1634日目・・・「馬可傳・瑪可傳」・・・これって、「馬鹿・莫迦・葉化・墓」の「伝え」か、それとも「瑪瑙・めのう」の「メノウ(瑪瑙・碼碯・agate・アゲート・アゲット・onyx・オニックス)」で、「縞状の玉髄の一種で、オパール(蛋白石)、石英、玉髄が、火成岩あるいは堆積岩の空洞中に層状に沈殿してできた、鉱物の変種である・二酸化ケイ素・三方晶形・微晶質・潜晶質」・・・「瑪瑙の名前は、石の外観が馬の脳に似ているため。英語の agate は、ギリシャ語の achates に由来し、これはイタリア・シチリア島

 今現在の問題は「メノウ」の音だが・・・「女(眼・目)能生」は「子・嬰児」で・・・「視覚」・・・「馬の脳」を調べてみる・・・
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 アンティオケヤ事件・・・「安定桶屋」・・・風が吹けば桶屋が儲かる・・・
 「安定於化也」・・・?・・・死者が出れば棺桶屋がモウカルのは摂理であるが・・・
  ↓↑
 共卓=ユダヤ人、非ユダヤ人が共に
    差別なく一緒の食卓で食事するコト
  ↓↑
 「バルナバ(マルコの従兄弟・ユダヤ人)」
 と
 「パウロギリシャユダヤ人)」
 が
 アンティオケヤに帰る時
 「ペテロ(ケパ)」も
 同行し
 アンティオケヤに行った
 アンティオケヤの教会では
 「共卓」が続けられていたが
 エルサレム教会の
 「ヤコブ(キリストの兄)」から
 使者が送られてきて
 「共卓」の禁止命令が伝えられた
  ↓
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 ・・・「キョウタク=教卓・供託・凶宅・京拓・狂卓・今日択」・・・拓殖、拓植・・・選択、選擇したのは「択捉(えとろふ)」島だが・・・択捉島(えとろふとう)は、千島列島南部に位置する島。
 地名の由来は、アイヌ語の「エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所)」。ロシア名は「イトゥルップ島(ロシア語: Итуруп)、(英語表記は Iturup)」・・・
 ・・・日本領有権の領域内で最北端の島・・・
 「第二次世界大戦末期に
  日ソ中立条約を一方的に破棄した
  ソ連軍により
  武力占領され、
  現在は
  ロシア連邦の実効支配下
  ロシア側行政区においては、
  国後島
  色丹島とは
  別の行政単位である
  サハリン州クリル管区に位置付け
  国際法違反で不法占拠下にある
   ↓↑
  寛永十二年(1635年)
  松前藩は国後・択捉などを含む蝦夷地の地図作成
   ↓
  寛永二十年(1643年)
  オランダのフリース
  ウルップ島に上陸
  正保元年(1644年)
  『正保御国絵図』に
  「エトロホ」島と記録
  寛文元年(1661年)
  『勢州船北海漂着記』に
  伊勢国
  松坂の
  七郎兵衛の船が漂流
  正徳二年(1712年)
  『恵渡路部漂流記』に
  薩摩国
  大隅の船が同島に漂着記録
  正徳五年(1715年)
  松前藩主は幕府に
  「北海道本島、
   樺太
   千島列島
   勘察加は自藩領」と報告
  享保十六年(1731年)
  国後・択捉の首長らが
  松前藩主を訪れ献上品
  宝暦四年(1754年)
  松前藩によって
  家臣の知行地として
  国後の場所の領域に
  択捉島
  得撫島も含まれていた
  明和三年(1766年)
  ロシア人の
  イワン・チョールヌイ
  (Иван Черный)が、
  ウルップ島のアイヌから
  サヤーク(毛皮税)を取り立て
  その10年後
  ロシア商人
  シャパーリンも同島のアイヌから
  サヤークを受け取った
  天明六年(1786年)
  最上徳内が同島を探検
  上陸時に3名のロシア人が居住
  アイヌの中には
  ロシア正教を信仰する者も居た
  寛政十年(1798年)
  ロシアに対抗するため、
  近藤重蔵
  アイヌエカシ(首長)の了承のもと、
  「大日本恵土呂府」の木柱を立て日本領を主張
  寛政十一年(1799年)
  蝦夷地を幕府の直轄地(天領)にし、
  高田屋嘉兵衛に航路を運営させた
  寛政十二年(1800年)
  国後場所から択捉場所を分立し、
  「エトロフ会所」を
  振別に開設
  アイヌの同島住民1,118人の人別帳を作成
