1394日目・・・除雪で左脇(腋)腹の筋肉とアバラ骨を痛めて五日目・・・椅子に座るにも立ち上がるにも、二階への階段を登るにも・・・咳き込む時も、トイレでフンバル時も・・・農協に買い物にテクテク歩いていくにも、ィテっ、テテテ・・・「3・11」の被災にあったヒトビトを思えば、ドオってコトはない・・・まだ、呼吸をしてイキている・・・

 ・・・詳しく言えば・・・左胸下の一番下の「肋骨」と「横隔膜」あたりの「腹筋」・・・痛てぇッ・・・
ーーーーー
 ワキバラ=脇腹・・・
 腋腹
 涌きハラ
 沸きハラ
 和気葉等
 話記場等
 輪木薔薇
 ・・・「脇(肉+力+力+力=三力)→腋(肉+夜)」の類字は「液=氵+夜」である・・・「腋は腕の付け根、腋毛の生えている部分、脇は腋より下、腰より上、触ると肋骨がある部分」・・・?
 ナゼ、「夜(よる・よ・ヤ)」を「力+力+力=三力(にわか・ととのう・かなふ・キョウ・ギョウ・リョウ)」の漢字として同義にしたのか?・・・
 「カナフ」・・・「仮名附」・・・教、行(業・形・暁)、漁・・・
  力+力+力=三力
  ↓
 「力を同(あは)せるなり。三力に從ふ(説文解字)」
 「惟號の山、其の風�僖の若し(山海経・北山経)」
 「北に雞號の山を望む。其の風、�僖の如し」
 「急なり(玉篇)」
  甲骨文には
 「東風を力+力+力」・・・?「こち(東風)の風」
 「東風(こち)吹かば
  匂(にほ)ひ
  おこせよ
  梅の花
  主(あるじ)・・・有る字
  なしとて
  春を忘るな」・・・拾遺集・雑春・菅原道真・・・?
     ↓   
     コチ=故地・故知・故智
        胡地
        鯒=牛尾魚
        平たい体と大きなひれをもち、
        海底に腹ばいになって
        生活する海水魚の総称
        性転換をし、初めは
        雄で、成長すると雌になる
        カサゴ目コチ科
        ネズミゴチ・マゴチ・メゴチなど
        外見が似ているが、
        目のレベルで
        異なる
        二つの分類群から構成
        餌の小魚や甲殻類が近づくと捕食
        するために跳踊(はねあがる)
        鯒=魚+甬
          踊る意味の
          旁(つくり)の「甬」をあてた
  ↓      「鯒」は、国字・・・
ーー↓
  力+力+力=三力
  ↓ 
 「協」と通じて、
 「かなう(叶・適)・ととのう(整・調)」の意味・・・
 字形
 力+力+力=三力
 力=力こぶ・鋤・三力=協力
   脅骨(肋骨)を並べた象形・・・
 「説文」で部首
  協(叶)・勰・恊
  拹・恊・荔・珕・脇・勰・脅
ーー↓
 腋=脇
   腕の付け根の下の方、腹の横の上の方
 腋=肉+夜
  「肘腋なり(玉篇)」
  「胳なり(集韻)」
  「腋=掖が正字干禄字書)」
     掖は脇挟むという字
   声符は「夜」
   「亦」も、元々、「腋」を表す字
   「亦」が象形、指事であるのに対して
   「腋」は形声の字
    声符の「夜」は、
   「人の腋」に「月が覗く」という字・・・?
  「腋」=わき・エキ
 腋窩・腋臭
 腋=脇(わき・エキ)
   両腕の付け根のすぐ下の所
   体側と肘との間
 腋毛(脇毛)・腋臭症
 腋毛が発毛し、第二次性徴でアポクリン汗腺が発達
 脇(わき)
 ↓
 脇句 → 俳諧
 ほてわき=平安時代
      相撲人(すまいびと)のうちで
      最手(ほて)に次ぐ地位の者で、
      今の関脇にあたる
 ワキ方=能で、シテの相手役
     邦楽で、首席奏者(タテ)に次ぐ奏者
     その地位で、脇唄・脇三味線・脇鼓など
 ワキ=空手で最も効く急所の一
    目ざすものからずれた方向
    「よそ」や「横」
 人名の「脇」
 地名の
 脇町=徳島県にかつてあった自治体、
    美馬市の旧名
 脇(東桜島村)=鹿児島県
        鹿児島郡
        東桜島村にあった
        大字→鹿児島市編入時に
        大字有村と統合し有村町となる
 脇=傍(かたわら)・側(そば・わき)
   「すぐそば・かたわら」という意味・・・横
   葉のつけ根
 腋窩(エキワ)=わきの下のこと
         上腕と胸壁との間に挟まれた
         窪(くぼ)み
         胸壁から上腕に向かって
         二つの筋(前は大胸筋、後は広背筋)が
         堤防のように走っている
ーー↓
 「日本書記」には「腋島」の記録がある・・・
 地名
  ↓
 愛知県知多市新知−脇島(字)
