1441日目・・・「大陸中国」のヤッテイルコトは「コロンブス」と一緒・・・「1492年8月3日」、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航。「10月11日」の日付が変わろうとする「0時」、ピンタ号の水夫が陸地を発見・・・「10月12日」の翌朝、コロンブスはその島に上陸し、そこを「サン・サルバドル島」と名づけた・・・彼がやったコト。「カネを要求しては原住民を虐殺し、奴隷狩り」・・・「1911年」にインデアンは「アメリカインディアン協会」を設立、「全米インディアン・デー」を提唱。「オハイオ州コロ
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「1492年8月3日」
「10月11日」
「10月12日」
「1911年」
・・・上の「数字」と
「オウム」=「鵡(鸚鵡)」=「武+鳥」
「綿玉」=「わただま」
「わたつみ(棉積み)」=「海神(わたつみ)」
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の「文字」は「古事記」、「日本書記」、「日本歴史」ではナニを意味しているのか・・・以下は例の如く下敷きは「ウイッキペデア」・・・
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1492年
↓
干支は
壬子年・・・・みずのえのね
日本の元号
延徳四年
明応元年七月十九日
(〜明応十年二月二十九日=文亀元年)
「後土御門」天皇
皇紀2152年
中国
明国の元号
弘治五年
朝鮮
李氏朝鮮
成宗二十三年
檀紀3825年
ベトナム=越南・コーチ(交趾)
後黎朝
洪徳二十三年
↓
・・・取り立てて「日本」では事件がないが、元号は疫病での改元で「延徳四年=明応元年」が重なっている。「延ばす徳、ヨネン」、「明に応じる元の年」、その後の元号(1504年3月16日改元)が「文亀(ブンキ)元年(辛酉年)」で、「後柏原」天皇の即位と「辛酉革命」である・・・「後の柏(かしわ→槲)原」→「柏=木+白」の「原→源」・・・「キは新羅のゲン」・・・清和源氏は「新羅三郎」・・・源義光は、河内源氏の二代目棟梁、「源頼義の三男」。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服。「新羅三郎」と称した・・・元服の場所がナゼか「新羅明神」なのか・・・祭られているのが先祖であるからだ・・・もちろん、「万葉集」の「白水郎=あま=海女・海士・蜑女・潜女(かつぎめ)」も、「白拍子」の表記も怪しく「那辺(奈辺)で、可笑(をか)しい→可化(変)しい」のである・・・「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた」・・・平安時代末期から鎌倉時代に起こった「主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったモノ」の歌舞の一で、それを演ずる「芸人・巫女・遊女」も指すコトバとブログには記載されているが、「白拍子」としての有名人は、「源義経」の妻妾の「静御前」である。「高木淋光」の「成吉思汗(ジンギスカン)の秘密・1958年」の小説の
「しずやしず
しずのおだまき
繰り返し
むかしを今に
なすよしもがな
↓
なすよしもカナ
(成吉思汗→吉野に成りし、
水干=静御前=遊女を思う)」
を思い出すけれど、アレが1958年、1960前後頃のボク・・・夢中(霧中)で読んでいた・・・神津恭介・・・構図境界(狂会)・・・
他の「白拍子」には・・・「妓王(祇王)」、「仏御前」・・・
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「仏御前(ほとけごぜん)」
永暦元年一月十五日(1160年2月23日)
〜
治承四年八月十八日(1180年9月14日)
十四歳、上京
叔父の
白河兵内のもとで白拍子となり、
平清盛の屋敷に詰め寄る
当時は白拍子の
妓王が清盛の寵愛を集めていた
妓王の誘いにより、
清盛の前で即興で
「今様」を詠んだ
↓
「君を
始めて見る
をりは
千代も経ぬべし
姫小松
御前の池なる
亀岡に
鶴こそ
群れ居て
遊ぶめれ」
・・・清盛に門前払いをくらうところを
祇王に取りなしてもらった
建前、
彼女に、声をかけるように清盛にうながしたところ
清盛は妓王を追い出せと命ずる
去り際に妓王が障子に書き残した
一首が、
↓
「萌え
出づるも・・・イヅル模
枯るるも・・・カルル模
同じ
野辺の草・・・里予(マア→アマ)のクサ
いづれか
秋に・・・・・亜紀・安岐・安芸
あはで・・・「阿波・安房・安和・粟・泡・沫」出
果つべき」・「田木→多記・他紀
多伎・多気・瀧」通可(冪)
ベキ=冪(巾)=冪乗(power)
累乗(exponentiation)
ある一つの数同士を繰り返し掛け合わせる操作
あるいはそれによって得られる数
冪然(ベキゼン)=おおいかぶさるさま
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1492年・・・スペイン(西班牙)では「8月18日にアントニオ・デ・ネブリハ (en:Antonio de Lebrija)」 が、スペイン語の「初の文法書」の「カスティリア文法(Gramática castellana)」を出版した、とある・・・
「スペイン=イスパニア(西班牙・正式国名はエスタド・エスパーニョール(EstadoEspanol)」。「エスパーニョールの語源はローマ時代の地名ヒスパニア(Hispania)」・・・その「文法書」である・・・誕生人、死亡人は
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誕生
4月15日(延徳4年3月19日)
小笠原長棟、
戦国時代の武将、
府中小笠原氏の当主
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10月30日には重なって・・・
尼子国久、戦国時代の武将
小田政治、戦国時代の武将、小田氏の第14代当主
肝付兼興、戦国時代の武将、肝付氏の第15代当主
華陽院、松平清康の後妻
相良長隆、戦国時代の武将
朱ガン、明代の官僚
平手政秀、戦国時代の武将
毛利興元、戦国時代の武将
アダム・リース、「ドイツ(独逸)の数学者」
六角氏綱、戦国時代の武将、六角氏の当主
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死去
3月13日(明応元年2月15日)
千葉輔胤、
室町時代の武将、千葉氏第21代当主
4月8日
ロレンツォ・デ・メディチ、・・・?
