1552日目・・・柱時計を治していて時計盤の蓋の丸いガラスを割ってしまった・・・以前からだが手に持った小さいモノをよく落とすボクだが、最近は頻繁に絨毯の皺(しわ)にも床の小さな凸凹にも躓(つまず)く。問題なのは釘(くぎ)とネジくぎ、そしてカーテンを吊るす曲がった針がね止めの類(たぐい)。床に落としても壊れないが、消えてしまう。探してもサガシてもボクの視野にも、這いつくばっての手探りの手にも反応せず、行方不明である・・・陶器の皿は腐るほどあるが、これも、よく手から転げ落ちて割ってしまう・・・そのたびに黒猫

 「化けネコ」のハナシは何度も書き込んだし、「皿屋敷のお菊の幽霊」のハナシもだが・・・外は朝から曇りで、今は雨・・・「播州皿屋敷」・・・
 「黒田カンベイ」の時代の「日本史」、それに「古事記」を読んで重ね合わせると江戸時代初期から末期、明治時代の文筆作家、歌舞伎作家、浄瑠璃作家、講談作家、落語作家、双紙(草紙・草紙)、物語作家など、所謂(いわゆる)戯曲、シナリオ作家、ものがたり作家、記録、随筆作家の意図がナニで繋がっているのかが観えてくるようだ・・・
 「おんな(音名・穏拿・隠納→隠=阜+爪+ヨ ++心・隠の異体字は隱、隐。呉音はオン、 漢音はイン、訓読はカクす、カクれる)」
 の
 「うらみ(恨み、怨み、憾み、浦見、裏視、占見→ウラミ→鷗蓏身・鴎覶視→鷗・鴎=呉音はウ・漢音はオウ・訓読はカモメ+蓏=漢音はラ・訓読はウリ、覶=ラは、たのしげにみる)」
 の
 「ぶかい(深い・部会・武海・武かい・分かい・歩かい・侮甲斐・撫甲斐)」
 執念の
 「オバケのQ太郎」である・・・「Q=クエッション・?」とは、
 ネコ(根子・根来・根古)と
 サラ(讃良・沙羅・沙良・佐良・咲良→サル→猿→禿げネズミ→針鼠)と
 ウ(鸕・鵜・烏・鴎・兎・兔・莵→有鷺→有詐欺・有詐偽・得茶木・有佐木)
 ・・・
ーーーーー
 以下、例の如くウイッキペデアが原文です・・・頭出しの「・・・」がボクの書き込んだ「Q・?」です・・・
 ↓
 皿屋敷
 お菊の亡霊が
 井戸で夜な夜な
 「イチマーイ、ニマーイ..」と
 皿を数える・・・怪談話
 播州姫路が舞台の
  ↓
 ・・・白鷺城は千姫のイジョウ(居城・異常・委譲・移譲・異状)・・・
  ↓
 『播州皿屋敷
  ↓
 ・・・「蛮習・晩秋・半周・万周・万集・満州(清・金・女真・女直・渤海)」
 ・・・「サラ」は「讃良・讃岐・更」で、「咲良」は「木花之佐久夜ひめ」のハナシで「攫(さらう=浚う・つかむ=掴む・カク・キャク・しごく=扱く)」
  ↓
 江戸番町が舞台の
 『番町皿屋敷
 日本各地の類似話
 出雲国
 松江の皿屋敷
 土佐国
 幡多郡皿屋敷
 尼崎を舞台とした
 (皿ではなく
  針にまつわる)
 異聞が江戸時代に記録されている
 江戸時代
 明治時代は
 歌舞伎、浄瑠璃、講談等の題材
 大正時代の
 岡本綺堂の戯曲の
  ↓
 ・・・コウホン・おかほん・おかぼん・・・「岡」は高台の固い土地。上部が平らになった台地状のモノ。「丘=斤+一」は「真ん中が窪(くぼんだ・凹)だ盆地状で、後に小山上のものを意味するようになった」・・・「斤一(キンイツ)」ならば「1斤は16両」で、「目方または重さの単位・一斤は一六〇匁(もんめ)、尺貫法では一斤=一六〇匁=600グラム」、「金逸・金悦」だろう・・・「食パン」が「一斤(イッキン)」とは「英国の一ポンド(453.6グラム)にほぼ等しい一二〇匁」らしい・・・「パン・バン」の同音異字漢字は「麺麭・番・播」である・・・
