1620日目・・・ 1620日目・・・「古事記・日本書紀」の「また(又・叉・俣・股・復・亦・全)=マタの名」→「マタのメイ」・・・「亦」=「亠(音の略字・トウ・ズ)」+「刂(刀の略字・かたな・トウ・ト)」+「八(や・やつ・ハチ・ハツ)」・・・「廣州亦名羊城」=「広州は、亦(また・エキ・腋=わき)の名は、羊城(ヨウジョウ)とも呼ぶ」・・・「羊(ひつじ)の城(しろ)=十+一+成(万戈)」なら、「未白(未だ白ならず)」である。人物なら「高田未白(寛永七年・1630〜正徳五年十二月十四日・1716)国学者。山崎

 「辟易=項王瞋目而叱之、赤泉侯人馬倶驚、辟易数里(史記項羽本紀)?→避けて路を変える意・重い刑罰を易する?・処刑・腰を斬る?」・・・「辟雍(ヘキヨウ)は西周時代の中国の高等教育機関、学校=五学=太学」である。「太く学ぶ」とはネッ。これは「孫 詒譲(ソン イジョウ・1848年〜1908年)・字は仲容、号は籀廎。清末の学者・教育家」の「墨子家(墨子は兼愛、非攻の思想家・紀元前450〜390頃)」の説らしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前450〜390」である。
 釈迦誕生の推定生没年は、
 「紀元前624年〜紀元前544年南伝(上座部仏教)」説、
 「紀元前566年〜紀元前486年北伝(衆聖点記)」説
 があるらしい。
 キリスト誕生以前の「紀元前566年〜486年」である。
 誕生日は中国暦「4月8日」、インド系太陽太陰暦「第2月15日」で、「花祭り・華祭り」である・・・
 ・・・「辟=尸+口+立+十」を伴なう漢字・・・「譬=辟+言」は「譬喩=ヒユ=比喩」の「たとえ(譬)=例え・喩え・仮令」である。
  「譬説(ヒセツ)」、「譬喩(ヒユ)」、「譬諭(ヒユ)」、「譬喩尽(たとえづくし)」があり・・・人体では「臂(ひじ・ヒ)=辟+肉」である。
 「辟=尸+口+立+十」は「シカバネ(屍)、カバネ(姓)のクチ、タツ、十字架」・・・「尸」=「屍体、亡骸、かたしろ、晒す、司る、連ねる、陣を並べる、怠る、実体の無い」、「尸」=「陳(つら)ぬるなり(説文解字・巻八)・陳なり、主なり、簳なり(爾雅・釈詁)」、「字形は屍体の臥せるところの象形」・・・「死体解剖=dissection of a dead body=necrotomy」・・・
 デッド・ボディ=dead body(英語)
 ライヒェ=Leiche(独逸語)
 コール=corps(仏蘭西語)
 カダベル=cadáver(西班牙語)
 カダバル=kadaver(阿蘭陀語・和蘭語)
      lijk
      kreng
      「解体新書」=杉田玄白
             中川淳庵
             前野良沢
       刑死者の腑分(ふわけ=解剖)
       弟子の
       大槻玄沢が改訳
      「重訂・解体新書」
       寛政十年(1798年)脱稿
       文政九年(1826年)刊行
      ドイツ人医師
      ヨハン・アダム・クルムスの医学書
      「Anatomische Tabellen(解剖図譜)」
             たべれん?
       のオランダ語
      「ターヘル・アナトミア
       日本語漢字でのルビ
      「打 係縷・亜那都米」
      「Tabulæ Anatomicæ=解剖(学)図表」
      「ターヘル」が「表」、
      「アナトミイ」が「解剖」
      「Ontleedkundige Tafelen」
      「Tafelen」は「テーブル=図表」
             たふえれん?
