1635日目・・・ボクの「HP」にウマい具合に接続ができないらしい・・・それで、その箇所のモノをそのまま添付・・・
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「キリスト教教義」に関しては日本人の大半は「イエスの処女マリアからの生誕と、その生涯と蘇りの奇蹟」はオハナシであるとするであろう。近代合理主義者のインテリであればあるほどソウであるのに違いない。「キリスト信仰」であって、「律法=生活規範の実践」ではないからだ。もちろん、かっての「ユダヤ人」にとっても、現在の「ユダヤ・イスラエル人」にとってもオハナシである。かたくなにそれらを事実であると信じているのは「パウロ」に組織化され、現在までもその教会権威に伏している「パウロ教=キリスト教信者」である。
「民族の記憶=ご先祖様の歴史」とは幼少時に聞かされた「オハナシ=スリコミ記憶」が原点である。事実もあれば、デフォルメされた虚偽もあるのだ。
あらゆる「宗教」は「教義」と「儀式」からなっている。「儀式」は「教義(意味言語)」を「感覚的内在化・一体化」を果たすお膳立ての中での行為である。キリスト教では「最期の晩餐」の儀式化である。
「宗教教義」とはその「開祖、宗祖の歴史的、履歴的なある部分」は「事実のデフォルメ」であり、「宗教儀式」とは特殊な場(寺院・教会・神社・神殿・聖地=河川、洞窟、森林、山岳霊場)に於ける官能的な恍惚感、臨在感的な雰囲気を感知経験できる執り行いである。この官能的で、恍惚感的な「感知経験」は薬物類によっても、断食によっても、マラソンによっても、日常的なSEXによっても同じモノが得れるハズだ。ある肉体的状況で感じる「脳機能」の仕業である。
「キリスト教」とは「ユダヤの人の子、キリスト自身の思想」では無く、「ローマ市民権を有したパウロ(サウル)の思想」である。パウロの別名(実名)は「サウル」だが、「サウル」とはイスラエル統一王国の初代王(紀元前1020〜1004年)として登場した人物の名前でもあった。「旧約聖書」と「新約聖書」には同じ名前の複数の人物が登場する。「名前」が同じであるのはなんら不思議ではない。日本語的な「発音(カタカナ表示)」の類似も含めて、記録としては同名異人とされているが、各人物の履歴、エピソード、傾向性の類似である。タトエバ、エジプトを脱出したモーゼは紀元前1230年ころで、「旧約聖書」がそれ以後の記録であるとするならば、
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旧約・・・ヨセフ1・・・カナン偵察のモーゼのスパイ
旧約・・・ヨセフ2・・・楽器を使った預言者
旧約・・・ヨセフ3・・・エズラの命令で異邦人の妻と離婚
旧約・・・ヨセフ4・・・ヤコブの息子・夢の啓示・「ポテパル」の妻の誘惑を拒否
・パロ(ファラオ)の執政官
・エジプトのオンの祭司「ポテペラ」の娘アセナテを妻にした
新約・・・ヨセフ5・・・ヤコブの息子
・マリアの婚約者であったが
・マリヤが結婚前に妊娠をしたことを知って
・結婚解消(離婚)をしようとした
・夢で聖霊によって告示され、
・マリヤの処女懐胎が聖霊によるモノと知らされた
・キリストの「養父(童貞?)」
旧約・・・ヨシュア1(Joshua)・・・モーゼの後継者。カナン侵略の指揮者
旧約・・・ヨシ ア2(Josiah )・・・父アモン(アメン)の横死(暗殺)後に
・ユダヤ王(紀元前639〜609年)
・当時ユダヤ王国はアッシリア帝国に隷属
・「申命記」を基盤にした宗教改革を実行
・偶像崇拝の多神教を禁止
・アッシリア帝国はエジプトやバビロニアの反発、
・メディア人、カルデア人・スキタイ人に圧迫され、
・前614年にアッシリアの都市アッシュール、
・前612年にニネベとカラクが陥落し、
・前609年に滅亡
・ヨシアはユダヤ王国の独立を狙うも
・この間、エジプトとバビロニアの対立に巻きこまれ
・メギド山道でエジプト王「ネコ」を襲い、敗北
・捕虜後に殺される
旧約・・・ユダ1・・・ユダ族のアカンは奉納物の横領(ヨシュア記・第七章)
新約・・・ユダ2・・・キリストを金で裏切った十二使徒の一人(会計係)
旧約・・・サウル1・・・喜怒哀楽が激しく、部下ダビデに嫉妬したユダヤ初代の王
・紀元前1020〜1004年
・ペリシテ人と戦い敗北後、捕虜となって自殺
新約・・・パウロ・・・初期ユダヤ過激派で激しくキリスト教徒を弾圧
(サウル)2・喜怒哀楽が激しかった
・後にキリストに回心し、ユダヤ教と対立
・紀元64年ころ逮捕処刑(?)
