1423日目・・・TVニュースで「皇居特別参観の一般公開」、その写真を「俯瞰、鳥瞰」すると「皇居の敷地は五角形」・・・定員300人に対して17万6000人が応募ですか・・・函館の「五稜郭」は「五芒星(ごぼうせい・pentagram=ペンタグラム=☆・デビルスター)」だが、南西にもう一つの出っ張りがあり、「六芒星(ろくぼうせい・りくぼうせい・Hexagram=ヘキサグラム=△+▽)」にみえる・・・「五芒星」は、陰陽道の魔除けの呪符。陰陽道の「陰陽五行=木・火・土・金・水」の五元素の働きの相克・・・「牛蒡の

 「安倍晴明の家紋」は「五芒星」、「晴明九字(セイメイクジ)」、キキョウの花を図案化した「桔梗紋」の変形として、「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも・・・
 五稜郭築城の設計者は「蘭学+漢方」者の「武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)」がフランスの城を参考に設計した・・・
 「ツボ=経穴・経絡」は「五芒星」か、「六芒星」か・・・
 以下の参照参考の原文はウイッキペデアです・・・
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 武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう)
 文政十年九月十五日(1827年11月4日)
 〜
 明治十三年(1880年1月28日)
 伊予大洲藩士
 科学者、教育者、陸軍軍人
 函館時代までは
 斐三郎
 明治政府時代からは
 成章(しげあきら)
 号は
 竹塘(ちくとう)
 緒方洪庵
 佐久間象山らから
 洋学などを学ぶ
 洋式城郭
 「五稜郭」を設計・建設
 明治七年(1874年)三月
 陸軍大佐
 陸軍大学校教授、陸軍士官学校教授、
 陸軍幼年学校長(初代)
ーー
 伊予
 大洲藩士の
 武田敬忠の次男
 伊予国
 喜多郡
 中村(愛媛県喜多郡)で誕生
 先祖は
 甲斐武田氏
 大洲藩・・・・・おおす=大須←名古屋
 加藤氏に仕えた
 家紋は四つ目菱
 (甲斐武田の本家は四つ菱)
ーー
 大洲藩校・明倫堂に通い、
 母親の実家で
 漢方医学を・・・漢方=ツボ=経絡・経穴
 学んでいたが、
 二十二歳のとき
 藩主・加藤泰幹に願い出て、
 大坂の緒方洪庵
 適塾で学び、塾頭となる
 2年後に洪庵の紹介で
 伊東玄朴や
 佐久間象山兵学、砲学を学んだ
 ペリー来航のときは、象山に連れられて
 吉田松陰らとともに
 浦賀に行って
 黒船を見て
 「三浦見聞記」を著した(27歳)
 江戸幕府の命により旗本格として出仕
 箕作阮甫に従い長崎にて
 ロシアの
 エフィム・プチャーチンとの交渉に参加
 通詞御用を務めた(28歳)
 幕府の命で
 箱館奉行
 堀利煕らの
 蝦夷地・樺太巡察に随行
 箱館(函館)で
 アメリカの
 マシュー・ペリーと会談した(28歳)
 箱館奉行所が設置
 箱館詰め
 十年間同地に滞在
 機械・弾薬製造の任に就き、
 弁天台場や
 五稜郭の設計・建設に携わった
 諸術調所が開設され教授役
 榎本武揚
 前島密
 井上勝などが学ぶ
 溶鉱炉の製造(33歳)
 国産帆船「亀田丸」を操船して
 日本一周(33歳)
 ロシアの
 黒竜江に日本初の修学旅行、兼、貿易(35歳)
 箱館で商家の娘
 小島美那子と結婚するが死別
 大塚高子と再婚したが死別
 西村仲子と結婚
 ・・・3人の妻・・・
ーー
 江戸へ戻り、
 江戸
 開成所教授や
 大砲製造所頭取に任じられた
 戊辰戦争
 兄で儒学者
 武田敬孝(後、宮内省官僚)が指導した
 大洲藩が討幕派だったことから
 斐三郎も疑われて、
 御徒町の自宅が襲われ、
 恩師・象山の故郷である
 松代藩にかくまわれた
ーー
 明治維新後は新政府に出仕