 カダーヴル=cadavre(伊太利亜語)
 カダーヴェレ=cadavere(伊太利亜語)
  ↓
 ・・・「白石」は「涅(そ)めても涅めても黒くならず、磨(と)いでも磨いでも薄くならず(論語・陽貨篇)」の意味。「涅」の漢字は元来「釈迦」が入滅した「陰暦二月十五日」の「涅槃(ネハン)=解脱・安楽寂滅」の熟語に使われる漢字である。他には「涅歯(デッシ・ネッシ)」があり「歯を黒く染めるコト」である。「涅=氵+日+土(十一)」は「デツ・ネチ・ネ・ネツ・くろつち・どぶどろ・くろ」と漢和辞典にある。
 兎に角、「亦」である・・・
 「説文解字・巻十」には「亦」は「人の臂亦なり」とある。 字形は「人の正面形に両脇を示す点を加えた指事(または象形)」、「臂亦=ヒエキ・臂(ひじ)と亦(わき)・亦はワキの下の腋」、「説文」に「大に從ひ、兩亦(両脇・両腋)の形に象る」とある。「腋の初文」とも・・・「わき(和記)・エキ(易)」・・・
 釈迦の誕生譚・・・母のマーヤ夫人が「白い象」が体の中に入る夢をみて妊娠し、臨月で里帰りする途中、アショーカ樹(サーラ樹)の花が満開のルンビニー園で休憩。マーヤ夫人はその花を取ろうとして右手を伸ばした時に釈迦は「夫人の右の脇腹(腋腹→亦腹)」から生まれた・・・「形象→白象→白像→想像」、「脇腹(腋腹→亦腹)」・・・「天上天下唯我独尊」・・・
 ボクの持っている「新約聖書(ラゲ訳・東京大司教出版)」には、
 「幼児・幼子」キリストに使用された漢字は
 「孩兒(おさなご・ガイジ・カイシ)」であった。
 「孩」=孑(ひとり・ぼうふら・ケツ・ケチ)+亥
     子(こ・ね・シ・ジ)+亥(い・カイ・ガイ)
 「兒」=臼(うす・キュウ)+儿(ニン・ジン)
     兒=児=旧(ふるい・キュウ・ク・グ)+儿
         旧=「舊」の略体
 「孩」は「孑(子)」は「亥=猪」である。
 「古事記」の「猪」とは「伊吹山(伊服阜能山)の白猪(白豚)の神」であった。「日本書紀」では「五十葺山(膽吹山)」の「大蛇=大巳(大蝮)」である。
 ヤマトタケル=倭建命=小堆皇子
 「亦の名」は
 「日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)」
       和談に具えるナメイ(ダメイ)
           命=みこと=いのち
  ↓
 「新約聖書」では
 「アルフェオ(Alfeo)の子」で、「税吏」であった「使徒マタイ」によって書かれたとされている『マタイの福音書』、『マタイ福音』、『マタイ伝』、『マタイ』・・・
 「アルフェオ(Alfeo)」の名前は「モンテ アルフェオ オットーネ ピアチェンツァの州、トレッビアの左岸で、中央イタリアのコミューンの領土内に位置するリグーリア州アペニンの山」・・・
 「アルファ-ベット(alpha-bet)」・・・
 「Alfeo(アルフェオ)」は「ギリシャ神話のオルフェウス(Ὀρφεύς, Orpheus)」の訛りカも・・・?
 「アルフェオ(Alfeo)→オルフェ( Orfeo)」・・・
 「オルフェオとエウリディーチェグルック)・
   (Orfeo ed Euridice)
  グルックが作曲したオペラ。1762年初演」
 のオペラに「森鴎外の翻訳」・・・
 モノガタリ
 「黄泉(よみ・冥土・冥界)の国」に
 「妻の伊邪那美命を求めに行った」
 「夫の伊邪那岐命
 ・・・と重なる・・・?・・・
ーーーーー
 古事記原文・・・島生み・・・
  ↓
 於是
 二柱神議云。
 今吾所生之子不良。
 猶宜白
 天神之御所。
 即共參上。
 請
 天神之命。
 爾
 天神之命以。
 布斗麻迩爾
 【上。此五字以音】
 ト相而詔之。
 因
 女先言而不良。
 「亦」
 還降・・・・刊行?