  高田屋は
  老門に番屋を建て、
  漁場10ヶ所を開き
  和人による漁業・越年を始める
  文化四年(1807年)
  各村の礎が築く
  4月
  「シャナ(紗那)事件」
  紗那と内保(留別村)の集落が、
  ロシア海軍大尉
  フヴォストフ(Хвостов)
  率いる露米会社の
  武装集団によって襲撃され
  紗那の警固していた
  弘前藩盛岡藩は奥地へ退避
  会所に赴任中だった
  間宮林蔵も参戦
  その後も、
  盛岡藩など東北諸藩が警備
  文化十三年(1816年)
  日本人漂流民を乗せた
  ロシア船
  パヴェル号が択捉島に来航
  このとき
  督乗丸の
  小栗重吉、音吉、半兵衛
  3名が帰国
  安政二年(1855年)
  日露和親条約締結
  日本はアイヌを日本国民とし
  アイヌの生活圏が日本領であると主張
  択捉島の領有をロシアに認めさせた
  開国後は
  仙台藩の領地とし
  仙台藩兵が駐留、警固
   ↓
 1923年(大正12年
 北海道二級町村制が施行
 択捉郡留別村
 紗那郡紗那村
 蘂取郡蘂取村
 の
 3郡3村の設置
 1940年(昭和15年
 海軍が飛行場を整備
 1941年(昭和16年)11月20日
 海軍により、あらゆる船の島への入出港が禁止
 島唯一の紗那郵便局は通信業務を停止
 電信機は常時、情報統制下
 単冠湾に
 南雲忠一中将率いる
 航空母艦6隻を含む
 軍艦30隻の機動部隊が秘密裏に集結
 11月26日
 真珠湾攻撃のためハワイへ向け出港
 島外との情報遮断は
 太平洋戦争が開戦した
 12月8日まで継続
 1944年(昭和19年
 千島方面防衛の
 陸軍第27軍司令部が新設
 海上機動第4旅団と
 独立混成第43旅団が編成
 1945年(昭和20年)
 海上機動第4旅団含め
 千島列島から多くの部隊が内地に転用
 終戦時には
 第89師団が配置
 8月15日当時
 留別村2,258人
 紗那村1,001人
 蕊取村349人
 の
 合計3,608人が、
 択捉島に居住
  ↓
 1945年(昭和20年)
 8月28日
 太平洋戦争終戦間際
 降伏文書調印(9月2日)直前に
 ソ連軍が同島に上陸し占領
 ポツダム宣言第7条により、
 日本国の諸地点は連合国に占領
 一般命令第1号により、
 択捉島を含む千島列島は、
 ソ連占領地となった
 1946年(昭和21年)
 1月29日
 GHQの
 SCAPIN-677命令
 日本は同島を含む千島列島の施政権を停止
 2月2日
 ソ連はこれらの地域を自国領に編入
 ソ連の後継国家
 ロシア連邦の実効支配が継続
 日本人とロシア人との
 混住状態が1年以上続いたが、
 択捉島からの日本人の本土引き揚げは、
 1946年(昭和21年)12月
  〜
 1948年(昭和23年)までに終了
ーーーーー
 「共卓」・・・「共卓禁止命令事件」のハナシが「今日択・択捉島」の「狂託」に跳んでしまった・・・
   ↓
 それまで
 「ユダヤキリスト教徒」
 と
 「非ユダヤキリスト教徒」は
 一緒に
 「共卓=食卓を囲んでいた」
 のに 
 ユダヤ人出身の
 キリスト教徒たちが
 「共卓禁止命令」に従い
 「パウロギリシャユダヤ人)」が
 この命令を拒否し
 「非ユダヤキリスト教徒」と 
 「共卓」し、 
 「パウロ」は
 「ペテロ(ユダヤ人)」を非難、批判し
 「パウロ」は
 「アンティオケヤ」教会から追放された
  ↓↑
 「ケパ、つまりペテロがアンティオケヤに来たとき、
  私(パウロ)は
  彼(ペトロ)に対立した、
  なぜなら
  彼(ペテロ)が非難されるべきだったから。
  なぜなら
  ヤコブユダヤ人・キリストの兄)
  のところから
  ある者たちがくる前は、
  彼(ペテロ)は
  異邦人たちと共に食べていた(共卓)。
  ところが
  彼(ヤコブの使者)らが来たとき
  彼(ペテロ)は(共卓から)退き
 (彼は)、
  自分(パウロ)をも
 (共卓から)引き離(そうと)した。
  割礼の者(ユダヤ人)たちを恐れて
  そして
  他のユダヤ人たちも
  彼(ペテロ)と共に
  見せかけの・・・本意ではない
  役割を演じた。
  そのために
  バルナバ・・・・場留名葉
 (マルコの従兄弟)も
  彼(ユダヤ人)らの
  見せ掛けに
  引きずり込まれた。
  しかし、
  福音の真実について
  彼(ユダヤ人)らが
  真っ直ぐ歩んでいないのを
