1613日目・・・「TV・東京・北海道7チャンネル」、「YOUは何しに日本へ?(再)▽剣術道場へ入門するドイツ人▽しばり術を学びに来たというデンマーク人カップル▽社交ダンス大会に出る14歳ロシア人▽ベトナムからの旋盤・溶接の研修生…などが登場!!!!」・・・「天真正伝香取神道流・大竹先生」に入門、ドイツ人「アルパー」さん、「土方歳三」のファン・・・「血判」して入門・・・「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」・・・「平松武兵衛(武平)=スネル(Schnell)」・・・「1869年(明治二年), エド

 「スネル=すねる=拗ねる=素音留」、アレ、コレ・・・「ペコピ?、ピコペ?」・・・「コピペ=コピー&ペースト=Copy and Pasteの略語」・・・
ーーーーー
  ↓
 横浜開港とほぼ同時期に来浜した
 スネル兄弟は 当初から
 山下居留地44番館に 住んでいた。
 横浜が開港された
 安政六年(1859)に来日した。
 そのとき
 兄ヘンリーは十七歳、
 弟エドワルドは十六歳
 といわれる・・・
 慶應三年七月十五日
  ↓
 オランダ人、
 プロイセン
 シャルジェ・ダフェール公使の
 書記官をしていた
 スネル(Henry Schnell)が侍に襲われる
  ↓
 彼が弟のエドワードと馬車で江戸に戻ってきたところ、突然、侍が一人、馬の前に飛び出してきた。
 スネルは馬首を廻らせて男に触れずに通り過ぎようとしたが、馬車が斜め前に来たところで男は刀を抜き、スネルの隣に座っていたエドワードに一撃を浴びせようとした。だが、素早く放たれた拳銃によって襲撃者は胸に銃弾を受けたという
 (『ポルスブルック日本報告』208p.〜209p.)
  ↓
 『維新史料綱要』巻七
 慶應三年七月十五日の項
 このとき、馬の前に飛び出してきた侍は、沼田藩
 三橋昌で、彼の襲撃を禦ごうとして発射された拳銃の銃弾が、誤って
 下駄商
 幸次郎の雇人
 淺次郎を傷つけた由である。
 翌日、「スネル」兄弟は、この襲撃事件を幕府に訴え、暴行者の逮捕を求めた。
 事件から
 二日後の
 十七日、 沼田藩は、書面をもって、幕府に、三橋昌を拘禁したことを報告している。
 スネルのこの事件について、
 デ=グラーフ=ファン=ポルスブルックは、
 1867年8月22日
 (慶應三年七月二十三日)付け書簡
 (ARA, MIBZ. No.3146, Brief No.80/82)
 によって、例のとおり、
 スフラーヴェンハーゲの外務大臣に報告
ーーーーー
  ↓
 「平松武兵衛(武平?)=エドワルド・スネル?」
 「スネル兄弟は、幕末期の商人。
  兄はジョン・ヘンリー・スネル。
  弟はエドワルド・スネル。
  オランダ出身とされる。
  出身地も没年も不明・・・
  1860年
  プロシアが日本と通商条約を結ぶと、
  初代領事として
  マックス・フォン・ブラントが赴任する。
  兄・ヘンリーはその下で書記官を務めた」
  ↓
 「ジョン・ヘンリー・スネル
 (John Henry Schnell、1843年?〜1871年?)」
 「エドワルド・スネル
 (Edward Schnell、1844年?〜没年不詳)」
 ・・・
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  ↓
 明治維新人物伝
http://matome.naver.jp/odai/2130686534339674801/2131359814756096103
 兄弟は
 万延元年(1860年)に
 プロシアが日本と通商条約を結んだ際に、
 日本に赴任した初代領事である
 マックス・フォン・ブラントの下で
 兄「ヘンリー」は書記官を務めた。
 弟「エドワルド」はスイス総領事書記官であった。
   ↓
 書記官務めの後、
 スネル兄弟は
 新潟に移り、
 エドワルドは
 「エドワルド・スネル商会」を設立
 長岡藩の
 河井継之介は、
 スネル兄弟との密接な関係を築き上げ、
 当時最新鋭の
 元込め銃、そして当時日本に
 3台しか無かった
 ガトリング砲を2挺購入し、
 北越戦争
 長岡藩は官軍を苦しめた
  ↓
 スネル兄弟は
