1617日目・・・ボクの「おばぁちゃん」は旧姓が「本多てつ」で、福島県の生まれだった・・・なんで、妻子を地元に残し、グウだらで、ナマケモノで、盆栽好きの宮城県生まれの爺ジイ(日下卯之松)を追って極寒の蝦夷地、北海道までやって来たのか?、それとも一緒に駆け落ちしてきたのか?・・・頭を傾げてしまうが・・・「傾く(カブク→カ・ブ・ク→化・分句)」・・・歌舞伎・・・「ぶんぶく茶釜」・・・「分福茶釜(ぶんぶくちゃがま、ぶんぷくちゃがま)」、「文福茶釜」とも表記・・・タヌキ(狸・貍・田貫・多抜き→本多抜き・他抜き?

 タヌキは徳川家康・・・キツネはダレ・・・京都の公家衆・・・札幌じゃぁ、「すすきの」の「狸小路」だけれども・・・明治六年〜・・・1885年(明治18年)札幌初の「勧工場(かんこうば)」が開店・・・明治十一年(1878)東京にできた「第一勧工場(かんこうば)」が最初。勧商場・物品陳列所・・・「缶工場」ではなく「市場」・・・「中世中期の都市で、週市は毎日開かれる形態をとることになった。マーケット(market)やマルクト(Markt)は週市に由来する名で、年市は年に1〜2回開かれ,本来遠隔地商人たちのための,週市より大規模な市をいう」・・・「マルクト」とはネッ・・・缶詰の缶・・・
 「勧工場(かんこうば)」は東京府が明治十一年(1878年)1月、麴町(現,千代田区)辰の口に常設の商品陳列場として東京府勧工場を開設したことにある。
 その前年(明治十年・1877年)、東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会に展示された出品物も,そこに移されて陳列された
 ・・・「マーケット(Marquette)」=「アメリカ合衆国ミシガン州北部、スペリオル湖南岸にのぞむ都市。1849年入植のフランス人宣教師で探検家の J.マルケットにちなんで命名。鉄鉱石,木材の積出港。化学・鋳物・鉱山機械工業などが立地し、観光事業も盛ん」・・・
 「113年の歴史に幕 2015年01月13日(読売新聞)
  狸小路商店街を代表する老舗
  2015年01月12日
  中川ライター店閉店」
 狸小路
 名称由来は
 実際に狸が出没したこと、
 夜な夜な街頭に立つ
 客引や
 私娼をその怪しさや手口から
 狸に例えた・・・
 ・・・ダマサレタ・・・
 「和宮 親子内親王
  (弘化三年閏五月十日
    1846年7月3日)
   〜
   明治十年(1877年)9月2日)」
 仁孝天皇の第八皇女
 孝明天皇の異母妹
 明治天皇は甥
 江戸幕府
 第14代将軍
 徳川家茂正室
 品位は二品、薨後贈一品
 「親子(ちかこ)」は
 文久元年(1861年)の
 内親王宣下に際して賜わった諱
 家茂死後
 静寛院宮(せいかんいんのみや)と
 名乗った
 ↓
 葛飾北斎画『狐の嫁入図』
 ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%90%E3%81%AE%E5%AB%81%E5%85%A5%E3%82%8A
 宝暦時代の
 越後国新潟県)の地誌
 『越後名寄
 (えちごなよせ)』・・・「名寄」は北海道の地名
 には、
 怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている・・・
 「夜何時(いつ)何處(いづこ)共云う事なく折静かなる夜に、提灯或は炬の如くなる火凡(およそ)一里余も無間続きて遠方に見ゆる事有り。右何所にても稀に雖有、蒲原郡中には折節有之。これを児童輩狐の婚と云ひならはせり」
 ・・・天気雨と虹・・・「狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、北海道と沖縄県には伝承がない」らしい・・・
 北海道上川地方北部にある「名寄」市である。
 地名は、名寄川天塩川に注ぐ様子をいった
 アイヌ語
 「ナイ・オロ・プト
  川の・所の・口」の意→渓流に注ぐ口
 で天塩川から支流の名寄川への入口の意味
 がつまって
 「ナヨロプト」、さらに
 「プト」の省略で
 「ナヨロ」になり、
 漢字で表記で
 「名寄(なよろ)」となった・・・
 「名寄(なよろ)」で、