旧約・・・ヤコブ(イスラエル)1・・・イサクの息子、双子の弟
・長子エサウから家長(長子)権を奪う
新約・・・ヤコブ2・・・イエスの養父であるヨセフの実父
新約・・・ヤコブ3・・・イエストの弟
・異邦人伝導のパウロと対立
・ユダヤ人だけの「キリスト教」を固執
・パリサイ人に虐殺
新約・・・ヤコブ4・・・ヨハネの兄
・ヨハネ伝の作者
・ヘロデ・アグリッパー一世に処刑
「旧約」の時代の「サウル1」とはユダヤ王国「初代の王」であった。「新約」の時代の「パウロ(サウル)2」はキリスト教教会の「元祖=鼻祖」であった。「古事記」では「鼻」から生まれたのは「須佐之男=スサノオ=素戔鳴」であった。
「モーゼ」の奇跡も、「イエス」の奇跡も「神による仕業」である。モーゼに関するエジプト側の「出エジプトの記録」は微塵も発見されていないが、「旧約」に記録された民族救済の「モーゼの奇跡」のパノラマ的なスケールの凄さには、「新約」に記録された暗く罪人として磔刑となってユダヤ人の弟子達を失望させた「イエスの奇跡」とは比べものにならない(映画・十戒の影響もあるが?)。
「旧約」を信じれば、現実として「モーゼ」はエジプトに勝利し、「ヨシュア(救世主)」はカナン侵略に勝利したが、「イエス」はユダヤ人同胞(パリサイ人)に裏切られ、ローマ帝国に敗北したのだ。
悲惨で暗く、死に際に「神への愚痴」すらも言った「一人のユダヤ人の磔刑」をローマ帝国、ヘレニズム世界の「救世主」にしたのはギリシャ生まれのパウロ(サウル)の言語的レトリックであった。だが、キリスト自身、現実的な「民族主義的救世主」としてユダヤ民族を何等現実的に解放しえなかったのだ。
記録上の「救世主」とは・・・なによりも「モーゼ」の誕生と「イエス」の誕生はその出生時の事件が「エジプト王のファラオ」と「ユダヤ王のヘロデ」の「男児の幼子殺害事件」から生きのびた者であった。「モーゼ(名前は水の中から助け出された者の意味)」はナイル川に投げ込まれようとして、「イエス」は「ヘロデ」によって殺されようとした時に「エジプト」に逃れて。「ユダヤ人の救世主」とは出生、幼児期、少年期に殺害の危機にあい、「エジプトで生活」し、「エジプト脱出」が重なるコトが条件なのだ。ナゼ、「エジプト」なのか?・・・ナゼ「エジプト」に逃亡の場所を求めるのか・・・?
・・・アブラハム(アブラム)はカナンにいた時に飢饉にあい「エジプト」に行って寄留した(創世記十二章)。そして、妻「サライ」の美貌によって財産を得たが、また災厄も被り、「エジプト」を追われたのだ。
ヨセフ、モーゼ、キリストはその「多神、異神教のエジプト」でナゼ、命を救われているのか?
・・・ギリシャ神話では「エジプト」に逃れたのはゼウスの愛人「イオ(イヨ?)」であった。
「イオ(イヨ?)」はゼウスの妻ヘラに浮気を発見されそうになって「白牛(牝牛)」に変身させられ、ヘラの「嫉妬=ねたみ」によって「アブ(虻=蝿=アフェフはハエのエジプト語)」をその耳に入れられ、苦難の末に「エジプトのナイル川」にたどり着き、「ヘルメス」によって元の姿にもどされ救われた。その後、息子「エパポス」を産み、「エジプトの女王」となった、と言うハナシなのだが。
ヘラの「嫉妬=ねたみ」は「アブラハム(アブラム)」の妻「サライ(サラ)」が「エジプト女」の使い女「ハガル」が「アブラハム(アブラム)」の息子「イシマエル」を妊娠し、出産したコトを「ねたんだコト」に重なる。
その後、「アブラハム(アブラム)=100歳」、妻「サライ(サラ)=90歳」はその年齢を自嘲し、笑いながらも「全能の神」によって息子「イサク」を産んだのだ。
「イオ(イヨ?)」は「イシス女神」と重ねられ、「イシス」は「牛頭の神」としても崇拝された。習合されているが神話的には「エジプトのイシス女神」がはやいのに違いない。
「イシス」の夫はエジプト王「オシリス」で、「オシリス」は弟「セト」に殺害され、箱に入れられて「ナイル川」に沈められた。「イシス」は夫の遺体を「ナイルの水底」から引き上げて蘇生させたのだが、「オシリス」は再度「セト」に肉体をバラバラに十四にキザマレ、「性器(ワニに食われた)」を省いて残りの「13」個は「ナイル川」に流されてしまった。「イシス」は夫「オシリス」の「十三個の肉片」を「ナイルの水底」から引き上げて接合し、蘇生させ、「霊界」に赴いた夫と「霊界」で交わり、息子「ホルス」を現世で産んでエジプト王とした母親である。物語では息子「ホルス」は夫「オシリスの蘇えり」とされている。そして「イシス女神」は「太陽神」の「秘密」を知って、その権威を握った女神でもあった。
「十三・壱拾参・13・??」に関する世界史(アレクサンダー13歳・コンスタンチン大帝313年、グレゴリオス十三世)、中国史(始皇帝・煬帝13歳・玄宗皇帝開元元年=713年)、日本史(壱与13歳)等に関連したモノは別項で述べたのだが・・・イスラエルのソロモン王(列王記上・第七章)は「13年間」をかけて自宅を建てた・・・日本人によく知られているのは「ゴルゴ13」の漫画である・・・ゴルゴダの丘、13日、金曜日である。「オシリス」の肉片の一、「性器を省いて」とはユダヤ人の「割礼」のコトだろう。