 日本軍の近代兵制、装備、運用を含め、
 明治の
 科学技術方面の指導者となり、
 フランス軍事顧問団との厳しい折衝を経て、
 明治八年(1875年)に
 陸軍士官学校を開校
 明治十三年(1880年)病死
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 五稜郭(ごりょうかく)
 江戸時代末期に
 蝦夷地の箱館(北海道函館市)に
 建造された
 稜堡式の城郭
 長野県
 佐久市
 龍岡城など、
 当時日本で建造された
 星形の城郭を
 「五稜郭」と通称する
 「五稜郭」といえば一般的に函館の城郭を指す
 建造中の名称
 亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)、
 完成後の名称
 箱館御役所(はこだておんやくしょ)
 柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる
ーー
 日米和親条約締結による
 箱館開港
 徳川家定の命により築造
 設計担当は洋式軍学者
 武田斐三郎
 施工、土工事は
 松川弁之助
 石垣工事は
 井上喜三郎
 奉行所の建築は
 中川源蔵が
 請け負った
 五稜郭以外に
 洋式築城が用いられたのは
 龍岡城
 明治維新後の
 松尾城などであり、
 ほかに
 前橋城が部分的に擬似洋式築城を用いた
ーー↓↑ 
 1857年(安政四年)
  工事開始。同年、箱館通宝発行
 1864年(元治元年)
  組立開始
 箱館奉行所を宇須岸館(河野館、箱館)の
 跡(元町公園)から五稜郭に移した
 1866年(慶応二年)
  工事完了
 ↓
 1868年(明治元年)十月二十六日
 佐幕派
 大鳥圭介隊と
 土方歳三隊の
 両隊が五稜郭を占拠
 1869年1月(明治元年十二月)
 箱館政権樹立
 1869年(明治二年)5月18日
 新政府軍に敗北し明け渡し
 1871年(明治四年)以降
 五稜郭内部の建物は取り壊され、
 材木などは
 開拓使官舎に使われた。
 後、
 要塞兼練兵場として
 陸軍省の管轄下
 中川嘉兵衛が
 結氷を切り出し、?・・・結氷
 ↓        結ぶヒ(こおり→郡・評)
            氷高皇女
            ↓
          第四十四代
          元正天皇
          在位は
          霊亀一(715)年九月
          〜
          神亀一(724)年二月
          父=草壁皇子
          母=阿陪皇女(元明天皇
          同母
          弟=珂瑠皇子(文武天皇
          妹=吉備内親王
          養老四(720)年、
  ↓      「日本書紀」が完成
 「函館氷」と銘打って
 京浜市場に送りはじめる
 1914年(大正三年)
  公園として一般公開
 1917年(大正六年)
  片上楽天が兵糧庫を利用して
 「懐旧館」を設立
 箱館戦争に関する資料を展示
 1922年(大正十一年)
 国の史跡に指定
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 「陸軍服制(明治33年勅令第364号)」
 大将から兵卒まで、
 大日本帝国陸軍の軍帽には五芒星が刺繍
 戦車などの陸軍兵器(前面)に使用
 「西周(にしあまね)」が
 導入したとの説・・・?「西周=セイシュウ」
 親任官以下全ての
 陸軍軍属が着用する
 軍属従軍服(軍属服)では、
 五芒星を模した臂章が
 制式
 (昭和十八年制)であった
 平服着用時に佩用する
 バッジ型(七宝焼き)の
 徽章でも五芒星が使用
ーー
 五芒星
 紀元前3000年頃の
 メソポタミアの書物
 シュメール人はこれを
 UB(ウブ)と呼んだ。