 「なよせ・メイヨ」ではない・・・怪しい「ナイオロプト」である・・・「樺太(カラフト)」の漢字名の「太(ふと)」は「太安萬侶」の「太(おおの・おほの)」だが、「プト」を当て字にするならば「太(ふと)」だろう・・・「ナイ・オロ・プト」→「名意於呂(侶)太」→「名意於呂(侶)附賭(土)」・・・「江戸時代後期にナヨロが見え、先住民のアイヌ人はナイプト・ナイプツ・ナヨロプトなどとも呼んでいた」?・・・ならば、当て字は
 名意附都(ナイフプト)
 内府都(ナイプト)
 ナイプツ=名意−布津(仏・振通)
 名代露布都(ナヨロプト)
 だろう・・・松浦武四郎くん・・・
  ↓
 内府(ないふ)=明治憲法下の宮中に置かれ
         天皇を常侍輔弼した内大臣の通称
 内大臣府(ないだいじんふ)は上記内大臣
 事務方として整備された官庁の正式名
 律令制度下に太政官に置かれた
 令外官の一つ・・・非常職の「次官」
 内府(だいふ)=律令制度下の太政官に置かれ
         左大臣・右大臣の代理を務めた
 ・・・「だいふ・ないふ」・・・
  徳川家康は、
 1596(慶長元)年
 五月八日
  〜
 1603(慶長八)年
 二月十二日
 まで
 「内大臣=内府」
 関が原の戦い前後は「内府さま」・・・
 居城の江戸とあわせて「江戸内府さま」・・・
 内大臣→右大臣→太政大臣
    →征夷大将軍→隠居後→駿府さま=大御所
  ↓
 名寄(なよろ)
 餅米の生産量は日本一
 三重県
 伊勢名物の和菓子「赤福餅」
 原材料のもち米は、
 名寄産を中心に使用・・・
 明治三十三年(1900年)
 山形県東栄村(旧藤島町、現鶴岡市)から開拓団が集団移住した・・・「山形」からの移民である・・・
  ↓
 「名寄せ(なよせ)」
 同じ名義で普通預金・定期預金・当座預金など複数の口座を持っている場合、それらを一つにまとめること
 一元管理
 従来、特に預金保険法施行以前は、金融機関における業務の通称。 おおよそ金銭の権利を預かる行政機関にも共通する重要な業務
 金融機関で複数の口座を持っている預金者の同一性を確かめること
 人・物・名所などの名を寄せ集めること
ーーーーー
 ブンブク茶釜・・・以下は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B2%A1%E8%8A%B3%E5%B9%B4
 が原文・・・
  ↓
 群馬県館林市茂林寺に伝わる伝説
 茂林寺に狸が化けたとされる茶釜が伝わっている
 茂林寺にある茶釜は、
 1394年から1428年の間に住職であった
 「守鶴」が愛用した茶釜で、
 一度水を入れると、
 一昼夜汲み続けても
 水がなくならないという
 伝説(松浦清山著『甲子夜話(かっしやわ)』)
  ↓
 肥前国
 平戸藩
 第9代藩主の
 松浦清(号は静山)により書かれた随筆集
 書名の由来は、
 平戸藩主を退き隠居した後、
 この随筆が
 1821年12月11日
 (文政四年十一月十七日)
 の「甲子の夜」に書き起こされた・・・
  ↓
 「分福」
 「福を分ける茶釜」
  水を入れると突然
 「沸騰」することから
 「ぶんぶく」となったのではないかという説
  ↓
 月岡芳年の画
 『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
 タヌキが
 「守鶴」という僧に化けて寺を守り、
 汲んでも尽きない茶を沸かした
  ↓
 民俗学者柳田國男
 動物と人間との交渉を物語る
 動物の危機を救ってやり
 「報恩」を受ける
 ・・・「人間界の擬人化」だろう・・・
  ↓
 山形県
 米沢市
 南原
 横堀町
 常慶院にも類種の伝説
 狸ではなくキツネ(狐)
 ・・・キツネは「記通音」だろう・・・
 「木常」の逆字の
 人名、地名の「常木」は
 武蔵国
 埼玉郡
 常木が起源
 徳川家などを輩出した
 愛知県東部である
 三河の氏族の名
  ↓
 ウニの一種
 ブンブクチャガマの名称は分福茶釜から
 毛玉の様な外見を
 タヌキに模して名づけられたらしい・・・
  ↓
 月岡芳年の画
 『新形三十六怪撰(茂林寺の文福茶釜)』
 タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれた
 月岡 芳年(つきおか よしとし)
 1839年4月30日(天保十年3月十七日)
   〜
 1892年(明治二十五年)6月9日)
 浮世絵師
 姓は吉岡(よしおか)、
 後に月岡(つきおか)?・・・槻岡→槻山・築山
 本名は米次郎(よねじろう)
 画号は、