 改言。・・・改元
 故爾・・・・古事・故事・古字・虎児?
 反降。・・・反抗・犯行・版行?
 更往
 迴其
 天之
 御柱
 如先。
 於是
 伊邪那岐命
 先言
 阿那迩夜志愛袁登賣袁。
 後
 妹
 伊邪那美命
 言。
 阿那迩夜志愛袁登古袁。
 如此言竟而。
 御合。
 生子
 淡道之穗之狹別嶋
 【訓別云−和氣−下效此】・・・別=和氣
 次生
 伊豫之二名嶋。
 此嶋者身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 伊豫國
 謂
 愛(上)比賣【此二字以音下效此】
      「この二字は音読み
    (以)下は此れに效(効・なら)へ」
 讚岐國
 謂
 飯依比古。
 粟國
 謂
 大宜都比賣【此四字以音】
 土左國
 謂
 建依別。
 次生
 隱伎之三子嶋。
 「亦」−名
 天之忍許呂別【許呂二字以音】
 次生
 筑紫嶋。
 此嶋−「亦」−身一而有面四。
 毎面有名。
 故
 筑紫國
 謂
 白日別。
 豐國謂豐日別。
 肥國
 謂
 建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】
 熊曾國
 謂
 建日別【曾字以音】
 次生
 伊岐嶋。
 「亦」−名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】
 次生
 津嶋。
 「亦」−名謂天之狹手依比賣。
 次生
 佐度嶋。
 次生
 大倭豐秋津嶋。
 「亦」−名謂
 天御虚空豐秋津根別。
 故因此
 八嶋
 先所生。
 謂
 大八嶋國。
 然後還坐之時。
 生
 吉備兒嶋。
 「亦」−名謂建日方別。
 次生
 小豆嶋。
 「亦」−名謂
 大野手(上)比賣。
 次生
 大嶋。
 「亦」−名謂
 大多麻(上)流別
 【自多至流以音】
 次生
 女嶋。
 「亦」−名謂
 天一根【訓天如天】
 次生
 知訶嶋。
 「亦」−名謂
 天之忍男。
 次生
 兩兒嶋。
 「亦」−名謂
 天兩屋。
 【自
  吉備兒嶋
  至
  天兩(両)屋嶋
  并
  六嶋】
ーーーーー
 新約聖書(マタイ傳)・・・亦異伝・亦遺伝
 ↓            又叉俣・復股・摩他
 現代語訳
 第17章
 17:1
 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 17:2
 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
 17:3
 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
 17:4
 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
 17:5
 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
 17:6
 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。   17:7
 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
 17:8
 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
 17:9
 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
 17:10
 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
 17:11
 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。
 17:12
 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。
 17:13
 そのとき、弟子たちは、イエスバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
ーー↓↑ーー
 17:14
 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
 17:15
 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。 17:16
 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
 17:17
 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。
 17:18
 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。
 17:19
 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
 17:20
 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
 17:21
 「しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」・・・?
