1388日目・・・1914年(大正三年)1月12日午前10時5分・・・「桜島大正(三年)大噴火・記念碑文」・・・0時過ぎのTV番組で見た・・・「石碑、碑文の記録」・・・未来災害への警告文である・・・三陸地方にも大津波の「碑文」や、津波が襲った境界線に「やしろ」や「ほこら」が建てられていた・・・風評も風土も風化も人間のサガ・・・

   ↓
 50 癸 丑(癸・辛・己)
 02 乙 丑(癸・辛・己)
 35 戊 戌(辛・丁・戊)辰巳=空亡
 54 丁 巳(戊・庚・丙)
 ・・・ウイッキペデアから抜粋・・・
ーー↓
 碑文
 大正三年一月十二日櫻島ノ爆發ハ
 安永八年以来ノ大惨禍ニシテ全島猛火ニ包マレ
 火石落下シ降灰天地ヲ覆ヒ光景惨憺ヲ極メテ
 八部落ヲ全滅セシメ百四十人ノ死傷者ヲ出セリ
 其爆發数日前ヨリ地震頻發シ
 岳上ハ多少崩壊ヲ認メラレ
 海岸ニハ熱湯
 湧湯シ旧噴火口ヨリハ白煙ヲ揚ル等
 刻刻容易ナラサル現象ナリシヲ以テ村長ハ
 數回測候所ニ判定ヲ求メシモ
 櫻島ニハ噴火ナシト答フ故ニ
 村長ハ残留ノ住民ニ
 狼狽シテ避難スルニ及ハスト諭達セシカ
 間モナク大爆發シテ
 測候所ヲ信頼セシ知識階級ノ人
 却テ災禍ニ罹り
 村長一行ハ難ヲ避クル地ナク
 各身ヲ以テ海ニ投シ漂流中
 山下収入役
 大山書記ノ如キハ
 終ニ悲惨ナル殉職ノ最期ヲ遂ゲルニ至レリ
 本島ノ爆發ハ古来
 歴史ニ照シ
 後日
 復亦
 免レサルハ必然ノコトナルヘシ
 住民ハ理論ニ信頼セス
 異變ヲ認知スル時ハ
 未然ニ避難ノ用意
 尤モ肝要トシ
 平素勤倹産ヲ治メ
 何時
 變災ニ値モ
 路途ニ迷ハサル
 覚悟ナカルヘカラス
 茲ニ
 碑ヲ建テ以テ記念トス
    大正十三年一月
    東 櫻島村
ーー
 1914年
 1月5日
 フォード・モーターが従業員の
 8時間労働と
 日給5ドルの最低賃金導入を発表
 1月12日
 桜島が大噴火
 1月23日
 シーメンス事件
 2月10日
 内閣弾劾国民大会開催
 日比谷公園、国会議事堂を包囲
 3月1日
 朝鮮総督府による
 大規模な自治体の統廃合
 (都市部分は府、農村部分は郡に)
 3月19日
 辰野金吾設計による
 東京駅が新築落成
 3月20日
 東京大正博覧会開催
 〜7月31日、日本初のエスカレーター登場
 3月24日
 第1次山本内閣総辞職シーメンス事件による)
 芸術座公演「復活」(松井須磨子ら)
 4月1日
 宝塚少女歌劇(宝塚歌劇団
 第1回公演
 4月16日
 第2次大隈内閣成立
 4月?日
 阿部次郎「三太郎の日記」
 5月4日
 第32臨時議会召集
 6月12日
 平凡社設立
 6月20日
 第33臨時議会召集
 6月28日
 第一次世界大戦
 ボスニアサラエボ
 オーストリア皇位継承
 フランツ・フェルディナント大公が
 セルビア人青年によって
 暗殺される(サラエボ事件
 7月3日
 イギリスとチベットがシムラ条約調印
 7月8日
 孫文らが東京で
 中華革命党を結成
 7月23日
 サラエヴォ事件
 オーストリア=ハンガリー帝国
 セルビア最後通牒
 7月28日
 第一次大戦
 オーストリアセルビアに宣戦布告
 第一次大戦が始まる。
 7月30日
 第一次大戦
 ロシア帝国が総動員発令
 8月1日
 第一次大戦
 ドイツ帝国がロシアに宣戦布告
 8月3日
 第一次大戦
 ドイツがフランスに宣戦布告
 8月4日
 第一次大戦
 ドイツ軍が中立国ベルギーに侵入
 第一次大戦
 イギリスがドイツに宣戦布告
 8月12日
 英国が日本の対独参戦に同意
 8月15日
 パナマ運河開通式
 8月23日
 第一次大戦
 大日本帝国がドイツに宣戦布告
 米国は第一次大戦に中立を表明
 第一次大戦
 タンネンベルクの戦い
 東部戦線は膠着
 9月2日
 第一次大戦
 日本がドイツ租借地山東省に上陸
 9月3日
 第34臨時議会召集
 9月6日
 第一次大戦
 マルヌの戦い
 西部戦線は膠着
 9月22日
 ドイツ海軍がパペーテを砲撃
 9月18日
 英国で第3次アイルランド自治法成立
 (戦時期間中は施行は棚上げ)
 10月1日
