1612日目・・・函館・・・箱館・・・「榎本 武揚(えのもと たけあき、天保七年八月二十五日(1836年10月5日)〜明治四十一年(1908年)10月26日)・幕臣・外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川」。名は「ブヨウ」とも・・・「榎本ブヨウ」・・・

 「函館=箱館」戦争の結果論・・・「y = f(a−x)」とするならば、「y」は「蝦夷共和国の成立」、「(a)」は「投入兵力」、「(x)」は「消耗兵力」・・・
 「北海道共和国(y)」は「a」=「陸海軍の兵力、と指揮官」で戦い、変数「(x)」次第で「成立」すると考える・・・この「論理」にはムリがある・・・
 ・・・ f(x)=y・・・が一定で、これは数学的には定数関数と認識される・・・
 だが、相手の「兵力」も、「兵站力」も「精神力」も、「天候状況」も、「国際関係の外国状況」も考慮されていない・・・しかも、「箱館戦争」は過去的事後の「ifとしての結果論」である・・・「未来」では無い・・・
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 榎本 武揚(釜次郎)・海軍中将・正二位勲一等子爵
 江戸下谷御徒町(東京都台東区御徒町)に生まれた
 父は
 箱田良助
 備後国
 安那郡
 箱田村(広島県福山市神辺町箱田)出身
 榎本武由(武兵衛)の娘
 「みつ」と結婚して、
 婿養子として幕臣
 榎本武規(円兵衛)と改名
 伊能忠敬の弟子・・・
  ↓
 榎本武揚は幼少の頃から
 昌平坂学問所儒学・漢学、
 ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ
 私塾では箱館戦争を共に戦った
 大鳥圭介と出会った
 19歳
 箱館奉行
 堀利煕の従者として
 蝦夷
 箱館函館市)に赴き、
 樺太探検に参加
 安政三年(1856年)
 長崎海軍伝習所に入所
 西洋の学問や
 航海術
 舎密学(化学)などを学ぶ
 文久二年(1862年)9月
 内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門、
 「西周助」らと共に長崎を出航してオランダ留学
 文久三年(1863年)4月
 オランダ・ロッテルダムに到着
 元治元年(1864年)2月
 赤松則良とともに
 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
 を観戦武官として経験
 後、エッセンのクルップ本社を訪れ、
 アルフレート・クルップと面会
 幕府が発注し、当時オランダで建造中の
 軍艦
 「開陽」に搭載する大砲を注文
 最終的に
 「開陽」には
 18門のクルップ施条砲が搭載
 オランダで
 国際法や軍事知識、
 造船や船舶に関する知識を学んだ
 慶応三年(1867年)3月
 「開陽」と共に帰国
 慶応三年(1867年)10月14日
 徳川慶喜大政奉還
 榎本の率いる幕府艦隊は
 兵庫沖に結集し、
 停泊していた薩摩藩ら他藩海軍に圧力をかけていた
 慶応四年(1868年)1月3日
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争が始まった
 幕府艦隊は大阪湾に停泊、
 1月4日
 阿波沖海戦薩摩藩海軍に勝利
 鳥羽・伏見の戦い
 旧幕府軍が敗北
 榎本は1月6日午後、
 幕府陸軍と連絡を取るため大坂城へ入城
 徳川慶喜はその夜、大坂城を脱出
 1月7日朝、
 榎本不在の旗艦「開陽」に座乗、
 1月8日朝に江戸へ引き揚げた
 後に残された榎本は
 矢田堀景蔵と共に、
 榎本は大坂城内にあった
 18万両を
 「富士丸」に積み、
 旧幕府軍側の兵士達と共に江戸品川沖へ撤退
 撤退後、徳川家家職の
 海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る
 幕府海軍総裁であった