 一魁斎芳年(いっかいさい よしとし)、
 魁斎(かいさい)、
 玉桜楼(ぎょくおうろう)、
 咀華亭(そかてい)、
 子英、
 そして最後に
 大蘇芳年(たいそ よしとし)を用いた
 歌川国芳に師事した
 歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵
 など多種多様な浮世絵を手がけた
 衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、
 「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる
 門下からは
 日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出
 「最後の浮世絵師」と評価される・・・
 天保十年三月十七日(1839年4月30日)
 江戸新橋南大阪町
  武蔵国豊島郡新橋南大阪町(東京都港区新橋地区内)
  他説では、
  武蔵国豊島郡大久保(東京都新宿区大久保)
 の商家である
 吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる
 京都の画家の家である
 月岡家・月岡雪斎の養子となる
 (自称の説有り、他に父の従兄弟であった
  薬種京屋織三郎の養子となったのち、
  初めに松月という四条派の絵師についていた
  見限って歌川国芳に入門したとも・・・)
 嘉永三年(1850年
 12歳で
 歌川国芳に入門(1849年説あり)
 武者絵や役者絵などを手掛ける
 嘉永六年(1853年)
 15歳のときに
 『画本実語教童子教余師』に
 吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く
 同年
 錦絵初作品
 『文治元年平家一門海中落入図』
 を
 一魁斎芳年の号で発表
 慶応元年(1865年)
 祖父の弟である
 月岡雪斎の画姓を継承
 慶応二年(1866年)十二月
   〜
 慶応三年(1867年)六月
 にかけて、
 兄弟子の
 落合芳幾と競作で
 『英名二十八衆句』を表す
 これは歌舞伎の
 残酷シーンを集めたもので、
 芳年
 28枚のうち半分の14枚を描く
 明治元年(1868年)
 『魁題百撰相』を描く
 彰義隊と官軍の実際の戦いを
 弟子の
 旭斎年景とともに取材した後に描いた作品
 明治二年(1869年)頃までに
 『東錦浮世稿談』などを発表
 明治三年(1870年)頃から
 神経衰弱
 明治七年(1874年)
 6枚つながりの錦絵
 『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表
 芳幾の
 新聞錦絵に刺激を受け、
 明治八年(1875年)
 『郵便報知新聞錦絵』を開始
 これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの
 明治十年(1877年)
 西南戦争が勃発
 想像で西南戦争などを描いた
 明治十一年(1878年
 天皇の侍女を描いた
 『美立七曜星』が問題になる。
 明治十二年(1879年)
 宮永町へ転居
 坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会う
 明治十五年(1882年)
 絵入自由新聞に月給百円の高給で入社
 明治十七年(1884年
 「自由燈」に挿絵を描いたことで
 絵入自由新聞と問題になる
 読売新聞にも挿絵を描く
 坂巻泰と正式に結婚
 明治十八年(1885年)
 『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって
 『東京流行細見記』(東京府の人気番付)
 「浮世絵師部門」で、
 落合芳幾・小林永濯・豊原国周
 らを押さえて筆頭
 名実共に明治浮世絵界の第一人者となる
 この頃から、
 縦2枚続の
 歴史画、物語絵など制作
 門人も80名超
 その後、
 『大日本名将鑑』
 『大日本史略図会』
 『新柳二十四時』
 『風俗三十二相』
 『月百姿』
 『新撰東錦絵』
 などを出し
 『月百姿』のシリーズは
 芳年
 歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作
 明治二十四年(1891年)
 ファンタジックで怪異な作品
