1395日目・・・原発事故後の避難(非難・批難)・・・そこが、「肝心」、「要(かなめ)」である・・・モウ一発、巨大地震、津波、そして「原発メルトダウン」が起きれば狭い島国に降り注ぐ放射能汚染はアッと云う間に拡散し「原発周辺の住民の逃げる時間も、逃げ道も、逃げ場も無い」のだ・・・「原発」は稼動させず、今後はスベテ廃炉にするのが「肝腎」であるのは当然で有る・・・「カンジン=漢人・官人・勧進・肝腎」・・・「寛仁」・・・

 「寛(カン・クヮン・ガン)」=「宀+萈(羊萈)」=羦?
               「宀+羊+艸+見(目+儿)」
 「萈」は「体の丸い山羊(ヤギ)・家の中に余裕があるさま」・・・「ゆとりがある・心が広い・心にゆとりがある・余裕が有る・のんびりする」・・・「クヮン」って、「もう、食(喰)わん、腹いっぱいだ」のコトか・・・「モゥ、その手はクワン」ってイイながら・・・喰うのか・・・
 「寛」は「ゆた・ひろん・ひろし・のり・のぶ・ゆるやか・ひろい・ひろし・くつろぐ、ゆたか・とも・カン・クヮン」と「訓音読み、音訓読み」するらしい・・・「比呂志・博史・比呂氏」で、「比べる呂の史(詞)」ですか・・・「太安萬侶」くん・・・
 上杉謙信を演じた「阿部寛」氏でもなく、元「石原カンジ(現環境相?)」氏でもなく、山形県、西川郡鶴岡生まれの
 「石原莞爾(イシワラ カンジ)」
 明治二十二年(1889年)一月十八日 (戸籍上は十七日)
  〜
 昭和二十四年(1949年八月十五日)
 と言う人物が存在した。関東軍の参謀で「世界最終戦争論」などとのたまい、「二・二十六」を潰した陸軍軍人であった。陸軍中将で、位階は従四位、勲三等・功三級、満洲国勲一位柱国章(勲一等瑞宝章に相当)叙位叙勲」だった、が・・・時代が要請していた「思想家」としては「怪物」であったカモ・・・
 だが、織田信長(?)、宮沢賢治北一輝大映の二代目の永田雅一社長、「人間革命」の著者などが・・・ナゼ、「法華経」に流れていくのだろう・・・「法華経」のナニが魅力なのか・・・「日蓮宗」のナニがイイのか?・・・当時の「プチブル階層(小商人・下級武士・中間市民層)」にナニが共感したのか・・・「奇跡の予言」か、それとも、コトバとしての「(ウソも)方便品」か、「現世御利益」か?・・・だが「一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る」とは「現世後利益」である・・・「御利益」なのか、「後利益」なのか?・・・漢字の「御」と「後」は異なる漢字である・・・モチロン、「語」の意味も・・・
 蒙古襲来・・・その種の「未来予測」・・・日蓮には「大陸情勢の情報網」があった・・・「高麗人・高句麗人・渤海人」とは「倭」の時代から「親戚・血縁者」なのだ。もちろん「新羅百済耽羅」人とも・・・だが、「神風」はアメリカ海軍を壊滅出来なかったのだ・・・モチロン「帝国日本」も救わなかった・・・
 「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」
 は
 「白い蓮の花の教え=妙法蓮華経」・・・「鳩摩羅什(訳)・妙法蓮華経・観世音菩薩普門品第二十五」は「観音経」である・・・「音を観る経」でアル・・・
ーーーーー
 「寛」のカンジ・・・異端の皇族と言われ、社会福祉の「慈善事業」に活躍した人物・・・
 寛仁親王(ともひとしんのう)
 「寛」の字には「ヽ」が付く旧漢字
 愛称は
 「ヒゲ(髭)の殿下」
 1946年(昭和21年)1月5日
 2012年(平成24年)六月六日)
 皇族
 三笠宮
 崇仁親王
 同妃
 百合子の第一男子
 今上天皇の従弟
 麻生太郎氏の義弟
 1982年(昭和57年)
 「皇籍離脱発言」
  ・・・「宿命の人間」として
      階級存在としての己に
      葛藤したのかも・・・?
