1400日目・・・昨日は「ブブ」ちゃんをタクシーで駅、駅から隣のトナリの町、そして又タクシーで「動物病院」へ・・・葬儀で留守番をモモとブブに託したのだが、一日あけて、夕方、ボクの帰宅に右の前足を上げながら「ミャァミャァ」と擦り寄って出迎えてくれたのは「ブブ」だった。その右足を触って調べてみるとパンパンに腫れ、熱をもっている。骨折か、捻挫か、それとも侵入者に咬まれたのか・・・母親のモモが心配そうにボクの顔を見上げている。地元の町に「犬猫病院」は無い。両隣りに隣接する町をインターネットで調べてみると一方の「

 病院に連れて行く途中でその化膿していた部分が潰れ、大量の膿と血がカゴの毛布を汚していた。獣医さんの診断と治療では骨折でも、捻挫でもなく、足の肉球に何かが刺さって化膿していたらしいのだが、刺さったモノは無い・・・多分、毎度侵入してくる近所のネコに咬まれた(?)・・・のかも・・・兎に角、骨折でなかったので、ホッと・・・
 注射を二本、ブブの左右のお尻にうってもらって帰って来たが、結構、遠い場所ではあった。こんな時には「自家用車」があれば、なッと・・・だが、雪の道を運転するのには自信がない・・・それ以前にカネが無い・・・
 昼に「タカジン」でサクライのオバンが「正論」を吐いていた・・・「国家主義者」としての・・・ミンナ、「地球人」ではないらしい・・・その後「キャット・ウーマン」・・・そして、今現在は「プラチナデータ」・・・「人間」は自分を護るために「28」と「108」の「人格」のハザマで生きている・・・「沈約」って「新旧の聖書」が「沈んでいる」のか、「枕にしている」のか、「耽(ふける・タン・トン)っている」のか・・・「眈(にらむ・タン・トン)=目+冘」んでいるのか・・・「新約聖書」の「珍訳清書」・・・
 「サイエンスゼロ」・・・「二酸化炭素=CO2=C+O+O」・・・「アミンゲル」ですか・・・「地球ドラマチック」・・・
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 「沈約」
  ↓
 「宋書
  ↓
 中国南朝
 宋国(南宋・1127年〜1279年)の歴史書
 「宋・斉・梁」に仕えた
 「沈約」が
 斉の
 「武帝」に命ぜられて編纂
 本紀十巻・列伝六十巻・志三十巻の計百巻の
 紀伝体
 二十四史の一
 ↓
 本紀・列伝は一年ほどで完成
 「志」の完成には十年の歳月がかかり、
 完成は
 梁代
 同時代資料を多く収録
 日本に関しては
 「夷蛮伝」の「倭の五王
ーー↓↑ 
 「後漢書東夷伝
  ↓
 「建武中元二年(57年)」・・・?日本年号では
       建武中興1333年(元弘三年=正慶二年)六月
 光武帝印綬
 「安帝の永初元年(107年)」
 倭国王・「帥升」等
 生口百六十人
 「桓、霊帝の間(2世紀後半)
 倭国大乱
ーー
 「宋書倭国伝」
  ↓
 「順帝の昇明二年」
 詔して武を使持節都督倭
 「安東」大将軍倭王に除す・倭王「武」の上表文
 興・武
 昇明二年(478年)・・・?照明・証明・正銘
 「宋書倭国伝(432年?〜502年)
 倭の五王=「讃・珍・済・興・武」・・・?熟語は
 ↓↑    讃岐・珍説・経世済民=経済・勃興・天武
 ↓↑    讃良・珍島・済州島・座興・聖武桓武
 ↓↑    讃美・珍宝・済度・興味・文武・武内
 「平清盛(浄海・六波羅殿・福原殿・肥後守・安芸守)」
 (元永元年・・・・?「元の永」→幻影
  1118年
   〜
  治承五年閏二月四日・・・?事象・自称・自照・自傷
               自性・次章・字証
  1181年3月20日)
 の
 厳島
 日宋貿易時代の
 「宋国=趙宋」とは異なる・・・?・・・だが重ねたのだ
  ↓↑
 宋(960年〜1279年)
 「趙匡胤」が五代最後の
 「後周」から禅譲を受けて建国
 国号は「宋=趙宋」だが、
 「春秋時代(紀元前1100年頃〜紀元前286年)の宋」、
 「南北朝時代(420年〜479年)の宋=龍宋」
 などと異なる
  ↓↑  
 「渤海→金=女真=女直」に
 華北を奪われ南遷した
 1127年
 以前を北宋
 以後を南宋
 首都は開封・・・・?開封とは書簡の開封
 南遷後の首都は
 臨安・・・?安に臨む
ーー↓↑
 宋国(紀元前1100年ごろ〜紀元前286年)
 周代、春秋時代、戦国時代に存在した
 都は
 商丘
 ↑
 周に滅ぼされた殷の
 「帝辛(紂王)」の
 異母兄
 「微子啓」の封国
 ↓
 「襄公」の時代
 斉の
 「桓公」の死後・・・?桓武天皇
 諸侯を集めて
 会盟
 楚の
 「成王」は会盟にやってきた
 「襄公」を監禁
 一旦謝罪し解放され
 「襄公」は
 「泓水(おうすい)」で
 「楚」と決戦・・・?
   「楚=木+木+疋(ひく・あし・ショ・ソ)」
 楚軍に宋は惨敗
 「宋襄の仁」=見栄、虚栄の「仁」で敗戦
  ↓
 十九代「桓公(禦説)」=紀元前682年〜紀元前651年
     桓武・(禦の説)
 三十三代「桓公(辟兵)」=紀元前363年〜紀元前350年?
