちわもめ
              訌=「言+工」?
 乱後は流罪
  ↓↑
 天武天皇十三年(684年)冬十月の条(日本書紀
 「詔して曰はく、
  更
  諸氏の族姓を改めて、
  八色の姓を作りて、
  天下の
  万姓を
  混(まろか)す。・・・「混(まろか)す」って?
  一つに曰く、真人
  二つに曰く、朝臣
  三つに曰く、宿禰
  四つに曰く、忌寸
  五つに曰く、道師
  六つに曰く、臣
  七つに曰く、連
  八つに曰く、稲置」
 ・・・それとも「五稜郭」に立て籠もった
 「榎本武揚(釜次郎)」・・・
  ↓
 董永(とうえい)
 彼は幼い時に母と別れ、
 家は貧しく、
 いつも雇われ仕事の小銭で日々暮らしていた。
 父も足が悪かったので、
 小さな車を作って父を乗せ、
 田んぼのあぜまで連れて行き、
 農作業をしていた。
 父が亡くなると葬式をしたいと思ったが、
 貧しいのでお金がない。
 そこで、
 身売りをしてその金で葬式をした。
 身請け主の所へ行こうとすると、
 途中で一人の美女がいた。
 美女が言うには
 「私は董永の妻となるべく、
  絹を織って
  身請け主に届け許されました」
 と。
 そして董永の妻となり、
 最後に
 「私は天の織姫ですが、
  貴方の孝行な心に感じて
  天が私にお命じになりました」
 と言うと、
 天に帰って行った。
 深い孝行の心が起こしたことであろう。
 ・・・「鶴の恩返し」・・・「夕鶴」・・・「おつう(お鶴)→お通」ッ、「よひょう(与兵)→与評」ッ・・・
  ↓
 舜(しゅん)
 彼は大変孝行な人であった。
 父の名前は
 瞽叟と言い頑固者で、
 母はひねくれ者、
 弟は奢った能無しであったが、
 舜は
 ひたすら孝行を続けた。
 舜が田を耕しに行くと、
 象が現れて田を耕し、
 鳥が来て田の草を取り、
 耕すのを助けた。
 その時の
 天子を
 堯と言った。
 堯は舜の孝行な心に感心し、
 娘を娶らせ
 天子の座を舜に譲った。
 これも
 孝行の心が起こしたことである。
 ・・・「社会保障・福利厚生」・・・なぜ「象」と「鳥」が「舜の耕作」を助けたんだか・・・父は何に「頑固」だったのか、母は何に「捻(ひね)くれ」ていたのか、弟は何に「奢(おご)って」いたのか・・・「象」は群れとして「母権社会」を形成し「死んだ象」に対して生きている象は「家族・一族」として「弔いの如く」の「儀礼・儀式」の行為をする・・・コレはTV記録番組で観たモノだが・・・
  ↓
 漢文帝(劉恒)
 漢の
 文帝は
 高祖の子である。
 名を
 恒(こう)と言った。
 母の
 薄太后に孝行を尽くし、
 食事の際は
 自ら毒見をするほどであった。
 兄弟も沢山いたが、
 文帝ほど
 「仁義・孝行」な皇子はいなかった。
 そのため、
 陳平、
 周勃
 などの重臣が皇帝に推戴した。
 孝行とは
 誰もが知っているが、
 実際に
 行うことは難しい。
 だが、
 高貴な身分で
 孝行を行ったことは
 神の如き志である。
 であるから、
 文帝の世は豊かになり、
 民衆も住みやすくなったのである。
 ・・・「誰もが知っている孝行」、「行うことは難しい」、ナゼか、「高貴な身分の人物」は「孝行」はしなっかった。「文帝の孝行」は稀なコトだったらしい・・・単なる「カミの如くの文綴(ブンテイ)」のハナシか・・・「親孝行」って、「親の我儘」に堪(こた)えるコトなのか、「親の自立できなくなった身体的、精神的な不自由」を助けるコトなのか・・・「世話面倒見」とは何なのか・・・
   ↓
 山谷(さんこく)黄庭堅(こうていけん)
 宋の詩人
 詩人の祖といわれている。
 使用人も多く、
 妻もいたが、
 自ら母の大小便の便器を取り、
 汚れている時は
 素手で洗って母に返し、
 朝から夕方まで
 母に仕えて怠けたことはなかった。
 一をもって万を知る。
 その他の孝行は
 推して知るべしであり、
 山谷の孝行は
 天下に知られることとなった。
 ・・・「山谷」は立ちんボウの「ドヤガイ」だった・・・「黄庭堅」には「使用人」も「妻」もいたけれど・・・「山谷での孝行」は、日雇いで「母親に仕送りするカネ」もなく、「焼酎をアオッて生きているコト」、それ自体・・・?・・・今や「焼酎」は高級品・・・
  ↓
 庾黔婁(ゆけんろう、ゆきんろう)
 南斉の人で、
 孱(せん)陵県の役人になっていたが、
 着任して
 十日も経たないうちに、
 胸騒ぎがしてならなくなった。
 父の病気かと思い、
 役人を辞めて家に帰ると、
 案の定、大病を患っていた。
 庾黔婁が医師に病状を尋ねると、
 病人の便を舐めて、
 甘く苦ければ良かろうと言う。
 庾黔婁は
 簡単なことだと言って舐めてみると、
 味が違ったので父の死を悟り、
 北斗七星(北極星)に
 身代わりになることを祈り続けた。
