1391日目・・・一月七日にオフクロが亡くなって昨日は三月七日は1、2、3回目の七日・・・オフクロの友人で、敬虔な信者でもある女医の「T先生」が来られ、お魚と昆布の煮付けモノを頂いた。感謝です・・・ウクライナ・・・本日、蝦夷地のココは猛吹雪で豪雪です。去年と同じように玄関が雪で埋まってしまった・・・朝のハヨから雪をナンドもナンドも除雪してもてお手上げ。ガレージは完全に雪の中に埋没状態・・・左のわき腹の筋肉と骨をイタメてしまった・・・

 ウクライナ・・・ロシア・スラブ人、なんで、シベリアなんかに住むようになったんだろう・・・今現在、ボクも厳寒の北海道にモモとブブと一緒に住んでいるけれど・・・「シャコマイン」を抜きにしては、その「ボクの歴史」のモノガタリも始まらない・・・
 どうして世界各国の「指導者(?)」は「人間」と言うコトバを問題にせず、「自国民・民族」、「異民族・異人種」、「外人」と言うコトバを軸にし、領土問題で「戦争」の恫喝や、侵略なんかをするんだろう・・・そんなに欲しけりゃァ、呉れてヤレ、とは云わないが、市場経済の世の中である・・・競売にかけて「売ってヤレ」・・・売れるかどうかは別問題だが・・・その代わりに、国際的な「オークション機構」で「売買ルール」の管理をし、縄張り、国境線引きをヤメロ・・・この21世紀に「戦国春秋時代三国時代」とは呆れる・・・今や世界は「国境」を越えて「カネ」で動いている。土地も「売買商品」で、金次第での売買物件だから「国家間戦争」で「命を賭けた争奪、略奪」する必要はドコにもない・・・
 「リーマンショック」は悪質な「福袋の中にワケのワカラない不動産証券が抱き合わせ」で入れられたモノだったが・・・
 「プチブル民主国家」の「安全保障」なんてのはドコにもないが、「国家」である限り、対外諸国家との問題だ・・・相手がイチャモンつけてくるんだから、なんとかせにゃぁ・・・
 「国家」の「土地管理」・・・「律令制度」・・・日本じゃぁ、ムカシから「国司」と「荘園主」、「国司」と「地頭」、下剋上では「守護代名」と、その「陪臣、家臣」、「戦国大名」と「戦国大名」、「戦国大名」と「国人・仏教教祖」・・・明治になってからは「地主」と「小作農民」、それに「不在地主」と「小作農民」・・・やっと、「四民平等」とかで「土地」の「耕作小作農民」が浮上してきたが、「各四民の階級序列」は「平等」ではなかったし、「公平」でもなかった。「各職業」にはカナラズ「親分・子分」の序列がある・・・もちろん、報酬の取り分には膨大な格差がある。企業は「株主のモノ」とはアメリカの言い分だが、この「株主」になるのは一応、「ダレ」もがなれる・・・余裕のカネがアレば・・・「不在企業主=大株主」とは「当該企業の社員・従業員」でもなくてもイイ・・・堀江モンが「小口株主」を、そのシステムで増やそうとした・・・「一株、株主」も随分前から登場しているが、最近はあまり、そのコトバを聞かない・・・
 一般市民はホトンドが「労働者」である。労働市場の雇用者には「軍事産業」もワンサカ存在する・・・「武器」もウラなくちゃぁ、喰ってイケナイ・・・「武器三原則」なんて云っていたら、儲からないから・・・それ以前に「武器・兵器」の各部品は「軍事産業」が造っているとは限らない。部品で「完成品の武器」を組み立てるノウハウがあれば無意味だし・・・それ以前の以前に「売れる武器」は「消耗品」であることが必要だ・・・消耗する場所は「戦争」・・・それ以前の以前の以前は「武器」とは「銃器・弾丸・ミサイル・軍艦・戦闘機」などの「殺傷兵器」でなくてもイイ・・・「コトバ」の恫喝、威喝も・・・「衣食住に関係」るものはナンデモゥ、ッ・・・カネェ〜ッ・・・
