1551日目・・・今朝は曇朝でやや風が強い・・・「斜視」だった「サルトル」って、「サル(猿・申・沙流・沙留・去る・然る)」で、「トル(取る・撮る・torr・摂る・捕る・採る・録る・盗る・執る・摸る・攝る・攬・秉・采・摯・都丸・掇・摻・搴・拉・寽・捋・捉)」らしい・・・「古事記」じゃぁ、「猿田彦」と「猿女」だろう・・・「らち(埒)が明かない」とはコレだろう・・・「拉致問題」・・・
拉致(ラチ・Abduction)
個人の自由を奪い、別の場所へ強制的に連れ去ること。連れ去り。
直ちに身代金を要求することを目的とせず、また別の土地に連れ去る行為で、誘拐の一種
国家や組織が、
政治的・軍事的な理由により行う
強制失踪
・・・「国家=主権・領土・国境」とは、TV番組の「高校講座」の先生がノタマッテいたが・・・「拉致」は「埓内」から、「埒外」・・・「拉(ラ・ラツ・ひしぐ・くじく・強引に連れていく)=手+立」・・・押しつけてつぶす・勢いをくじく・頓挫(とんざ)させる・・・「アラブ国家」の漢字名に「阿拉伯聯合酋長國・阿聯酋・阿拉伯聯合大公國」、「イラク」は「伊拉久・伊拉克」・・・?・・・「拉麺(ラーメン)・拉薩(ラサ・ラッサ)・拉丁(ラテン)」・・・なるほど・・・「ラチ」であるなッ・・・
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「埓(らち)」
馬場の周囲に巡らした柵
物の周囲に、また仕切りとして設けた柵
物事の区切り
秩序の意
限界
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「ミザリー(Misery・みじめさ・悲惨)」はスチィーブン・キングの恐ろしい「ラチ」の小説で、映画だった・・・この映画はサルトルの「実存主義」よりよくわかる。そしてカミュの「異邦人」よりも、その「実存」が何かを・・・「実存主義」とは「本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想」とはワカリズライインテリのコトバであるな・・・「現実」は理解しやすいが、「本質」とは解りヅライコトバである。「本質=概念・カテゴリー・範疇」とは「モノに対する一般的、抽象的コトバの規定」であるが、「一般的、抽象的」とは何ぞや?・・・「ドウブツ・ショクブツ・ニンゲン」は「それ自体で現実には個々に存在しないコトバ」である。「系統学上の分類区分の総称のコトバ」にすぎない。「さる」であり、「りんご」であり、「ひと」であるが、これも「現実には存在しないコトバ」である。現実に存在するモノは個々の「一匹のモンキーちゃん」であり、「一個のツガルリンゴ」であり、「一人のサルトル」自体である・・・「サルトルは個としての人間であった」が「個々の人間はサルトル」ではないのは当たり前である・・・
そして、これは「個々人の認識上」の「認識の問題=コトバでの対象(モノ)に対する規定の問題=脳ミソ(言語)機能の問題」である。
「存在の問題」は「認識規定以前の問題=対象(モノ)に対する規定以前の問題」である。
個々のモノ、個々人の存在をコトバとして「人間として一般化」出来るのは「生物学的機能=分類系統学上」の「コトバ」としての「人間」である。その「生物学的形態機能」も「個別的」であり、「特殊的」な「存在=実存」として存在している。
「認識論」も「存在論」も「コトバの規定」無しでは「埓がアカない」の当然である。
「ニンゲン」だけが「コトバ=音声・文字・記号」を駆使できる「存在」であると、思うなョ、なッ・・・
「サルの帝王」とは「シーザー=カエサル」であったけれどな・・・「チャールトン・ヘストン」が「銃社会」に執着するワケは歴然だろう・・・「人間階級社会での実存」は「モノ(武器)とカネと博打」への欲望執着の結果の「自暴自棄のプロセス」である・・・「ニュヨーク=紐育=NY」・・・「オタワ=小田羽(カナダ)=Ottawa」・・・武器の消耗があれば軍事産業は儲かる・・・1946年、1964年、1965年(昭和40年)7月29日少年ライフル魔事件・・・知らんかったけれど、「ビートたけしの奇跡体験・アンビリバボー事件」の当時18歳の少年によるライフル乱射事件・・・
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以下原文は「ウイッキペデア」が下敷き・・・
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サルトルのいう自由とは、
自らが
思い至って
行った
行動のすべてにおいて、
人類全体をも巻き込むものであり、
自分自身に
全責任が跳ね返ってくることを
覚悟しなければならないものである。
このようなあり方における
実存が自由であり、
対自として
「人間は自由という刑に処せられている」
というのである
(人間は自由であるように呪われている。
condamné à être libre)
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・・・「人間は自由あるように」の「ように」とは「比喩・たとえ」のコトなのか?・・・「人間には自由など無い」と謂えばイイのに・・・そもそも「自由」のコトバでの「本質=規定」がなされていない・・・
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とはいえ、
人間は自分で選択したわけでもないのに、
気づいたときには
すでに、
常に状況に拘束されている。