聖書には「割礼」そのものの理由説明が無い。あるのは「神とアブラハムの契約の証(創世記第17章)」である、と言うことだけである。本来性器を保護する役目の包茎、包皮だが、亀頭と包皮の間には不衛生になりやすい(?)。早漏の原因(?)とかも言われて包茎手術をする男もいる。ユダヤ人の「割礼」の始りは「アブラハム、99才」、その妻で「エジプト女のハガル」が産んだ息子「イシマエル、13才」の時であった・・・衛生上の問題とも採れるが、「宮刑(羅切・腐刑・去勢・姦淫罪)=宦官」になった人間の慙愧の記憶、記念かも・・・中国では「宮刑」は本来的に男系血統の断絶の「刑罰(司馬遷が被った刑罰)」である・・・エジプトの執政官となった姦淫容疑の「ヨセフ」・・・?・・・「イエス」・・・不倫の子供・・・?・・・「オシリス」のペニスを食った「ワニ=セベク神」のエジプト語の象徴は貪欲、攻撃、そして集める、そしてエジプト中王国の
「太陽神=ラー=太陽+鷹(隼)
=糞ころがし=ケペラ(ケペル・甲虫)
=夜明けの太陽
=再生するモノ」
と習合され、「セベク・ヘテプ」はエジプトの中王国「十三王朝(紀元前1778〜1570年)の王」であったらしい(古代エジプトの動物・黒川哲朗著・六興出版)。
いずれにしてもエジプトではあらゆる動物が種族、地方地域都市の守護神となった「氏神」である。「鷹=隼」と「牡牛」はエジプト王の権威と権力の象徴である。装飾品の首飾りや、腕輪の「ハエ(蝿・虻)」は群れて集る、集めるの意味かも。
詮索はとにかく、状況は「ナイル川の「水」から救いあげられた「モーゼ」と、「バブテスマ、ヨルダン川の水による洗礼、聖別」、そして教導活動後に紀元30年3月、13日(旧暦なら十三夜)、金曜日に磔刑にされ、3日後、日曜日(ユダヤ教安息日の次の日・満月十五夜)に蘇えった「イエス・キリスト」のハナシの重なりである。
「新旧聖書」のハナシの根幹は「エジプト神話」である。そして、「神」は一神では無く、「多神」が原点である。「ネピリム(創世記・第六章)」は「神の子達」と「人間の娘」との間に出来た「120歳の寿命」を有する子供達の一人である、と記されている。「神と神から生まれた子達」は「神=神族」である。
で、「イオ(イヨ?)」のハナシの延長線には「エウロペ(名前の意味はヨーロッパ)」である。「イオとゼウスの孫」の「アゲノルはフェニキアの王」となり、息子三人、娘一人を儲け、その娘が「エウロペ」であった、と言うものだ。その「エウロペ」は海辺で遊んでいる時に牛に変身したゼウスの背に乗って「海」を渡り「クレタ島」に連れて行かれ、そこでゼウスの子供「ミノス」を産んだ。その「ミノス」の子供が牛頭、人身の「ミノタウロス」である。この「ミノタウロス」が存在したところが「ラビリンス(迷宮)」であった。
ナゼか「モーゼのエジプト脱出はカナンへの直線ではなく、迂回遍歴」であった。「ヤハエの神」はカナンへ直接導くことはせず、40年間もの間、荒野をウロウロと彷徨うことをさせた(紀元前1250〜1200年頃)。遍歴とは「迷宮の迷路(ラビリンス)」であるのだが・・・「ユダヤ人」を「迷宮」から救い出したのは・・・「ヨシュア」と「士師記」に登場する人物達である。「ヨシュア」の名前の意味は「救世主」であるが、「神の国」への「救世主」ではない。現実的な「ユダヤ民族」の「生活圏」の獲得者としての「救世主」なのである。現代史に於いて「ゲルマン民族の生活圏確保」は「ヒトラー」や「日本帝国の関東軍」がやってパンクしたのだが。その「生活圏=カナン」は「ダビデ」と「ソロモン」で栄華の絶頂期をむかえたのだ。それは「天国」ではなく、モーゼが神に約束された「地上の国」としてであったのだ。
・・・その後の「サムエル記」を繋ぐ「ルツ記」には寡婦となった「ナオミ(名前の由来は楽しみ)」が自分のコトを「マラ(苦しみ)」と呼んで欲しい、と「ベツレヘムの人々」に述べるヶ所がある。
「ルツ」は「ナオミ」の息子「キリオン」の嫁で、異邦人で異教徒=モアブ人の女である。モアブ人・・・アブラハムの甥ロトとその娘姉妹の姉との間に出来た子孫」であった。その妹も父親ロトの子供(アンモン人の祖先)を産んだ。「モアブ人」とは「父親とその実娘の近親結婚」をヨシとしていた(?)。そして、「ルツ」の夫「キリオン」は死んで、二人の間には子供もいなかった。だが姑と嫁の関係では貧困、不遇な境遇の中で「ルツ」は姑「ナオミ」を大事にし、姑につくした。そして「ルツ」は後にユダヤ人の「ボアズ」と言う男と結ばれる、と言うハナシだが・・・大まかに言ってしまえば、貧困不遇なユダヤ人ばかりではなく、ユダヤ人以外の異邦人、異教徒も救われる、と言うハナシなのだ。