 そして、「戦争」を始めた・・・なんせ、「戦争相手」の「トップ」と、その取り巻きは連中は、とてつもなく「独善的」で、自我意識の強烈な「国境拡張主義・国家主義民族主義・暴力主義」の確信犯・・・
 幕末、明治初期の「ニホンジンの指導者」はエラカッタのサッ・・・「身上・心情・真情・信条」に於いても・・・なんせ、「陽明学=武士道(?)」はカネギライらしいから・・・とは言っても爪楊枝だけではイキテイケナイ・・・ジレンマ・・・
ーーーーー
 ウクライナ
 サルマタイ(Sarmatae、Sarmatia)
 紀元前4世紀〜紀元後4世紀に
 南ウクライナを中心に活動していた
 イラン系遊牧民族
 サルマート人、
 サルマタエ、
 サルマティア人
 とも・・・「サルタビコ(猿田彦)」だろう・・・
 紀元前4世紀後半
 ドン川下流
 アゾフ海の沿岸に居住していた
 サウロマティア人とは異なり、区別する
 二世紀に黒海の北西一帯に進出し
 スキタイを駆逐
 5世紀まで発展した
 チェルニャコヴォ文化の
 担い手・・・
 紀元前338年頃の
 「ギリシア人歴史家」の
 ドン川沿岸の
 サルマタイ人の情報・・・らしい。
 紀元前5世紀頃
 ユーラシアのステップに
 西にスキタイ人
 その
 東にサルマタイ人、
 その
 東方にサカ人が存在
 紀元前3世紀頃、
 サルマタイ人は、
 西方の南ウクライナ黒海北岸)に移動
 そこに住んでいた
 スキタイ人
 クリミアとドブルツァへと追い払った
 紀元前2世紀
 サルマタイ人はヨーロッパに侵入
 そのまま残ったものは
 アラン人と呼ばれる・・・アラン・ドロン
 その後は
 ローマ帝国の北部辺境に侵入
 ミトリダテス王が
 アルメニア地方で起こした
 ローマへの反抗に参加・・・
 62年
 ネロの将、
 シルバヌスによって遠征され、
 トラキア
 ゲルマン人
 サルマタイ人の軍隊に打撃
 ダニューブ川の彼方へ追い払われた
 1世紀〜3世紀頃
 ローマ帝国
 ドニエプル川
 コーカサス山脈以北の脅威
 ハドリアヌス帝以降
 ローマに影響?・・・脅威
 4世紀頃
 サルマタイ人は
 フン族とともに
 西ヨーロッパになだれ込み
 ゴート族を脅かし、
 結果、民族大移動を起こした
 7世紀
 最後のサルマタイ文化が起こった
 その後
 スラヴ人の南下と
 東方からの
 遊牧民の侵入により衰退、分散
 10世紀
 ポーランド人が、
 サルマタイ文化に影響された
 ポーランド・リトアニア共和国
 貴族階級は、
 自らの祖先を
 ステップの武人であった
 東方の
 サルマタイ人だとする
 「サルマタイ人起源説」に基づき、
 サルマティズムと呼ばれる
 東方趣味や貴族文化を形成
 現在、
 コーカサス山脈に住む
 少数民族
 オセット人は、
 サルマタイ人の末裔・・・
 ブリテン島に伝わる、
 アーサー王伝説は、
 この地に派遣された
 サルマタイ人の伝説が起源・・・
 帝政ローマ時代の
 ブリテン島には
 多くの
 サルマタイ人が駐屯し
 彼らは自分たちの伝説や神話を持ちこんだ
 アーサー王伝説
 ストーリーの一部は
 サルマタイ神話と酷似・・・
 ローマ時代の歴史家は
 サルマタイ人の描写を残した
 タキトゥス
 ヴァレリウス・フラックス、
 アーリアヌス、
 パウサニアス、
 ストラボン、
 ヨセフス
 などがの歴史家
 サルマタイ人は、
 スキタイ人の文化を継承しているが
 相違点が大
 サルマタイの社会組織は
 封建的
 スキタイのように
 世襲的な王朝をもっていたかどうかは定かでない
 村や町をつくらない、純粋の遊牧民・・・
 スキタイ人と違って
 黒海沿岸の都市を攻撃することはなく、
