1398日目・・・「緯度のナゾ」、「数字のナゾ」、「島の名の漢字のナゾ」・・・「尖閣列島」は「先覚・選各・亘各・施務掛句」の「劣等・裂頭」、「竹島」は「茸・岳・嶽・丈・焚・炊」の「揣摩」・・・

ーー↓ーー
  宇治向島・宇治島
     黒島・・硫黄島・・竹島・・・馬毛島
ーーーーーーーーーーーーーーー↑
    北緯30度48分50秒 東経130度25分2.1秒
 ・・・ここに記した「竹島」は「日本海」に存在している「竹島」とは異なり、「薩南諸島北部」に位置する「島の名前」で、「硫黄島」に隣接している「島」である。ウイッキペデアによれば、大隅諸島には、含まれる、含まれないとする説があるらしい。地名(行政区画)として、この「竹島」の呼称は「鹿児島県・鹿児島郡・三島村の大字」で、全島がこの枠内に該当する「島の名前」であるらしい。航空写真を見ると「小鳥」か、「タツノオトシゴ」のような形にみえる。「鹿児島湾」も、その地形をみれば「口の中に櫻島の咽喉チンコを見せて怒っている龍の顔」に見えるのだが・・・
 「琉球竹」とは葉が細く、若い稈は立性で、古い稈は垂れる「竹」で島全体にハエているらしく、また黒牛の放牧がなされ、その牧草も植えられているらしい・・・「稈(カン)」とは節と節の間が中空の茎である。
 そして、この「竹島」のみの固有種であるらしいラン科植物の「トカラヤツシロラン(蘭)」、「タケシマヤツシロラン(蘭)」は新種で、「タケシマヤツシロラン(蘭)」は、「光合成も開花」もしない珍種とあった・・・「光合成」をしないモノは「植物」ではないのでは・・・?
 で、この「竹島」とは「島根県の別の竹島」だが・・・
ー↓
 日本海の「竹島
 座標
 北緯37度14分30秒・・・
 夏至点時の可照時間は14時間42分
 冬至点時は9時間37分
 東経131度52分
 島数 2島 37岩礁
 構成 男島女島
ーー
 北緯37度近辺に位置する地名は「韓国の安東」だが、
    ↓
 古代には
 昌寧国
 三国時代には
 新羅に吸収されて
 古昌郡が置かれた
 この地の豪族の
 金宣平(安東金氏の祖)
 高麗建国に功績
 高麗時代には
 安東府に昇格
 吉州に名称変更後
 1012年
 再び安東府
 高麗後期には
 都護府
 大都護府が置かれ
 行政の中心

 朝鮮王朝時代
 安東府への昇格・安東県への降格を
 繰り返した
 朝鮮王朝中期
 李退渓がこの地で生まれ
 陶山書院を拠点に教育を行い、
 嶺南学派を形成
 1895年
 行政制度近代化
 安東府が安東郡となる
 広域行政区画である
 安東府(観察府)が置かれた(二十三府制)
 1896年
 観察府廃止
 慶尚北道(十三道制)に所属
 1914年
 礼安郡を編入
ーー↓↑
 丹東市(たんとうし)=旧名・安東
 中華人民共和国遼寧省南部に位置する地級市
 鴨緑江を隔てて
 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)と接する
 国境の街である
 旧名は
 安東
 朝鮮族が20万人以上居住
 中朝貿易最大の物流拠点
 古代には
 高句麗の領域であり、
 唐の高句麗征服後は
 安東都護府に属した
 金代に
 婆速府路となり、
 元代にも
 婆娑府が置かれた
 清朝満州での
 漢人入植を禁止(封禁政策)
 1874年に解禁
 1876年
 安東県を設置
 1903年
 安東港は対外開港
 鴨緑江水運の物資集散地として発展
 1931年
 満州事変
 日本軍に占領
 満州国
 1934年
 安東省を新設
 安東県を省城とした
 1937年
 安東県は安東市に昇格
 日本企業が安東に進出
 1945年
 日本降伏後は中国共産党軍が接収
 朝鮮戦争(1950年〜1953年)
 中国人民義勇軍兵站前線
 1965年1月20日
 安東市は丹東市に改称・・・?

 29の種族が混在
 漢族、満族回族朝鮮族モンゴル族、シボ族
 満族は、市全体の総人口の30%以上
 丹東周辺は、満族の主要な故地の一
 回族は人口約1.8万人
 回族イスラム教徒が
 丹東周辺に流入したのは、
 明末期から清初期・・・
 観光
 鴨緑江公園、虎山長城、鳳凰山
 徳島市姉妹都市?・・・鳥居 龍蔵?