この「ルツ記」の系図にはこの「ルツ」と「ボアズ」の息子「オベル」が後の「ダビデ」の祖先と記されている。「ダビデ」は歴史的には紀元前1000〜961年在位のユダヤの王である。これは「エズラ記(第十章)」のユダヤ民族が「異邦人、異教徒との婚姻の排除、禁止」とは矛盾し、純粋の血統からハズレるハナシだ。
「ルツ」が異民(モアブ人)族、異教徒の女性ならば、「エジプト女」の「ハガル」が産んだ「アブラハム(アブラム)」の息子「イシマエル」が「ダビデ」の祖先としてもモンクは無いだろう。「神」は「エジプト女の願いも聞いて約束」したのだから・・・「エジプト人との混血児」は「野ロバのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住む」である・・・「エジプト人との混血児」は「(純血)ユダヤ人」に敵対する、と言うことか?・・・各エジプト王朝は「純粋血統」のエジプト人ではなかったし、「純粋血統」のエジプト人も存在しなかったハズだ・・・ナイル川を領有するエジプト領土内に住む人々すべてが「エジプト人」であった。そして「あの世と、この世」の生命=タマシイの往復を信じる神々の国であった。
「エズラ記(第七章)」ではバビロンに捕囚となったユダヤ人のエルサレム帰還は紀元前458年、あるいは紀元前397年ということになり、紀元前510〜515年の神殿再建から60〜120年後になる。
「エズラ記(第十章)」は「異邦人、異教徒との婚姻の排除、禁止」だが、アブラハムは異邦人の妻妾を娶っていた。エジプト執政官となった「ヨセフ」も、そして「サムソン」も・・・ダビデ王の祖先(ルツ)もモアブ人の女性・・・ソロモン以後の諸王は異邦人の女性を妻としていた。
どのような「帝国の拡張」も他民族を抱え込まざるを得ないのは必然である・・・被占領民族の「ジェノサイド(皆殺し)」でない限り・・・旧約聖書の「ユダヤ人」はそれをやったのだ・・・子女は捕虜(奴隷)にしたのだが・・・「ナチス」はゲルマン民族の「純粋血統主義」でもあった。歴史的な事実として「純粋血統主義」を主張できない「日本民族=日本陸軍」は満州国を傀儡としたが、そのスローガンは「五族協和=満州人+蒙古人+日本人+中国人+朝鮮人」の「王道楽土」ではあった。この「五族協和」に「ユダヤ人」を加えようとしていたらしいのだが・・・
で、「旧約聖書」は・・・紀元前250〜200年ころ、「エジプトのアレクサンドリア」に集まった人々によって成った「七十人訳聖書(ギリシャ語訳・実際は72人のユダヤ長老が72日間で編集と言われている)以降の聖書配列であるらしいのだ。「原本」や「写本」、色々な古文書を寄せ集めて解釈し、再構成されたモノなのだ。日本史の「古事記・日本書紀」と同じである。特に「古事記」にはその「編纂理由」を「序文」に記しているのだが、アヤシイ言い訳かも。「記録」されたモノは、「疑え」、である。
それにしても、「旧約聖書」は「神に対する裏切りの物語」でもあるな・・・「神の奇跡」を眼前にしてさえも「イスラエル・ユダヤの一神」を信じきれない、あるいは背信と不満を有する「一部ユダヤ人」の存在理由は何か?・・・特に列王記上(第十一章)の「ソロモン王晩年」からはじまる「一神に対する冒涜と不敬は、ソロモンの異国の愛妾達(妻700人+妾300人)が出身地の神を祭ったことを許し、自分もはまっていったコトである。オンナには甘かったのだ。列王記下の第一六章〜第二一章に記されている「アハブ王」、「マナセ王」、「アモン王」は異教徒の神の偶像さえ、ソロモン王が建てた「イスラエル・ユダヤの一神の神殿」に据えたのだ。
「ソロモン」は列王記上(第八章・46)で都合のイイコトを「神」に願っている・・・人は罪を犯さない者はいないのです・・・あなたがエジプトから連れ出した(仕業・嗣業の)民であるから、懺悔したら許して欲しい・・・と・・・なるほど、人間の知恵に於いてソロモンは賢い奴だ・・・だが、アヤマレバ、それでイイってモンじゃない・・・「歯」には「歯」、「目」には「目」をか・・・どうやら「神に対する不信と裏切りの物語」ではなく、「人間同士の裏切りの物語」であるな。
で、「旧約聖書」が正式な「書物」とされたのは紀元70〜90〜100年ころらしいのだ。
「ルツ記」は「ローマ帝国支配下のキリスト教徒(異民族を含む)」にとっては都合がイイハナシであるのだ。
ちなみに中国では「許慎」の「説文解字」が撰されたとする年代は紀元100年の後漢、和帝の「永元十二年・庚子」である。「永元」の「永」は「水」の漢字に似ている。「永」は「河川の長さ」を意味している。「永元」は「河川の水源」ではあるな・・・「モーゼ=水の中から救われた者」である。
そしてキリストが生存していた期間の前後、当時の「ユダヤ人一般(ヤコブ2〜3〜4)」が望んだ「ユダヤの人の子、キリスト自身の思想」とは「イスラエル民族国家」としての「ダビデ・ソロモン」への「地上の王国への回帰運動と、その思想」と、それを実現すべき「指導者=救世主」の登場であった。