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・・・自分自身(個々人)が周囲の存在と自己存在に「気づく前」から既(已・旣)に、常に状況に拘束されて来たコト(過去→過去完了)、来ているコト(過去→現在完了)を「存在論=存在のあり方の論理」と云うのだ。
自分自身(個々人)が「気づいたとき(現在完了→現在)」から「認識論=脳ミソの機能の論理」が始まるのさッ・・・「現在完了形」とは過去から今現在までの進行プロセスである。過去の認識反省と、未来想像を繋ぐ接点である。
対象存在、対象認識の自覚なしでは「存在、認識、双方の論理」はハジマラナイ・・・
「認知症」の極限は「ワタシはダレ?」である。だが「脳ミソの過去的な経験的記憶機能」が無くなっても、まだ「コトバ」を発するし、「食べるコト」も、「肉体的五感」、特に「イタミ・クルシイ」の意思表示はする・・・
子供の時期の「自閉症=発達障害=アスペルガー症候群(?)」・・・「五感感覚」は対象との接点認識の原点で、始源であるが、「認識機能」は
「対象存在の形態←五感感覚感受⇒脳ミソ内での記憶→思惟・思考→音声コトバの授受、選択学習、対象概念の意味規定←⇔→文字の意味概念としての記憶学習→表現・造作・創造・実践」と脳ミソ機能としてのセットである・・・ヒマなら以下を・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/hancyuron/hancyuron.htm
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他人から
何ものかとして見られることは、
わたしを
一つの存在として凝固させ、
他者のまなざしは、
わたしを
対自から
即自存在に変じさせる。
地獄とは他人である(l'enfer, c'est les autres)
そのうえ、
死においては、
すでに賭けはなされたのであって、
もはや切り札は残されていない。
わたしを
対自から
永久に
即自存在へと変じさせる
死は、
私の
実存の永遠の
他有化であり、
回復不能の
疎外であると
いわれる・・・
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しかしながら、
これを常に状況によって
自分が外から
拘束されているとみなすべきではない。
自由な対自としてのかぎりでの人間は、
現にあるところの
確実なものを
抵当(gage)に入れて、
いまだあらぬところの
不確実なものに
自己を賭ける(gager)ことができる。
つまり、
自己が
主体的に
状況内の存在に関わり、
内側から
引き受けなおすことができる。
このようにして
現にある状況から
自己を開放し、
あらたな状況のうちに
自己を拘束することは
アンガージュマン(engagement)
といわれる。
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人間の主体的実践が
疎外され
客体化・固定化することによって
実践的惰性態(pratico-inerte)
「=生産物、生産様式、諸制度、政治機構など、
人間によってつくられた
“存在”」
が形成される。
それは、
人間によって形成されたものであるが、
「すでに形成されたもの」として
諸個人を
規定・支配する
社会的・歴史的現実である。
それらの分野に
埋没し、
受動的に支配される人間は、
真の活動性を持たない
集合態(collectif)にすぎないが、
共通の目標を
目指す集団(groupe)を形成し
「共同の実践」をつくりだすことによって、
実践的惰性態をのりこえ、
真の活動性をとりもどす。
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・・・「真の活動性」とはナニか?・・・その「本質・概念規定・範疇・カテゴリー」・・・まさか、「イスラム国」じゃぁアルマイなッ・・・
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実践的惰性態
(=生産物、生産様式、政治制度等)は、
いわば歴史の
「受動的原動力」であり、
社会・歴史の
客観的構造や
運動法則というのは
この分野において成立する。
それに対して
集団的実践(特に階級闘争)は
歴史をつくる
人間の主体的活動であり、
歴史の「能動的原動力」
というべきものである。
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・・・ここでも、「歴史」の概念規定がない。「集団的実践(特に階級闘争)」は「闘争」であるから「能動的原動力」の主体は被支配階級の人々であろう。
だが、この闘争を受けて対峙するのは「実践的惰性態(=生産物、生産様式、政治制度等)」である支配階級の主体的な「闘争」でもあるハズだ・・・
「階級闘争」とは「敵」VS「味方」、「支配階級」VS「被支配階級」の「相互闘争」である・・・「実践的惰性態」とは支配階級も「埓をマモル」ために必死であろうに・・・
「能動的原動力」になる殆どの人々の「幻想意識」は「支配階級の幻想意識=実践的惰性態=ドリーム」である。「支配階級」も「被支配階級」も「疎外されている存在」だが、「疎外」の概念規定がなされていない。
ロシア革命後も、諸々の植民地解放後も、諸々の諸国家の「軍事クーデター後」も、「疎外された存在の人間の解放」はなかった・・・あったのは「私有財産の権利意識=カネ」とそれに支えられた「権力志向意識=出世」への「自由選択」である・・・そして「国家意識・民族意識」の「幻想」である・・・大まかに言えば階級社会共同体に沈殿しているのは格差があろうが、なかろうが、資本家であろうが工場労働者であろうが、豪農であろうが貧農であろうが「プチブル意識のドリーム=博打根性」である・・・個々人の生活レベルは「カネの多寡」、意識レベルは「階級の階段を上っていくドリーム」である・・・