ーー↓ 
 陸奥国
 津軽郡
 安東・・・安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫?)
  ↓
 日本の「安東氏」は鎌倉時代から戦国時代の末まで、「陸奥国出羽国の北部」に勢力を張った武士の一族で、「本姓は安倍」を称したらしい。
 史料では鎌倉時代から南北朝時代にかけての
 津軽時代は「安藤氏」、
 室町時代中期以降の
 秋田時代は「安東氏」とされている例が多い・・・らしい。
 記録は概ね十五世紀半ばまでを「安藤」、
 それ以降を「安東」・・・
 「安藤」氏と
 「津軽−安藤(安東)」氏とは別家系であるらしい・・・
 「日蓮聖人遺文・種種御振舞御書」
   ↓
  建治元年(1275年)
 「安藤五郎は因果の道理を弁へて
  堂塔多く造りし善人也。
  いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ」
  との記載
 「元」が樺太アイヌを攻撃したことが
 「元史」に記録
 「ゑぞ」は「蝦夷アイヌ」族ではなく
 北方(樺太)の異民族と解し、
 永仁五年(1297年)五月
 安藤氏がアイヌ蝦夷)を率いて
 黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近で
 「元」に討たれた・・・の説・・・
 ・・・「安東」は日本の東北の地理から類推しても渡来系・・・
 「讃・珍(讃の弟)・済・興・武」=「倭の五王
  ↓
 438年 宋 元嘉十五年
 「珍」、宋に朝献
 「使持節都督・倭・百済新羅任那・秦韓・慕韓
        六国諸軍事安東大将軍倭国王
       (宋書・夷蛮伝)
 四月、宋文帝、「珍」を「安東将軍倭国王
       (宋書・文帝紀
       「珍」、「倭隋」ら13人を
        平西・征虜・冠軍・輔国将軍の任命を求める
       (宋書・夷蛮伝)
 443年 宋 元嘉二十年「済」 宋・文帝に朝献
       「安東将軍・倭国王
       (宋書・夷蛮伝)
 451年 宋 元嘉二十八年「済」 宋朝・文帝から
       「使持節都督
        倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓
        六国諸軍事」を加号・
       「安東将軍」はもとのまま
       (宋書倭国伝)
 七月、   「安東大将軍」に進号
       (宋書・文帝紀
       また、上った23人
       宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる
       (宋書・夷蛮伝)
 460年 宋 大明四年「済?」、
 十二月、孝武帝へ遣使、貢物を献ずる
 462年 宋 大明六年「興」
 三月、宋・孝武帝、「済」の世子の「興」を
       「安東将軍倭国王」とする
       (宋書・孝武帝紀・倭国伝)
 477年 宋 昇明一年「興(武)」
 十一月、遣使して貢物を献ずる
     (宋書・順帝紀
     「興」没し、弟の「武」立つ
     「武」は自ら
     「使持節都督
      倭・百済新羅任那
      加羅・秦韓・慕韓
      七国諸軍事
      安東大将軍・倭国王」と称す
      (宋書・夷蛮伝)
 478年 宋 昇明二年「武」、
      上表して、自ら
      「開府儀同三司」と称し、叙正を求める
      順帝、「武」を
     「使持節都督・倭・新羅任那加羅
           ・秦韓・慕韓
           六国諸軍事安東大将軍・倭王」とす
          (宋書・順帝紀
ーーー↓
 「安東」=安+東(吾妻・ひんがし→品貸)
 「安藤」=安+藤(藤原・なかとみ→中臣)
 「安堂」=安+堂(藤堂・御堂→藤堂高虎
       藤堂高虎のハナシが怪しい・・・
       弘治二年(1556年)一月六日
       近江国
       犬上郡
       藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町在士)
       の土豪
       藤堂虎高の次男
 「安東将軍」
  ↓   
 安藤五郎
 鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ「蝦夷」対応に当り、
 鎌倉時代末期には御内人として