      桓武・(日置評・壁併→白壁王=光仁天皇
ーー↓
 ・・・書籍(本・ソウショ=叢書・双書・草書)の出版は「木版・銅版・鉛版」であろうが無かろうが、その本質は「活字・活版」を用いたとしても「写本」と変わらない。原本の内容が「改竄・改作」されるのは宿命である。そもそも「原本」なるモノも「事実」もあろうが、作者、読者のレベルで記述の内容は「比喩・仮託」され、デフォルメされるのである・・・また、「数学上の加減乗除」の「数字自体」は変えようがないが、歴史の年月日時、家系の代数、第数、子孫の人数、兵力の人数、死者の人数、物自体、地理上の距離は「記録の中」で「改竄・改作」される可能性は大である・・・「白髪三千丈」、「荒唐無稽」と言うコトバもある。唯一、記録上の改竄を免れる「数字」は「算数」、「天文暦書の数学的数字の計算記述」と「土木、建築設計の計算記述」である・・・万人に理解される計算結果の普遍的な「答え」がなければドウショウモナイ・・・
ーー↓
 中国における「印刷術」は既に唐代に確立
 印刷された書物に触れることの出来たのは貴族層
 唐宋変革の中で、「版本による書物」が大量に流通
 ↓
 五代十国時代前蜀
 923年
 詩集「禅月集」刊行
 唐の
 長興三年(332年)
 「馮道」の主導により
 「九経」刊行事業
 広順三年(953年)完成
 中国における本格的出版の始まり
 「経書」や「史記漢書」などの史書
 「荘子・文選」など刊行
 出版事業の版元
 「国士監」がありこれを
 「監本」、
 個人による出版を
 「家刻本」、
 民間業者が行う出版物を
 「坊刻本」といった
 「坊刻本」の中で
 福建で発行されたものは
 通称
 「建本」と呼ばれたが・・・・・?タケルのモト
 字句の間違いが多かった・・・・・当然である
 だが
 廉価な
 「建本」は大量に出版された
 北宋代にはまだ「書店(書肆・書賈)」がなく、
 「士大夫」が書物を販売
 南宋初期の
 首都・臨安に書店が誕生
 南宋末には出版業者や書店は盛況
 「欧陽脩」は
 嫌いな書物、
 国家の検閲を経ない出版の禁止を強行
 宋政府は一貫して
 「坊刻(民間製作の書物)」に対して規制
ーー
 宋代史
 基本史料は「宋史・続資治通鑑長編・宋会要」
  ↓
 「宋史」
 「托克托(トクト)・脱脱」が編纂
 1314年〜1355年
 トゴン・テルム=順帝(「元」最後の皇帝・1333年即位)
 「元」の宰相
 漢名の
 字は「大用」・・・・?ダイヨウ
 メルキト族の出身
 父はバヤンの弟
 マジャルダイ
  ↓
 「托克托(トクト)・脱脱」は
 1340年12月に科挙を再開
 1341年
 トクトの父
 マジャルタイが形式上の宰相となり、
 トクトが実権を握る
 トクトは
 中書右丞相となり
 都総裁官に任官
 1343年
 「金史」
 1344年
 「遼史」
 1345年
 「宋史」を完成
  ↓
 「続資治通鑑長編」
 「資治通鑑」の体裁を引き継いで
 南宋
 「李�愀」が北宋史を編年体で纏めたもの
 部分的に宋本が現存するがほかの部分は散逸
 現行本は
 四庫全書編纂時に作られた
 「永楽大典」からの輯本を基にし残欠部分が存在
 「宋会要」
 宋代の制度・経済など
 紀伝体の「志」が受け持つ
 各分野ごとの歴史を纏めたもの
 北宋
 「宋綬」らによって最初の宋会要が編纂
 南宋に至るまで何度か
 「宋会要」の編纂が行われた
 「宋史」が使用できなかった史料からの文章が多
 一度散逸しており、
 現行本は
 清の
 徐松らによって作られた
 「永楽大典」からの
 「輯本」である
ーー↓↑
 沈 約
 (シンヤク・441年〜513年)
 中国南朝を代表する文学者、政治家
 呉興郡
 武康県(浙江省徳清県)の人
 字は
 「休文」
 幼いときに父を
 「孝武帝」に殺された
 「宋・斉・梁」の三王朝に仕えた
 南斉の
 竟陵王
 蕭子良の招きに応じ、
 「竟陵八友」の一人
 後、
 蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、
 梁国が建てられると
 尚書令に任官し、
 建昌県侯に封ぜられ
 晩年は
 「武帝」の不興をこうむり、
 諡は、
 当初
 「文」とされるところを
 「武帝」の命により
 「隠」とされた
 著作
 歴史書では「宋書・晋書・斉紀」を編纂
 詩の分野では同じ
 「八友」の仲間である
 謝朓、王融らとともに、
 詩の
 韻律・形式美を自覚的に追求し、
 「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した
 その理論として
 「四声(平・上・去・入)・八病」の説を唱えた
 南朝の同時代の文壇で重鎮となし、
 劉勰が
 「文心雕龍」を世に出そうとした時には、
 沈約に見せて評価を求めた
 「梁書・本伝」によると
 彼の文集は百巻あったというが散逸し、
 現在伝わる文集は
 明代以降に再編集されたもの・・・
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 後周
 ↓
 五代十国
 宋
 ↓
 北宋南宋
 960年〜1279年
 次代
 ↓
 元
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 ・・・「日本の僧侶」が中国で「日本史」を話した、って・・・ダレだったか思い出せない・・・