 多臓器不全で薨去
 66歳没
 皇位継承順位は第六位
ーー↓
 寛仁(カンニン)・・・・堪忍
 日本元号の一
 長和の後
 治安の前
 1017年
  〜
 1020年
 天皇
 後一条天皇
 「長和」六年四月二十三日
 (ユリウス暦1017年5月21日)
 改元
 「寛仁」五年二月二日
 (ユリウス暦1021年3月17日)
 「治安」に年号改元
 (会稽記の「寛仁祐云々」)
ー↓
 1017年(寛仁元年)
 八月
 越中国令制国の一・北陸道に属する・富山県
     七世紀末、越国(高志国)が分割され、
     後の越前国越中国越後国の前身行政区分
     「高志」の原義とは何ぞや?
     「燕・高句麗・高麗・渤海満州
 の百姓、国司の善状を提出
 十一月
 伊勢国の百姓、国司
 藤原孝忠の・・・今昔物語集 巻第十九
         本朝付仏法
         越前守
         藤原孝忠
         侍出家語
         第十三
       宇治拾遺・古本説話集・沙石集などにもあるらしい
       「孝忠」が
        宇治拾遺では
       「高忠」
       「孝忠が越前守の頃、雪の日、
        その家の貧しい侍が
        嘩一枚でいたが、それに
        裸の歌をよませた所、
        裸と雪を巧によみ込んで作ったので
        衣装を与えたが、
        侍はそれを山寺に布施して出家
        越前守としての孝(高)忠は
        分脈には
        伊予守孝忠がある(天台座主記では伊勢守)
        越前守、伊予守に任ぜられた同一人・・・?
        彼は山陰の曾孫、藤原永頼の子・・・?

 重任を申請
ーー
 飛鳥時代
 大化645〜650
 白雉650〜654
 白鳳 ?
 ・・・・年号が空白、無・・・?
 朱雀 ?
 朱鳥686
 大宝701〜704
 慶雲704〜708
 和銅708〜715

 奈良時代
 霊亀715〜717
 養老717〜724
 神亀724〜729
 天平729〜749
 天平感宝749
 天平勝宝749〜757
 天平宝字757〜765
 天平神護765〜767
 神護景雲767〜770
 ・・・ナゼ、「年号」が「四文字漢字」なのか?
 宝亀770〜781
 天応781〜782
 延暦782〜806
ー 
 平安時代 
 大同806〜810
  〜
 寛仁五年二月二日
 (1021年3月17日)
  〜
 元暦1184〜1185
 ・・・「大同」から「元暦」・・・「ダイは同」から「元の暦」とは?
ー↓寛仁(カンジン・かんにん)ーー
 鑑真(ガンジン・鑑眞・鑒眞)
         鑑(かがみ・カン)=歴史物語
         鑒=監+金
           臣+ノ一+口+皿
           臣+衁(?・コウ)+金
          「鑑」の類字は「艦・襤・覽・�樅」
          「塩・鹽・醢・・盈」
 688年
 (持統天皇二年)
  〜
 763年6月25日
 (天平宝字七年五月六日)
 帰化僧・律宗の開祖・
 俗姓は
 淳于
ー↓
 栄叡、
 普照の要請を受けて
 鑑真は、渡日
 弟子21人も随行渡日
 日本への渡海は
 五回、失敗
ーー
 743年夏
 渡海を嫌った弟子が、役人へ
 「日本僧は海賊」と密告
 744年1月
 暴風で
 明州の余姚へ引き返す
 鑑真の渡日を惜しむ者の密告で
 栄叡が逮捕、失敗
 栄叡は病死を装って出獄
 鑑真一行は
 福州から出発する計画
 この時も鑑真弟子の
 霊佑が鑑真の安否を気遣って
 渡航阻止を役人へ訴え
 出航差し止め
 748年
 栄叡が再び
 大明寺の鑑真を訪れ懇願
 鑑真は六月に出航
