1619日目・・・「叶(かな)う」と云う漢字は「口+十」である・・・口に十字架である。「騙(だま)す」と言う漢字は「馬+扁」である・・・訓読みで同音異字漢字に「欺す・瞞す・黙す・珠数」がある・・・「馬」に偏っているのは「司馬遷の史記」か、「馬喀伯(マカベ)、瑪拉基(マラキ)書の旧約聖書」、「馬太(Matthaeus・馬瓄(王+賣)=マテヲ=マチュウ・瑪太・マタイ・摩太)伝の新約聖書」、「馬可(マルコ)伝の新約聖書」で、「約瑟(ヨセフ)」の妻「馬利亜(マリア)」である・・・ヨセフのヤクはオオゴト、ヨメのマ

 以下の原文は、「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」で、参照、参考にして「部分添付」・・・少々改作・・・
ーーーーー
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/3916/1/kyoyo115_kato_ma.pdf
 「中国語訳聖書」
 Bridgman(柳治又)
 Culbertson(克陛存)
 の訳による
 『新約全書(漢文)』は
 ヘポンやブラウンの翻訳に
 欠かすことのできない
 参考資料であった
 この『新約全書』は日本人用に訓点がほどこされ
 何度も出版
 1859年に出版
 明治十六年にはすでに日本語訳が完成していたが
 漢文訳が重宝された・・・らしい・・・
 ボクの持っているのは日本語訳は親父が形見に遺してくれた公教宣教師「ラゲ」訳の「新約聖書」で、
 名古屋にいた時に友人の「K(女性)」さんが台湾在住時に贈ってくれた「聖経(新旧聖書)」で、「新標點和合本(上帝版)」である。
ーーーーー
  ↓
 (漢訳聖書)
 ブリッヂマン訳
 明治16年横浜刊行本
 ブリッヂマン訳の「日本語」になった言葉
  ↓
 耶蘇
 神
 聖霊
 預言者
 異邦人
 諸信者
 祈祷
 奥義
 栄光
 嗣業
 施洗礼
 受洗礼
 肉之欲
 迫害
 黙示
 神之子
 聖書
 地之塩
 世之光
 旨
 偽善者
 密室
 誘惑
 誠
 ↓↑
 中国語の聖書「和合本(胡蝶本)」の参考、参照から・・・「日本語聖書の漢字」になった・・・
 中国語の「翻訳」事情
 1853年「代表訳」と「公認本文」
 1853年の「代表訳」には
 翻訳の底本として
 ギリシャ語の
 「公認本文」
 を用いることが決められていた
 エラスムスによる
 「新約」のギリシャ語本文の刊行は
 ルター訳や欽定訳
 ルターは同時代人である
 エラスムスギリシャ語本文を用いたが
 かなりの部分で
 ラテン語ウルガタに依拠
 キング・ジェームスの欽定訳(1611)は
 ティンダルなどの前人の業績や
 ドイツ語のルター訳を参考
 ギリシャ語の底本にはエラスムスの系統にある
 ギリシャ語校訂本が用いられた
 「公認本文」とは
 エラスムスにまでさかのぼり
 「欽定訳」の
 底本となった
 校訂本を総称して呼ぶ名称
 ・・・ロリー(WalterMacorLowrie)の
 「The Land of Sinim
       (シニムの国)」という本で・・・ロウリーは「イザヤ書49章12節の“Sinim'」という「今でも定説の無い地名」が「中国」を指している・・・と言っているらしい・・・「和合本」では「Sinim=秦」の漢字を本文に採用し、原文の「Sinim=シニム(希尼)」の訳注を「中国・支那」であるとしているらしい・・・
 ギリシャ
 「ゼウス(Zeus)=古希Ζεύς」・・・雷神、天空神
 Ζεῦ πάτερ(zdêu páter ズデウ パテル)
 ディオス (θεos dios )
 ヘレネス(ギリシャ)の神
 他に神をいう語には
 テオス(theos・ラテン語デウス)
 Ζεύς
 Zeus
   ↓
 「shanti(シャンティ)」・・・何語?
