1399日目・・・従姉のご主人が3月17日に亡くなって・・・19日告別式・御通夜・・そして20日火葬・・・ご先祖さまは「鳥取県」からの移民だったらしい・・・「乞骸骨」・・・葬儀パンプレットの「文化十一年(1814年)の冬至の日」・・・従姉のご主人は「十露盤(ソロバン・算盤)」の名人で、定年までは事務、経理の仕事をしてきた人物で、控えめで、自己主張の少ない人だと思っていたが、20代までバイオリンも奏でたそうだ・・・初耳だった・・・家族3人での「三重奏」を聴きたかった・・・母はピアノ、父はバイオリン、息子は

 ・・・死んだらミンナが「八百萬(万)の神=やおよろずのかみ)の一員」になれるらしい・・・「成仏した仏」、「懺悔の告白の基督信徒」よりも判り易いカモ・・・「矢尾路事・八尾路事・夜於(緒・嗚)路事」のコトかも・・・「星になった命」・・・それにしても、色んな「アの世」があるらしく「階級序列」もあるらしい・・・「神無月=旧暦十月十日」に「八百萬の神」が集まるところが、「出雲」で、「島根(鳥取も含む)=山陰道因幡・白耆・出雲・石見・隠岐)の一」は「神在(有)月」と言うところが「?」であるカナ・・・「長月→神無月(神在月)→霜月」・・・「旧暦壱拾(十)月」が「西洋暦壱拾壱(十一)月=霜月」になってしまった・・・?・・・
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  鳥取の地名・・・トットリ・とりとり・チョウシュ
            とら・とり・とる・とれ・とろ
            とラ・とリ・とル・とレ・とロ
 「鳥取」城主
 因幡伯耆三十二万石
 池田光仲と子孫十二代
 因州・池田家の支配領地
 因州藩
  ↓
 寛永九年(1632)
   〜
 明治二年六月十七日(1869年7月25日)
 274大名が
 版籍奉還
  ↓
 明治四年七月十四日(1871年8月29日)
 廃藩置県
 「因州藩」
  ↓
 「鳥取県」民の移民→蝦夷
 釧路市・・・鳥取大通・鳥取南・鳥取
 足寄郡足寄町・・・鳥取
 明治時代「鳥取県民」が移移民
 (明治17〜18年、釧路村を分割しての「鳥取村」
 昭和18年
 「鳥取村→鳥取町」は
 昭和24年に釧路市編入
 鳥取県から北海道への移住地
 池田町(池田農場開墾の旧鳥取藩主
     池田慶徳侯に由来)
 足寄郡足寄町の上足寄に「字・鳥取
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 「新暦の明治6年1月1日=旧暦の明治5年12月3日」
 「明治5年12月は1日と2日の2日間」のみ
 改暦決定は
 「明治5年11月9日・太政官布告(第337号)」
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 旧暦
 月の満ち欠けの周期
 平均、「29.5日」
 小の月が29日
 大の月が30日
 12ヶ月で1年とすると、
 旧暦=約、354日
 1年=太陽日の365日より
 「11日」ほど短くなる
 約3年に1度、
 「閏月」とし
 1年13ヶ月となる年を設けた
 旧暦の「閏月」の入る年を閏年
 平年は一年が353日〜355日
 閏年は一年が384日〜385日
 閏月は、
 二十四節気の「中」を含まない月とし、
 その前の月と同じ月名に「閏○月」と呼んだ
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 ・・・「天照大御神」の「高天原」はドコにあったんだろう・・・「緯度」が高い「高麗・高句麗」・・・?