「パウロ」が「ユダヤ人」であったとしても、「キリスト」の思想とは違うのである。もんちろん、現在の「キリスト教」とも違うのだ。「ユダヤ王国滅亡寸前(紀元66〜70年)」での「パウロの思想(紀元58年前後からキリスト教の伝道活動。64年に殉死)」は歴史的状況からみれば「ローマ帝国」との妥協の産物であった。「汝の隣人(ユダヤ)を愛せ」ではなく、「汝の敵(ローマ)を愛せ(憎むな・do not hate・δεν μισοs)」とはまさに歴史的状況が言わさせしめた「戦術的コトバ」であるのに違いない。とするならば「ローマ帝国支配下でのユダヤ=キリスト教」である・・・ローマ帝国支配下での現実ではもはや「一神教民族=ユダヤ民族」をまもれず、「ユダヤ民族維持」のためには、パウロの有する「ローマ市民権」が必要であったのだ。そして生きるためには「敵の愛(慈悲・ローマ法)」を請わざるを得なかった。ならば「パウロの思想」とは、彼の本音は別にして、口先では「律法厳守」を言いながら結果的に当時の「ローマ帝国(多神教・偶像崇拝)支配」を許し、自己保身で妥協していた「パリサイ人」の立場にも重なるだろう。
だが「ギリシャ文明」を引き継ぐローマ帝国は多神教ではあったが、「ギリシャ都市国家アテネ(アシナ)」と同様、政治権力として、「貴族階級」と「平民階級」の「公平、平等化」を追求した「帝国」であった。植民地人であろうが、属国人であろうが、異人種であろうが「ローマ市民権」を有する者はローマ帝国の法律の下に於いて政治的権利はまもられた・・・?・・・「ローマ市民権」は俗社会での生活規範としての政治的権利であった。「キリスト教」を国教とする(西暦313年・ミラノ勅令)までのローマ帝国は多神教であったが「政教分離」の帝国だったのだ。ユダヤ王国、あるいは属国となった「ユダヤ王国」はモーゼの時代から例外もあるが、基本的には「一神教による政教一致」なのである。
現代社会、「政教一致」どころではない、「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学の人間観念混在一致」である。コトバとして現在的な「論理学=諸学問」は「概念範疇」で出来事、事件、物事、事物を「観念的に区別」しているが、「神」がいようが、いまいが「科学、政治、経済、法学、宗教、哲学」は「現実生活」では「渾然一体」となった「アイマイな状況的なその時、その場のズレタ価値観、あるいは重なった価値観」で生活しているのだ。「宇宙飛行士、ノーベル賞クラスの科学者」でさえ、その「世界観」、「価値観」は喜怒哀楽、苦痛苦難で生きているその存在に於いて「エゴイスト」で「セルフッシュ」である。「人間」にとって「神」さえ存在すればすべての「論理=理屈」は「神」にその責任を転嫁できるのだから・・・「政治的」にも「法律的」にも「人間」は「人間」にその「ルール」に於いても「責任」をとろうとせず、他人に「責任転嫁」する。
「人間」と「人間」の責任関係は単純である。
「?殺すな、?騙すな、?盗むな」
に尽きる。「モーゼの神(思想)」は「人間(同胞隣人)」を「人類(異邦隣人)」に拡大したらとっても「エライ」のである。
で、宗教的権利ではない「ローマ帝国市民権」を有するユダヤ人、「パウロの戦略」は「ユダヤ人の楯となる非ユダヤ人であるローマ市民の準ユダヤ思想化=キリスト教化」・・・であった?
・・・紀元前287年ホルテンシウスによるローマ身分制度の政治的公平化法
・・・紀元前90年執政官ルキウス・ユリウス・カエサル提出の法案
ルビコン河以南のイタリア人すべてにローマ市民権を付与
・・・帝政開始(前27年)以後、属州都市の有力者に市民権が与えられた
・・・212年、カラカラ帝のアントニヌス勅令
帝国領土の全自由民に市民権を与えられた
第一次ユダヤ戦争(66〜70年)
紀元66年、ユダヤの支配者である元首属吏フロルスがエルサレム神殿の宝庫を強奪。エルサレムでユダヤ人の暴動が発生。フロルスはユダヤ人暴徒を逮捕磔刑。ユダヤ人はこれに反発、ローマ軍と戦闘を開始した。
ローマ皇帝ネロはウェスパシアヌスをユダヤ討伐総司令官として三個軍団を派遣。67年、ガリラヤを攻撃。ガリラヤのユダヤ反乱軍指揮者はヨセフスであった。ローマの大軍によって反乱軍は投降、降伏。捕虜となったヨセフスは、後に「ユダヤ戦争」を記した人物であった。
第一次ユダヤ戦争は、74年ローマの司令官フラウィウス・シルウァによるマサダ要塞の陥落で終わった。
第二次ユダヤ戦争(132〜135年)
ユダヤ人は、バル・コクバを指導者とし、ローマへの反乱を再度組織化(第2次ユダヤ戦争)したがローマ軍によって壊滅的な敗北、玉砕。その後、ユダヤ人はエルサレムより追放。