 愛知県弥富市平島町−脇島
  ↓
 661年(斉明天皇七年)
 第四回遣唐使耽羅に漂着
 耽羅国の王子
 阿波伎
 等を日本に派遣入貢
 以後、耽羅からは
 678年(天武天皇七年)まで
 九次の使節が日本を訪れ、
 679年(天武天皇八年、新羅の文武王元年)
 に新羅に服属するまで朝貢を続けた
 「白村江の戦い」の降伏者を示した記録に
 「耽羅国使」が確認
 耽羅は日本とともに百済救援の行動を起こしていた・・・
 684年(天武天皇十三年)十月
 日本から耽羅への使者が派遣
 大使
 犬養連手纏
 小使
 川原連加尼
 「日本書紀・巻二十九」
 新羅への遣使の副次として送られた
 耽羅新羅への臣属
 小高句麗国の新羅への併合を探索・・・
 688年(持統天皇二年)
 693年(持統天皇七年)
 耽羅からの使者が来日
 入京できず、大宰府で留められた
  ↓
 「日本書紀・巻二十六
  斉明天皇七年五月丁巳
  耽羅、始遣、王子。阿波伎、等貢献」
 「耽羅
  ↓
 耽牟羅・屯羅・州胡(チュホ)
 渉羅(ソムナ)・純羅(スルラ)
 度羅(トラ)・・・虎・寅
          ↓ 
         「島(しま)」は韓国語で「ド・ト」
       「牛−島(ウ-ド・우도)」
        済州島の東端の島
        済州特別自治道が管轄
        牛島・加波島・馬羅島・飛揚島・湫子島
        島の形が牛が横たわっているように見える
        高知県や福岡県と同緯度
 の表記
 継体天皇二年(508年)
 「南海中・耽羅人・初通・百済国」
 660年
 百済滅亡
 耽羅は唐へ使いを派遣(唐会要)
ーー↓
 西之表港
 島間港
 浜津脇港・・・脇港
 田之脇港・・・脇港
 増田港
 浜田港
ーーー
  屋久島・・・やくしま?・・・腋島・脇島・掖島
  ↓     厄 島
 「隋書」に記録
 「夷邪久(いやく)」・・・意訳・異訳・異約
   邪狗
   狗邪韓国
   朝鮮半島南部に存在した
   倭国の北岸の狗邪韓国→到着→渡海→対馬
   「三国志・魏書・東夷伝韓条」
   邪馬台国の大夫。卑弥呼(ひみこ)の使者
   魏の正始四年(243年)
   魏に派遣され
   率善中郎将の印綬を受ける
   掖邪狗(エキヤク・エキジャク・わきやく)
  「掖邪狗(エキヤク・エキジャク・ゑきやく)」
   卑弥呼の魏への
   二度目の使者(243年)の
   八人のうちの一人
   他の人名は
  「伊聲耆(いせえき・イセイキ)」
    聲=声+殳+耳
     =十+一+巴+几+又+耳
    耆(おいる・キ・ギ)=老+日(曰)
   245年
  「難升米(ナンショウマイ)」に魏軍の軍旗
   黄幢(コウドウ・オウドウ)が与えられた
   247年
  「載斯烏越(サイシウエツ)」
   が魏に派遣
ーーー↓
 『日本書紀』では
 616年(推古天皇二十四年)
 掖久・夜勾・掖玖の人
 三十人が、日本永住
 629年(舒明天皇元年)
 大和朝廷から
 掖玖に使が派遣
 日本書紀で、
 掖玖(ヤク)を、
 特定の島である
 屋久島をさすような言葉として
 初めて区別するような記載が行われたのは、
 682年(天武天皇十一年)
 「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」
 という記載の
 「掖玖人」
  ↓
 「掖(わきはさむ・たすける・エキ・ヤク)」=扌(手)+夜
ーー↓
 「続日本紀
 699年(文武天皇三年)
 多褹・「掖玖」・菴美・度感
 から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載
 種子島とともに多禰国との記述があり、
 702年(大宝二年八月一日条)
 「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。
  是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」
 という記述
 大和朝廷令制国として
 一国に準ずる多褹国とし、
 国司を派遣
 多禰国
 南島(南西諸島・奄美・沖縄方面)との交流
 隼人の平定、遣唐使の派遣のため
 格は「中国」として扱われていた
 753年
 鑑真、大伴古麻呂吉備真備らを乗せた
 遣唐使
 第二船、第三船が
 屋久島に寄港
 天長元年(824年)十月一日
 多禰島司を廃止
 能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の
 四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編し
 大隅国編入