 舟山諸島で数ヶ月風待ち後、
 十一月に日本へ出航したが、
 暴風に遭い、十四日間の漂流
 海南島へ漂着
 鑑真は当地の
 大雲寺に一年滞留
 751年
 鑑真は揚州に戻るため海南島を離れ、
 その途上、端州で
 栄叡が死去
 鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが慰留
 揚州までの帰上の間、両眼を失明
 752年
 鑑真のもとに訪れた
 遣唐使
 藤原清河らに渡日を約束
 玄宗皇帝が鑑真の渡日を不許可
 753年
 遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否
 副使の
 大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船
 十一月十七日
 遣唐使船が出航
 暴風が襲い、
 清河の大使船は南方まで漂流
 古麻呂の副使船は
 十二月二十日
 薩摩
 坊津の
 秋目に到着
 途中で
 「阿児奈波(あこなわ)」に漂着したと、
 「淡海三船」の
 「唐大和上東征伝」にある
 「阿児奈波(あこなわ)」は文献上の
 沖縄の初見・・・

 753年(天平勝宝五年)十二月二十六日
 鑑真は
 大宰府観世音寺に隣接する
 戒壇院で初の授戒
 754年(天平勝宝六年)一月
 平城京に到着
 聖武上皇以下の歓待を受け、
 孝謙天皇の勅により
 戒壇の設立、授戒を一任され、
 東大寺に居住
 四月
 鑑真は
 東大寺大仏殿に戒壇を築き、
 上皇から僧尼まで
 400名に菩薩戒を授けた
 常設の
 東大寺戒壇院が建立
 761年(天平宝字五年)
 日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
 大宰府観世音寺
 下野国薬師寺戒壇が設置
 戒律制度が整備されていった
 758年(天平宝字二年)
 淳仁天皇の勅により
 大和上に任じられ、
 政治から解放するため
 僧綱の任が解かれ、
 自由に戒律を伝えられる配慮
 759年(天平宝字三年)
 新田部親王の旧邸宅跡が与えられ
 唐招提寺を創建し、戒壇を設置
 鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の知識も伝えた
 悲田院を作り貧民救済にも取組
 763年(天平宝字七年)
 唐招提寺で死去(遷化)
 七十六歳
 弟子の
 忍基は鑑真の彫像を造り、唐招提寺に安置
 (国宝唐招提寺鑑真像)日本最古の肖像彫刻
 779年(宝亀十年)
 淡海三船により
 鑑真の伝記
 「唐大和上東征伝」が記された
ーーーーー
  ↓
 753年
 鑑真
 大伴古麻呂
 吉備真備らを乗せた
 遣唐使
 第二船、第三船が
 屋久島に寄港・・・
  ↓
 北緯30度20分
 東経130度30分
 北緯30.333度
 東経130.500度
 最高峰 宮之浦岳
 海域 東シナ海
 諸島 大隅諸島
 所属国 日本
 鹿児島県
 熊毛郡
 屋久島町
  ↓↑
  屋久島・・・やくしま?・・・腋島・脇島・掖島
  ↓     厄 島
 「隋書」に記録
 「夷邪久(いやく)」・・・意訳・異訳・異約
   邪狗
   狗邪韓国
   朝鮮半島南部に存在した
   倭国の北岸の狗邪韓国→到着→渡海→対馬
   「三国志・魏書・東夷伝韓条」
   邪馬台国の大夫。卑弥呼(ひみこ)の使者
   魏の正始四年(243年)
   魏に派遣され
   率善中郎将の印綬を受ける
   掖邪狗(エキヤク・エキジャク・わきやく)
  「掖邪狗(エキヤク・エキジャク・ゑきやく)」
   卑弥呼の魏への
   二度目の使者(243年)の
   八人のうちの一人
   他の人名は
  「伊聲耆(いせえき・イセイキ)」