 ゴートと連合して
 ギリシア都市の征服時代も
 被支配民の政治組織は変更せず
 ギリシア商人を代理として
 交易を行っていた
 サルマタイ兵の主要な武器
 ヨーロッパ中世の騎士の持っていたような
 長く重い矛
 馬も人も鎖帷子か鋳鉄の鎧で武装
 騎兵集団で突撃
 一騎打ちでは鋭い峰の長剣を用いた
 スキタイ人と違い、
 弓矢の役目は二次的だった
 サルマタイの宗教
 火の崇拝
 儀式では馬の生贄(犠牲)
 葬法はスキタイよりも簡素
 副葬品は東方影響の
 幾何学文様が多く、
 動物文様は少ない
 婦人の装飾品や壺の表面装飾は
 宝玉や七宝細工を多用
 ギリシア神話や宗教的素材は無い
 均整より多彩、華美
 多色様式の工芸品は、
 東ローマと
 ヨーロッパ中世の美術へと継承
ーー
 サカ(Saka)
 紀元前6世紀頃から
 中央アジアに現れる
 イラン系遊牧民族
 サカとはペルシア側の呼び名
 古代ギリシアでは
 サカイ(Sakai)と呼んだ
 中国の史書では
 塞(さい)・・・要塞は
         アイヌ語
         チャシュ−ナイ(茶志内
         茶志内→サシ-ナイ?
 アケメネス朝の
 『ベヒストゥン碑文』
 サカ
 古代ギリシアの歴史書
 サカイ
 古代ギリシア人が
 スキタイと呼ぶ北方草原民族の
 ペルシア側の呼び名(ヘロドトス
 アケメネス朝の支配を受け、ペルシア戦争に参加
 ストラボン『地理誌』には
 サカと呼ばれる遊牧民のうち、
 ヤクサルテス川(シル川)
 のかなたからやって来て
 ギリシア人からバクトリアを奪った
 アシイ、パシアニ、トカリ、サカラウリ
 と記す
 同じ事件を古代中国でも記録
 匈奴に撃退され、
 パミールを越えて
 アム川北に移動し、
 大夏国を征服した
 月氏の西遷、
 あるいは
 塞族の南遷・・・
 11世紀に作られた
 「シャー・ナーメ」の
 主人公の一人
 ロスタムはサカ人だった・・・
 紀元前6世紀
 アケメネス朝
 古代オリエントを統一
 東へ遠征
 中央アジアの草原で
 サカと総称される遊牧騎馬民族接触
 ダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)の
 『ベヒストゥン碑文』では、
 サカ・ティグラハウダー
 (尖がり帽子のサカ)、
 サカ・ハウマヴァルガー
 (ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、
 サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ
 (海のかなたのサカ)の三種
 サカ・ティグラハウダーは中央アジアの西側、
 サカ・ハウマヴァルガーは中央アジアの東側
 サカ・パラドラヤは「海のかなた」
 (カスピ海もしくは黒海の北)
 ギリシア文献のスキタイ・・・
ーー
 アケメネス朝
 サカ人は
 キュロス2世(在位:前550年〜前529年)の
 東方遠征によって、支配を受け始め、
 ダレイオス1世の代に制定された
 20の属州(サトラッピ)の
 第15番目の属州
 カスピオイ人とともに
 250タレントを納税

 紀元前490年
 マラトンの戦い
 サカ人はペルシア軍に従軍
 中央部に配置され、一時は勝利を収めたが、
 両翼部が
 アテナイ
 プラタイア連合軍(ギリシア)に敗れた
 ペルシア側は敗北した

 サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)
 ヘロドトス
 サカを
 サカイと表記し、・・・堺=土+界・・・?
