1554日目・・・本日はガンガンのテンキ・・・マドフキだけれど、スパッツ、クモリ、ムシのコビリついたフン・・・フイてもフイても思うような透明にはならない・・・オレの仕事、ヤクたたず、ゴクつぶし、「労働力を疎外(?)」したが、カネにはならんし・・・イヤにナッタら珈琲とタバコのワカバを一服・・・ちょっとは「肉体的に新陳代謝のエネルギー」なったかな・・・アメリカのロケットが空中爆破、輸入コーヒー豆が高騰らしい・・・今のところ、生きているコトに大勢に影響はない・・・空気も食物も灯油もマキもあるし、まだ、電気もガ

 「家庭の主婦」がみているんだか、どうなんだか、TVでは国会討論の生中継・・・どうやら「マインド(mind→Mind control?)を変えたアベ」ちゃんは「経済は生き物(?)」の中でクセンのようだ・・・タシかに「サン本のヤ」は「Mind control」であるらしい・・・
 「ウイッキペデア」の説明には、
 「マインドコントロール(英: Mind control)は、強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと」、
 あるいは、意味の似たようなコトバとして
 「洗脳」の説明には
 「洗脳(brainwashing)は、
  ある人の思想や主義を、
  根本的に変えさせること」
 「日本語の洗脳」は
 「英語のbrainwashing」の直訳であり、
 「英語のbrainwashing」は
 「中国語の洗脑・洗腦」の直訳
 と、あった・・・
 それ以前に
 「共同幻想」だろう・・・以下も「ウイッキペデア」からの参考抜粋・・・
   ↓
 「共同幻想とは、
  複数の人間で共有される幻想である。
  日本の思想家である
  吉本隆明が用い、
  有名になった言葉である。
  吉本は、
  自分の共同幻想とは、
  マルクスの用語である
  上部構造と同じ意味であり、
  ただ
  手垢がついているから
  使いたくなかったと
  述べている」
  ↓
 ・・・「上部構造=手垢」とは何ぞや?である・・・
 「吉本は、
  意識、物質どちらかに
  すべてを還元しようとする
  唯心論、唯物論を拒否し、
  疎外という概念を使ってそれを
  乗り越えようとした
  心身二元論者である」
  ↓
 ・・・であるらしい・・・では、彼が拒止する「唯心論、唯物論」とはなんぞや?である・・・
  ↓
 「疎外の概念を用いて、
  各幻想を
  定義したら、
  個人の身体という自然基底から
  疎外されたものが、
  自己幻想(自己意識)
  男女の
  肉体的な性交渉という自然基底から
  疎外されたものが、
  対幻想(性的交渉)
  市民社会
 (社会的国家・マルクス的にいえば
  下部構造)という
  自然基底から疎外されたものが、
  共同幻想
 (政治的国家・
  マルクス的にいえば上部構造)」
  となる。
  ↓
 ・・・らしいが、では「上部構造」とは何ぞや?・・・である・・・
  ↓
 「吉本にとっては、
  自己幻想が
  共同幻想
  完全にコントロールするという発想そのものが、
  そもそも
  カテゴリー錯誤なのである。
  これらは
  それぞれ
  別々の運動法則で動いているのだから。
  逆にどれだけ
  共同幻想が強制させても、
  自己幻想を
  完全にコントロールすることはできないのである。
  個人の心の中には、
  自然法則も超越する
  絶対的自由がある。
  他人に話せば、
  妄想と笑うかもしれないが、
  詩や芸術がそうである。
  ↓
 ・・・で、あるらしいが、「絶対的自由」とは何ぞやネン?・・・それに「自由」とは何ぞやネン?・・・「絶対的」とは「絶対」ではない。「自由」とは「選択の自由(?)」であれば、「自由」とは「ある状況に拘束されたモノ」か、「ある状況の枠内」での「相互関係」に於ける「反応作用=相互の変化のプロセスの連続性」でしかない。とすると、一般的な意味でのソレ自体の「自由」とは存在しないのである。モチロン、「絶対的自由」などは有り得ないのだ。
 「絶対的自由」とは「抽象観念」で、「脳ミソ機能の、認識、思惟、観念作用の結果」なのさ・・・
 それに「疎外」ってのはアル状況の枠内での「存在の相互諸関係の反応、作用の結果」で、生物学的には「新陳代謝=変化」という事だ。この「変化」は「脳ミソ」自体で起こるし、「脳ミソ機能=認識・記憶・思惟・選択判断」にも起こるのだ。
 当然、「表現・造作」、「享受・共感(好き嫌いの反応程度)」 の「詩や芸術」にも「絶対的自由」などはありゃしないのさ・・・「妄想」もそれ自体では有り得ないのは当然である・・・笑ちゃう、ナッ・・・
 「手垢」に「エボラ-ヴィルス」が混じっているなら「笑えない」が・・・
 それに、「カテゴリー錯誤」とは何ぞや?・・・「別々の運動法則」とは何ぞや?・・・「疎外」と言う「抽象カテゴリー」で「言語統一」してカタっているのはダレ?・・・
 「自然(存在)からの時間的系統変化の連続性の結果が幻想性」と言う「意識=観念」なのだ。
 「社会的(強制・強圧・無意識・無自覚)共同幻想」は何処から?・・・問題は「階級社会の共同幻想=階級幻想」である・・・両親から生まれ、彼を取り巻く諸環境に育まれた「自我」も、「自閉症」も、「婚活」とかの「対のセックス幻想」も・・・
  ↓
  市民社会
 (社会的国家・
  マルクス的にいえば
  下部構造)という
  自然基底から
  疎外されたものが、
  共同幻想
 (政治的国家・
  マルクス的にいえば
  上部構造)」
  となる。
  ↓
 ・・・「下部構造」、「上部構造」とは何ぞやネン?・・・これらの「カテゴリー」をハッキリさせろョ、ナッ・・・それ以前に「カテゴリー」の「カテゴリー(規範・範疇・コトバの規定)」である・・・
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 カテゴリー((英) category,(ドイツ) Kategorie)とは、簡単に言えば「部類・分類・ジャンル」のことです
 カテゴリとは、分類、分野、区分、種類、部門、ジャンル、範疇、などの意味を持つ英単語。物事を一定の基準に基づいて分類した際の、個々の区分のこと。
 ジャンル(genre)は、文学や芸術の種類を分類
 アリストテレスにおいてカテゴリは存在のもつ10の基本的性質をあらわし、存在論における基本概念のひとつであったが、イマヌエル・カントは人間認識を基礎付ける超越論的制約のひとつ、純粋悟性概念をカテゴリと呼び、その意味を認識論的意味へと転換した。
 「カテゴリ」とは、「一般的な意味では、範疇 区分 分野 種類 圏」
 カテゴリ(ドイツ語: Kategorie、英語: Category)とは、物事の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと。カテゴリーとも表記する。 起源. 元々は、万物の根源とされた『 土、水、風、火』などをカテゴリと表していたことが初めとされる。
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 上記の原文は以下
 https://www.google.co.jp/?gfe_rd=cr&ei=4QpSVNbnBcem8wfE94D4Cg&gws_rd=ssl#q=%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%83%BC+%E6%84%8F%E5%91%B3
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 「肉体がないと意識は生まれないが、意識は肉体には還元されない。意識は肉体から相対的に独立して存在するのである。身体を引き裂いて一度死んだ人間を、また縫合しても生き返らないのと同じである」
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 ・・・これは、「疎外のカテゴリー」ではない、ナッ・・・