 戊辰戦争において、
 旧幕府軍に対して協力し続け
 兄・ヘンリーは
 会津にて軍事顧問を務め、
 更には
 米沢藩の軍事顧問をも兼ねたことで、
 奥羽越列藩同盟全体の
 軍事顧問としての立場となってゆく。
 会津藩
 松平容保
 ヘンリーに
 「平松武兵衛」の名を与え、
 屋敷も提供しその労に報いた。
 戊辰戦争勃発当初は
 外国から武器弾薬を運輸し、
 奥羽越列藩同盟に全て送り込んだ。
 新潟港は後に北越戦争で陥落し使用不能となるが、
 この時
 弟のエドワルドは陸揚げ中であり、
 官軍に捕縛されるが、すぐに釈放。
  ↓
 スネル兄弟が
 戊辰戦争を単なる金儲けとして
 旧幕府軍
 肩入れしているのではなかった・・・
  ↓
 戊辰戦争終結し、官軍の勝利に終わった後、
 ヘンリーは
 1869年
 カリフォルニア州
 会津若松の人々
 約40人と共に移住・・・
 戊辰戦争敗戦後、
 領地を召し上げられ
 窮地に陥った会津藩の人々を
 スネルは救済
 サンフランシスコ
 北東の
 ゴールド・ヒルに移民。
 ヘンリーはここに
 「若松コロニー」という名の
 開拓地を建設、開拓したが
 日本産の
 茶や桑などが気候が合わず育たなかった
 為、その後
 ヘンリーは
 金策の為に日本へと向かった
 が、
 若松コロニーに戻る事はなかった・・・
 若松コロニーは
 初の日系移民入植地
 現在ゴールド・ヒル地区には、
 初の日系女性移民である
 「おけい」の墓が残っている
  ↓
 弟エドワルドは
 新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた
ーーーーー
  ↓
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6448.html
 庄内藩会津藩米沢藩、長岡藩
 など
 奥羽越列藩同盟
 取引があった「スネル兄弟」・・・
 「庄内藩」と付き合いがあったのは、
 弟の
 「エドワード・スネル」
 スネルは、米沢藩の記録では、
 「山師的商人で、
  年頃30歳前後、
  眉目清秀、実に美男子」・・・
 庄内藩
 戊辰戦争(1868〜1869年)で、
 近代的装備を揃え・・・
 全戦全勝して降伏・・・
 慶応四年四月
 庄内藩
 清川口、吹浦口、瀬場、羽黒、大網口に派兵し、
 国境を固め官軍を阻止
 戦いを優位に進めながら
 降伏した・・・
 使用した銃はアメリカ製
 庄内藩を資金面で支援したのは
 酒田・本間家で、
 当主の
 本間光美(こうび)には
 エドワード・スネルとの
 大量の武器取引した記録がある
  ↓
 「約定書」には、
 短シャープ騎兵銃600梃、
 スプリングフィールト銃300梃、
 短エンフィールド銃70梃、
 シャープ騎兵銃弾60万発
 などとある。
 これらの銃は、
 南北戦争
 (American Civil War, 1861〜1865年)
 で使われた
 中古銃で、
 当時の日本に大量に輸入され、
 戊辰戦争の主力武器として使われた・・・
 戊辰戦争
 アメリカの内戦・南北戦争終結して
 3年後に勃発しているのが、
 双方
 アメメリカの
 お下がりの武器で戦った
 1877年(明治十年)
 「西南の役」当時は、
 世界中から武器弾薬が日本に集まり、
 世界で一番の銃保有国になった・・・
  ↓
 ウィキペディア
  ↓
兄・ヘンリーは明治維新後、
 1869年に
 カリフォルニア州
 会津若松の人々約40人と共に移住
 サンフランシスコの北東にある
 ゴールド・ヒル
 「若松コロニー」という名の開拓地を建設
 持ってきた日本の
 茶や桑などが育たず、
 1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。
 1871年4月、
 ヘンリーは金策をしてくると言い、
 日本へと向かったとされるが、
 その後、
 彼がこの地へ戻ってくることは無かった。
 日本で秘密裏に暗殺された・・・
 弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。
 1882年頃まで日本国内で活動していたが、
 それ以降の消息は不明・・・