「イエス・キリスト在世」当時の「ユダヤ王国」と「ローマ帝国」の関係は、かっての「中国(清)」と「西欧列強(イギリス・フランス)」、現在の「日本」と「アメリカ」の関係に似ている。パウロのキリスト教伝導時代は紀元58年から64年である。第一次ユダヤ戦争(66〜70年)の勃発がくすぶっている前哨的時代であった。「ローマ帝国主義者」に磔刑にされたユダヤ人キリストはモチロンのこと、パウロも「キリスト幻想」をテコにした「ユダヤ民族主義者」であった?・・・だが、「中国」には「民族主義者(?)の林則徐・孫文・毛沢東」が出現したが、現在の「日本民族を救済」しようとしている「日本民族主義者」はみあたらない。「パリサイ人の律法」とはウラハラに当時の「ユダヤ人」同様、「日本国憲法=律法」なんのその、仏壇も神棚も、時には十字架さえも家に祭り、金権主義的個人主義で「隣人・同胞」からの横財、私的財産追求と蓄財にどっぷりと埋没し、ダレかに尻尾を振っている奴等ばかりである。
「民族概念」は私の「国家論」の他所で述べたので誤解してもらいたくないが、あえて「民族」と言う明治の御用学者が発明したこのコトバを使って概念規定すれば、
「民族主義」とは「民族内での無階級的な自由平等」、
と言うコトである。民族の首長、指導者としては誰彼を問わない「一民族=一国家内の人々」のあらゆる利害の公平主義である。「思想的」には「ナチス(国家社会主義)」も「スターリン(一国社会主義)」も「毛沢東(愛国社会主義)」も、変種の「ユダヤ民族」と同類の「国家(民族)主義」である。最近翻訳発行されたヒトラーの「第二の我が闘争(続・我が闘争・甲成書房・2004年出版)」が参考になるだろう。第一次世界大戦後の帝国主義(金融資本主義)的な時代にあってビスマルクを尊敬し、軍隊を「国家社会主義的共同体」の基盤であると考えていた「ゲルマン民族主義者」が「ゲルマン民族」と「他民族」をどのように捉えていたのか理解できるであろう。
「民族主義」とは企業からウラでカネをセビる「似非右翼の主義」とは違うのである。
「国家(民族)社会主義」とは、
「他民族排除」と「自国民族の領土の確保拡張」であり、
それを前提に
「民族主義的プライド(pride)とその自民族内の自由平等」とを実現し、
その
「統一された自民族の生命と財産、パン」を確保し、
「自民族の義務として血の購い」で「他民族」から防衛する
というコトである。「民族主義」を「文化防衛論」などと言うコトバに丸め込むものとは違うのだ。「ヒトラー」を「我が友」だなんて言われても迷惑だろうに・・・
「諸階級の諸実体を包含する民族概念」とは被支配階級に対する支配階級の対外的な「政治的概念」であり、「政治的範疇概念」である。
「国家(民族)主義者」にとっては「国内内部の異端者排除」と「民族イデオロギーの統一」が必要とされるのである。「ユダヤ民族主義」は「一神教とその律法厳守」+「同一血統主義」であった。「律法厳守」とは「民族内の社会公平主義」であった。その「イデオロギー」を厳守しない内部の人民は「異端者」として粛清、排除されるのである。
「旧約・創世記・第34章」には「ヤコブ」の娘「デナ」が「ヒビ人のハモルの息子シケム」とイイ仲になってた事件を切っ掛けに「ヤコブ」の息子達「シメオン」と「レビ」は妹を陵辱されたと怒ったが、「ハモル」も息子「シケム」も「デナ」を愛していたので「シメオン」と「レビ」達に有利な条件を示して結婚を望んだ。それに対して「シメオン」と「レビ」は「ヒビ人のハモル、シケムの一族の男子」すべてに「割礼」を施したら「デナ」と「シケム」の結婚を許し、「ヒビ人」も「ユダヤ人の一族」とする、と言うコトを条件にした。「ハモル」も「シケル」もその条件に同意し、「一族の男子全員に割礼」をさせたのだ。そして、その三日後に「割礼」の痛みで苦しんでいる「ヒビ人」の男子を襲い皆殺しにし、財産を掠め、子女を虜にした。「ヤコブ」は息子達の所業には恐れおののいたのだが・・・「ヤコブの葛藤」は紛れも無く、人間ソノモノであった。だが、「ユダヤの神」は息子達の立場であった。
そして、「旧約・ヨシュア記・第七章」には「ユダ族のアカン」が神の罠(ヨシュアの策謀?)によって敵軍に壊滅させらことが記されている。
戦争では外部の敵対者をワナにはめて虐殺するのは当然であり、内部の敵対者の粛清には敵の軍隊に始末させる、と言うのは常套である。
そして、旧約のヨシュアは「モーゼの神=戒律=思想」+「血統」を厳守することによっての「侵略戦争の遂行」であった。
「血統主義」・・・不思議なことに「寄留者=ユダヤ人内部の異民族」に対する「律法(出エジプト記・第23章)」があるのだが・・・彼等との婚姻関係は無かったハズがない・・・そして、まもれない「血統」は旧約聖書に散らばっている。異民族、異教徒の女性達から生まれ出た「ユダヤ人混血」の子孫はゴマンといるだろう。もちろん、異民族、異教徒の子供を産んだ「ユダヤ人女性達」も・・・?