出・目出位地(壱・市・位置)
イタリアの
フィレンツェの・・・
↓ ↓紋章は
↓ ↓「赤いトカゲ(蜥蜴)」のように観える
↓ ↓座標=北緯43度47分0秒
↓ ↓ 東経11度15分0秒
古代ローマ時代、
花の女神フローラの町として
フロレンティア (Florentia) が語源
英語=Florence(フローレンス)
西班牙語=Florencia(フロレンスィア)
独逸語=Florenz(フロレンツ)
↓ 仏蘭西語=Florence(フロランス)
メディチ家の当主・・・・・目出位置
↓
5月27日(明応元年5月2日)
蓮教、室町時代の浄土真宗の僧
6月7日
カジミェシュ4世、リトアニア大公、ポーランド王
6月8日
エリザベス・ウッドヴィル、
イングランド王エドワード4世の王妃
7月5日(延徳4年6月11日)
相馬高胤、
室町時代の武将、相馬氏第12代当主
7月25日
インノケンティウス8世、
第213代ローマ教皇
8月13日(延徳4年7月20日)
庭田朝子、後土御門天皇の典侍
10月12日
ピエロ・デラ・フランチェスカ、
イタリアのルネサンス期の画家
11月1日
ルネ、アランソン公
11月6日
アントワーヌ・ビュノワ、
ブルゴーニュ公国の作曲、作詞家
島津忠廉、
室町時代の武将、豊州家第2代当主
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クリストファー・コロンブス
(英語=Christopher Columbus
伊語=Cristoforo Colombo
羅語=Christophorus Columbus)
1451年頃?〜1506年5月20
航海者・コンキスタドール、奴隷商人
イタリアのジェノヴァ出身
↓
サンタ・マリア号(La Santa María)は
当初は
「マリガランテ(娼婦)号」として建造
1492年
コロンブスによる初の大西洋横断航海の
3隻(ニーニャ号とピンタ号)の
帆船のうちの最大の船
1492年12月24日に
ハイチ沖
イスパニョーラ島で座礁、後に解体され、
木材は要塞の資材としてリサイクル・・・?
↓↑
AFP
2014年5月14日
マサチューセッツ州在住で、
海洋考古学調査を専門とする
バリー・クリフォード氏が、
ハイチ沖で沈没している
サンタマリア号と思われる
船の残骸を発見した、と発表
↑
・・・解体された「サンタマリア号」の「リサイクル」されなかった残骸なのか?・・・
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MSN産経ニュース
コロンブスの旗艦「サンタマリア号」の残骸か ハイチ沖で発見
2014.5.14 19:52 (歴史・考古学)
カリブ海の島国ハイチ沖で見つかった沈没船の残骸が、1492年に米大陸に到達した探検家コロンブスの旗艦「サンタマリア号」である可能性が出てきた。米国の海洋研究者が13日、発表した。
ロイター通信などによると、米マサチューセッツ州の研究者らが2003年に発見し調べていた。研究者らは、見つかった海域が同号が約500年前に沈んだ場所とコロンブスが説明していた場所と一致すると指摘。地理学、考古学的な証拠などから「サンタマリア号の残骸であることを強く示している」と話した。
サンタマリア号は1492年末にハイチ沖で座礁し放棄されたとされる。
残骸と確認されれば歴史的発見となるが、一部からは「さらなる検証が必要」と慎重な意見も出ている。ロイターによると、ハイチ当局者は否定的な見方を示しているという。(共同)
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・・・「大陸中国」のヤッテイルコトは「コロンブス」と一緒・・・やることは「意図的」であり、「恐喝的」であり、「強奪的」である・・・「集金兵のキョウサントウ」・・・あの「女広報官」は追従者と言うよりも「確信犯の形相」である・・・「確信」が崩れるには「自覚的老化・加齢」の「己の痛みの時間」が必要だ・・・