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  ↓
 日米交流
Japan-US Encounters Website
http://www.japanusencounters.net/sub_schnell.html
  ↓↑
 慶応1(1865)年6月17日付けの記述である。
 いわく、
 神奈川奉行、書を外国奉行等に致し、
 瑞西(スイス)国書記官・スネルより
 交趾支那(コーチシナ=ベトナム南部、
      メコン川下流地方)
 サイゴン府の
 米
 百五十萬担を
 本邦へ輸入せんことを勧誘せる旨を報じ、
 その指揮を請う。
  ↓
 更に
 同、慶応3(1867)年7月15日
 付けの記述いわく、
 普国(プロシャ国=プロイセン
 代理公使館
 書記官ヘンリ・スネル、
 其弟
 エドワード・スネルと倶に馬車に乗じ、
 田町(江戸芝)を過り、
 沼田藩
 三橋昌のために襲われ、
 之を禦がんとして
 拳銃を以て狙撃し、
 誤て邦人
 (下駄商、幸次郎の雇人、浅次郎)
 を傷く。
 と、
 スネル兄弟が
 江戸の芝・田町で暴漢に襲われ、
 ヘンリー・スネルの撃った拳銃の弾が、
 誤って近くの商店の日本人を傷つけたと云うもの
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 戊辰戦争
 新政府軍の
 新潟攻撃で、
 弟の
 エドワード・スネルは
 戦争に巻き込まれ
 多額の財産を失っている。
 明治5(1872)年になって
 エドワード・スネルが
 明治政府に賠償要求を出し
 4万ドルの償金を得ているが、
 その時の文書には
 「和蘭人・スネル」と、
 オランダ人として出て来る
(日本外交文書デジタルアーカイブ
 ・第5巻、第6巻)
  ↓
 兄のヘンリー・スネルが
 会津の移民を引き連れ
 サンフランシスコに上陸した時点で、
 現地の新聞は
 「プロイセン人」と報道
 即ち、
 兄は「プロイセン人」で、
 弟は「オランダ人」・・・
 ・・・弟のエドワード・スネル・・・
 オランダ公使まで巻き込んだ
 日本側の公式な
 賠償請求史料の如く、
 オランダ人・・・
  ↓
 日本とプロイセン
 修好通商航海条約
 プロイセン使節
 オイレンブルク
 交渉中に突然割腹自殺をとげた
 外国奉行・故堀利煕(としひろ)に代わり、
 3ヶ月程前にアメリカから帰国した
 外国奉行・村垣範正や、
 同・竹本正雅、
 目付・黒川盛泰との間で
 万延元年十二月十四日
 (1861年1月24日)
 に調印され、
 2年後に
 プロイセン領事・フォン・ブラントが来日
 それ以降、
 プロイセン
 1866(慶応2)年の
 オーストリア帝国との戦争に勝利し、
 北ドイツ連邦の盟主になった
 一時帰国した
 フォン・ブラントは
 代理公使に昇格して日本に帰任し、
 この経緯と
 新しい北ドイツ連邦の関係を説明する
 1867(慶応3)年4月22日付けの
 文書を幕府に提出している
 (大日本維新史料稿本・続通信全覧)
  ↓
 4月22日付けの文書の原文は
 ドイツ語だったはずだが、
 日本語に翻訳された
 文の末尾には
 「イ・・・・・・?異
  ヘンイ・・・・?変意
  スネル・・・・?拗ねる・素音留
  訳」
 と出てくるから、
 当時
 プロイセン公使館書記官の
 ジョーン・ヘンリー・スネルが
 ドイツ語からオランダ語への翻訳を行い、
 オランダ語訳文と共に
 ドイツ語原文を幕府に提出し、
 日本側で
 オランダ語訳から日本語へ訳された・・・
 横浜開港当時日本と諸外国間での
 公用語オランダ語だった・・・
 アメリカ公使館でも
 ヒュースケンや
 ポートマン等の
 オランダ系アメリカ人が
 オランダ語を使う書記官として活躍
 オランダ語をよく操った
 スネル兄弟が
 ドイツ語圏の
 プロイセンやスイスの公使館で
 オランダ語を使う書記官を務めたのは、
 自然・・・
  ↓
 明治元(1868)年七月二十七日付けの、
 戊辰戦争で新潟港まで
 進攻した新政府軍の
 摂津丸(摂津艦)と
 丁卯(ていぼう)丸(第一丁卯艦)
 の2艦からの
 報告書にいわく、
  ↓
 当正月より
 会津にまいり居り候
 プロイセン人、
 当時