 シャンティ(Shanti)とは、
 インドのサンスクリット語で、
 直訳すると、「平和、至福、祈り」、
 「安らぎ、心の平安、静寂」という意味
 「shen(シェン)」・・・神・申?
   ↓
 「shanti」とは
 日本語で「神」と訳されているモノを
 中国語で「上帝」と訳
 「shen」とはそれを「神」と訳
 イギリス系は「上帝」
 アメリカ系は「神」を用い
 中国語では
 「神さま」の訳語が一定しておらず
 「和合本」も二種類の版
 「代表訳」の時から現在まで未解決の問題で
 「上帝」に対して
 ブリッヂマンが
 「神」を用いた日本語改訳を行い
 それが「日本の聖書」に影響を与えた・・・
 ・・・「上程(議案などを会議にかけること)」の「紙・髪・祇・加味・守」・・・?
 ・・・「ゴット(God は印欧語族中のゲルマン語族系の語・Gott)」の語源は?・・・「ゼウス・ユピテル」の「音」には繋がらない・・・音が繋がるのは「ゴート族(ゴート語=gutans・独語=Gothe・Gote)・・・
 Godの語源
 ゴート語はゲルマン系言語
 「神」は「guth(ゴート語はゴート文字」
 ローマ字に直して
 「th」=「thorn」、
 ゴート語では
 「thiuth 文字」で記録
 「神」は 「guth」・・・
 ゴートに纏わる言葉として、
 ルネサンス時代に野蛮なという意味で
 「ゴシック(ゴート風の)」
 スウェーデンの地名には
 ゴートが訛った
 「イェーテボリ(Göteborg)」がある・・・?
  ↓
 旧約聖書 ヘブライ語で אלהים (エロヒーム)
 「Ἐγώ εἰµι ὁ ὤν
 (エゴー・エイミ・ホ・オーン)
  =私は在るモノである
  「私は在りて在るものである
   (אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה =ehyeh ’ăšer ’ehyeh)」
  と名乗った事に由来
  「出エジプト記・第3章第14節」は
  漢字のタイトルで
  「申命記」である・・・神=示+申
  「申」とは「雷・雷電」・・・ゼウスの武器
 ヤハウェヘブライ語: יהוה‎)
 ヱホバ
 アドナイ
 エル(単数形)
 エロヒム(複数形)
 
 新約聖書 ギリシャ語で θεου (セオス)
 ΘΕΟΣ=θεός (tʰeós テオス)
 ・・・「Y・H・W・H」・・・このアルファベットの「子音」に「a・i・u・e・o」の母音を接続して音を採って読んだら何通りに読めるか・・・
   a i u e o
   ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
 Y→ya・yi・yu・ye・yo→ヤイュヱヨ
 H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
 W→wa・wi・wu・we・wo→ワヰウヱヲ
 H→ha・hi・hu・he・ho→ハヒフへホ
 ・・・「ヤハウェ」・・・
 以前にも書き込んだが
  ↓
 ラテン語: zeta ゼータ
 アメリカ以外の英語: zed [zɛd] ゼッド
 アメリカ英語: zee [ziː] ズィー
 ドイツ語:zett [tsɛt] ツェット
 オランダ語:zet [zɛt] ゼット
 スラヴ語(チェコ語 他):ゼト
 インドネシア語:ゼッ
 イタリア語: zeta ゼータ
 フランス語:zède ゼド
 スペイン語: zeta セタ
 ポルトガル語:ゼー
 エスペラント:ゾー
 日本語では「ゼット」と呼ぶことが多い
 (オランダ語発音と同等)
 中国語で「ズィー」と呼ぶ
  ↓
 ZZZ・・→乙乙乙・・→乚乚乚・・→LLL
 Z→G・・・G=C+¬
       G=C+T・・・シィティ・スィティ
    「じ、ぢ」を「指定・視程・師弟・子弟」・・・推定
      g・・・瓢箪型に似る・・・評壇・・・評談
 ラテン語には不要なため
 ラテンアルファベットに採用されず、
 新たに作られた