  ↓
 ?・・・『然(されど)、此類(このたぐい)は、「祈祷」と「断食」とに由(よ)らざれば遂(爫豕辶)出(おひださ)されざるなり』・・・「祈祷」と「断食」がナゼ必要なんだか・・・?・・・これは「信仰が足りないから」ではない、と、イエス自身が否定的に云っているのだ。「釈迦」と同じ「修行」が必要だったのか?・・・
 「遂(ハ豕辶・逐→駆逐)出」=おひだすモノは、猪、豚。「豸(爫+犭)+ト」=「ツメ冠のケモノ偏のト」・・・「豸(むじな・チ、ジ)=「のそのそと這いながら進む・足のない這いながら進む動物の総称・むじなへん」+「卜(うらない・ボク)」・・・「彖(タン・太ったブタ・かくれる=コッソリと物陰に隠れる・易経で一卦ごとに対する総論)=彑(けいがしら・いのこがしら)+豕(いのこ・豚・シ)」・・・
 「遂(とげる・ついに・スイ・ズイ)」
 と
 「逐(おう・チク・ジク)」、
 「豸+ト」
 と
 「彖」は混乱しているらしい・・・
  ↓
ーーーーー
 絡める・からめる・カラメル・・・キャラメル
  ↓
 「キャラメル」の語源
 フランス語の「caramel(カラメル)」
 ラテン語の「calam-us(葦・あし)」
 に語尾がついた・・・「us→ゥス」
 「calamell-us(小さい葦・あし)」が、
 ポルトガル語の「caramelo(カラメロ)」となって、
 フランス語の「caramel」になった・・・
 ↓
 ラテン語の「calamus(葦)」=砂糖黍
 スペイン語ポルトガル語)の
 「caramelo(カラメロ=甘いもの)」が
 フランス語「caramel(キャラメル)」に入り
 英語の「caramel」に・・・
 砂糖を熱して
 重曹
 固めた
 軽石のような
 お菓子
 「軽目焼き(かるめやき)」は「caramelo」
 「calamus」から生まれた
 「caramelo」が
 ポルトガル語
 「charamela(チャラメラ)」は
 葦で作った笛のこと
  ↓
 日本語では、
 キャンディー菓子の
 「キャラメル」に対し、
 「カラメル(浮石糖)」は
 水と砂糖のみを熱して生じた液体
 ↓
 キャラメル(caramel)は、
 16、17世紀に
 ポルトガルが伝えた
 カラメルとは
 別モノで
 森永製菓創始者
 森永太一郎が
 アメリカで製法を学んで創作
 ↓
 日本の
 キャンディ(candy)の歴史は
 飴(あめ)から
 甘い(あまい)から
 日本書紀にも
 飴の記述・・・
 平安時代には貴族の薬用
 江戸時代の初期になって
 麦芽を使い生産
 現在のキャンディ(candy)の多くは、
 明治時代に欧米から
 「candy」→「canーdy」→「can-day」
 「dy」・・・腐植泥,泥炭泥
       dysprosium
       希土類の3価の金属元素
 「dy」・・・「dye=染料」
 「die=死」
       「dynamic・disable・dyad」
  ↓
 「キャラメル」の語源の一つ・・・
 インド由来の単語
 「伽羅(きゃら)」と
 「スメール山」の
 合成語だという・・・
 伽羅(沈香)は
 甘い匂いを漂わせる香木で
 色もキャラメル色・・・
 スメール山(須弥山)には
 甘露と呼ばれる雨が降る・・・
  ↓
 森永製菓の創業者
 森永太一郎(もりながたいちろう)
ーーーーー
  ↓
 「華厳経(けごんぎょう)
  梵語: Avataṃsaka Sūtra
    アヴァタンサカ・スートラ)
 「大方広仏華厳経
 (だいほうこうぶつけごんきょう
  梵語: Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtra
     マハー・ヴァイプリヤ・ブッダ
            アヴァタンサカ・スートラ)
 初期大乗仏教経典
 経名は
 「大方広仏の、
  華で飾られた
  (アヴァタンサカ)
  教え」の意
  「大方広仏」
  時間も空間も超越した
  絶対的な存在としての
  仏という存在について説いた・・・
 ↓
 元来は
 「雑華経(ぞうけきょう)
  梵語: Gaṇḍavyūha Sūtra
  ガンダヴィユーハ・スートラ)
 「様々な華で飾られた
  荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」
 とも呼ばれ
、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という
 仏が本尊
 「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、
 「太陽の輝きの仏」と訳し、
 「毘盧舎那仏」と音写される。
 「毘盧舎那仏」は、
 真言宗の本尊
 「大日如来」と同一の仏
  ↓
 華厳経にも、
 「如来蔵」思想につながる発想・・・
  ↓ 
 陽光である
 毘盧舎那仏の智彗の光は、
 すべての衆生を照らして
 衆生は光に満ち、
 同時に
 毘盧舎那仏の宇宙は
 衆生で満たされている。
 これを
 「一即一切・一切即一」とあらす
 「あらゆるものは
  無縁の関係性(縁)」・・・?