 「因幡国伯耆国」は「鳥取県」に相当し
 「吉備国」は、令制国で「備前国備中国備後国美作国岡山県)」、後代、「吉備」といえば「美作」を含めない時期もあったらしいが現代では「備前・備中・美作・備後(岡山県広島県東部)」を指す・・・
 「古事記・中巻・孝霊天皇」に兵庫県の「加古川以西」が「吉備」であるとされている・・・
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 1876年(明治九年)八月二十一日
 鳥取県島根県に併合・鳥取に支庁を設置
 1881年(明治十四年)九月十二日
 島根県のうち、
 旧「因幡国」の八郡、
 旧「伯耆国」の六郡が
 鳥取県として分立・再置
 1889年(明治二十二年)
 十月一日
 市制施行により、
 邑美郡の一部から
 鳥取市が発足
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 「黒住教
  ↓
 岡山県岡山市
 今村宮の神官、
 黒住宗忠
 (安永九年・1780
   〜
  嘉永三年・1850)
  ↓
 文化十一年(1814年)の
 冬至の日
 日の出を拝む中に
 天照大御神の真実体を自得
 「天命直授(てんめいじきじゅ)」
  ↓
 「文化十一年十一月十一日・西暦1814年)
 教派神道で、
 神道十三派の一
 同じ江戸時代末期に開かれた
 天理教
 金光教
 と共に
 幕末三大新宗教の一
 現在の教主は
 六代目」
  ↓
 文化十一年(1814年)十一月十一日
 黒住宗忠は太陽を拝む(日拝)中で
 天照太神
 同魂同体となるという
 「天命直授」と言われる霊的体験をして病気が治癒
 宗教活動を始め
 嘉永三年(1850年)に死ぬまで、布教活動
 ↓
 宗忠の死後
 安政三年に
 神祇管領長上・吉田家より
 「宗忠大明神」の神号を与えられ、
 文久二年に京都の
 神楽岡に宗忠神社が創建
 慶応元年(西暦1865年)
 孝明天皇によって勅願所となり
 従四位下の神階を宣下
ーー
 明治九年(西暦1876年)
 神道事務局から一派独立
 神道黒住派と称す
 神道系の新宗教で一般的になっている
 主神(すしん=宇宙主宰神)
 という考え方の嚆矢
 天理教金光教、大本(大本教)、生長の家、等、
 後の新宗教運動に直接・間接に影響を与えた
 新興宗教の走り
 祭神
 「天照大御神
 「八百萬神
 「教祖宗忠神」
 の三柱
 教団本部
 岡山県岡山市
 北区
 尾上、
 神道山(しんとうざん)
 伊勢神宮奉賛活動を通し
 伊勢神宮とは親しく
 神道山の
 本殿建築には
 遷宮時の
 旧内宮の
 古材を受け利用
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 安永九年・1780年
 3月8日
 ヨーロッパにて武装中立同盟結成
 ロシア帝国皇帝
 エカチェリーナ2世の提唱
 4月17日
 マルティニーク島の海戦の勃発
 5月29日
 ワックスホーの虐殺
 (アメリカ独立戦争中の一)
 8月16日
 アメリカ独立戦争
 キャムデンの戦い
 9月10日
 第二次マイソール戦争の勃発
 (〜1784年)
 ↓
 誕生
 12月21日(安永9年11月26日)
 黒住宗忠
 神官・黒住教教祖(1780〜1850年)
  安永九年・1780
   〜
  嘉永三年・1850
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  死亡
  ↓
 1780年
 1月24日(安永8年12月18日)
 平賀源内死亡
 本草学者・発明家・作家
 (1728〜1780年)

 12月19日(安永9年11月24日)
 阿部正允、江戸幕府老中
 (1716〜1780年)
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 ・・・なぜ、「孝明天皇の勅願所」になったんだろう・・・「今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス」・・・?
 蛤御門の変の翌年
 慶応元年(1865)4月18日
 孝明天皇は宗忠神社に
 「勅願所」の旨(むね)を仰(おお)せ出された
 「仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政煕の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。」
 明治天皇は「養子」・・・「とり子」・・・?
 明治天皇
 (嘉永5年9月22日・1852年11月3日)
   〜
 明治45年(1912年)7月30日)
 第122代天皇
 諱は睦仁(むつひと)
 御称号は、祐宮(さちのみや)
 お印は、永(えい)
 ・・・・
 中山 慶子(なかやま よしこ)
 天保六年十一月二十八日(1936年1月16日)
  〜
 明治四十年(1907年10月5日)
 明治天皇の生母
 孝明天皇典侍
 号は中山一位局
 権大納言中山忠能の次女
 母は
 平戸藩
 松浦清(靜山)の
 十一女
 愛子
 中山忠愛は長兄
 天誅組の主将の
 中山忠光は同母弟
 従一位勲一等
 京都石薬師に生まれ、
 八瀬(京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ
 十七歳で典侍御雇となって宮中に出仕
 名を
 安栄(あえ)と賜る
 孝明天皇の意を得て懐妊
 嘉永五年九月二十二日(1852年11月3日)、
 実家中山邸において
 皇子
 祐宮(さちのみや=明治天皇)を産む
 祐宮はそのまま中山邸で育てられ
 五歳の時に宮中に帰還し
 慶子の局に住む
 万延元年七月十日(1860年8月26日)
 勅令により
 祐宮は准后女御
 九条夙子の「実子」とされ、
 同年九月二十八日、
 親王宣下を受け
 名を
 「睦仁」と付けられた・・・
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 とりとり・トリとり・トリトリ・・・?