  ↓
 『番町皿屋敷』は、
 恋愛悲劇
 古い原型は
 播州を舞台とする話が
 室町末期の
 『竹叟夜話』
   ↓
 ・・・叟(おきな・ソウ・ス)、「おきな(翁)」ならば、「竹取の翁」・・・「カグヤヒメ(かぐや姫竹取物語の月の女性・赫映姫・大筒木垂根王の娘で景行天皇の妃・迦具夜比売かぐやひめ)・平安時代の右大臣・藤原実資の娘、千古の愛称(大鏡)」・・・家具屋(建具屋・仏壇屋)の秘め・・・建具職人は、障子や襖、
ドア、備え付けの家具などを造作、納入する仕事・・・
 ↓
 皿ではなく
 盃の話であり、
 ↓
 ・・・「盃=不+皿・さかずき・ハイ・ヘ・杯)・・・「サラにアラズ、キにアラズ」である・・・
 ↓
 一般の皿屋敷とは
 様々な点で異なる。
 皿や井戸が関わる
 怨み話
 18世紀の初頭ころから、
 江戸の
 牛込御門あたりを
 ↓
 ・・・うし(丑・憂し・愛し・後・宇志)は「ぬし(主)」でもある。類字は「紐(ひも・チュウ)」で、オランダ(阿蘭陀・和蘭・Holland・蘭)人の入植、植民地の地名で、「紐育(ニューヨーク・New York)」・・・「牛」は「牽牛・彦星・アルタイ=アルタイル(Altair)=鷲(わし)座のα星、ワシ座で最も明るい恒星」・・・和紙で「和史」である・・・
 ↓
 1720年
 大阪で
 歌舞伎の演目とされた
 1741年
 浄瑠璃播州皿屋敷』が上演
 お菊と云う名、
  ↓
 ・・・菊の花の家紋は天皇家・・・
  ↓
 皿にまつわる処罰、
 井筒の関わりなど、
 一般に知られる
 皿屋敷の要素を備えた物語が成立
 1758年
 講釈師の
 馬場文耕が
 『弁疑録』において、
  ↓
 ・・・「ワキマエて疑う記録」とは「弁証法」である・・・「馬場」の「文耕」とはネッ・・・
  ↓
 江戸の
 牛込御門内の
 番町を舞台に書き換え、
 これが講談ものの
 「番町皿屋敷」の礎石となった
 江戸の番町皿屋敷は、
 天樹院(千姫)の屋敷跡に
 住居を構えた
 火付盗賊改
 青山主膳(架空の人物)の
 話として定番化
 17世紀中葉以降の設定
 播州ものでは、
 戦国時代の事件としている
 姫路市
 十二所神社内の
 お菊神社は、
 江戸中期の浄瑠璃に言及があって、その頃までには祀られているが、
 戦国時代までは遡れないと考察さ
 「お菊虫」は
 1795年に
 播州でおこった
 虫(アゲハチョウの蛹)の
    ↓
 ・・・揚羽・「挙げは」は例を示す言葉で、
 「安芸(広島・廣島)は」は、
 「長州藩・吉備の備後、備中・備前」の「派・葉・覇」。
 「アゲハのチョウチョウ(てふてふ・蝶=中+ム+世+木)」とは、
 「中のム(よこしま)の世(三十年間)のキ(木=十+八)」の「帳調」。
 「サナギ(唆納義)」は
 「まゆ=繭・真由」で、「万(萬)由」は「太安万(萬)侶」の「古事記」の「眉輪王・目弱王」のウラミだろう。
 この少年王(眉輪王・目弱王)を援けたのは
 「都夫良=円大使主(つぶらのおほみ・日本書紀履中天皇二年条)
  円大臣(つぶらのおおおみ・日本書紀雄略天皇元年条
  都夫良意富美大臣)」である・・・