 『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から
 体が酒のために蝕まれていき、
 再び神経を病んで
 眼も悪くし、脚気も患う
 現金を盗まれる・・・
 明治二十五年(1892年)
 新富座の絵看板を
 右田年英を助手にして製作
 病状が悪化し、巣鴨病院に入院
 5月21日に医師に見放されて退院
 6月9日、東京市本所区藤代町(東京都墨田区両国)
 の仮寓で
 脳充血のために死亡(享年54、満53歳没)
 「やまと新聞で」は
 6月10日の記事に
 「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある・・・
 芳年の墓は新宿区新宿の専福寺
 法名は大蘇院釈芳年居士
 明治三十一年(1898年)
 岡倉天心を中心とする人々によって
 向島
 百花園内に記念碑が建てられた
  ↓
 歴史絵・武者絵
 『大日本史略図会』中の
 日本武尊や、
 1883年(明治十六年)の
 『藤原保昌月下弄笛図』
 など、近代の
 「自意識」を感じさせるものとなっている・・・
 『大日本名将鑑』の
 「神武天皇
 『日本書紀』における
  神武東征の一場面
 芳年は写生を大切にしており、
 幕末の動乱期には斬首された生首を、
 明治元年(1868年)の
 戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生
 している
 「想像力」を駆使して描いた
 『奥州安達が原ひとつ家の図』
 「責め絵(主に女性を縛った絵)」で有名な
 伊藤晴雨は、この絵を見た後、
 芳年が多くの作品で実践するのと同じく
 実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、
 妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験した
 そうして撮った写真を分析したところ、
 モデルを仕立てての写生ではなく
 想像によって描かれたという結論に達した・・・
 月の出てくる作品も多く、
 『月百姿』という百枚にもおよぶ連作も手がけている
 幽霊画も
 『幽霊之図』
 『宿場女郎図』などを描いており、
 芳年自身が
 女郎の幽霊を見たといわれている・・・
ーーーーー
  ↓↑
https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=uNa1VJPbJeOT8QeD04CoDw&gws_rd=ssl#q=%E5%82%BE%E3%81%8F%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%81%B6%E3%81%8F
  ↓↑
 かぶく(傾く)
 「かぶ」は頭の意
 かたむく、頭をかしげる
 勝手な振る舞いをする
 奇抜な身なりをする
 歌舞伎を演じる
 「かぶく」の「かぶ」は「頭」の古称
 「頭を傾ける」が本来の意味
 「頭を傾けるような行動」という意味から
 「常識外れ」や「異様な風体」を表すようになった
  ↓
 歌舞伎の表記は、明治以降に一般化したもので、
 「歌舞妓」の「妓」に
 「伎芸」などの「伎」が当てられた当て字
 「歌舞妓」も当て字のため、
 「歌舞伎の語源」とは関係無い
 「傾く(かぶく)」の
 連用形を名詞化したモノが
 「かぶき」である・・・
 「傾く(かぶく)」
 室町時代
 他と違った身なりの人や、
 自由奔放にふるまう人のことを
 「傾いた人」、又は「傾き者」と呼んだ
 かぶき者
 (傾奇者・歌舞伎者とも表記)
 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮
 特に慶長から寛永年間(1596年〜1643年)にかけて、
 江戸や京都などの都市部で流行
 異風を好み、
 派手な身なりをして、
 常識を逸脱した行動・・・
 「常識外れ」
 「異様な風体」
 「頭を傾ける」
 「片向く」の意
 斜めになる
 かしぐ
 考えや気持ちがある方面に引きつけられるコト
 「傾く(かぶく)」
 「傾き者(かぶきもの)」
 奇抜な格好・身なりをする
 並外れたもの、常軌を逸する
 という意
 放蕩無頼(ほうとうぶらい)、
 異端あるいは
 異装の服装・髪型・行動をする者のこと
ーーーーー
 ・・・