 矢田堀は、新政府側へ恭順の慶喜に従ったが
 榎本派は徹底抗戦を主張し幕府海軍を抑える
 榎本は小栗忠順などと共に主戦論を主張
 同年四月十一日
 新政府軍は江戸城無血開城
 幕府海軍艦隊を引渡すことを要求
 榎本は拒否し、悪天候を理由に
 七隻を連れて
 品川沖から
 安房国館山に退去
 勝海舟の説得により
 四隻(富士・朝陽・翔鶴・観光)だけを
 新政府軍に引渡し、
 「開陽」等主力艦を温存
 五月
 徳川家は
 駿河遠江
 七十万石に減封
 艦隊は徳川家臣団の
 駿府移封の作業に従事
 徳川家が約八万人の幕臣を養うことは困難となり、
 榎本は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、
 北方の防備と開拓にあたらせようと画策し、
 朝廷に対して
 「蝦夷地殖民認可の嘆願書」を提出
   ↓
 蝦夷地殖民は拒否
 徳川家臣団の駿府移封が完了後
 再び幕府艦隊の引渡しを要求され、
 榎本は8月19日
 抗戦派の旧幕臣とともに
 「開陽、回天、蟠竜、千代田形、
  神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸」の
 八艦から成る
 旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出
 東征軍に抵抗する
 奥羽越列藩同盟の支援に向かった
 若年寄・永井尚志、
 陸軍奉行並・松平太郎
 彰義隊
 大塚霍之丞・丸毛利恒
 遊撃隊の
 見勝太郎・伊庭八郎
 旧幕府軍事顧問団の一員だった
 ジュール・ブリュネ
 アンドレ・カズヌーヴ
 らフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船
 出港翌日
 暴風に見舞われ艦隊は離散、
 清水沖に流された
 咸臨丸は新政府軍に発見され拿捕
 咸臨丸・美賀保丸の2隻を失う
 九月中旬
 仙台東名浜沖に集結
 榎本は庄内藩支援のために
 千代田形
 と
 陸兵約100名を乗せた
 運送船2隻(長崎丸・太江丸)を派遣
 奥羽越列藩同盟は崩壊し
 米沢藩仙台藩会津藩
 が降伏
 庄内藩も援軍が到着する前に降伏
 榎本は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船
 太江丸、鳳凰丸と、
 桑名藩主・松平定敬
 歩兵奉行・大鳥圭介
 旧新選組副長・土方歳三
 らと旧幕臣からなる
 伝習隊、衝鋒隊
 仙台藩を脱藩した
 額兵隊などの兵、約2,500名を吸収して、
 十月十二日
 仙台を出航
 途中、幕府が仙台藩に貸与して
 海賊に奪われていた
 千秋丸を拿捕し、
 さらに宮古湾に寄港し
 旧幕臣の保護を旨とする
 嘆願書を新政府に提出して、
 蝦夷地を目指した。
 十月十九日
 蝦夷
 箱館北方の
 鷲ノ木に上陸
 十月二十六日
 五稜郭を占領
 十一月一日
 榎本は五稜郭に入城
 十二月
 蝦夷全島平定が宣言
 「蝦夷共和国」を樹立
 十二月十五日
 「入札(選挙)」実施により総裁
 江差攻略作戦で
 「開陽」が座礁事故により喪失
 翌明治二年(1869年)二月
 局外中立の米国は、新政府支持を表明
 幕府が引渡未了だった当時最新鋭の
 装甲艦
 「ストーン・ウォール」は
 「甲鉄」と命名され、新政府へ引き渡される
 榎本は「甲鉄」を
 移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する奇策を実行
 至近距離まで第三国の国旗を掲げて接近し
 至近距離で自国の旗に切り替える
 騙し打ちを計画し
 榎本はこの作戦を
 「回天」、「幡竜」、「高雄」の
 3艦を当て
 「回天」の艦長の
 甲賀源吾を任じた。
 同艦には
 土方歳三も座乗
 暴風に見舞われ、
 「幡竜」は離脱、
 「高雄」も機関が故障
 「回天」1艦のみでの突入
 幕府海軍はガトリング砲の砲火を浴び、
 占拠に失敗、甲賀艦長も戦死