 ・・・それに「さなぎ」は「お蚕(かいこ・サン・chrysalis・pupa・pupal)」で、駿河国富士川周辺で、「大生部多」の「常世神」を崇める集団を、「秦(はた・幡多・機)河勝が追討・皇極天皇(644年)秋7月」した、との記事・・・「大生部多→だじょうぶだ(大丈夫だ)」だろう・・・ケンちゃんのバカ殿様である・・・「大生部多(おおうべ の おお)」ではないのさ・・・オマケに「大生部」は職業部の内の「壬生部(諸皇子の養育に携わる人々とその封民)の一つ」であるらしい。「壬生浪人=新撰組」とはねッ・・・「大仏次郎(おさらぎ じろう)」って、「鞍馬天狗」だョなッ、「近藤」君、「土方」クン・・・
    ↓
 大発生が
 お菊の祟りであるという
 巷間の俗説で、
 これも
 お菊伝説に
 継ぎ足された部分である
 播州皿屋敷の題材としての
 歌舞伎
 1720年6月 (享保5年)
 京都の
 榊山四郎十郎座が、
 歌舞伎
 『播州錦皿九枚館』を上演
 台本は現存しないが、その役割番付(天理図書館所蔵)から人物・背景がうかがえ、この歌舞伎がすでに
 「皿屋敷伝説を完全なかたちで劇化した」ものだと考察される。
 また、同年に
 金子吉左衛門座が
 題名も内容不詳の
 皿屋敷を上演
 浄瑠璃
 播州皿屋敷
 『播州皿屋敷』は、
 寛保元年(1741年)
 大阪の
 豊竹座で初演
 室町時代
 細川家のお家騒動を背景
 一般に知られる
 皿屋敷伝説に相当する部分は、
 この劇の下の巻
 「鉄山館」に仕込まれている
  ↓
 細川家の国家老、
 青山鉄山は、叛意をつのらせ姫路の城主にとってかわろうと好機をうかがっていた。そんなおり、
 細川家の当主、
 巴之介が
 家宝の
 唐絵の皿を盗まれ、
 足利将軍の不興を買って、流浪の憂き目にあう。
 鉄山は、細川家の宿敵、
 山名宗全と結託して、
 細川の若殿を
 毒殺しようと談義中に、
 委細を
 お菊に聞かれてしまい、
 お菊を抹殺にかかる。
 お菊が管理する唐絵の皿の一枚を隠し、その紛失の咎で攻め立てて切り捨てて
 井戸に投じた。とたんに、井筒の元からお菊の死霊が現れ、鉄山を悩ます。現場に駆けつけたお菊の夫、
 舟瀬三平に
 亡霊は入れ知恵をし、皿を取り戻す。
 ↓
 浄瑠璃では、家宝の皿が以前にも盗難などに遭う話や、その因縁がもりこまれた経歴が、
 上の巻の前半
 「冷光院館」、および
 上の巻の後半
 「壬生村、・・・「壬生」である
 楽焼家
 弥五兵衛住家」に
 収録される
 ↓
 播州佐用郡
 春名忠成による
 宝暦4年(1754年)の
 『西播怪談実記』に
 「姫路皿屋敷の事」の一篇が所収
 される
 お菊虫の元になったのは
 1795年に大量発生した
 ジャコウアゲハのサナギ
 ↓
 ・・・麝香(じゃこう)は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種である。「ムスク (musk) 」とも呼ばれる。
 ・・・麝香(じゃこう)はヒマラヤ山脈、中国北部の高原地帯に生息するジャコウ鹿 (あるいはジャコウ猫) の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約1〜2%程度含有される
 ↓
 のサナギ
 ↓ 
・・・さなぎ=蛹・佐名木・真木・佐薙・佐柳)
 ↓
 ではないかと考えられている
 暁鐘成の
 『雲錦随筆』では、
 お菊虫が、
 「まさしく
  女が後手に
   ↓
 ・・・おんな(音名)が語主・誤種?