  によって成り立っている
 「法界縁起」と呼ぶ
 「六十華厳」の中で特に重要なのは、
 最も古層に属する
 「十地品」
 「入法界品」の章
  ↓
 「十地品」
 菩薩が踏み行なうべき十段階の修行
 六番目までは
 自利の修行が説かれ、
 七番目から十番目までが
 利他行が説かれている
  ↓
 「入法界品」
 「善財童子(ぜんざいどうじ)」
 という少年が、・・・キリストも子供を例えて説いた
 人生を知り尽くした
 53人の人々を訪ねて、
 悟りへの道を追究する物語
 ↓
 唐の
 法蔵は
 「華厳五教章」
 において、
 五教十宗判の教相判釈を行い、
 華厳の教えを最高とした
  ↓
 第二章
 廬遮那品
 ・・・「因縁」とは「諸関係」というコトだろう・・・道で相手の目を見て「因縁」をつけられる・・・「如来の神通力」ではないだろう・・・
  ↓
 「わたしは、生死の海のなかで、
  ことごとくかなぐりすてて、
  国を浄めることだけを修した」・・・
 「怠惰なものは、
  ふかい
  方便の海を解わかることができない。
  努力精進の力が完成することによって、
  仏の世界は浄められて行く」・・・?
 ・・・「仏の世界」ではなく、浄められて行くのは「俗人の世界」である・・・
  ↓
 第五章
 如来光明覚品
 「仏の説きたもう
  真理は、
  はなはだ深くて、
  色もなく形もない。・・・目では認識できないモノ
  その境界は、
  すべての
  煩悩をこえ、
  すべての
  我執をはなれて、
  空寂であり、
  清浄である。
  さとりの世界は・・・悟りの世界とは「脳ミソ機能」
  広大無辺であり、
  そのなかで
  万象は関連しあって・・・関連とは「関係」である
  起っている。
  その一々が
  ともに
  解脱しており、
  もともと
  つねに空寂であって、
  すべての
  まどいを
  はなれている」・・・纏わりを離れている?
   ↓
 菩薩のつとめ
 「(1)人間界や天上界における
     快楽の心をはなれて、つねに
     大慈心を行じ、
     すべての衆生をすくいまもれ
  (3)とこしえに生死の海をはなれ、
     仏法のながれにしたがい、
     清涼の智慧に安住せよ
  (5)過去現在未来の
     無量であることをしり、
     怠慢の心をおこさないで、
     つねに仏の功徳をもとめよ
  (6)自身のありのままの
     実相を観察し、
     すべては
     みな寂滅
     していること・・・無常とは
              変化で寂滅ではない
     をしって、
     我
     や
     無我
     にたいする
     執着をはなれよ・・・無我は既に無執着である
  (7)衆生の心を観察して、
     まよいの想いをはなれ、
     真実の境界を完成せよ
  (8)無辺の世界に思いをはせ、
     すべての大海を
     のみつくすほどの
     神通の智慧を完成せよ・・・「神通力」?