 「蝦夷」沙汰代官職を務め、
 津軽地方を本拠地に
 西は出羽国秋田郡から
 東は下北半島まで一族の所領が拡大
 後、二家に分裂し
 檜山郡
 秋田郡に割拠し、
 室町時代には
 秋田郡の一族が
 京都御扶持衆に組み入れられ
 二家は後に統合し戦国大名となった
 本家は16世紀後半以降
 秋田氏を名乗り江戸時代を通じて大名
 明治維新後は子爵
 安倍貞任
 第二子の
 高星が始祖
 「安藤系図」には、
 源頼朝の奥州攻めに際して
 安藤小太郎季俊が先導
 その子
 季信が幕府から津軽の警護を命じられた・・・
 安東氏の後裔
 旧子爵秋田家には、
 家祖の安倍貞任
 「長髄彦」の
 兄である
 「安日」の子孫とする系図
 安東氏は
 蝦夷蝦夷ではないとする説があるらしい・・・
 そもそも「安東」の文字は「安+東」である・・・
 ↓
 地中海
 アルジェリア
 チュニジア
 地中海 チュニス
 チュニジア ボン岬半島
 地中海
 シチリア海峡
 イタリア・パンテッレリーア島の北
 シチリア島・ラグーザ県・シラクーザ県
 イオニア海
 ギリシャ
 ペロポネソス半島
 メッシニア県
 メッシニア湾
 ラコニア県
 エーゲ海 ミルトー海
 ギリシャ
 シフノス島
 ギリシャ アンティパロス島、パロス島
 ギリシャ ナクソス
 ギリシャ Levitha島
 ギリシャ カリムノス島
 緯度37度線
トルコ
シリア
イラク
イラン
 カスピ海
トルクメニスタン
アフガニスタン
タジキスタン
アフガニスタン
タジキスタン
アフガニスタン
パキスタン ギルギット
 バルティスタン州・・・インドが領有権主張
 中華人民共和国
 新疆ウイグル自治区
パキスタン
 新疆ウイグル自治区
 青海省
 甘粛省
 寧夏回族自治区
 甘粛省
 陝西省
 山西省
 河北省
 山東
 黄海
 韓国
 日本海
 日本 本州
 石川県
 日本海 富山湾
 日本
 本州
 新潟県
 長野県
 新潟県
 群馬県
 新潟県
 福島県
 栃木県
 茨城県
 福島県
 アメリカ合衆国
 カリフォルニア州サンタクルーズ
 ネバダ
 ユタ州アリゾナ州
 コロラド州ニューメキシコ州
 コロラド州オクラホマ州
 カンザス州・オクラホマ州
 ミズーリ州
 イリノイ州
 ケンタッキー州
 バージニア州
ポルトガル アゾレス諸島・サンタマリア島
ポルトガル サグレス岬
 ポルトガル サンタ・マリア岬
 大西洋 カディス
 スペイン
ーーーーー
 ↓
 竹島
 現在の鬱陵島の名称
 元々
 「松島」と呼ばれていた
 「松島」という名称の由来は不明
 「鬱陵島」が
 「松島」と呼ばれるようになり、
 「竹島」となった
 「独島」=「独」→「石」・・・?
 「独島」という呼称の由来は不明
 「独島」は古くは「于山島」、後に「石島」
 「石島」は「観音島」・・・
  ↓
 第三国
 「リアンクール岩礁
 1849年
 フランスの捕鯨船 「Liancourt 号」に由来
 日本や韓国で用いられていた
 「リャンコ」、「ヤンコ」等の呼称・・・?
  ↓
 りゃんこ
 「りゃん」は唐音
 二個・二つのもの
 二本の刀・・・江戸時代の武士を
        アザけって呼んだ語
        歌舞伎・勧善懲悪覗機関
 ↓
 脇差(わきざし・わきさし)
 主兵装(本差)が破損などにより
 使えない時に使用される
 予備の武器
 武士の正式な差料が大小二つの刀
 大刀(だいとう)を本差
 小刀(しょうとう)を脇差として装備
 ↓
 フロイス「日本史」
 すべての者が、 ある年齢に達すると、
 大刀(エスパーダ)と
 小刀(アガダ)を帯びる
 彼らはこれを刀と脇差とした
 ↓
 わきざし(脇差・脇指)
 武士が腰に差す大小二刀のうち、
 小刀の称
 腰刀=近世、町民などが道中のときに
    護身用に腰に差した刀
    武士の大刀と小刀の中間の長さ
    道中差し
    腰挿し
ーー↓
 モノが入れ違いになること
 「リャンコ」
 「テレンコ」
 「りゃんこ」は
 「両個」の「両」を
 唐音で読んだ土木用語
 「交互・互い違い」の意味
 「りゃんこ」
 整ってない不規則のこと
 接合部・長さ・継手
 床板などの継手位置を交互に変えること
 りゃんこ継ぎ、りゃんこ張りという
 とうりゃんこ・トウリャンコ
 とうりゃんせ、トウリャンセ
 ・・・ここはドコの細道じゃ、天神様の細道じゃ
 「鬼ごっこ」の
  「ゴッこ」・・・真似る・装う
 「おもちゃんこ」の
   「チャンこ」・・・真似る・装う
 ・・・・・「こ」は
   「アソビ・遊び・阿蘇尾・安蘇美」・・・?