 紀元前480年
 クセルクセス1世(在位:前486年 - 前456年)の
 ギリシア遠征に参加

 「尖がり帽子のサカイ」部隊
 「歴史・巻7−64」
 「サカイ、すなわち
  スキタイは、先が尖ってピンと立った
  キュルバシアという帽子を頭にかぶり、
  ズボンをはき、
  自国産の弓、短剣、
  さらに
  サガリスと呼ばれる
  双頭の戦斧を携えていた。
  彼らは
  “アミュルギオンのスキタイ”なのであるが、
  ペルシア人スキタイ人すべてをサカイと呼ぶため、
  彼らもサカイと呼ばれていた」
 この部隊を指揮したのは
 クセルクセス1世の弟である
 ヒュスタスペス(ヒスタスペス)であった

 マルドニオスの指揮下
 サラミスの海戦(前480年9月)以降、
 メディア人
 サカ人
 バクトリア
 インド人
 などの外人部隊
 将軍
 マルドニオスの指揮下に入り、
 その後の
 プラタイアの戦い(前479年8月)に配備
 ペルシア側が敗北したが
 ペルシア人部隊に次いで勇敢に戦ったのが
 サカ人部隊であった・・・

 その他のサカ人は
 ヤクサルテス川の北方に住み続け、
 常にアケメネス朝の脅威として存在

 紀元前334年〜紀元前331年
 アレクサンドロス中央アジア支配
 ヤクサルテス川を挟んで
 サカ人と対峙
 ソグディアナで
 スピタメネスが抵抗運動
 サマルカンドを攻撃して
 アレクサンドロスの後方を脅かし
 マケドニア軍の数部隊が壊滅
 アレクサンドロスは緘口令を敷いて
 敗残兵を全員処刑
 ヤクサルテス川を渡って救援に向かったが、
 利あらずと判断して撤退
 紀元前3世紀半ば
 西方の遊牧民
 パルティアに服属
 東方では
 トガリ(トハラ人)が勢力を拡大
 ソグディアナを占領し
 南の
 グレコバクトリア王国を脅かした

 「塞」
 中国史料の
 「漢書・西域伝」
 「漢書・西域伝・罽賓国の条・烏孫国の条」
 罽賓国の条
 「昔匈奴は大月氏を破り、
  大月氏は西の
  大夏で君主となり、
  塞王は南の罽賓で君主となった。
  塞種は分散し、数国となった。
  疏勒より西北では、
  休循、捐毒の属(やから)となり、
  皆
  故に
  塞種なり」
 烏孫国の条
 「本(もと)は塞の地なり、
  大月氏
  西の
  塞王を破って敗走させ、
  塞王は
  南の
  縣度(けんど)を越え、
  大月氏はその地に住み着いた。
  後に
  烏孫
  昆莫が
  大月氏を撃破すると、
  大月氏
  西に移って
  大夏を臣従させ、
  烏孫
  昆莫はこれに住み着き、
  故に
  烏孫の民には
  塞種、
  大月氏種がいると云う」
 ・・・
 イシク湖周辺の地域(キルギス)にいた
 塞族は、
 匈奴(老上単于)の攻撃によって
 逃れてきた
 大月氏により追い出され、
 縣度(パミール高原ヒンドゥークシュ山脈
 を越えて
 ガンダーラ地方に
 罽賓国を建てた。
 また、分かれて
 パミール山中に
 休循国、
 捐毒国を建てた者や、
 残って
 烏孫国に属した者もあったという」

 「塞」の発音
 「漢書・張騫伝・顔師古の注」
 「即ち仏経の謂う所の釈種とは、
 “塞”、“釈”の声(発音)が近く、
  本は一姓と聞く」
 唐の「顔師古」は
 塞族と釈迦(シャーキャ)族が
 同じ族であったとしている。
 サカ人や塞人の起源が
 インド北西部にある・・・
 ・・・塞族は存在しなかった、との説も・・・?
ーーーーー
 ・・・今現在、NHK・ETV・・・
 地球ドラマチック
 世界最古の“コンピューター”
 〜宇宙を再現!
 古代ギリシャの技術
 海底で見つかった古代ギリシャの財宝の中に謎の金属塊が…。
 X線撮影すると
 27もの歯車が組み込まれていた!
 何の目的で作られたのか?
 研究によって驚きの事実が明らかに。
 エーゲ海で偶然見つかった古代ギリシャの小さな
 金属片は
 「アンティキテラ島の機械」と呼ばれ、
 長年、研究者が解明に挑んできた。
 機械には
 27の歯車が組み込まれ、・・・「宿曜経」の
                「27+1」宿
            二十八=「七」カケル「四」
 それぞれ歯の数が異なる。
 歯の数は何を意味するのか?