  G が Ζ の位置に代わりに置かれたが、
 後代ギリシア語の
 Ζ(ゼータ)を
 音写する必要が生じて
 アルファベットの最後に加えられた
 「Z」の文字が表す
 音素・音声は、
 「IPA国際音声記号
  (International Phonetic Alphabet)」
 では
 有声歯茎摩擦音を表し
 有声歯茎破擦音の「dz」をも表す
 フランス語、
 エスペラントでは、
 音素は「z」
 音声は「z」
 英語では、
 基本的に
 「z」だが、
 「-zure 」などでは
 「zj」が融合同化し「ʒ」となる
 ラテン語では、古典期には
 「dz」を表した
 俗ラテン語ではさまざまな音に変化し、
 現在のロマンス語の音につながる。
 日本語のローマ字表記では、
 「z」=ざ行子音
 ヘボン式では
 「i」「y」 の前以外。
 音は、
 「z」(母音の後で a・e・o・uの前)
 「dz」(母音の後以外で a・e・o・uの前)
 「ʑ」(母音の後で i・yの前)
 「dʑ」(母音の後以外で i・yの前)
 という異音に変化する。
 インドネシア語では、
 「z」 のほかに「ʒ」=「Z」を表すことがある。
 フランス語では、
 「z」が動詞二人称複数の
 語尾部分「-ez」を中心に多く使用
 例は "vous aimez(エメ)"
     "Aimez(エメ)-vous(ヴゥ)"
     愛している
      エメ(得女・絵目・重女)
             ズ(図・事)部得
     アイメ(合い目)z ヴゥ(撫有・分得)
 "vous aimez" 同部分を含めた
     語尾の「z」は殆んどの場合、黙字
 但し、そのあとに
 母音が続く場合は「リエゾン(liaison)=連音・接続」して「z」 を発音する。
 スペイン語では、原則として
 「θ」=「T」を表す (ceceo)
 中南米では 「s」である (seseo)
 イタリア語では、「dz」または「ts」である。
 ドイツ語、スオミ語、中国語の拼音では
 「ts」である。
 ・・・リエゾン(liaison→リアイゾン)
        L→乚→乙・遺愛存
              理合い纂
              離アイ存)
  ↓
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BC%E5%BC%81
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E4%BB%AE%E5%90%8D
  ↓
 「ズーズー弁」は、一般には東北方言の俗称
 日本語の
 音韻上
 「し」対「す」、
 「ち」対「つ」
 その濁音
 「じ」対「ず」
 「ぢ」対「づ」
 の区別がない方言
 一つ仮名弁(ひとつかなべん)とも言う
 一つ仮名弁=「ジ=ヂ=ズ=ヅ」の4つが同意
 二つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ=ヅ」の2つが同意
 三つ仮名弁=「ジ=ヂ≠ズ≠ヅ」の3つが別意
 四つ仮名弁=「ジ≠ヂ≠ズ≠ヅ」の4つが別意
  ↓
 鎌倉時代頃の京都では、
 シ(ɕi)、チ(ti)、ス(su)、ツ(tu)
 という発音であり、
 「チ、ツ」は「タ、テ、ト」と同じく破裂音
 「ジ(ʑi)、ヂ(di)、ズ(zu)、ヅ(du)」
 それぞれ清音に対応する有声音で、
 現在の表記での
 「チ(ti)=ティ
  ツ(tu)=トゥ
  ヂ(di)=ディ
  ヅ(du)=ドゥ」
 二文字の発音であった・・・
 「シ」と「ス」は現代と同じ発音
 この段階では
 「ジ、ズ」は摩擦音、
 「ヂ、ヅ」は破裂音
 で発音の差は大きい
 京都では
 「四つ仮名」
 はそれぞれ発音が違う仮名文字として弁別
 1251年に書写された観智院本『類聚名義抄』に
 クジラとクヂラの両方の表記
 個別の単語の中には古くから
 「z」 と「d」 が交替するものがあった
 安房国(千葉県南部)で生まれ育った僧である