 (宮古湾海戦
 同年五月十七日
 自軍兵士の逃亡、
 新政府軍工作員による
 弁天台場の火砲破壊、
 箱館湾海戦による全艦喪失
 榎本は降伏
 榎本は、
 オルトラン著
 『万国海律全書』
 (自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を
 蝦夷征討軍海陸軍総参謀
 黒田了介に送った
 黒田は榎本の助命嘆願活動により
 東京丸の内
 辰の口の牢に投獄
 福澤諭吉も助命に尽力
  ↓
 明治五年(1872年)一月六日
 榎本は特赦出獄
 同年三月八日
 黒田清隆(了介)が次官を務める開拓使
 四等出仕として仕官
 北海道鉱山検査巡回
 明治七年(1874年)一月
 駐露特命全権公使
 同年六月
 サンクトペテルブルクに着任
 翌明治八年(1875年)八月
 樺太・千島交換条約を締結
 マリア・ルス号事件で
 ペルー政府が国際法廷に対し日本を提訴した件で、
 ロシア皇帝アレクサンドル2世が
 調停に乗り出したことから、
 同年六月
 サンクトペテルブルクでの裁判で勝訴
 駐露公使就任にあたって、
 海軍中将に任官
 駐露大使時代は
 サンクトペテルブルク
 地学協会に加盟していた
 明治十一年(1878年
 シベリア経由で帰国
 シベリアに対し精細な科学的な視察を行い、
 「西伯利亜日記」を記す
 帰国後
 外務省二等出仕、外務大輔、議定官、海軍卿、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務副総裁、駐清特命全権公使、条約改正取調御用掛等を歴任
 明治十八年(1885年)
 内閣制度の成立後
 6つの内閣で
 逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任
 文相・外相の前後に枢密顧問官就任
 日清戦争の戦時内閣時
 農相在任は三年余
 農商務大臣時代
 足尾鉱毒事件について
 予防工事命令
 現地視察
 国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし
 大隈重信らにその重要性を説諭、
 鉱毒調査委員会を設置し、
 自身は引責辞任
 明治二十三年(1890年)
 子爵
 大日本帝国憲法発布式で
 儀典掛長を務めた
  ↓
 北海道開拓に関与した経験から、
 明治二十四年(1891年)
 徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学)を創設
 黌長
 明治十二年(1879年)
 渡辺洪基らと共に
 「東京地学協会」を設立し、副会長
 明治二十一年(1888年)〜同四十一年(1908年)まで
 電気学会初代会長
 を務めている。
 明治32年(1899年)4月
 黒田の娘と
 榎本の長男が結婚
 明治四十一年(1908年)
 死去、享年73。
 墓所は東京都
 文京区の
 吉祥寺
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 明治二年(1869年)
 十一月二十二日に
 黒田清隆(了介)は
 十六歳の
 「中山清(せい)」と結婚・・・
 ・・・榎本のために「丸坊主に剃髪」した「黒田の娘」って・・・「梅子」・・・
 子供に恵まれず
 清の妹
 「百子」を養女した
 百子は成人後に
 陸軍軍人の
 黒木為腊に嫁いだ
 清(せい)は
 二十四歳の若さで
 肺の病により亡くなったとされるが、
 黒田が殺害との風聞・・・
 その後、
 黒田は41歳で
 材木商
 丸山伝右衛門の娘
 「滝子」と再婚
 娘の
 「梅子」
 と
 嗣子の
 黒田清仲・・・・・独身のまま32歳で逝去
 を授かり、
 「梅子」は
 榎本武揚の長男
 榎本武憲と結婚
 黒田清仲には嫡子がなかったため、
 黒木為腊の三男の
 黒木清を養嗣子とした
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