 最近の研究により、
 太陽や月の周期、
 さらに
 日食や
 月食をも予測する機械だったことが判明。
 この小さな機械で、宇宙を再現していたのだ!
 2000年前の驚きの技術に迫る。
 (2012年 国際共同制作)
 ・・・アンテキナ嶋・・・シチリアシラクサ、アレキメデス、キケロ・・・コレラのカタカナを・・・漢字にしたら・・・
ーーーーー
 ムサシ・ムザシ・ムサジ・ムザジ
 武蔵国(むさしのくに・武藏國)
 地方行政区分、令制国の一
 東山道、のち東海道に属す
 本居宣長
 「武蔵国
  駿河・相模と共に
  佐斯国(サシ)と呼ばれ、
  後に
  佐斯上(サシガミ)
  下佐斯(シモザシ)
  に分かれ、
  これが転訛し
  相模・武蔵となった(古事記伝)」
 ・・・本居宣長には「史料」が無かった・・・
 賀茂真淵
 「身狭(ムサ)国があり、
  のち
  身狭上(ムサガミ)
  身狭下(ムサシモ)
  に分かれて
  相模、武蔵となった(倭訓栞)」
 ・・・賀茂真淵にも「史料」は無かったらしい・・・
 近藤芳樹
 「総(フサ)国の一部が分割され
  総上(フサガミ)
  総下(フサシモ)となり、
  それぞれ
  相模・武蔵となった(陸路廼記)」
 ・・・これらの説は、
 武蔵国はかつて
 毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であり
 その後7世紀に
 ヤマト王権が総国から
 この地域に進出して勢力下においた、
 とする
 「考古学的成果」と相容れない・・・?
 ・・・「漢字文字表記の問題」だろうが「考古学的成果」とは、コレに関する「漢字の記録」のコトか・・・
ーー↓↑
 表記については、
 飛鳥京・藤原宮木簡に
 「无耶志国」
 7世紀頃までの
 武蔵は
 「无射志(ムザシ)」や
 「牟射志(ムンザシ)」
 と表記されていた記録も見つかっている
 他にも
 「牟佐志」、
 「無邪志」といったの表記がある
 ・・・だが「武蔵」の漢字ではない・・・「ムサシ」は何時から「武蔵」になったのか・・・「タケゾウ」・・・「武蔵之」・・・「武蔵野」・・・名前が「国木田独歩」・・・とは、ネッ・・・
ー↓
 国木田 独歩(くにきだ どっぽ)
 明治四年七月十五日(1871年8月30日
   〜
 明治四十一年(1908年)6月23日
 千葉県銚子生まれ
 広島県広島市山口県育ち
 幼名は亀吉、哲夫
 筆名は独歩・孤島生・鏡面生・鉄斧生
    九天生・田舎漢・独歩吟客・独歩生
 田山花袋柳田國男らと知り合い
 「独歩吟」を発表
 「武蔵野」、「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品
 「春の鳥」、「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆
 雑誌「婦人画報」の創刊者、編集者
 ロシア語などへの翻訳
 父は
 国木田貞臣(専八、文政十三年十月十九日生)
 母は
 淡路まん(天保十四年十二月二十七日生)
 父・専八は、
 旧龍野藩士で
 榎本武揚討伐後に
 銚子沖で難破し、吉野屋という旅籠で療養
 「専八」は国元に妻子、
 「まん」もバツイチで
 離縁した
 米穀商の
 「雅治(次)郎」との間にできた連れ子がいた
 独歩は、
 戸籍上は雅治郎の子
 1874年
 父の
 「専八」は
 「まん」と「独歩」を伴い
 東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に一家を構え、
 1899年
 国元の妻と離婚
 司法省の役人となる
 中国地方各地を転任