アレクサンダー大王の帝国思想(異民族融和?)、シーザーの「ローマ市民権の思想」を省けば、結果的にはナポレオン、ヒトラー、スターリン、ルーズベルト、チャーチル、毛沢東、東条英機は「国家の支配階級」をまもるための「国家(民族)主義」であった。国家官僚的自己権力に対立、反抗する政治家、軍人、民間人を粛清したのは当然の帰結である。そして内部の粛清は敵の軍隊に始末させる、と言うコトも常套であった。すぐれた対外戦争の戦略、戦術家には「共同体内部の大義名分の統一イデオロギー=幻想」が必要なのだ。
で、「民族主義的プライド(pride)」とは何か・・・「歴史的家系・血統」に対するイイ意味での自尊心(長所に対する確信的信念)、ワルイ意味での自惚れ(利己優先)・・・「民族主義的プライド(pride)」とは「自民族の優位優先、他民族の蔑視差別、排外」である。
だが、「似非民族主義者」の「民族(国民)」とは「国家内階級関係を隠蔽」した範疇概念であり、対外的にはその隠蔽保持によって「他国家国民・各人種」を階級ランクづけするための「差別概念」であるのだ。そして「民族主義=一民族内での法的公平」とは現在の資本主義的経済流通の国家間の諸関係に於いては成り立たないモノなのだ。「民族主義=純粋血統主義」などは「範疇論」としてはそもそも成り立たないのである。人種の「血液」を調べさせた合理的精神の「ヒトラー」はそれに気づいて「言語学的なインド・ヨーロピアン語族」としての「民族」をチラチラさせざるを得なかった。
そもそも、「民族概念」などと言うものは日本人の御用学者が発明し、中国人も借用してしまった「漢字概念」なのだ。「国家(nation)」は「民族」で無いのは当然である。「人種(race)」も「民族」ではないのは自明である。その中国人は、現今もっぱら「愛国国家主義=漢民族主義」である。最近は「民族=文化的同一の人々の集合体(ライトハウス英和辞典)」であるなどと概念規定しようとしている。じゃあ、「文化的同一」とはナンぞや?・・・その根本は「言語=言語観念」である。
「民族概念」とは「?血統、?言語、?領土」の「同一性の人種」として発明され、概念規定されたモノなのだ。
「民族」とは、本来が日本人がつくり出した「概念」で、唯一「日本人」が「幻想=思想」として「日本帝国国民=民族」として理解させられたモノであったのだ。純粋「ユダヤ人」ならばその思想を盗むなッ、と抗議するに違いない。その日本人も現在「概念規定」をアイマイにしている理由は「明治速成日本民族」が戦争に負けたからである。
「諸階級を包含する民族」はその実体的階級関係を解体し、普遍的地球の地域住民としての「対等、公平な人間諸関係を前提にした地球人」として再組織せねばならない。
もちろん、「民族(国家)主義」と、「人類主義的=国際主義的」な「無階級的社会平等(公平)主義」とは全く違うのだ。
「民族の解体」は「国家の解体」であり、「階級関係の解体」である。「階級関係の解体」は「国家の解体」であり、「民族の解体」なのだ。
もちろん、「一文化の解体」ではない。人間生活でのあらゆる事象、事件、事物は「コトバ」として「観念化」される。そして「観念化=思想化」されたモノは「表現、造形、創造化」されるのだ。その逆も当然ある。そして「音声コトバ」も視覚によって理解されるモノとして「文字化、記号化」として表現されるのである。「文化」とは「文字化=記録化」されたあらゆる「知識」である。その「知識」を「生活に具体化」したモノである。そして「文化=文字コトバ=文字言語観念に化されられるモノ」とは必然的に「他の文化」と接した時点から「融和吸収、相互依存関係」にならざるを得ないのは、「異言語、国語、古語辞典、科学辞典などの存在理由」と同じである。未知なモノを理解するには「コトバ」での意味が必要だからである。既知なモノを他人に理解させるにも「コトバ」での意味が必要だからだ。コトバの原点は人間生活での関係性の相互情報の相互理解である。情報伝達として人間による「音声記憶(暗誦・口伝)」よりも、限界はあるが「文字化(記録保存)」された方が有利である。限界とは読み手の「識字」の学習範囲と、意味理解のレベルである。そして、書き手の意図と意味内容は「読めばワカル」と言ったモノではない。読み手に取って理屈では割り切れない書き手の「価値観」、情緒、感情、妄想、空想などの「抽象化」された「文字」がワンサカ散りばめられているモノも多いからだ。「共通言語の国語」で記録された「憲法」ですら理解、誤解、曲解、ワッカラナぁ〜イであるのだから「異言語」ならばなおさらである。
意図的に読み手が「だまされているコト」を前提に読むモノは「虚構としての小説・モノガタリ」である。読み手に取っては「事実」であろうが、「事実」でなかろうが、「虚実混在」であろうがイイのだ。如何なる形で理解しても、読み手の自由である。だが、「ウソ」を「事実」と考えよ、と強制的に押し付けられたらドウするか。
国家次元で「一文化の言語、言語観念」を他国家に強制し、するのは「膨脹しようとする国家か、膨脹した国家」である。日本はコレを戦前やったのだ。しかも強制されなくても状況的に国家間での「他文化(言語観念)」を吸収せざるを得ないのは「自国家の支配階級維持」のタメでもある。「国家」であろうが、「共同体」であろうが、「家族」であろうがその生活基盤は「衣食住」を確保するタメの居住地域での諸生産、諸交換と、他地域との交易である。「共通言語」がなければ「交易」は成り立たない。その「共通言語」とは「交換比率」としての「数字=価格単位=貨幣単位」である。