    聲=声+殳+耳
     =十+一+巴+几+又+耳
    耆(おいる・キ・ギ)=老+日(曰)
   245年
  「難升米(ナンショウマイ)」に魏軍の軍旗
   黄幢(コウドウ・オウドウ)が与えられた
   247年
  「載斯烏越(サイシウエツ)」
   が魏に派遣
ーー↓ーー
 三国志・魏書・東夷伝倭人
 (帯方)郡より倭に至るに、
 海岸に循(したが)ひて水行し、
 韓国を歴(へ)、
 乍(あるい)は南し
 乍(あるい)は東し、
 其(そ)の北岸の
 狗邪韓国に到る。
 七千余里なり。
 始めて
 一海を度(わた)ること、
 千余里にして対馬国に至る
ーー
 三国志・魏書・東夷伝・韓条
 韓は帯方郡の南にあり、
 東西は海を限界とし、
 南は倭と接し、四方は四千里ばかり。
 韓には三種あり、
 一に馬韓
 二に辰韓
 三に弁韓
 辰韓とは昔の辰国のことで
 馬韓は西にある」
ーー
 弁辰十二国
 「弁辰・狗邪国」は
 「首露王」による建国の
 「金官駕洛」に比定
ーー
 後漢書東夷伝倭人
 倭は韓の東南、
 大海中の山島によっており、
 およそ百余国ある。
 (前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、
 三十余国が漢に使訳を通じてきた。
 国では皆が王を称することが代々の伝統である。
 そこの大倭王は、
 邪馬臺国に居する。
 楽浪郡の境界から、
 その国までは一万二千里、
 その西北端の
 拘邪韓国から七千余里。
 その地はだいたい
 会稽郡
 東冶の東にあり、
 朱崖や儋耳と相似しており、
 その法俗も多くが同じである

 原文
 倭人在帶方東南大海之中,
 依山島爲國邑。
 舊百餘國,
 漢時有朝見者,
 今使譯所通三十國。
 從郡至倭,
 循海岸水行,
 曆韓國,乍南乍東,
 到其北岸狗邪韓國,
 七千餘里。
 始度一海,
 千餘里至對馬國。
ーー
 狗邪国
 原文
 弁辰亦十二國,又有諸小別邑,各有渠帥,
 大者名臣智,
 其
 次有險側,
 次有樊濊,
 次有殺奚,
 次有邑借。
 有已柢國、
 不斯國、
 弁辰彌離彌凍國、
 弁辰接塗國、
 勤耆國、
 難彌離彌凍國、
 弁辰古資彌凍國、
 弁辰古淳是國、
 冉奚國、
 弁辰半路國、
 弁樂奴國、
 軍彌國弁軍彌國、
 弁辰彌烏邪馬國、
 如湛國、
 弁辰甘路國、
 戶路國、
 州鮮國(馬延國)、
 弁辰狗邪國、
 弁辰走漕馬國、
 弁辰安邪國馬延國、
 弁辰瀆盧國、
 斯盧國、
 優由國。
 弁、
 辰韓
 二十四國,
 大國
 四五千家,
 小國
 六七百家,
 總
 四五萬戶。
ーーーー
 加羅
 三国史記
 新羅本紀の
 奈解尼師今六年(202年)条
 「伽耶」という表記
 同十四年(210年)条
 「加羅」と表記
ーー
 414年
 高句麗が建立した
 広開土王碑文に
 「任那加羅」が初見
 「日本書紀」では、
 加羅任那が併記
 中国の
 「宋書」では
 「任那加羅」と併記
 「南斉書」、「梁書
 660年に成立した
 「翰苑」
 801年に成立した
 「通典」、
 983年に成立した
 「太平御覧」、
 1013年に成立した
 「冊府元亀」も併記
 清代に編纂された
 「全唐文」にのみ
 伽耶の表記
ーーー
 「日本書紀」、「宋書梁書
 三国志中にある
 倭人の領域が
 任那に元の弁韓地域が
 加羅になったと記録
 任那倭国の支配地域、
 加羅諸国は倭に従属した国家群
 倭の支配機関
 加羅諸国は、
 512年に四県を
 倭が百済へ割譲
 532年に
 南部の金官国新羅に投降
 562年
 洛東江流域の
 任那諸国を
 新羅が滅ぼした

 加羅諸国
 金官国駕洛国)・駕洛国金官加羅任那加羅
 韓国
 慶尚
 南道
 金海市に有った・・・
ーーーーー
 ・・・