  (9)諸仏の国土の、
     形あるものと・・・存在・・・形而下
     形ないものの・・・認識・・・形而上
     すべてをしれ
 (10)はかりしれない
     仏国土の、・・・
     一つの塵を
     一仏となし、
     かくして
     すべての塵を
     諸仏となせ
 そのとき、
 仏の光明は、
 無数の世界を照らしだし、
 世界のありとあらゆるものがあらわれでる
  ↓
  第六章
  菩薩明難品
 すべてのものは、
 自性を持たない。・・・関係性である
 あらわれているということにも、
 なんの自性もない。・・・関係性である
 ただしく
 思惟し、
 ありのままに
 観察すれば、
 すべてのものに
 自性のないこと・・・・関係性であるコト
 がしられる
 このような
 心眼は、・・・・・・・「心の眼」は脳ミソ機能
 清浄であり、
 不思議である
 だから、
 虚妄といい、
 虚妄でないといい、
 真実でない
 ということなどは
 かりのコトバにすぎない・・・「コトバ」自体である
  ↓
  教化・・・教化される存在とは「無知」者
  ↓
 「智慧の明かなひとは、
  つねに寂滅の行をねがっている。
  身体を内から観察してみるに、
  いったい、
  わが身になんの所在があろうか。
  どこにも、
  そのもとづくところの根拠がない。
  このように、
  身体の状態をさとっているものは、
  からだのどこにも執著することがないであろう。
  身体のありのままの状態をさとり、
  すべてのことがらに了達しているものは、
  いかなるものも
  すべて虚妄・・・妄想観念
  であるとしって、
  さらに、
  その心にも、
  執著しないであろう。
   ↓ 
 因縁・・・・諸関係
 によって
 おこるところの業は、
 生滅流転の
 一切の世界は、
 ことごとく
 因縁から起っており、
 刹那刹那に消滅している。・・・生成消滅生成
 智者は、
 すべての存在は・・・認識対象存在
 無常迅速であり、
 空にして自我はないと観察し、
 執著のイメージをはなれる」 ・・・
 (これを体得することをさとりという)
 仏が、
 衆生
 解脱せしめられるときは、
 衆生
 こころや
 智慧
 したがって
 仏法をのべられる。
 そしていくらのべられても、仏法は尽きることがない。
 このように
 仏は、
 衆生にしたがって、
 自由自在に
 衆生の世界に入りたもうけれども、
 仏の智慧は、
 つねに寂然としている。
 これが、ただ仏だけの境界である。 
 仏の境界は、
 業でもなく、煩悩でもなく、
 寂滅していて、
 よりどころもないが、
 しかし、
 平等に
 衆生の世界に活動している。
 一切衆生のこころは、
 過去、未来、
 現在のなかにあり、
 仏は、ただ一念において、
 衆生のこころをことごとく
 明達しておられる」
 ・・・
ーーーーー
 十二因縁・十二支縁起
 1.無明
  過去世の無始の煩悩・迷い
 2.行
  志向作用・物事がそのようになる力=業
 3.識
  識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
 4.名色
  物質現象(肉体)と精神現象(心)
  実際の形と、その名前
 5.六処
  六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
 6.触
  六つの感覚器官が、感受対象が触れること
  外界との接触
 7.受
  感受作用。六処、触による感受
 8.愛
  渇愛
 9.取
  執着
 10.有
  存在。生存
 11.生
  生まれること。
 12.老死
  老いと死
 ・・・ご立派・・・デス・・・どうやら、「釈迦」は覚ってなかったようである・・・悟りきれない存在であるコトをサトルてはイナイ?・・・
  ↓↑
 そして、中国人仏僧は「中華の芯」を「シン(秦国・支那・晋国・新国・清国)=チャイニーズ(Chinese)、秦(sino)の国」と解釈し、「ローマ(羅馬)帝国」を
 「太秦(大秦)国=和帝の
          永元九年(97年)
          西域都護の
          班超が
          甘英を使者として
          大秦に派遣」
          桓帝
          延憙九年(166年)
          大秦国王の
          安敦(アントン=アントニヌス)
          の
          使者が日南郡に訪れて
          象牙・犀角・玳瑁を献上
          初めて(大秦と漢は)