   ↓
  くくりつけられたる
  形態なり」と形容し、
 その正体は
 「蛹(ヨウ・さなぎ)」であるとし、
 さらには精緻な挿絵もされている。
 十二所神社では
 戦前に「お菊虫」と称して
 ジャコウアゲハ
  ↓
 ・・・邪考アゲハ(与える・挙げは)
  ↓
 サナギを箱に収めて
 土産物として売っていたことがあり
  ↓
 ・・・「ドサンモノ・トサンモノ→土佐モノ・(北海)道産物」・・・「道産子(どさんこ)」は北海道の「馬・人・物」の産物(さんぶつ)だけれど・・・「斎藤道三」の子は「斎藤 龍興(さいとう たつおき)」は、戦国時代の美濃国戦国大名。道三流斎藤家3代。(美濃一色家2代、とする説、生存説には越中の九右ェ門との説)、「斎藤義龍(さいとう よしたつ)は、美濃国戦国大名。道三流斎藤氏
の第2代当主(美濃一色氏初代とする説もある・・・
  ↓
 中山太郎も姫路で売られていた種をジャコウアゲハと特定
 ただ、江戸期の随筆などには
 蛹以外の虫の説明も存在
 菊虫の件と
 ↓
 ・・・菊の中はム(よこしま・わたくし・私)・・・
 ↓
 最初の
 姫路藩
 池田氏
 家紋が
 平家由来の
 揚羽蝶であることとにちなんで、
 姫路市では
 1989年に
 ジャコウアゲハ
 市蝶として定めた
 姫路城の本丸下、
 「上山里」と呼ばれる一角に
 「お菊井戸」と呼ばれる
 井戸が現存
  ↓
 播州皿屋敷実録
 『播州皿屋敷実録』の
 成立時は不明だが、
 江戸後期に書かれた、
 好事家の
 「戯作(げさく)」で
 脚色部分が多く加わっている
 姫路城
 第9代城主
 小寺則職の代
 (永正16年1519年以降)、
 家臣
 青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを
 衣笠元信なる忠臣が察知、
 自分の妾だった
 お菊という女性を
 鉄山の家の女中にし
 鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が
 増位山の
 花見の席で
 小寺則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、
 家島に隠れさせ再起を図る。
 乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、
 家来の
 町坪弾四郎に調査するように命令した。程なく弾四郎は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四郎は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した
 弾四郎は、
 お菊が管理を委任されていた
 10枚揃えないと意味のない家宝の
 毒消しの皿
 「こもがえの具足皿」のうちの一枚を
  ↓
 ・・・熊川(こもがえ)とは「高麗茶碗の一。口縁は反り返り,胴は深く,高台は比較的大きい。見込みに鏡と称する円形の窪みがある。釉(うわぐすり)は多く枇杷色を呈する。真熊川・鬼熊川などがある。
朝鮮の古い港、熊川から輸出されたことによる名称という・・・「熊川(ユウセン・くまがわ)」がナンで「こもがえ」と訓読みするんだか・・・有泉、湧泉・・・ラン学者・・・
 ↓
 わざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。
 以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
 やがて
 衣笠元信達は小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後
 300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
 このほか、幕末に
 姫路
 同心町に在住の
 福本勇次(村翁)の
 『村翁夜話集』(安政年間)などに同様の話が記されている。
 江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙しているのは、
 1758年(宝暦8年)の
 講釈士
 馬場文耕の
 『皿屋敷弁疑録』が
 元となった
 怪談芝居の
 『番町皿屋敷』である。
 ↓
 牛込
 御門内
 五番町にかつて
 「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが
 赤坂に移転して
 空き地になった跡に
 千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、
 その一角に
 火付盗賊改
 青山
 播磨守
 主膳の屋敷があった。
 ここに菊という下女が奉公していた。
 承応二年(1653年)正月二日、
 菊は主膳が大事にしていた
 皿十枚のうち