 平松武兵衛と
 申す者の弟
 スネルと申す者、
 よほど賊のため
 外国の事
 周旋いたし候由。
 (大日本維新史料稿本・
  新潟駐在官軍軍艦報告書)
  ↓
 ここでの「プロイセン人」は、
 文脈からみて
 平松武兵衛を名乗る兄
 「ジョーン・ヘンリー・スネル」の事であり、
 「弟・スネル」を
 プロイセン人とは言っていない・・・
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルは
 明治元(1868)年1月から会津に来ていた
 江戸から会津に帰国した
 前藩主・松平容保
 四月十日に新政府軍に対抗する
  「会津・庄内同盟」を盟約していた
 月末には
 旧幕府老中
 小笠原長行
 陸軍奉行
 竹中重固
 等が会津にやって来、暫くして
 旧幕府老中
 板倉勝静も参加
 そんな中で
 ヘンリー・スネルは
 五月に松平容保に会い、
 軍事顧問として
 「平松武兵衛」という日本名を貰い、
 若松城下の
 西に屋敷を与えられた
  ↓
 兄「ヘンリー・スネル=平松武兵衛」は、
 七月下旬に
 新政府軍が新潟に攻め込む数ヶ月前には
 会津から新潟近辺に出て来て、
 会津藩
 田中茂手木(もてぎ)の
 通訳で
 米沢藩などの軍事相談に乗ったり、
 七月中旬には
 奥羽越列藩同盟の重役と会議を持ち、
 同盟が新潟を開港して
 外国と取引するには
 専門家を駐在させねばならないと建策したり、
 サイゴン辺りから
 3千人程の傭兵を連れて来る
 等のアイデアを出したりしている
 (大日本維新史料稿本)
  ↓
 弟のエドワード・スネルは、
 水運に便利な
 新潟の街中の
 東掘(片原堀)前通りの
 山木商店に拠点を構え、
 武器、弾薬や必需品を
 会庄同盟奥羽越列藩同盟になる側の
 庄内藩を始め、
 長岡藩、会津藩米沢藩等に供給していた
  ↓
 兄のヘンリー・スネルについては、
 スネルの兄は近頃
 会津藩に召抱えられたと云って、
 日本服を着用し、
 「丸に葵」の
 紋付羽織に
 袴を穿き
 大小を佩び、
 自ら
 平松武兵衛と改名した・・・
  ↓
 既に会津藩
 平松武兵衛を名乗り、
 日本装束に
 脇差も差す事を許された程に、
 松平容保
 会津藩重臣達の信頼を勝ち得てい
 会津藩から、軍事顧問に招かれた・・・
 (横尾東作翁伝)
  ↓
 これは、
 長岡藩家老
 河井継之助
 江戸呉服橋の藩邸引払いの際に、
 信頼する
 弟のエドワード・スネルに頼み、
 藩邸にあった主家の
 家宝や収集した書画・什器類を
 横浜在留外国人に売却し
 数万両を手に入れ、
 撤退時に最新式の
 大砲や小銃など武器類を
 スネルから購入し、
 スネル所有の
 汽船を借り上げて積み込み、
 藩邸倉庫の米穀をも積込み、
 桑名候(松平定敬)はじめ
 長岡・会津・桑名の
 藩兵300人余りを乗せ、
 江戸から
 横浜・箱館経由新潟に向かっている
 (河井継之助傳)
  ↓
 会津藩
 河井継之助を通じ
 スネル兄弟を知り、
 武器購入も行った・・・
 新潟には
 スネル兄弟が滞在した時期があった
 1月に兄のヘンリー・スネルは
 新潟から会津に来ていて、
 会津に逃れて来た
 旧幕府方の
 閣老
 板倉伊賀守や
 小笠原壱岐守も出席する場で
 洋式の軍備や戦略を建策
 (大日本維新史料稿本・
  史談会速記録第91輯)
 弟のエドワード・スネルが武器を供給し、
 兄のヘンリー・スネルが軍事顧問
  ↓
 スネル兄弟
 プロイセン西部と
 オランダ東部の
 低地ドイツ語やオランダ語
 話される地方に生まれ、
 兄のヘンリー・スネルは
 「将軍」とも呼ばれた・・・
 2人は
 ドイツ語とオランダ語
 出来る書記官として日本で仕事を始めた
  ↓
 兄・ジョーン・ヘンリー・スネルが
 サンフランシスコ上陸時に
 現地新聞に
 「プロイセン人」と名乗ったのは、
 本来の国籍を伝えた筈で、
 日本の当時の記述とも矛盾しない・・・
  ↓
 平松武兵衛こと
 ジョーン・ヘンリー・スネル
ーーーーー
  ↓↑
 以下はボクのHPの小説
「エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/blue/blue1.htm