 日蓮(1222年 - 1282年)の書簡には、
 「嫁がづ」(本来は「嫁がず」
 「ぢうあう(縦横)」(本来は「じゅうわう」)
 などのように混同した例がかなり見られる
 関東地方では音韻変化が数世紀先行し
 それが西へと広がっていた・・・
  ↓
 室町時代の前期までは、
 京都方言では
 まだ
 鎌倉時代までの発音をそのまま引き継いでいた
 しかし、
 京都では室町時代の中期に
 「チ、ヂ、ツ、ヅ」
 の破擦音化が起こり、
 「チ(ʨi)、ツ(ʦu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
 という発音になった
 このため、
 「ジ(ʑi)、ズ(zu)、ヂ(ʥi)、ヅ(ʣu)」
 という発音になり、
 調音方法が
 摩擦音と
 破擦音となって音が近くなった
 中国資料の『日本寄語(1523年刊)』で
 日本語の「チ、ツ」を表すのに
 破擦音系の漢字が使われていることから、
 この破擦音化は16世紀初頭までには起きていた
 16世紀末の
 キリシタン資料における
 日本語の
 ローマ字表記では、
 「シ(xi)」
「ス(su)」
 「チ(chi)」
 「ツ(tçu)」
 「ジ(ji)」
 「ズ(zu)」
 「ヂ(gi)」
 「ヅ(zzu・dzu)」
 で表されており、
 四つ仮名は書き分けられていた
 ただし、
 このローマ字表記の元となった
 当時のポルトガル語では、
 「j」と「g 」
 「z」と「dz」
 の発音の区別はなく、
 日本語の発音を書き分けるための
 便宜的なものとみられる・・・
 このように
 音が接近したため、
 「ジとヂ」、
 「ズとヅ」の混同が起こり始めた
 室町時代後期には、
 京都でも
 「ジとヂ」、「ズとヅ」
 を誤って書いているものが見られるようになった
 キリシタン資料は
 規範的な言葉を記載しており、
 四つ仮名の混同は少ないが、
 それでも中には
 誤ったローマ字表記のものも見られる
 ロドリゲスの
 『日本大文典(1604年 - 1608年刊)』
 でも、
 「本寺(ほんじ)」→ほんぢ、
 「自然(じねん)」→ぢねん、
 「水(みづ)」→みず、
 「参らず」→まいらづ
 と誤って発音されることが
 京都でも見られると「記述」
 筑紫(九州)では、
 字の読めない
 女の子も誰にも習わずとも言い分けている
 と記録
 越後国新潟県)の
 室町時代後期の書状などには
 「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」
 を混同した事例が非常に多く見える
 この地域では
 16世紀には既に
 四つ仮名の区別が完全に失われ、
 現在の東京方言などと同じ状態に達していた・・・
 江戸時代
 17世紀末の
 元禄時代(1688年 - 1703年)までには
 「ジ」と「ヂ」、
 「ズ」と「ヅ」
 がそれぞれ完全に同音になった
 京都ではこの変化は
 「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
 の破擦音から
 摩擦音へと変化する方向に進み、
 「ヂ(ʥi)」「ヅ(ʣu)」
 が
 「ジ(ʑi)」「ズ(zu)」
 に統合される形になったが、
 撥音(ン)の直後に限っては
 逆に
 摩擦音から
 破擦音へ変化
  ↓
 1695年には、
 『蜆縮涼鼓集』(けんしゅくりょうこしゅう)という、四つ仮名の書き分けのみを専用に扱った書籍が出版
この本の書名は、
 「蜆(し じみ)」
 「縮(ちぢみ)」
 「涼(すずみ)」
 「鼓(つづみ)」
 と四つ仮名を含んだ言葉を集めたもので
 書籍が出版された背景には、
 「四つ仮名」が
 発音上は同音に帰して区別されなくなっていたのに対し、少なくとも知識人層は表記上は厳密な書き分けが要求されており、混乱があったという事情がある。
 松尾芭蕉(1644年 - 1694年)が
 「出づ」を「出ず」と
 書いた例があるなど、
 文人でも混乱する場合があった・・・?
