1616日目・・・当時の「歌舞伎の舞台」は情報発信の場で・・・現代のTVの「ゴシップ秘密暴露」番組と同類・・・でも、歌舞伎の「戯作者」は、その「情報源」を何処から手に入れていたのだろう・・・作家、戯作者、絵描きには浪人崩れが多い・・・幕府の記録は御禁制として、その「多くの本」が管理されていたハズだが「本田・誉田・ホンダ」の「本多のワケ」・・・歌舞伎の語源は古語にあたる「傾く(かぶく)」であるらしいが・・・ナニを「カタムケル」のか・・・「話の元」を売った奴がいたんだろう・・・売った、漏らしたヤツ、現在的に

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 1616年
 干支暦=丙辰年
 日本=元和二年
 皇紀2276年
 中国
 明=万暦四十四年
 後金=天命元年
 朝鮮
 李氏朝鮮=光海君八年
  ↓
 ヌルハチ
 ゲンギェン・ハーンの称号
 後金国を建国
  ↓
 12月20日
 マーカムアラビアンがイギリスに輸入
 サラブレッドの祖先
  ↓
 死去
  ↓
 4月23日
 ミゲル・デ・セルバンテス
 スペインの作家(1547年〜)
  ↓
 4月23日(グレゴリオ暦5月3日)
 ウィリアム・シェイクスピア
 劇作家、詩人(1564年〜)
  ↓
 5月22日(元和二年四月十七日)
 徳川家康
 江戸幕府
 初代征夷大将軍(1543年〜)
  ↓
 7月20日(元和二年六月七日)
 本多正信
 相模国
 玉縄藩主
 天文七年(1538年〜)
 本多俊正の次男
 三河で生まれる
 鷹匠として徳川家康に仕えた
 桶狭間の戦い
 今川義元の命で
 丸根砦を攻める家康に従い、
 その合戦で
 膝に傷を負い
 足を引きずる跛足(佐久間軍記)になった
 永禄六年(1563年)
 三河一向一揆
 一揆方の武将として家康に敵対
 一揆鎮圧後
 出奔して大和の松永久秀に仕え
 その後諸国流浪
 加賀国に赴いて
 石山本願寺と連携し、
 織田信長と戦った(藩翰譜)
 大久保忠世を通じて家康への帰参
 家康が行なった謀略は、
 正信の献策による・・・
 慶長十二年(1607年)
 秀忠付の年寄(老中)
 慶長十七年(1612年)
 岡本大八事件
 慶長十八年(1613年)
 大久保長安事件
 元和二年(1616年)四月
 家康が死去
 6月7日
 正信
 死去・享年79。
 石田三成の嫡男
 石田重家の命を家康に謀って
 赦免した
 息子の
 本多正純は、幕府年寄
 宇都宮15万5000石もの大封を得
 元和八年(1622年
 下野国宇都宮の
 宇都宮城に釣天井を仕掛け
 第二代将軍
 徳川秀忠の暗殺を図ったとの嫌疑で
 本多家は改易
 宇都宮城
  ↓
 戊辰戦争
 新政府方についた
 宇都宮藩は激戦地
 大鳥圭介土方歳三らに率いられた
 旧幕府軍宇都宮城を攻略
 これを奪還に来た新政府軍と激しい戦闘
 旧幕府軍は敗北
 宇都宮城と城下は炎上・・・
  ↓
 釣天井事件
  ↓
 本多正純
 秀忠が
 家康の
 七回忌に
 日光東照宮を参拝した後、
 岩槻、古河、宇都宮城
 1泊する予定であったため、
 城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。
 4月16日に秀忠が日光へ赴くと、
 徳川秀忠の姉で
 奥平忠昌(七歳)の
 祖母
 加納御前
 (亀姫・築山御前の娘・兄は徳川信康
 から「宇都宮城の普請に不備がある」という
 密訴
 4月19日、秀忠は「御台所が病気である」とし
 予定を変更して
 宇都宮城を通過して
 壬生城に宿泊し、
 4月21日に江戸城へ帰還
 8月、
 出羽山形藩
 最上家親の改易に際して、
 正純は上使として
 山形城受取りのため同所に赴いた。
 その最中、秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、
 十一か条の罪状嫌疑を
 伊丹康勝と
 高木正次が使いとして赴き、
 その11か条について問いたださせた
 正純は一つ一つ明快に回答したが
 康勝が
 追加で行なった
 3か条
 城の修築において
 命令に従わなかった
 将軍家直属の
 根来同心処刑
 鉄砲の無断購入
 城修築で許可無く
 抜け穴の工事
 をしたことについては
 回答することができず
 現所領は召し上げ、
 先代よりの忠勤に免じ改めて
 出羽
 由利郡に
 5万5000石を与えると命じた。
 正純は身の潔白を申し立て
 その5万5000石を固辞
 秀忠は怒り、
 本多家を改易
 正純の身柄は
 久保田藩
 佐竹義宣に預けられ、
 出羽横手への流罪とされた。
 後に
 正純は1000石の捨て扶持を与えられ、
 寛永十三年(1637年)三月、
 73歳で
 秋田横手城下で生涯を終えた・・・
 土井利勝らの謀略・・・?