 独歩は
 五歳〜十六歳まで
 山口、萩、広島、岩国などに住む
 1888年
 東京専門学校(早稲田大学
 英語普通科に入学
 徳富蘇峰と知りあう
 処女作「アンビシヨン(野望論)」を
 「女学雑誌」に発表
 1889年7月10日
 哲夫と改名
 1890年9月
 英語政治科へ転科
 退学
 麻郷村(山口県熊毛郡田布施町)の
 家族が移り住んでいた
 吉見家で寄宿
 月琴(弦楽器)が趣味
 麻郷小学校で英語の教師・・・
 吉田松陰の門弟
 富永有隣を訪ね、
 波野英学塾を開設
 「酒中日記」、「帰去来」など作品を発表
 日記「欺かざるの記」
 1894年
 「青年文学」に参加
 民友社に入り
 徳富蘇峰
 「国民新聞」の記者
 日清戦争に海軍従軍記者として参加
 「国民新聞記者・国木田哲夫」
 日本キリスト教
 婦人矯風会の幹事
 佐々城豊寿の娘
 信子と知りあい恋に落ちる
 独歩は、信子との生活を夢見て
 単身で
 北海道に渡り、僻地の田園地帯に土地の購入計画
 「空知川」の短編・・・
 1895年11月
 信子と結婚
 逗子で生活が始まったが、
 貧困生活に耐えられず帰郷し両親と同居する
 1896年
 信子が失踪し協議離婚
 これは
 有島武郎
 「或る女」として小説化
 信子側からの視点で
 信子の親戚の
 相馬黒光が手記「国木田独歩と信子」を書く
 独歩が
 理想主義的である
 反面
 独善的な
 男尊女卑的な人物と記された
 1898年
 下宿の大家の娘
 榎本治(はる)と結婚
 治は、
 国木田治子の名前で小説を発表
 独歩社の解体までを描いた
 「破産」を『萬朝報』に寄稿
 「青鞜」の創刊に参加
 1899年
 新聞記者として
 「報知新聞」に入社
 1900年
 星亨の機関紙
 「民声新報」に編集長として入社
 1901年
 星が暗殺され、退社
 西園寺公望のもとに身を寄せる
 作家仲間たちと鎌倉で共同生活
 作品集「武蔵野」刊行
 1903年
 「運命論者」、「正直者」で自然主義の先駆
 矢野龍渓が敬業社から創刊を打診されていた、
 月刊の
 グラフ雑誌
 「東洋画報」編集長として
 3月号から刊行開始(龍溪は顧問)
 9月号から矢野龍溪が社長として
 近事画報社とし
 雑誌名も
 「近事画報」と変更
 1904年
 日露戦争開戦
 「戦時画報」と誌名を変更
 戦争終結後の
 「ポーツマス条約」での
 「日比谷焼き打ち事件」の
 13日後
 特別号「東京騒擾画報」を出版
 1905年5月
 日本海海戦
 独歩は戦後にそなえ、
 1906年
 「少年知識画報」
 「少女知識画報」
 グラビア誌「美観画報」
 ビジネス雑誌「実業画報」
 「婦人画報
 「西洋近世名画集」
 娯楽雑誌「遊楽画報」などを企画し、
 12誌の雑誌の編集長を兼任
 独歩社を創立し、「近事画報」など5誌の発行を続行。 
ーー↓↑
 6世紀の
 武蔵国造の乱
 の後、
  无邪志国造
 (胸刺
  牟邪志
  无謝志)
 の領域と
 知々夫国造の領域を合し
 7世紀に成立
 大化元年(645年)
 大化の改新が行われ
 穂積昨などが
 東国国司に任じられ、
 持統天皇四年(690年)
 新羅からの
 亡命者で帰化した
 韓奈末許満
 ら12名を武蔵国に移した。
 大宝三年(703年)
 引田祖父が
 武蔵国守に任じられた
 慶雲五年(708年)
 秩父郡
 和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見
 朝廷は慶事としてこの年を
 「和銅」と改元
 和銅三年(710年)頃
 武蔵国造の乱で献上された
 南部(多氷)(東京都府中市)に
 国府が置かれた。