 ・・・混乱ではなく・・・意図的・・・
 明治時代以降は
 歴史的仮名遣
 教育や公の場で使われたが、
 これは
 「四つ仮名」を
 語源通りに書き分けることを要求するものだった。
 しかし、
 現代仮名遣いでは、
 語源に関わらず、
 四つ仮名は基本的に
 「じ」「ず」と書き、
 連濁や同音の連呼などで
 「ち」「つ」が濁った場合に限り、
 「ぢ」「づ」と表記するという方針が取られた
   ↓
 1946年
 には
 「現代かなづかい」が、
 1986年にはそれを改訂した
 「現代仮名遣い」が内閣告示として公布
 四つ仮名は
 語源通りに書き分けることをやめ、
 基本的には本来
 「ぢ」「づ」のものでも
 「じ」「ず」と書くことを基本
 「葛(くず)」
 「屑(くづ)」
 は歴史的仮名遣いで
 現代仮名遣いではどちらも
 「くず」と書かれ、
 「富士(ふじ)」
 「藤(ふぢ)」
 は歴史的仮名遣いで
 現代仮名遣いではどちらも
 「ふじ」と書かれる。
 これは
 発音が完全に同一になったための措置である。
 ただし例外として、
 「鼻血(はなぢ)」、
 「三日月(みかづき)」、
 「気付く(きづく)」
 のように、
 連濁によって
 「ち」「つ」が濁って生じたものが
 明らかである場合や、
 「縮む(ちぢむ)」
 「続く(つづく)」のように、
 同じ音が連呼されたことにより
 有声化したものは
 「ぢ」「づ」と書くと定められた。
 現代の「ぢ」「づ」は
 発音の違いを表すものではなく、
 濁る前の語源を明示するための
 語源的な配慮、
 あるいは
 視覚的な配慮
 同音連呼の場合
 「踊り字」を用いて、
 「ちゞむ」
 「つゞく」と続く場合にも配慮した・・・
 現代仮名遣いでは、
 複合語であるなどの
 語源意識が残っており、
 「ち」「つ」
 などから生じたことが明らかである場合に
 「ぢ」「づ」を用いる
 異論
 例えば、
 「世界中(せかいじゅう)」、
 「稲妻(いなずま)」
 などの語は、
 表記を見れば
 「中(ちゅう)」、
 「妻(つま)」
 が連濁したものだと推測できるが、
 「じ」「ず」で書くと定められた。
 これは、これらの語が
 二語に分解できるという
 意識が現在では薄いと判定
 語源意識が残っていると考えれば
 「せかいぢゅう」
 「いなづま」と書くものだとも考えられる。
 その後、
 「現代仮名遣い」では、
 「世界中」「稲妻」などの一部の語は、
 「じ」「ず」で書くことを本則とし、
 「ぢ」「づ」で書くことも
 許容する・・・
 また、
 漢字音についても、
 連濁で生じたものを除いて、
 全て
 「じ」「ず」に統一する。
 例えば、
 「地」という漢字は、
 歴史的仮名遣いでは
 呉音が「ヂ」、
 漢音が「チ」であったが、
 現代仮名遣いでは
 呉音のものは「ジ」と書かれる。
 「地面」「地震」などは、
 本来
 清音のものが連濁で濁音になったわけではなく、
 呉音で
 元々が
 濁音であるため、
 現代仮名遣いでは
 「ぢめん」
 「ぢしん」
 ではなく
 「じめん」
 「じしん」と書く
 しかし、
 「土地(とち)」、
 「地点(ちてん)」など、
 漢音の「ち」が使われている
 熟語もかなりあるため、
 これが
 連濁で濁ったものと
 誤解して
 「ぢめん」
 「ぢしん」
 と書くのではないかと
 誤解する例がかなり多く、
 現代仮名遣いを学習する際に混乱
 呉音と漢音が受容される間に
 中国語は
 濁音が消滅していく段階に当たっていたため、
 呉音で濁音で
 漢音で清音
 という対応を示す漢字は多く、
 「地(歴史的仮名遣いでヂ・チ)」の他にも
 「治(ヂ・ジ)」
 「直(ヂキ・チョク)」
 「図(ヅ・ト)」
 「頭(ヅ・トウ)」