 1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと
 皿一枚の代わりにと
 菊の
 中指を切り落とし、
 手打ちにするといって一室に監禁してしまう。
 菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。
 やがて奥方の産んだ子供には
 右の中指が無かった。
 やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
 その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は
 小石川
 伝通院の
 了誉上人に
 鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が
 「八つ……九つ……」、
 そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は
 「あらうれしや」
  ↓
 ・・・洗う例、史(詞)哉(也・耶)
  ↓
 と言って消え失せたという。
 この時代考証にあたっては、
 青山主膳という火附盗賊改は存在せず(『定役加役代々記』による)、
 火付盗賊改の役職が創設されたのは
 1662年(寛文2年)と指摘されている。その他の
 時代錯誤としては、
 向坂甚内が盗賊として処刑されたのは
 1613年であり、
 了誉上人にいたっては
 ↓
 ・・・了誉上人は、「六夜さま・三日月上人とも呼ばれ、法然上人を開祖とする浄土宗の中興の師・・・」、「常福寺の第二世了誉上人で、戦乱で寺も焼かれ上人も松栄(金砂郷町)の阿弥陀山の洞くつに逃げ隠れ、十年間、岩屋にこもり、干柿を食べ、水を飲みながら飢えを凌いだ」、「
了誉聖冏は常陸大宮の人物」・・・?・・・とにかく「終了(おわり・尾張・尾割・小張)の譽(與+言)のヒト」だろう・・・本居宣長(もとおりのりなが・ホンイセンチョウ)・・・
 ↓
 250年前の
 1420年(応永27年)に没した人物
 また
 千姫が姫路城主
 本多忠刻と死別した後に
 移り住んだのは
 五番町から
 北東に離れた
 竹橋御殿であった。
 東京都内の
 お菊の墓
 現在
 東海道本線
 平塚駅近くにも
 お菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、
 戦後近隣の
 晴雲寺内に移動した
 「元文6年(1741年)、
  平塚宿の宿役人
  眞壁源右衛門の娘
  菊が、奉公先の旗本
  青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという・・・
 市ヶ谷駅近辺、
 千代田区
 九段
 南四丁目と
 五番町の境界の
 靖国通りから番町方面へ上る坂は、
 帯坂と呼称されるが、お菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説に付会されている。
 ↓
 皿屋敷伝説の発生
 三田村鳶魚は、本来、皿の要素がないため播州や尼崎伝説の由来を排すが、
 播州を推す者もあり、
 橋本政次は
 『姫路城史』において
 太田垣家に起こった事件が原点ではないかとしている・・・
 竹叟夜話
 大田垣にまつわる事件については、
 播磨国
 永良荘(兵庫県市川町)の
 永良竹叟が
 天正5年(1577年)に著した
 『竹叟夜話』に記述があり、
 執筆より更に
 130年前の事件を語っている。
  ↓
 嘉吉の乱(1441年)の後、
 小田垣主馬助という
 山名家の家老が
 播磨国青山(姫路市青山)の
 館代をしていた頃、
 花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた
 笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。
 ある時、小田垣が山名家から拝領していた
 鮑貝の
 五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。
 実は
 笠寺が
 ↓
 ・・・名古屋にも「笠寺」がある・・・「名古屋市南区
 真言
 宗智山派
 天林山
 笠覆寺
 名古屋の厄除け
 笠寺観音笠覆寺)は
 名古屋城を中心に
 恵方がめぐる
 尾張四観音の一」。
 「笠覆寺(りゅうふくじ)は、愛知県名古屋市南区笠寺町にある真言宗智山派の寺院。山号は天林山。一般には
 笠寺観音(かさでらかんのん)の通称で知られる。尾張四観音の一で、あわせて
 なごや七福神
 恵比須を祀る。尾張四観音の一毎年節分の時期になると
 四寺とも節分祭(会)を行なう
 「福は内、鬼もウチ」とマメをマク・・・
 ↓
 その一個を密かに隠していたのだが、彼は
 意趣返しに
 「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら
 花野を折檻し、ついには