かって、「ギリシャ語」はローマ帝国支配下の「国際言語」であり、当時の支配階級の「宮廷言語」であった。「軍事暴力での領土を拡張支配」をしたものの、いまだ「先端の知識」は「ギリシャ言語」にあったからだ。それ以前は「エジプト言語」にあったハズだ。オスマントルコ帝国は「ギリシャ語」から「知識」を得た。近世のヨーロッパ諸国はその「アラビア言語」から「知識」を得た。中国をみれば中国領土に侵略、侵入して居座った「北方種族」は「漢字言語」に埋没してしまった。現在的な国際語は「英語・米語」である。基本的に「知識」は「言語観念=文字観念」である。国際的な科学、政治、経済、技術など、その最先端の「言語知識=情報知識」を理解しなければ国家間での「国家支配階級のシステム」は弱体するか、崩壊するのは自明である。そして、世界は今現在、「コンピュータ言語」を習得しなければならない状況にある・・・あらゆる「知識」は国家、階級を超えて人類規模で「普遍化」するだろう・・・が・・・人類間の自由、平等、公平そのものを保障するモノではない。
「文化」は「知識」を押し上げるが、「暴力」と「自然災害」には如何ともし難い。しかも「文明」は「国家支配階級の暴力」に加担スルのだ。
現在も過去も、「階級国家=民族国家」を支えているモノは「?殺すな、?騙すな、?盗むな」ではなく、「?盗む」ために、「?騙せ」、「?殺せ」である。もちろん、他民族に対してもである。国内的にも対外的にも「盗みあっている奴」は「似非民族主義」なのだ。
「ユダヤ・イスラエル国家の律法の一」とは、「隣人(家族同胞)」から「利子(手数料も含む?)」を取ってはならない、とするが、「他国民(他民族・他人種・偶像崇拝の人々)」から「利子(手数料も含む?)」を搾取するのはオッケイとしているのだ。
現在のあらゆる「国家」は「国内の階級関係」を隠蔽し、「自国民(隣人)からも利子(税金)を搾取」と言う「ユダヤ思想(律法)の一点」を歪曲し、それに埋没しているのだ。「階級国家の基盤を支えているモノ」が「税金(盗んだ金)」での「各国国内支配階級社会の維持」と「国際的諸国家関係での国家維持」だから・・・植民地や属国の被支配階級は二重、三重にも「自国民」としてはもちろん、「他国民」としても「搾取」されているのさッ。
「国外に存在している自国民が生命の危機に晒されている時」には、少なくても現今の「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国民の諸事情」がどうであれ、「個人的自己責任」などとは口が裂けてでも言わない。ましてや「弁護士出身の政治家」であるなら尚更である。また、「拉致」をアイマイにする如何なる「国家」も存在しない。「国家」は「階級組織」だが「日本国家」以外の「国家支配者」は「自国の国籍」を有している「人間」ならば、その「人間の思想」如何にかかわらず「国家エゴむき出し」で、その「危機的状況の人間」の生命の安全と確保を「コトバ」でも「行為実行」に於いてもする。「国家支配者」は、それが理不尽であっても「国家支配の階級維持」のタメに身内はまもる、と「コトバ」では言明するのさ。そして身内で裁かさせろ、と言うのだ。沖縄駐留で「日本人」に罪を犯した「アメリカ兵」は人種、思想、出身階級の如何を問わず、「アメリカ国家」は断固として「アメリカ国籍人」として護っている。「他の諸国家権力者」もコレは同じである。「自国民」が危機に晒され、殺されたら・・・仕返しをするのだ。少なくとも言辞を吐く。これは「任侠道の親分子分」の関係ですらソウである。家族に於いてはどうか?・・・身内が悪人であろうが、法を犯したものであろうが「身内を裏切らない」、少なくても「敵」には自らわたしたくないのが「心情的鉄則」である・・・「拉致国家の支配者側」はどうか?・・・「国家の英雄」と讃えている「拉致実行犯」を・・・「国家」はマモルのだ。
「身内の繁栄」とは「身内の支配者へ組織化された繁栄」である。そして、「身内の枠内でその恩恵享受」をダレもが願っている・・・「他家の凋落衰亡」はなんのその、「一家のみの繁栄と安全」を・・・「ユダヤのカミサマ」はそれをアブラハムに一方的に「約束=契約」させたのだ。相互契約として一方の「アブラム=アブラハム」が望んだとは「旧約」には記録されてはいない。「アブラハム」は人間としての立場で、葛藤し、疑い、この「カミ」と対話している。だが、この「ユダヤの神」はすこぶる押し付けがましく、「エゴイスト」であることを自らも言っている。「正直者のノア」を最初の段階で救ったのだからその生き残っていった子孫はこの時点からすべて救われるべきだが・・・どうやらこの「神」には「パウロの愛」と言うモノを理解していなかったらしい。「パウロの愛」は「契約の眼中」にもなかったらしい。契約をしたのは現実的な子孫への「生活(圏)の保障」である・・・生き残り、生き残って行く者のタメの「シビアな生命保険契約」であった。
「パウロのカミ」とは別ものである・・・で、人種、民族、階級階層に関係なく「愛憎」は生きて存在している「人間疎外されているモノ同士の問題」だな・・・
「愛(憎・ゾウ=怨・オン)」に埋没することなく、「自由・平等・博愛」が「ダレ」のタメの、「ナニ」のタメの「範疇概念」であるかを、現実的な人間関係に立脚した、その人間の観念=概念で、アンタも考えてみるべきだなッ。
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