 などが混乱の原因になることがある。
 ただし、
 「中(チウ・チウ)」、
 「通(ツ・ツウ・トウ)」
 のように呉音でも濁音でなく、
 連濁によって生じた
 濁音と考えられる
 「世界中」「融通」について、
 現代仮名遣いは
 「せかいじゅう」「ゆうずう」
 を本則とし、
 「せかいぢゅう」「ゆうづう」
 を許容するという一貫性のない状況となっている。
  ↓
「現代かなづかい」では、
 「ジ・ヂ」「ズ・ヅ」を言い分けている
 地方(「四つ仮名弁」「三つ仮名弁」の地方)に限り、これを書き分けても差し支えないという方針が掲げられていたが、
 「現代仮名遣い」ではこの方針は掲げられていない。
ーーーーー
   ↓↑
 地方言語の「ズーズー弁(方言)」で「カミの聖書の漢字」を訓読したらドウナルンだべか?・・・「沖縄」に「聖書のカミ」をもたらした「外国人」の能ミソの「言語本質」は、やっぱ、「ギリシャ語の文字」に重なった「旧約のモーゼ・新約のキリスト」のモノガタリの「意味」・・・
 「神」の字が、「אלהים」または「אלוהים」、古代ギリシャ語「Θεός」、英語「God」の訳語に当てられたのは、
 近代日本でのキリスト教宣教に先行していた
 「清国」におけるキリスト教宣教の先駆者である、
 ロバート・モリソンによる
 漢文聖書においてであった・・・
ーーーーー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%がBB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0
 バーナード・ジャン・ベッテルハイム
 (伯徳令、Bernard Jean Bettelheim
  1811年〜1870年2月9日)
 日本に派遣されたキリスト教宣教師
 沖縄県地域最初のプロテスタント宣教師
 ハンガリーでは
 Bettelheim John Barnardéと表記
 ハンガリーでは
 Bettelheimは
 ベッテルヘイムと発音
 ハンガリーの資料では
 1869年9月11日に死没
 1846年4月30日
 香港から琉球王国に到着
 那覇護国寺を拠点に8年間滞在
 1848年12月8日に生まれた
 2番目の娘は、
 記録上沖縄本島で生まれた最初のヨーロッパ人
 琉球に住む人々から排斥された
 琉球の支配者
 薩摩と江戸幕府の方針による・・・
 当時、
 琉球王国では
 キリスト教は禁教
 彼は布教や通商のさらなる自由化を要求
 英吉利本国も
 軍事的圧力を続けた
 1847年10月
 国王尚育王の国葬参加で
 ベッテルハイム夫妻と
 フランス人宣教師が
 首里の入口で取り囲まれて殴打された
 医療活動での評価は高く
 「仲地紀仁」に種痘を伝授
 聖書を琉球語(当時琉球王国の沖縄方言)に翻訳し、
 それを配布
 『琉球語文典階梯』
 という琉球文典に関する文献も脱稿
 未刊の稿本を大英博物館に寄贈
 1854年
 マシュー・ペリーが来琉した時、
 琉球の言語と文化についての知識から
 ペリーのもとで働き、
 その船舶でアメリカ合衆国に渡った
 アメリカでは
 シカゴやニューヨークにおいて
 長老派牧師として活躍
 南北戦争では北軍の軍医(少佐)として参加
 ミズーリ州ブルックフィールドにて肺炎で死去
 エピソード
 ペリー来航時に、
 島内で
 米水兵が飲酒の上、
 地場の女を犯そうとして
 島民に石で殴り殺された。
 この事件でペリー艦隊との間に緊張を覚え、
 困っていた首里王府だったが、
 ベッテルハイムの
 次女の守役を務めていた
 田場武太
 が自ら下手人を名のり出て、
 自分の妻が
 水兵に暴力で犯されたので殺したと申し立てた
 このため首里王府は難を逃れたが、