 ・・・「父の病気の原因」が「ウンこの味」でわかる・・・「糖尿病(?)」は、「便臭が甘酸っぱい」らしいから、当然「ウンこの味」も甘いカモ・・・「甘く苦い味」以外は「死期が近い(?)」・・・「伝染病菌」ならば「舐めているウン」は「身代わり」どころか、「心中の運」である・・・「北斗七星」の御利益はない・・・
  ↓
 朱壽昌(しゅじゅしょう)
 七歳の時に
 父母が蒸発してしまったので
 母をよく知らないことを嘆き、
 五十年が経った。
 ある時、
 朱壽昌は役人であったが
 職も妻子も捨て、
 自らの血で
 お経を書いて
 天に祈っていると、
 秦という所に母がいると告げられ、
 遂に母に会うことができた。
 これも志が深いからである。
 ・・・「職も妻子も捨て」て、「母親に会うコト」が「親孝行」とは・・・「霊的なテレパシー」みたいなモノを否定するワケじゃぁないけれど・・・
  ↓
 曾參(そうしん)
 孔子の弟子の曾参は、
 ある時
 薪を取りに山に行った。
 母が留守番をしている所に
 曾参の親友が訪ねて来た。
 母はもてなしたいと思ったが、
 曾参は家におらず、
 元々家が貧しいのでもてなしもできず、
 「曾参、急いで帰って来てくれ」
 と指を噛んで願った。
 曾参は山で薪を拾っていたが、
 急に胸騒ぎがするので
 急いで家に帰ってみると、
 母が事のいきさつを話してくれた。
 指を噛んで願ったのが
 遠くの曾参に響いたのは
 孝行の心で、
 親子の情が深い証拠である。
 ・・・「指(指の爪)をかむ」のは「悔しい時」か「落ち着きたい時」などの時の「癖(無意識な行為)」・・・
  ↓
 唐夫人(とうふじん)
 姑の
 長孫夫人に
 歯がないのでいつも乳を与え、
 毎朝、
 姑の髪を梳いて、
 その他様々なことで仕え、
 数年が経った。
 ある時、
 長孫夫人が患い、
 もう長くないと思って
 一族を集めて言うには
 「私の嫁の
  唐夫人の、
  これまでの恩に報いたいが、
  今死のうとしているのが心残りである。
  私の子孫たちよ、
  唐夫人の孝行を真似るならば、
  必ず将来繁栄するであろう」
 と言った。
 このように
 姑に孝行なのは
 過去現在珍しいとして、
 皆褒め称えたと言う。
 やがて恩が報われ、
 将来繁栄するのは当たり前のことである。
 ・・・「姑と嫁」の関係での「孝行は過去現在も珍しい」のである・・・
  ↓
 老莱子(ろうらいし)
 両親に仕えた人である。
 老莱子が
 七十歳になっても、
 身体に派手な着物を着て、
 子供の格好になって遊び、
 子供のように
 愚かな振る舞いをし、
 また
 親のために食事を運ぶ時も
 わざと転んで
 子供が泣くように泣いた。
 これは、
 老莱子が
 七十歳の年寄りになって
 若く美しくないところを見せると、
 息子もこんな歳になったのかと
 親が悲しむのを避け、
 また
 親自身が
 年寄りになったと
 悲しまないように、
 こんな振る舞いをしたのである
 ・・・「福沢諭吉」が「ガクモンノすすめ(八)」で批判しているらしい・・・「親孝行のあり方」・・・
ーーーーー
 日本聖書協会(1955年)
 旧約聖書
 創世記
第46章
46:1
イスラエル
その持ち物をことごとく携えて旅立ち、
ベエルシバ・・・・・
に行って、
父イサクの神に
犠牲をささげた
46:2
この時、
神は夜の幻のうちに
イスラエルに語って言われた、
ヤコブよ、
 ヤコブよ」。
彼は言った、
「ここにいます」
46:3
神は言われた、
「私(わたし・ム・よこしま)は神、
 あなたの父の神である。
 エジプトに
 下るのを恐れてはならない。
 私(わたし・ム・よこしま)は
 あそこであなたを
 大いなる
 国(くに・コク)民(たみ・ミン)にする
46:4
 私(わたし・ム・よこしま)は
 あなたと一緒にエジプトに下り、
 また必ずあなたを導き上るであろう。
 ヨセフ
 が
 手ずから
 あなたの
 目を閉じるであろう」
46:5
そして
ヤコブ
ベエルシバを立った。
イスラエルの子らは
ヤコブを乗せるために
パロの送った車に、
ヤコブ
幼な子たちと
妻たちを乗せ、
46:6
また
その家畜と
カナンの地で得た財産を携え、
ヤコブとその子孫は
皆ともにエジプトへ行った
46:7
こうしてヤコブはその子と、
孫および娘と孫娘など
その子孫をみな連れて、
エジプトへ行った
46:8
イスラエルの子らで
エジプトへ行った者の名は
次のとおりである。
すなわち
ヤコブとその子らであるが、
ヤコブの長子は
ルベン・・・・
46:9
ルベンの子らは
ハノク・・・・
パル・・・・
ヘヅロン・・・・
カルミ・・・・
46:10
シメオンの子らは
エムエル、
ヤミン・・・・
オハデ・・・・
ヤキン・・・・
ゾハル・・・・
及び
カナンの女の産んだ子
シャウル・・・・
46:11
レビの子らは
ゲルション・・・・
コハテ・・・・
メラリ・・・・
46:12
ユダの子らは
エル・・・・
オナン・・・・
シラ・・・・
ペレヅ・・・・
ゼラ・・・・
エル・・・・