 松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがて
 この松は
 「首くくりの松」と呼ばれるようになった。
 ↓
 ・・・「サガラ(さがら・相良・相楽)の木」に首を括ったのは三姉妹の一人・・・「円野比売」が頚をくくり木に下がった土地は、
 「懸木(さがりき)」から
 「相楽(さがらか)」と呼ばれた。
 そして
 「円野比売が淵に落ちて命を落とした土地」を、
 「墜国(おつくに)」から
 「弟国(おとくに)」
 「乙訓」と 呼ぶようになった・・・、 ・・・
 「丹波比古
 多多須美知
 能
 宇斯王
 (日子坐王
  と
  息長水依比売
  の
  御子)」
  と
 「丹波之河上之
 摩須郎女
(ますのいらつめ)
 の系譜
  ↓
 ・丹波比古多多須美知能宇斯王
  の妻は
  比婆須比売命
  ひばすひめのみこと
   ↓
 ・丹波比古多多須美知能宇斯王
  と
  丹波之河上之摩須郎女
  の娘(女子)は
  真砥野姫命
  まとぬひめのみこと
   ‖
  円野比売命
  まとぬひめのみこと
   ‖
  竹野媛
  たけのひめ
   ↓
 ・丹波比古多多須美知能宇斯王
  と
  丹波之河上之摩須郎女
  の娘(女子)は
  弟比売命
  おとひめみこと
  (垂仁天皇
   醜女と嫌われ自殺)
   ↓
 ・丹波比古多多須美知能宇斯王
  と
  丹波之河上之摩須郎女
  の娘(女子)は
  朝廷別王
  みかどわけのみこ
   ↓
 ・丹波比古多多須美知能宇斯王
  と
  丹波之河上之摩須郎女
  の息子(男子)は
  三河
  之
  穂之別の祖
  ↓
 『竹叟夜話』の挿話は、室町末と成立年代が古いが、
 皿ではなく
 盃用の
 アワビ(鮑・鰒・蚫)だったり、
 女性が
 お菊ではなく
 花野であり、
 青山氏の名もない等、
 後の『皿屋敷』と
 符合しない点も多々みられる。
 同じく播磨を舞台に、近世の形態にちかい物語は「播州皿屋敷実録」に書きとどめられるが、これは
 成立年代不詳(あるいは江戸後期)のものである。
 牛込の皿屋敷
 皿屋敷伝説の、重要要素である10枚の皿のうちの1枚を損じて命を落とす部分は、江戸に起こったという逸話にみつかる。
 正徳2年 (1712年) の
 宍戸円喜
 『当世智恵鑑』という書物に収録
  ↓
 江戸牛込の
 服部氏の妻は、きわめて妬み深く、夫が在番中に、
 妾が
 南京の皿の
 十枚のうち
 一枚を
 取り落として割ってしまったことにつけ、それでは接客用に使い物にならないので、買換えろと要求するが、古い品なので、もとより無理難題であった。更に罪を追及して、その女を幽閉して餓死させようとしたが、5日たっても死なない。ついに手ずから絞め殺して、
 中間に
 金を渡して骸を
 棺に入れて運ばせたが、
 途中で
 女は
 蘇生した。
 女は隠し持った200両があると明かして命乞いするが、
 4人の男たちはいったん金を懐にしたものの、後で事が知れたらまずいと、女を縊りなおして殺し野葬にする。後日、その妻は喉が腫れて塞がり、咀嚼ができずに危険な状態に陥り、その医者のところについに怨霊が出現し、自分に手をかけた男たち既に呪い殺したこと、どう治療しようと服部の妻は死ぬことを言い伝えた。
 三田村鳶魚は、この例「井戸へ陥ったことが足りないだけで、宛然皿屋敷の怪談である」としている。また、
 「牛込の御門内、むかし物語に云う、
 下女あやまって皿を一ツ井戸におとす、その科により殺害せられたり、その念ここの井戸に残りて夜ごとに彼女の声して、一ツより九ツまで、十を(言わずに)泣けさけぶ、声のみありてかたちなしとなり、よって皿屋敷と呼び伝えたり..」
 と
 享保17年(1732年)の「皿屋敷」の項に見当たる。牛込御門台の付近の稲荷神社に皿明神を祀ると、怪奇現象はとだえたと伝わる。
 皿屋舗弁疑録
 江戸を舞台とした皿屋敷の各要素のまとまった物語は、
 宝暦8年(1758年)、
 馬場文耕が表した
 『皿屋舗辨疑録』
 (皿屋敷弁疑録とも表記)を嚆矢
 牛込で起きた事件については、その皿屋敷にまつわる前歴が綿密と語られ、その後は一般に知られる皿屋敷の内容である。
  ↓
 将軍家光の代に、
 小姓組番頭の
 吉田大膳亮の屋敷を召し上げ、
 将軍の姉である
 天樹院(千姫)に住まわせた。この「吉田御殿」の天樹院のふるまいは、酒色に耽溺するなど悪い風聞が立つほどで、そのうち
 愛人の
 花井壱岐
 女中の
 竹尾を
 恋仲と疑って虐殺し、井戸に捨てた。他にも犠牲者は累々とで、
 「小路町の井戸」と恐れられた。
 天樹院の死後、この吉田屋敷は荒廃し妖怪屋敷と呼ばれた。
 「弁疑録」では、この屋敷は、吉田屋敷からいったん
 空屋敷となったので、
 そもそも
 「更屋敷(サラ屋敷)」という名で、
 皿事件とは関係なしにそう呼ばれる所以があったのだとしているが、
 その