  ↓
 「リャンコ」
 二つ、または二回の回数
 両個(りゃんこ)・・・・コ=「個数」
 「りゃん=両」は「唐音」
 二個・二つ・りゃん
 武士をあざけっていう語
 「彼(あ)の女の亭主はリャンさんで」
 (円朝・怪談牡丹灯籠)
  ↓
 リャンコ大王の「リャンコ」
 嘉永二年(1849年)
 フランスの捕鯨船
 「リァンクール号」により、
 「リァンクール島」と命名
 「竹島の大王」という意味
 「りゃんこ・てれこ・いれこ」
 「AとBを入れ違える・取り違える」の意味
 「りゃんこ」=交互のこと
        二回塗りのこと
        上塗り塗料は2回塗りで仕上る
 嘉永二年(1849年)
  ↓
 4月18日(三月二十六日)
 米国軍艦プレブル号長崎来航
 漂流民の受け取りを要求
 5月29日(閏四月八日)
 英国軍艦マリナー号
 相模三浦郡松輪崎沖に停泊、江戸湾測量
 7月28日(六月九日)
 蝦夷松前藩
 第十二代藩主
 松前崇広が襲封
 日付不詳
 最後の日本式城郭である
 松前城築城開始
  〜
 1854年
 嘉永六年十二月三日〜嘉永七年十一月十二日
 落成
  ↓
 1月3日(嘉永6年12月5日)
 プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に再入港
 2月5日(嘉永7年1月8日)
 プチャーチンが長崎を退去し樺太に向かう
 2月11日(嘉永7年1月14日)
 ペリーが軍艦7隻を率いて江戸湾に来航
 2月17日
 英国がオレンジ自由国の独立を承認
 2月27日
 ロベルト・シューマンが入水自殺未遂
 2月28日
 米ウィスコンシン州リポンで共和党結成
 3月1日(嘉永7年2月3日)
 幕府が異国船見物禁止令を布告
 3月27日
 クリミア戦争
 イギリスがロシアに宣戦布告(クリミア戦争開始)
 3月28日
 クリミア戦争
 フランスがロシアに宣戦布告
 3月31日(嘉永7年3月3日)
 日米和親条約
 4月14日
 サンサルバドル地震で崩壊
 4月24日(嘉永7年3月27日)
 吉田松陰が下田で黒船へ密航を試み翌日幕吏に捕わる
 オーストリア皇帝
 フランツ・ヨーゼフ1世がエリーザベトと結婚
 5月2日(嘉永7年4月6日)
 京都女院御所より出火、京都御所・仙洞御所が全焼
 今出川通浄福寺通烏丸通・椹木町通
 に囲まれた地域を焼く大火
 5月5日(嘉永7年4月17日)
 下田・箱館の開港を布告
 6月10日
 米国海軍兵学校で第1期生が卒業
 ベルンハルト・リーマン
 ゲッティンゲン大学就任講演
 「幾何学の基礎にある仮説について
 (Über die Hypothesen welche
     der Geometrie zu Grunde liegen)」
 6月21日
 クリミア戦争
 オーランド諸島の戦闘(Bomarsund)
 (後にヴィクトリア十字章の初対象)
 7月6日
 米ミシガン州・ジャクソンで初の共和党大会
 7月9日
 伊賀上野地震
 7月13日
 米艦キュアネ(USS Cyane)が
 ニカラグア
 サン・ファン・デル・ノルテ
 (San Juan del Norte)を砲撃し壊滅させる
 8月2日(嘉永7年7月9日)
 日の丸が公式に商船旗(日本総船印)となる
 8月9日
 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー
 「ウォールデン(Walden)」出版
 8月17日
 グラッタンの虐殺
 8月18日
 クリミア戦争
 ペトロパブロフスク攻囲戦開始(〜1855年4月)
 9月4日
 クリミア戦争
 英仏軍が
 ペトロパブロフスク・カムチャツキーを急襲
 9月7日(嘉永7年閏7月15日)
 英支那方面艦隊司令
 スターリング少将が
 軍艦4隻を率いて長崎に来港
 9月20日
 クリミア戦争
 アルマの戦い
 10月14日(嘉永7年8月23日)
 日英和親条約締結
 10月17日
 クリミア戦争
 セヴァストポリ攻囲戦開始(〜1855年9月11日)
 10月21日
 クリミア戦争
 フローレンス・ナイチンゲール他38名が従軍
 10月25日
 クリミア戦争: バラクラヴァの戦い
 11月5日
 クリミア戦争
 インカーマンの戦い
 12月3日
 ユーリカ砦の反乱
 (オーストラリア最大の武装蜂起)
 12月8日
 教皇ピウス9世が無原罪の御宿りを公認
 12月9日
 アルフレッド・テニスン
 「軽騎兵旅団の突撃