  私(パウロ)が見たとき、
  皆の前で
  私(パウロ)は
  ケパ(ペテロ)に言った。
  『ユダヤ人である
   あなた(ペテロ)が
   異邦人風のように生きて
   ユダヤ人のように
   生きないのなら、
   どうして
   異邦人たちに
   ユダヤ人風に
   生きることを
   あなた(ペテロ)は強制するのか』と」
   ↓↑
 ペテロの第二の手紙
   ↓
 「共卓」は「ユダヤ律法」では違反
 「ユダヤ人のペテロ」が
 「共卓禁止命令」が伝えられる前は
 異邦人キリスト教徒たちと
 仲良く
 「共卓」をしていた
 にもかかわらず
 「共卓禁止命令」が伝えられた後
 異邦人キリスト教徒たちに
 ユダヤ人(ユダヤ教)風に
 生きることを強制=「共卓を止めるor割礼」
   ↓↑
 強制の対象は
 アンティオケヤ教会の
 ユダヤ人(割礼)メンバー  
 「共卓を拒否する人」=ユダヤ律法に縛られた割礼者
           ユダヤ律法を守るユダヤ
  ↓
 アンティオケヤ教会の
 メンバーの凡ては
 ユダヤ人(割礼者)も、非ユダヤ人(異邦人)も、
 もはや
 「凡てのキリスト信者」である、
 「ユダヤの律法」とは無関係である
   ↓↑
 「パウロの立場」=共卓=非差別のキリストの立場
 「ペトロ」は
 キリスト(神)に従うのではなく
 教会組織の
 (ユダヤ人)指導者=「ヤコブ(キリストの兄)」
 に従うのは誤りである・・・と、非難・・・
  ↓
 「ペテロ(ユダヤキリスト教徒)」は
 「パウロ(ヘレニスト=ギリシャユダヤ人)」
 に「悪者視」された・・・?
 神(キリスト)よりも
 人の組織の権威を優先させた・・・
 マルコ福音書での
 キリストのペテロ批判
 「サタンよ去れ」は
 悟らぬ
 「ペテロ」への
 キリストの戒め・・・訓告で
 「ペテロはサタン」・・・ではない・・・
ーーーーー
 ・・・ヒトの「行為」はその「時々の状況」による・・・だが、「本心」はオブラートに包まれるか・・・あるいは薬莢に包まれているカモ・・・「パウロユダヤ人防衛主義者=ユダヤ民族主義者」だったカモ・・・
 ・・・ヒトの「コトバ」もその「時々の状況」による・・・「本心」を隠して「方便」をカタルことで・・・自分も相手も「救われる」カモ・・・モチロン、圧倒的なローマ軍の暴力を抑制するため、「汝の敵を愛せ」とは、「民族主義者の方便」であったカモ・・・?・・・
 「マルコ傳」にある「キリストの教え」とは「奇蹟」でも、「軌跡」でも、「鬼籍」でも、「奇石」でもない・・・
 ローマ帝国(皇帝=セザル=シーザー=カエサル支配下の属国ユダヤ國家に生まれた「キリストの教え」とは「ユダヤ人同朋」に「我、誠に汝等に告ぐ」・・・「蓋し、(家の主の来たる)期の何時なるべきかを(誰も)知らざればなり」・・・ユダヤ国家の「硬直した律法」と「倫理、道徳の秩序腐敗」している預言者の首を盆に乗せてドンチャン騒ぎのユダヤ支配階級の重税に喘いでいる「ユダヤ人同胞」・・・「然れば、汝等、警戒せよ」・・・である・・・「セザル」とは「ユダヤ王」ではなく、彼を支配下に置いている「ローマ皇帝」である・・・ユダヤ人の解放の地は「天国」ではなく、「生きていく地上の國」である・・・
 「第七項・第十章(マルコ聖福音書)」
 「十八」
 イエズス、是に曰ひけるは、何ぞ我を善きと云うや、
 神独りの外には善きものなし
 「十九」
 汝は掟を知れり、
 「姦淫する勿れ」
 「殺す勿れ」
 「盗む勿れ」
 「偽証する勿れ」
 「害する勿れ」
 「汝の父母を敬へ」
 と是なり、と。
 「二十一」
 「有(も)てる物を悉く賣り之を貧者に施せ」
 「二十三」
 「難い哉、金を有(も)てる人の神の國に入る事」
 「二十四」
 「難い哉、金を恃(た)める人の神の國に入る事」
 「二十五」
 「・・・駱駝が針の孔を通るは易し、と」
 「三十」
 「誰にてもあれ・・・後の世にては
  永遠の生命を受けざるはなし」
 「三十一」
 「但し、多く先なる人は後になり、
       後なる人は先なるべし」
 ・・・?・・・これって、先に死ぬ人は後に永遠の生命を受け、後に死ぬ人は先に永遠の生命を受けざるはなし」ってコト?・・・「細胞バンク」に「細胞(DNA)・万能細胞」を保管しておかなくちゃァ・・・
ーーーーー
 ・・・なるほど、「火葬」よりも「土葬」か「木乃伊」でなくちゃぁ・・・「永遠の生命」はムリ・・・
 ・・・再生されたら「ゾンビ」かも・・・