 語呂合わせについては
 「西鶴の『懐硯』に
 "荒屋敷"、
 『西播怪談実記』にも
 "明屋敷"」
 とあると考察されている
  ↓
 その他の発生論
 中山太郎播州ではないと断ずるものの、江戸説に肯定的であるわけではなく、独自の
 「紅皿缺皿」の民話を起源とする説を展開
 そうした民話の痕跡として、
 佐々木喜善が記憶からたどって
 中山に
 口述した
 宮城県
 亘理郡
 言い伝えを引いている
  ↓
 幕末の
 喜多村信節
 『嬉遊笑覧』では、
 土佐の子供の
 鬼遊び
 「手々甲(セセガコウ)」の
 皿数えに由来をもとめている。
  ↓
 類話
 岩手県滝沢市江刺市
 鹿児島県南さつま市までと、
 分布は広い
 群馬県甘楽郡の2町1村、
 滋賀県彦根市
 島根県松江市
 兵庫県尼崎市
 高知県幡多郡の2町1村、
 福岡県嘉麻市
 宮城県亘理郡
 長崎県五島列島
 福江島などに例がある。
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 正保の頃、出雲国松江の武士が秘蔵していた十枚皿の一枚を下女が取り落として砕き、怒った武士は下女を井戸に押し込んで殺す。だが「此ノ女死シテ亡魂消へズ」夜毎に一から九まで数え、ワッと泣き叫ぶ。そこで知恵者の僧が、合いの手で「十」と云うと、亡霊はそれ以来消滅した(元禄二年『本朝故事因縁集』)。
 幡多郡に元・伊予松山藩士山瀬新次郎が移り住んだが、妻の瀧が名主に奉公しているうち、名主の縁者の青山鉄三郎が、名主の妾と通ずるだけではあきたらず、瀧にも横恋慕したがみのらず、瀧が管理する秘蔵の皿の一枚を隠した。名主は青山に取調べさせたが、青山の折檻に耐えられずに、滝のなかに投身自殺した。その怨念が皿の数を数える(土佐国幡多郡の「播多郡誌」)
 宮城県
 亘理郡亘理駅の近くに
 九枚筵という地名がある。その昔、
 継母が
 「缺皿」という名の娘をいじめ、ある時、搗き麦を十枚の筵で干せと言いつけておいて、その一枚を隠した。娘は井戸の身を投げた。(佐々木喜善談)
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 尼崎のお菊伝説
 皿ではなく食事にまぎれた
 針が悶着のもとである。
 蜀山人こと
 太田南畝
 『石楠堂随筆』上
 1800年(寛政12年)
 元禄9年(1696年)、尼崎の城主青山氏の老臣、木田玄蕃(喜多玄蕃)の屋敷に奉公していたお菊が食事を進めたとき、飯の中に針がまぎれており、殺意ととがめたてて菊を井戸に投げ込んだ。謝りにかけつけた母は、時遅しと知って後を追って井戸に飛び込んだ。その後、木田家では怪異や祟りが連発したが、一件が不祥事として尼崎侯の耳に入り、木田は改易、屋敷は祟りがあると恐れられ廃屋となった。のちに青山氏にかわり尼崎侯となった松平遠州侯が、木田宅の跡地に建てたのが尼崎の源正院であり、おかげで浄霊はかなって怪奇はおさまったが、菊を植えても花が咲かなかったという。
 ほぼ同様の内容で、
 根岸鎮衛
 『耳嚢』にも書かれてるが、旧木田邸の古井戸の場所が
 「播州岸和田」と記されている。
 いずれの史料も
 寛政7年(1795年)の
 お菊虫の大量出現を、
 お菊の100年忌に定めている。
 尼崎の伝説は、
 津村淙庵
 『譚海』
 にも詳しく書かれている。
 元禄の頃は、
 青山播磨守幸督が尼崎の城主
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 戯曲
 『番町皿屋敷
 岡本綺堂による
 1916年(大正5年)作の戯曲
 悲恋物語
 1963年(昭和38年)に
 大映市川雷蔵、藤由紀子主演で
 『手討』が製作された
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 落語の『皿屋敷
 町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。 それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が
 九枚以降も皿を数え続けている。
 お菊は
 十八枚まで数えると
 「これでおしまい」
 と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が
 「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」
 と訊くと、
 お菊は
 「明日は休むので二日分数えました」
 と答えた。
 より古典的なモノは
 旅の僧がお菊の霊を慰めようとして
 「なんまいだー(=何枚だ)」
 と念仏を唱えると、
 お菊が
 「どう勘定しても、九枚でございます」
 と返す、という
 駄洒落(だじゃれ)落ちのものもある
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