          交流」
 と記し、その後の近代英国人は「sin=罪」と解釈?し、江戸時代、明治教養人は解釈に混乱し、その後「太秦(うずまさ)」に映画会社が乱立されたが、東宝(J.O.スタヂオ)は1941年に閉鎖し、跡地は
 「大日本印刷(1876年=明治九年、前身は秀英舎)」の京都工場工場となった。
 「秀英舎」は
 1935年(昭和十年)2月26日に
 「日清印刷」と合併
 「日清印刷」は
 東京専門学校(早稲田大学)の印刷所だった・・・
 「秀英舎」は
 佐久間貞一
 宏仏海
 大内青巒
 保田久成が共同出資し
 活版での印刷会社として
 東京京橋の
 弥左衛門町に創立
 佐久間が
 大教院・・・尊皇愛国思想の教化
      (大教宣布)をするための機関
       明治八年(1875年)四月
       神仏合同布教禁止の令
       五月、大教院は解散、閉鎖
 の教会新聞発行を引継ぎ、
 その印刷のために
 活版所を買い取ったのが由来
 秀英舎は主に新聞印刷や、
 中村正直
 「西国立志編
 の活版による再版などに
 代表する書物の印刷会社として発展・・・
  ↓
 「シン」・・・サンスクリット語では「獅子(しし)」だが、「虎」である。獅子舞の龍の顔は「ライオン?」で、「虎」ではない・・・漢字の「辰(シン)」は日本語で「たつ=龍・竜」だが「リュウ・ロウ」?・・・「獅子(しし)」とは「鹿」か「猪(亥)」である・・・
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 宗教には
 「奇蹟・奇跡」が必要で、
 「比喩」が必要である・・・「一切衆生(この世に生を受けたすべての生き物)」は「無知」だから・・・勉強しなくちゃぁネッ・・・だが、「教化する者」も「教化される者」も、「一切衆生」で、亦、「塵」の「因縁=関係性」で蠢いているハズ・・・?・・・「教化」とはダレに対するモノ・・・コトバを理解する前に先ずはコトバを覚えなくちゃァ・・・その前に喰わなくちゃ・・・
 キリストの最大の奇蹟は「群集(婦女、幼童を除いて五千人、四千人)に二度に与えたパン(麺=麪=ベン・メン=麦・麥+丏)の配給」、「マタイ伝(14章20・21)」と「マタイ伝(15章37・38)」である。
 「麥+丏」の
 「丏(しかばね・おおう・ベン・メン)」とは、隠れるという意味の字である。
 「丐(こう・カイ・乞う、乞食という意味)」
 とは別の字・・・丐は匄(匃)の異体字・・・
 彼以外にこの「奇蹟」を行った宗教家は存在せず、類似するのはモーゼの民は放浪中、天から降り注いだ「マナ(Manna)」で飢えを凌いだ・・・旧約聖書出エジプト記・第16章」イスラエルの民が「シン」の荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせた。人々は「これは何だろう」と口にしたことから「マナ=これは何だろう」を意味するヘブライ語になる・・・「真名・真魚」である・・・
 麦
 wheat(ウィート)=小麦
 barley(バーリィー)=大麦
 rye(ライ)=ライ麦・裸麦
 oats燕麦・・・「オートミール(oat meal)」
         「オーツ麦の食事」
         「粥状に調理したもの」
         「煮たモノ・porridge
          英俗語で
          刑期
          刑期をつとめる
          do (one's) porridge)」
  「meal」・・・「マナ」の音には繋がらないが「まんま(マンマ)」は「飯(めし・いい・まんま・まま・ハン・パン・ボン)」である・・・だが漢字はナゼか「飯=食+反」?・・・「魚(まな→真名仮名)」の混じった「炊き込みご飯」で「瀧(多伎・他記)込み語判(誤判)」である・・・鳴滝塾・・・座当の市さん、「めしい(盲目)」の、「一宿一飯の義理」である・・・
 「教化」って、「思想教育」、「洗脳教育」、「人間改造教育」・・・「思想」でない「コトバ」なんかは無いのに・・・ネッ・・・「命令キョウカの社会」・・・
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 キャラメルを「カラ」メル・・・絡める・・・
  ↓
 1899年(明治32年
前身の森永西洋菓子製造所を設立する。
 1912年(大正元年
森永製菓株式会社となる。
 1914年(大正3年
 ポケット用
 箱入りミルクキャラメルを発売
 1919年(大正8年
 ミルクココアを発売する・・・
 ・・・「見る句は個々、亜(アマネシ)」である・・・カナ・・・