オナン・・・・

カナンの地で死んだ。
ペレヅの子らは
ヘヅロン・・・・

ハムル・・・・
46:13
イッサカルの子らは
トラ・・・・
プワ・・・・
ヨブ・・・・
シムロン・・・・
46:14
ゼブルンの子らは
セレデ、
エロン、
ヤリエル
46:15
これらと
娘デナとは
レア

パダンアラム

ヤコブに産んだ子らである。
その子らと娘らは合わせて
三十三人
46:16
ガドの子らは
ゼポン・・・・
ハギ・・・・
シュニ・・・・
エヅボン・・・・
エリ・・・・
アロデ・・・・
アレリ・・・・
46:17
アセルの子らは
エムナ、
イシワ、
イスイ、
ベリア
および妹
サラ・・・・
ベリアの子らは
ヘベル・・・・

マルキエル・・・・
46:18
これらは
ラバンが
娘レアに与えた
ジルパの子らである。
彼女はこれらを
ヤコブに産んだ。
合わせて
十六人
46:19
ヤコブの妻
ラケルの子らは
ヨセフ・・・・

ベニヤミン・・・・
とである
46:20
エジプトの国(くに・コク)で
ヨセフ

マナセ・・・・

エフライム・・・・
とが生れた。
これは
オン・・・・
の祭司
ポテペラ・・・・
の娘
アセナテ・・・・
が彼に産んだ者である
46:21
ベニヤミンの子らは
ベラ・・・・
ベケル・・・・
アシベル・・・・
ゲラ・・・・
ナアマン・・・・
エヒ・・・・
ロシ・・・・
ムッピム・・・・
ホパム・・・・
アルデ・・・・
46:22
これらは
ラケル
ヤコブに産んだ子らである。
合わせて
十四人
46:23
ダンの子は
ホシム・・・・
46:24
ナフタリの子らは
ヤジエル・・・・
グニ・・・・
エゼル・・・・
シレム・・・・
46:25
これらは
ラバンが娘
ラケルに与えた
ビルハ・・・・
の子らである。
彼女はこれらを
ヤコブ
に産んだ。
合わせて
七人
46:26
ヤコブと共に
エジプトへ行ったすべての者、
すなわち
彼の身から出た者は
ヤコブの子らの
妻をのぞいて、
合わせて
六十六人であった
46:27
エジプトで
ヨセフに生れた子が
ふたりあった。
エジプトへ行った
ヤコブの家の者は合わせて
七十人であった
46:28
さてヤコブ
ユダ・・・・
をさきに
ヨセフ
につかわして、
ゴセン・・・・
で会おうと言わせた。
そして彼らは
ゴセンの地へ行った
46:29
ヨセフは車を整えて、
イスラエルを迎えるために
ゴセン・・・・
に上り、
父に会い、
そのくびを抱き、
くびをかかえて久しく泣いた
46:30 時に、
イスラエルはヨセフに言った、
「あなたがなお生きていて、
 私(わたし・ム・よこしま)は
 あなたの顔を見たので
 今は死んでもよい」
46:31
ヨセフは兄弟たちと父の家族とに言った、
「私(わたし・ム・よこしま)は上って
 パロに言おう、
 『カナンの地にいた
  私(わたし・ム・よこしま)の
  兄弟たちと
  父の家族とが
  私(わたし・ム・よこしま)の
  所へきました
46:32
  この者らは
  羊を飼う者、
  家畜の牧者で、
  その
  羊、
  牛
  および
  持ち物をみな携えてきました』
46:33
 もし
 パロがあなたがたを召して、
 『あなたがたの職業は何か』
 と言われたら、
46:34
  『しもべらは幼い時から、
  ずっと家畜の牧者です。
  我々(われわれ・ガガ)も、
  我々(われわれ・ガガ)の
  先祖もそうです』と言いなさい。
  そうすれば
  あなたがたは
  ゴセンの地に
  住むことができましょう。
  羊飼はすべて、
  エジプトびとの
  忌む者だからです」
ーーーーー
 ・・・「エジプト人」は「すべての羊飼」を「忌む者」としていたのは何故か?・・・