 当時、
 田場は独身で、
 これはベッテルハイムの入れ知恵だった・・・
   ↓
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/biblio/bib37-2/01.html
 英人宣教師ベッテルハイム
 BernardJeanBettelheim,
 1811〜1870
 プロテスタントの伝道
 1846年琉球那覇
 1846〜1854・・・琉球王・尚育19〜尚泰7
 1797年のプロビデンス
 1840年のインディアン・オーク号
 の乗組員の救援・救助
 B ベッテルハイムの生い立ち
 琉球海軍伝道会
 宣教師・医者
 沖縄で8年間滞在
 当時の琉球の人々には
 ナンミンヌガンチョー(波之上の眼鏡)
 イヌガンチョー(犬眼鏡)などのあだ名で呼ばれていた
 「波之上」とは、彼が滞在した
 「護国寺」付近の地名
 漢字名を
 「伯徳令」と記す
 1811年
 ハンガリー
 ブレスブルグの
 ユダヤ系の家庭で生まれた
 13歳の時から親元を離れ、語学教師
 1836年
 イタリアの
 パデュア大学から医師免許状を授与
 エジプト海軍や
 トルコ陸軍で軍医として働く
 1840年
 トルコのスミルナ付近で、
 英国教会の牧師から洗礼を受けてキリスト教徒となる
 1843年
 ロンドンで英国女性
 エリザベスと結婚して英国に帰化
 ロンドンで、
 琉球におけるキリスト教の布教を唯一の目的とする
 琉球海軍伝道会が設立
 創立者
 1816年
 英海軍バジル・ホール艦長と共に琉球を訪れた
 元海軍大尉クリフォード
 1845年
 伝道会は琉球へ派遣する宣教師として
 ベッテルハイムを採用
 琉球で伝道と医療活動
 ベッテルハイム一家(妻と2人の子供)は、
 1846年4月30日
 香港経由の
 商船で那覇港に到着
 2年前の
 1844年
 既に
 フランス海軍の武威のもとで
 フランス人宣教師
 フォルカード神父が
 中国人の
 高とともに入国し、
 那覇の泊にある
 天久聖現寺に滞在
 ベッテルハイムも
 強引に那覇港に上陸
 波之上の護国寺を住居に指定され、
 8年余の生活を始めた
 1847年10月
 国王尚育の国葬時の殴打事件
 国王の葬儀に参加しようとした
 ベッテルハイム夫妻と
 2人の仏宣教師は、
 首里の入口で群衆に取り囲まれて殴打された
 1854年7月
 沖縄を去る
 1848年ごろ
 那覇
 医師
 仲地紀仁と交友を結び、
 仲地医師を通して沖縄における
 最初の
 西洋式の
 牛痘法を導入した・・・
 ベッテルハイムの聖書翻訳・米国への移住
 1847年2月
 ルカ伝の翻訳を始めて、
 同年7月には一応終わり
 ルカ伝訳了後は、
 ヨハネ伝・ロマ書・使徒行伝・マタイ伝・マルコ伝を翻訳
 ベッテルハイムの翻訳した文中に
 意味不明なところや誤記が多い
 1851年までに訳した
 ルカ伝・使徒行伝・ヨハネ伝・ロマ書
 が
 琉球語の口語訳
 琉球語訳が日本本土で使用できないことに気づき、
 1851年以後の翻訳作業は
 漢和対訳の
 『路加伝福音書
 『馬太伝福音書
 『馬可伝福音書
 1854年2月
 後任の
 G. H.モートン師が
 那覇に着任
 同年7月、
 ベッテルハイムは
 ペリー艦隊に便乗して那覇を去った
 翌年英国への帰途、立ち寄った米国に永住
 数年ニューヨークに住んだ後、
 イリノイ州に移住
 南北戦争中、
 北軍の軍医として活躍
 戦後一家はミズーリ州に移った
 1870年2月
 肺炎で死亡
 享年59歳
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 ・・・怪しい「セイショ」も「コジキ」も・・・「新井白石」・・・