 加納御前(亀姫)の恨み・・・?
 加納御前(亀姫)は
 下総古河への
 転封を命じられた
 将軍秀忠の姉で
 奥平忠昌(七歳)の祖母
 加納御前の娘は、
 本多正信・正純親子の
 陰謀で改易させられた
 大久保忠隣の嫡子
 大久保忠常の正室
 その後
 再び
 奥平忠昌が入封し
 奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏
 と城主は変遷し
 最終的に
 1774(安永3)年
 戸田忠寛が
 7万8000石で入封、
 幕末まで支配・・・維新新政府方
 宇都宮城釣天井事件は
 後に
 講談や歌舞伎の題材となった
 歌舞伎の通し狂言
 「三千両初春駒曳
 (さんぜんりょうはるのこまひき)」
 寛政六年(1794)一月
 大阪道頓堀の
 角の芝居で初演
 作者は
 辰岡万作、近松徳三、奈河七五三助など
 立作者は辰岡万作
 織田信長の後継者争いにし、
 豊臣秀吉の「太閤記」の世界に置き換えられ
 跡目相続に絡むお家騒動に脚色・・・
 「けいせい青陽鶏」は、
 実録本
 「大久保武蔵鐙(おおくぼ むさしあぶみ)」
 の中から、
 宇都宮釣天井の件や
 松平長七郎乱行の件を題材にし
 「太閤記」に脚色・・・
  ↓
 11月20日(元和二年十月十二日)
 松前慶広
 蝦夷国
 松前藩初代藩主(1548年〜)
 天文十七年九月三日(1548年)
 蠣崎季広の三男
 大館(松前)の館山城で生まれる
 南条広継の正室となっていた姉に
 永禄四年(1561年)
 長兄・蠣崎舜広が、
 翌年(1562年)、
 次兄・明石元広が相次いで毒殺
 されたため、
 天正十年(1582年)
 父・季広の隠居により
 家督を継いで当主
 家督相続には
 天正十一年(1583年)の説もある・・・
 天正十九年(1591年)
 南部地方で
 九戸政実の乱
 豊臣秀吉の命により
 国侍として討伐軍へ参加
 文禄二年1月(1593年)
 肥前国名護屋城で兵を率いて
 朝鮮出兵前の秀吉に謁見
 慶広は蝦夷での
 徴税を認める朱印状を求め、
 秀吉はこれを認めると共に
 志摩守に任じた
 慶広は朱印状を領民に示すとともに、
 アイヌを集めて
 アイヌ語に翻訳し、
 自分の命に背くと
 秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、
 全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立
 蝦夷地安堵は
 慶長三年(1598年)との説も・・・
 慶長三年(1598年)
 秀吉が死去
 慶長四年(1599年)
 家康に臣従
 「蝦夷地図」を献上
 姓を家康の旧姓の「松平」と
 前田利家の「前」をとって松前に改め
 慶長五年(1600年)
 家督を長男の
 盛広に譲り、
 盛広も
 従五位下
 若狭守を賜
 慶長八年(1603年)
 江戸に参勤して百人扶持
 慶長九年(1604年)
 家康より
 「黒印制書」を得て
 アイヌ交易の独占権を公認
 従五位下、伊豆守に叙位・任官
 これらを以って、
 松前氏を大名格とみなし、
 松前藩
 初代藩主とする
 慶長十四年(1609年)
 猪熊事件
 左近衛少将
 花山院忠長が
 蝦夷上ノ国に配流
 慶広は忠長を城下の
 福山(松前)で賓客として厚遇
 花山院忠長の姉は
 徳川家康の内室
 父は大納言
 花山院忠長は5年で津軽へ移動
 公家に誼を得たことで、
 松前家には以後累代に渡って
 公家との婚姻が続き、
 京都の公家文化を蝦夷にもたらした
 慶長十九年(1614年)
 親豊臣派であった4男の
 由広を誅殺
 慶長二十年(1615年)
 大坂夏の陣には徳川方として参陣
 元和二年五月(1616年
 剃髪して
 海翁と号
 10月12日に死去
 享年69
 長男の盛広は早世していたため、
 嫡孫である
 盛広の長男
 公広が後継
  ↓
 12月10日
 ディオゴ・デ・コート
 探検家
 編年史家(1542年頃〜1616年12月10日)
 ディオゴ・デ・コウト
 (Diogo de Couto)
 ポルトガル王国
 リスボン生まれの探検家・編年史
 アジアの風俗や歴史を取り扱った
 『アジア史』を編纂
 アンコール遺跡の実証的な
 歴史記録の出版は1958年
 遺跡の壁画に残されていた
 古クメール碑文の文字を解読
 都城
 「20人の王たちの継承」によって造営
 カンボジア人によって建立されたと記述
  ↓
 12月10日
 幸
 前田利家の娘
 前田長種の室
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