 下向き五芒星を
 「角・小さな空間・穴」・・・穴(あな)
 などの意味を表す
 絵文字とする
 エジプトでは
 子宮を表させていた・・・・子宮(シキュウ)
 バビロニア
 図形の各側面に
 前後左右と上の各方向に
 木星・水星・火星・土星
 上に地母神
 イシュタルの象徴
 金星を対応させた
 五芒星→五惑星→五感・・・「語感、語幹」の「互換」・・・
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 後閑(ゴカン)だろう・・・
 ↓
 千手寺(せんじゅうじ)=千龍寺
 岡山県
 岡山市
 高野山真言宗の寺院
 山号
 遍光山
 院号
 蓮華院
 本尊は
 千手観音
 天平勝宝四年(752年)
 奈良・南都六宗の一
 法相宗の高僧、
 報恩大師により創建
 報恩大師創建の寺院は
 本尊が必ず千手観音
 千手寺のある
 大内田は
 慶長五年(1600年)から
 戸川庭瀬藩領であったが
 遠江(静岡)浜松藩領になり
 後に
 徳川江戸幕府天領編入
 京都・大内山
 仁和寺の末となってからは
 京都本山直末の
 一等格院(本山直末寺・本寺)として
 末寺・門徒寺が葬儀等を行う際には
 派頭導師として執行
 千蔵坊、大蔵坊、三昧寺、
 五社神社厳島神社などの坊社を近隣に備え
 「上寺(かみでら)」とも称されてきた
 江戸時代には千手寺には、門跡寺院と同じく
 寺侍、詰所と茶室が設けられていた
 (山門は岡山藩家老職の
  伊木家の門の一つ)
ーー
 千手寺の五芒星
 吉備の
 「穴海」と呼ばれた・・・?穴海(あなのうみ)
             「あなうみ・あみ」
              穴海(ケッカイ)
              結界・決壊・血塊
             「穴」=「ウ+八」
              経穴=ツボ=経絡
 岡山市内全域と
 妹尾兼康の
 十二ヶ郷用水を見渡す小峰にある
 千手寺の千手観音堂弘法大師堂)
 寺院でありながら
 陰陽道の五芒星が
 現・大師堂の厨子
 天頂部に祀られている
 (千手寺五芒星)
 五芒星は、
 明けの明星である
 金星、
 または
 北斗七星を示すと考えられる
 千手寺が望む
 吉備津神社には
 温羅(うら)という
 鬼を
 吉備津彦命が退治した伝説
 陰陽道
 「陰陽」は古くは
 「うら」と発音・・・
 大内田(地名)は
 日本臨済宗とともに
 葉上流密教を創始した
 栄西の生誕地(川入)の近く。
 千手寺の開創
 報恩大師は・・・・ホウオン→報音
 吉備真備
 安倍仲麻呂と共に入唐した
 玄方(日+方)したの弟子
 俗姓
 阿刀氏である玄方(日+方)の師が同じく
 阿刀氏の義淵
 弘法大師空海の母方も
 阿刀氏・・・
 義淵の弟子に
 行基道鏡
 陰陽道はその
 吉備氏(加茂氏)
 安倍氏安倍晴明)とかかわり
 千手寺はその五芒星の加護により
 岡山、河川全体を守護・鎮守・・・
ーー↓↑
 織田信長
 鎮魂の涅槃図(大軸)
 千手寺涅槃図由来書
 ↓
 徳川江戸幕府直轄の
 天領の本寺である千手寺に、
 敬仏敬神な
 檀家一族(織田信貞の血統)の手により、
 織田信長公、並びに当家代々の霊が、
 千手寺本堂にて安らがれることを祈願して奉納
 織田信長公の天下布武
 犬・猿・雉を従えた・・・ケンエンチ(きじ)
 鬼退治、桃太郎・・・・・桃=木(十八)+兆
            「もも=百」太郎
           腿・股
             また=亦・又・俣
             復
ーー
 千手寺
 八十八ヶ所霊場
 四国八十八ヶ所霊場
 (阿波・土佐・伊予・讃岐)を
 勧請したもので江戸時代の創建
 それぞれ
 妹尾崎・坪井・矢尾・大内田村に対応・・・
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