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サルトルの
『弁証法的理性批判』
における
理論形成の意図を
サルトルは
『方法の問題』の中で繰り返し述べている。
例えば
『方法の問題』の第2章、
「媒体と補助諸科学の問題」で
サルトルは
「生産関係及び社会的政治的構造の水準では、
個々の人間は
その
人間関係によって条件づけられている(76頁)」
として、
生産関係(経済的土台)と
個人との間に
家族、居住集団、生産集団など
現実に数多くの
「媒体」が存在すること、
「発見学」としての
マルクス主義は
それをも含めて解明していくことが
必要であると主張した。
そして、
個人の意識の縦の方向に関わるものとして
精神分析学の成果を、
また、
社会的な横の総合に関わるものとして
アメリカ社会学の成果を、
マルクス主義の中に
「方法」として取り入れることを
主張したのである。
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以上のように、
実践的惰性態(pratico-inerte)、
集合態(collectif)、
集団(groupe)
等の
概念を駆使して
史的唯物論の
再構成を目指した『弁証法的理性批判』の意図は、
マルクス主義の中に
精神分析学や
アメリカ社会学の成果を包摂し、
20世紀の
知の集大成を行うことで
「構造的、歴史的人間学」を
基礎づけることであった。
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・・・イヤァ〜ッ、「発見」以前に「はやった(流行った)」のだ、当時のニッホンでは・・・ヤッパ、日本人翻訳者の翻訳が「本訳」でなかったのだろう・・・一体全体「実存主義」はドコに行っちまったんだか・・・
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ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル
(フランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905年6月21日 - 1980年4月15日)
フランスの哲学者、小説家、劇作家。
内縁の妻は
シモーヌ・ド・ボーヴォワール
強度の斜視があり、
1973年に右目を失明
隻眼、片目、斜視は「歴史(文字記録)上の人物」に、オオイけれど・・・「巫女」には「斜視」が多く、「医者」には「藪医者」が多かったようだ・・・正確無比なのは「大工・石工の棟梁」と、その「職人」達であったのは今現在に残る建築物を見れば明らかだ・・・正確無比でないのは「文字記録」されたモノである・・・
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「白熱教室」
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マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。
ジャン=ポール・サルトルを中心とした
人間の実在を思考の中心に置く
「実存主義」が研究のテーマ
難解な哲学的観念を、
身近な実例に置き換えて、
わかりやすく
解説する講義は・・・?
マーティン博士は、
大胆な仮説や
奇抜な思考実験を駆使して、
私たち現代人が
心の中に抱える
様々な
悩みや
矛盾の解決方法を探り、
「生きているとはどういうことか」を
“実存主義”を使って明らかに・・・?
ケンブリッジ大学で
フランス哲学・文学・語学の教鞭をとる。
専門は実存主義
尊敬する人物は
ジャン=ポール・サルトルと
ジャック・デリダ
イギリスサッカー界のスター
ベッカム選手の
パリ生活をテーマにした
架空のブログで、
イギリス国中の
テレビや新聞にも取り上げられるほど
大きな話題となった・・・
また、
“FBIファイルに記載された
フランス哲学者”や
“サルトルとカミュの対立”
を
ボクサーと
ゴールキーパーという
視点から分析した著作などがある・・・
大のサッカー好きで、
イングランド・プレミアリーグ、
ウエスト・ハムの熱狂的なサーポーター。
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ケンブリッジ白熱教室第3回
FBI 対 フランス哲学者.
2014年10月24日(金)Eテレ午後11時から11時54分. “アメリカから大きな資料の包みが私の家に送られてくるのだが、
大きな文字で
「FBI連邦捜査局」と刻印されている。
マーティン博士が入手した
FBI捜査記録をもとに、
サルトルとカミュの二人を徹底分析。
第二次大戦後、
個人の存在にこだわりつつけた
カミュ、そして、
実存主義を
社会や共同体にまで広げたサルトル。
二人のフランス人の変遷と対立を考察・・・
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ケンブリッジ白熱教室
フランス哲学的幸福論
2014年10月31日(金)Eテレ
“私たちはなぜ
不幸だと感じるのか?
幸せは何処にあるのか・・・。”
マーティン博士
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・・・であるらしい・・・コイツの「存在理由」はナンなんだか・・・