 1203年
 鎌倉幕府から
 種子島氏に
 種子島、南西諸島が与えられ、
 屋久島も支配下に置かれた
 1542年
 大隅
 禰寝氏が
 種子島氏の悪政を正すとの
 名目で
 屋久島に襲来し、島を占拠
 宮之浦に城ケ平城を築城
 1544年
 種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める
 禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる
 このとき初めて火縄銃が実戦で使用された・・・

 織豊時代
 1595年
 種子島久時のとき、
 太閤検地に伴う所替えで
 薩摩国
 知覧に移され、
 屋久島は島津家の直轄地
 豊臣秀吉が京都
 方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、
 島津家にも用材の献上を命じ
 「ウィルソン株」はその時に切り出された
 屋久杉の切り株・・・
 ウィルソン株
  ↓
 1588年(天正十四年)
 牧村の
 五郎七が
 足場を組み、
 豊臣秀吉の命令により
 大坂城築城(京都の方広寺建立とも)の為に切られた
  ↓
 ハーバード大学樹木園のための収集に、
 アメリカの植物学者
 アーネスト・
 ヘンリー・
 ウィルソン (Ernest Henry Wilson) 博士
 により調査され、
 ソメイヨシノなど多くの桜などの収集とともに
 1914年に西洋に紹介され、
 この株の名前の由来となった。
 縄文杉発見(1966年)前の調査・・・
 株の中には清水が湧き出ており、内部に祠
 内部には入って、空を見上げると
 「ハート」型に見えるポイントがある
 博士は
 1916年に
 「The Cherries of Japan」や
 「The Conifers and Taxads of Japan」の本を執筆し
 日本の桜、針葉樹や櫟(イチイ)科も紹介・・・
 「櫟」・・・クヌギ (Quercus acutissima)は、
       ブナ科コナラ属の落葉高木
       クヌギの語源は
       国木(くにき)または
       食之木(くのき)から・・・
       古名は「つるばみ」
       漢字では「櫟・椚・橡」
       などと表記
ーー↓
 泊如竹
 江戸時代
 薩摩藩支配下
 島津光久に招かれ薩摩藩に使えていた
 僧侶、儒学者
 屋久島の
 安房の生まれ
 島民のため
 屋久杉伐採を藩に願い出、
 屋久杉伐採の指導などを行った
 「泊如竹」は
 屋久聖人と呼ばれている
 命日
 旧暦の五月二十五日
 如竹踊りが
 如竹神社で行われている

 屋久島の年貢は、
 屋久杉を伐採加工した
 平木で納めた
 男子は年一人当り
 平木六束(一束は百枚で600枚)を収めた

 1708年
 キリスト教布教のため、
 鎖国下の日本に潜入した
 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ
 屋久島に上陸

 明治時代
 地租改正
 島の山林のほとんどが国有地に編入
 その帰属をめぐって
 政府と島民との長い争いが生じた

 「屋久杉」
 スギ(杉、Cryptomeria japonica)
 屋久島に産し樹齢が1000年を越えるものを
 ヤクスギと呼ぶ
 抗菌性を持つ樹脂を多量に分泌
 幼樹の葉が鋭い
 ヤクスギ、モミ、ツガを主体とする
 温帯針葉樹林は
 屋久島の標高
 600m以上に分布
 600〜1,200mは
 低地を占める
 照葉樹林との
 移行帯であり、
 両方の要素が混交

 豊臣秀吉による京都
 方広寺大仏殿建立の際、
 石田三成
 島津義久屋久島の木材資源調査を指示
 木材が薩南海域から大坂へ運ばれた・・・らしい

 17世紀
 薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化
 明治以降、屋久島の山林の大半は国有林編入
 大正から昭和にかけて二次林・三次林の伐採
 1000年以上の「屋久杉」は切り残され
 樹齢400年以下の「小杉」は、
 屋久杉ではないとされ、伐採

 縄文杉
 放射性炭素年代測定法で
 推定樹齢
 約2000年以上であると確認
 一本の木
 最古の木は
 「大王杉」
 放射性炭素年代測定法で
 樹齢3000年以上・・・らしい
ーーーーー
 ・・・アレッ・・・「ワキバラ」と「ロッコツ」のハナシだったんだけれど・・・ナンで「腋」=「肉(にく・ジク)+夜」・・・?・・・明治の仕業だろう・・・「夜」=「亠+イ+夊(攵)+ヽ」・・・「夂(おくれる・チ)」・・・「夊(ゆっくり・スイ)」・・・「攵=攴(ぼくづくり・のぶん・とまた」=「ノ一+乂」=「ト+又」・・・「ヽ」・・・