  (The Charge of the Light Brigade)」公表
 12月23日(嘉永7年11月4日)
 安政東海地震発生
 12月24日(嘉永7年11月5日)
 安政南海地震発生(安政東海地震の32時間後)
 12月26日(嘉永7年11月7日)
 豊予海峡地震発生
 日付不詳
 パリの食料品店経営者
 ユジェーヌ・フランソワが
 角砂糖を発明
ーー↓
 「両個」
 江戸時代日本では
 現在の
 鬱陵島を「竹島」、
 現在の
 「竹島」を
 「松島」と呼んでいた
 幕末から明治初期にかけて
 「鬱陵島」が「松島」、
 「松島」が
 「リァンクール(リャンコ)島」と呼び名に変化
ーー↓ー
  ???
 「緯度33度」→「阿蘇山=玉名・熊本」→「耽羅島=斎州島」→「東冶」
 「緯度30度」→「屋久島=掖狗島」→「口永良」→「会稽山」



ーー↓↑ーー
 鹿児島
        (賀古当・史化字当)
 「かごしま・カゴシマ・シカコジマ・ロクジトウ」
ーー↓↑ーー
  宇治群島 ・ 津倉瀬( (有字訓当)・(通句等施)
 「うじぐんとう・ウジグントウ・
  ひろくおさめるむれしま・そらおさめるむれじま」
 津倉瀬 
 「つくらせ・ツウソウセ・シンソウライ・
  つくらみぎわ」
  瀬=氵+頼(褚→束+刀+貝)=頼=褚
  瀬=河川の浅く、人が歩いて渡れる場所

ーー↓
 「古事記」=「帝紀的部分」+「旧辞的部分」
 「帝紀」=初代天皇から第三十三代天皇までの名
      天皇の后妃・皇子・皇女の名
      その子孫の氏族の名
      皇居の名
      治世年数
      崩年干支
      寿命
      陵墓所在地
      治世の主な出来事
 「旧辞」=宮廷内の物語
      皇室や国家の起源
 「帝紀旧辞」=六世紀前半ないし中葉頃までの
         朝廷の大王家、貴族や豪族が
         創作した口頭伝承
         天皇の日本支配の経緯を説明
ーー↓
 古事記
 本文は変体漢文を主体
 古語や固有名詞のように、
 漢文では代用しづらいものは一字一音表記
 歌謡はすべて一字一音表記
 一字一音表記のうち、
 一部の神の名などの
 右傍に
 「上、去」 と、中国の文書にみられる
 漢語の声調である
 四声のうち「上声・去声」と同じ文字を配す

 歌謡
 須佐之男命が櫛名田比売に贈った歌
 「八雲たつ
  八雲八重垣
  妻ごみに
  八重垣作る
  その
  八重垣を」
 倭建命の歌
 「倭は国の
  まほろ
  たたなづく青垣
  山隠れる
  倭し
  うるわし」

 上つ巻(序・神話)
 中つ巻(初代〜十五代天皇
 下つ巻(第十六代〜三十三代天皇
 三巻

 写本
 「伊勢本系統」
 「卜部本系統」
 「現存・古事記」の最古の写本
 「伊勢本系統」
 1371年
 (南朝=建徳二年・北朝=応安四年)
  〜
 1372年
 (南朝=文中元年・北朝=応安五年)
 真福寺の僧
 賢瑜によって写された
 真福寺本「古事記三帖」
 「奥書」によれば、
 祖本=上・下巻が「大中臣定世」本
    中巻が「藤原通雅」本
 道果本
 上巻の前半のみ
 1381年(南朝=弘和元年・北朝=永徳元年)
 道祥本
 上巻のみ
 1424年(応永三十一年)
 春瑜本
 上巻のみ
 1426年(応永三十三年)
 道果本系
 三本は真福寺本に近く、
 ともに
 伊勢本系統をなす
 その他の写本
 卜部本系統
 祖本=「卜部兼永」自筆本
    (上中下三巻・室町後期)
ーー↓↑ーー
 西立神島  ・チョジ瀬・大隈海峡
(似史立身当)・(著字施)・(大隈海況)
ーー↓↑ーー
  宇治向島  ・宇治島
 (得字考当) ・(得字当)
ーー↓↑ーー
  雀島    ・鮫島・・・・竹島   ・馬毛島
 (州事目当)・(作目当)・(他家当)・(宇摩懸当)
ーー↓↑ーー
      硫黄島(鬼界ケ島)
     (以往当・王仁臥当)
ーー↓↑ーー
  草垣群島  ・ 黒島
 (句作化紀当)・(句賂当)
ーー↓↑ーー
       デン島
      (出務当)
ーー↓↑ーー
    口永良群島  ・ 種子島
   (句知重等訓当)・(多音当)
ーー↓↑ーー
         屋久
        (訳当)
ーー↓↑ーー
       平瀬
      (他意等施)
ーー↓↑ーー
    口之島
   (考埜当)
ーー↓↑ーー
  臥蛇島    ・小臥蛇島    ・中之島
 (布施経備当)・(呼布施経備当)・(名掛埜当)
ーー↓↑ーー
