1491日目・・・「現実戦争」も「戦争映画」も世の中に蔓延している・・・「戦争は英雄と英霊をつくりだす」・・・「戦争はすべての愛を壊す」とは結果論である。「私は貝になりたい」と云う映画があった・・・戦地に出征する前に「夫婦・家族」の「緊張した愛」があった。戦地から帰還した後にも「安堵した愛」があった。そして、「戦犯死刑」・・・彼にとっては「戦争がすべての愛を壊した」のだ。「戦争はダレの愛を壊した」のか・・・

 時間軸の「過去−現在−未来」のプロセスでは・・・「戦争はすべての愛憎を育む」だろう。しかも「戦争でスベテの愛を壊された」か、どうかは「?」である・・・
 「戦争=愛+憎」・・・before and after ・・・different in b and a・・・?・・・different depending on the person・・・
 市民社会の「人間」間でも、国際間の「国家」間でも、相手があっての「殺傷・殺人」であり、「殺さない・殺させない」は自分自身の主観的な信念、信条の「決意表明」である。
 が、「殺す・殺したい」は「相手の立場の決意」であるかもしれず、自分自身の「決意の埒外」にある・・・
 「同胞隣人の脳ミソの憎しみ」、「隣国の支配階級、指導者の脳ミソの憎しみ」は「仇討ち」だけでは済まされない「心情」なのだ。「心情」とは「理屈」ではない。理屈で云えば「やられた方に脳ミソにこびり付いた恐怖と怒り」である。「恐怖」の払拭は「理屈」では不可能である。「怒り」の払拭は仕返してもまだ残る・・・そして「許す」とは「諦め」かも・・・これらに「介在」するモノは「掟」と「法」、「宗教」であるが、「公平な法」はないし、「法」のホトンドは事後処理の約束事である。
 「怨念」がなくても「人」は「人」を殺傷する存在である・・・
 「君主、親兄弟の仇討ち」と「責任切腹」は「日本武士道の真髄」である。「恨みを果たすコト」が「義務」なのか・・・「切腹」には「恨み」はないらしい・・・中世、前近代、階級社会では「諦める」しかない・・・現代では「カネ=賠償金」の多寡で諦める・・・
 帝國日本に合併された朝鮮半島の居住民の一部は「帝國日本軍」として戦って「終戦」をむかえた。神風特攻隊には「日本国籍人」としての「朝鮮飛行兵」がいた。「南京攻略」にも・・・
 大陸中国の「共産党民族主義者?)」は「国家として戦勝」したわけではないうちに「戦争」が終わった。「戦勝」で終わったのは「中国国民党政府」である。
 大陸中国南北朝鮮、両者とも戦争決着の「戦勝なき終戦」の「国家指導者の憾みと、その彼らに煽られた被支配の居住民の怨恨」であろう・・・
 「寛大な心情」になったは「特殊戦勝国アメリカの軍事司令官」である。西欧戦線では「アイゼンハワー」であり、極東戦線では「マッカーサー」であった。「アメリカ政府指導者」ではない。「アイゼンハワー」も「マッカーサー」も、「心情」とともに、「ブルジョア民主主義アメリカ人としての信条、信念」を有していた。
 「敗戦国の帝國日本の支配階級指導者」は「敗戦結果の占領軍権力」に恐れおののいていたのである。だが、「マッカーサー」は寛大であった。今現在、「プチブル民主主義の政治体制」の中で「自虐史観批判」で「自由にモノが云える人間」の原点は「帝國日本敗戦」と「日本国憲法」である。どこが「自虐史観」なのか・・・「自由にモノが云えなくなるコトを望んでいる」のか・・・裏腹に「人民憲法」を画餅の餅としている「大陸中国」に憬れているのカモでは・・・
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 ・・・「戦争はすべての愛を壊す」・・・「愛」とはナンナンだろうかネッ・・・「愛」だけでは語れない・・・「愛憎」・・・