 当初は水上交通が中心
 毛野国を経由する
 東山道に属し、
 東山道武蔵路が設けられた
 宝亀二年(771年)十月二十七日
 「東山道の派遣官吏が
  上野国武蔵国下野国と経由するのは
  日程が延びて非効率だが、
  これを
  東海道に属させて
  相模、武蔵、下総
 と経由すると効率的である」
 との
 太政官の奏上を
 天皇が宣下し
 東海道に移され、陸路が整備
 平安時代
 延長五年(927年)
 延喜式
 官営による
 四つの
 勅旨牧が置かれた。
 これらは朝廷に
 毎年50頭の良馬を納めていた
 後も
 勅旨牧は増設
 中央から
 軍事貴族が派遣され、
 在庁官人が実務を担った
 天慶二年(939年)
 源経基
 と
 武蔵武芝
 の争いは
 承平天慶の乱の遠因となった・・・
 中世
 牧の管理者の中から
 秩父氏が起こり、
 小野姓
 横山党
 横山氏など
 武蔵七党と言われる
 同族的な武士団も生まれ割拠
 鎌倉幕府成立に貢献し、幕府を支えた
 武蔵国府(東京都府中市
 鎌倉街道が敷設
 鎌倉に政権が置かれると、
 地元の有力勢力は排除
 南関東(神奈川県・千葉県中南部・東京都)は
 政権のお膝元(関東御分国)として再編
 周辺の国々では
 上総氏や
 三浦氏(和田氏)など
 有力在庁官人が滅亡
 武蔵国でも
 比企氏、
 畠山氏が滅ぼされた。
 秩父氏の力は衰え、
 北条氏得宗
 が実権を握った。
 室町時代
 鎌倉には
 鎌倉府が置かれた
 河越氏は
 「武蔵平一揆の乱」で力を失い、
 武蔵国の実権は
 関東管領
 上杉氏が握った
 武蔵国の中小武士団は
 「武州一揆
 や
 「北一揆」を結成

 後、関東では
 室町幕府と鎌倉府の対立、
 鎌倉府と関東管領の対立、
 扇谷上杉家山内上杉家の対立、
 両上杉家と家宰(太田道灌長尾景春)の対立
 上杉禅秀の乱
 永享の乱
 享徳の乱
 長尾景春の乱、
 長享の乱
 などの戦乱
 武蔵国
 六浦や
 品川湊などの
 湊を抱え、西国や内陸部に広がる
 「内海」交易を行っていた。

 戦国時代後期
 後北条氏が勢力
 1546年(天文十五年)
 河越城の戦い
 に勝利し覇権を確立
 後、拠点城として山城を、
 江戸城
 河越城
 岩付城
 鉢形城
 滝山城八王子城
 小机城
 などに軍事拠点として置かれた
 1590年(天正十八年)
 豊臣秀吉による
 小田原征伐
 後北条氏が滅亡
 以後
 徳川家康が関東に移り、
 山城では無く
 天守閣付きの居城を築城

 近世
 江戸幕府開府
 徳川政権
 「武蔵三藩」
 川越藩
 忍藩
 岩槻藩
 が置かれ江戸の防衛として重臣が配された
 1594年(文禄三年)
 利根川東遷事業開始
 1683年(貞享三年)
 一説によれば
 寛永年間(1622年〜1643年)
 下総国
 葛飾郡からその一部、
 (隅田川から利根川・江戸川下流
 の地域をあわせ、
 武蔵国葛飾郡とした
 1653年(承応二年)
 玉川上水が完成
 武蔵野台地の開拓
ーー
 1853年(嘉永六年)
 黒船来航
 武蔵国沿岸は脅威
 幕府や
 韮山代官所
 品川沖に
 お台場
 を建設し、
 多摩郡などで
 農兵隊を編成
 八王子千人同心が動員
 近藤勇などが
 新撰組の中核を担った
 1854年(嘉永七年)
 武蔵国神奈川
 横浜村で
 日米和親条約が締結
ーー
 東京奠都によって
 首都機能が
 山城国
 平安京(京都)から、
 武蔵国
 東京(旧江戸)に遷された
 廃藩置県
 行政区域
 武蔵国
 東京都
 埼玉県
 神奈川県(川崎市横浜市の大部分)
 に分割
ーーー
 ・・・ムサシが・・・トンダ・・・クニキダ・ドッポ・・・