  平島    ・ 諏訪之島
 (他意等当) ・(素話廼当)
ーー↓↑ーー
       悪石島 ・トカラ列島
(亜句意詞当)・(賭韓列当)

ーー↓↑ーー
      小島   吐喝喇列島
     宝島      喇叭=ラッパ→
 死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手
 岡山県
 浅口郡
 船穂村(倉敷市)出身の
 歩兵一等卒
 白神源次郎
 第5師団司令部は
 「諸調査ノ結果
  彼ノ喇叭手ハ
  白神ニ非ズシテ
  木口小平ナルコト判明セリ」と発表
 無名の木口に名前が置き換わったことに
 白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった
 白神源次郎の記念碑は1906年明治39年)に立てられた
 木口小平の記念碑は1914年(大正3年
 義務教育の無償化と1903年明治36年)に始まった
 国定教科書制度
 岡山県川上郡成羽町高梁市成羽)に
 「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた
 1932年(昭和7年
 歩兵第21連隊が軍人勅諭下賜50周年事業として銅像
 木口らしい写真を選び出して銅像の元にしたが、
 木口の顔ではないとの異論
 21連隊の銅像
 1950年(昭和25年)に
 濱田護國神社に移転
 1902年(明治35年)に発売され、
 後年
 「正露丸」と改称される
 胃腸薬の
 「忠勇・征露丸」に描かれている
 ラッパのマークは木口の話を参考にした・・・
 年代的には
 「白神の話」・・・
 ・・・喇叭(ラッパ)の噺(ハナシ)=口+新・・・である
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   上ノ根島
  (得重埜音当)
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  横当島
 (邪当字真)
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      奄美大島
     (海人見於保当)
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   加計呂麻島   ・ 喜界島
  (嘉慶賂間当)  ・(迄会当)
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      与路島
     (与字当)
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    徳之島
   (読埜当)
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  沖永良部島
(於記撰当)
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 遣耽羅使
 耽羅国の言語は
 朝鮮民族とは
 言語系統が異なる・・・
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 高麗時代
 1105年
 耽羅州として直轄領
 1214年
 済州と呼ばれる
 「元」に対して抵抗した
 「三別抄」の残党は、
 済州島を最後の拠点として立てこもった
 反乱は元・高麗軍によって平定
 「元」が済州に牧場を設け、以後の済州は馬産地
 「元」からの移住者およびその子孫は
 「牧子」と呼ばれた
 朝鮮王朝時代には
 朝鮮「八道の一」、
 全羅道に組み込まれ、
 「流刑地の一」
 政争で負けた王族や
 「両班」が流刑
 済州には
 船に居住して
 海産物を採る海民が存在
 一部は海賊化
 19世紀の後期には
 日本漁船の島の周辺海域への
 進出とそれに伴う漁民間の衝突が
 日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)。
 1910年の韓国併合で日本の領土
 1945年まで朝鮮総督府によって統治
 1948年4月3日
 済州島四・三事件」が発生
 少なくとも
 3万人の島民が
 韓国軍などによって虐殺され
 逃れて
 日本に渡って来た
 「耽羅=斎州島=在日韓国・朝鮮人」も多い・・・
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