 第一回二科展
 10月?日
 アンリ・ベルクソン「創造的進化」邦訳
 エドガー・ライス・バローズ『ターザン』
 11月3日
 第一次大戦
 タンガの戦い
 11月11日
 第一次大戦
 オスマン帝国が同盟国側で参戦
 11月15日
 英国が日本艦隊の
 ダーダネルス海峡への派遣を要請(日本は拒絶)
 新大久保駅開業
 「少年倶楽部」創刊(大日本雄辯會)
 12月5日
 第35議会召集
 12月18日
 英国がエジプトを正式に保護国
 12月20日
 東京駅開業
 (東海道本線始発駅は
  新橋駅から東京駅に変更、
  新橋駅は汐留貨物駅に改称)
 12月29日
 伊藤忠合名会社設立
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 桜島大正(三年)大噴火
 御岳(おんたけ・別称は桜島北岳)大噴火
 1914年1月12日午前10時5分〜4月
 死者58、傷者112、焼失家屋
 北岳(標高1,117m)桜島の最高峰
 中岳(標高1,060m)北岳から約900m南に位置
 有史以来噴火の記録はない
 南岳(標高1,040m)中岳から約500m南に位置
 火口の内側に二つの小火口を擁する
 火口内にはかつて
 白水と呼ばれる池があった
 南側山腹には
 安永大噴火の火口、
 東側山腹には昭和噴火の火口がある
 寄生火山(側火山)
 湯之平(ゆのひら、標高373m)
 北岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム
 春田山(はるたやま、標高408m)
 湯之平の東側に隣接する溶岩ドーム
 権現山(ごんげんやま、標高350m)
 南岳の東側斜面に位置する溶岩ドーム
 鍋山(なべやま、標高359m)
 南岳の東側斜面に位置する火口跡
 南側に大正大噴火の火口(東火口)がある
 引ノ平(ひきのだいら、標高565m)
 中岳の西側斜面に位置する溶岩ドーム
 北東部に大正大噴火の火口(西火口)がある
 30回以上の噴火が記録
 文明、安永、大正の3回が大噴火であった
 931年頃(承平年間)に書かれた
 『和名類聚抄』において、
 大隅国囎唹郡
 「志摩(島)」という地名が
 「桜島」を指した最古の文献である・・・
 1468年(応仁二年)に噴火したが被害の記録はない
 1471年(文明三年)9月12日に大噴火
 1473年、噴火
 1475年(文明七年)8月15日に桜島南西部で噴火
 1476年(文明八年)9月12日に桜島南西部で再噴火
 沖小島と烏島が形成
 1779年
 11月7日
 (安永八年九月二十九日)の夕方から地震
 11月8日(十月一日)
 井戸水が沸き立ったり
 海面が変色
 正午頃には南岳山頂付近で白煙目撃
 昼過ぎに桜島南部から大噴火
 夕方には南側火口付近から火砕流
 夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出
 江戸や長崎でも降灰
 11月9日(十月二日)
 北岳の北東部山腹および
 南岳の南側山腹から溶岩流出
 11月10日(十月三日)
 には海岸に達した(安永溶岩)
 1780年8月6日(安永九年七月六日)
 桜島北東海上で海底噴火が発生
 1781年4月11日(安永十年三月十八日)
 同じ場所で海底噴火、津波
 一連の海底火山活動によって桜島北東海上
 燃島、硫黄島、猪ノ子島など
 六つの火山島が形成され
 安永諸島と名付けられた
 いくつかは間もなく水没
 最も大きい
 燃島(新島)には1800年(寛政十二年)
 人が住むようになった
ーー
 桜島は古代において「鹿児島」と呼ばれていたとの説
 1334年(建武元年)頃の記録では「向嶋」
 1476年(文明八年)以降に「桜島
 しばらくの間、「向嶋」と「桜島」の名称が併存
 1698年(元禄十一年)
 薩摩藩の通達によって「桜島」の名称に統一
 「向嶋」の名称は、
 東西南北どの方向から眺めても
 こちらを向いているように見えることに由来
 御岳は「筑紫富士」とも呼ばれている
 「桜島」の名称の由来
 1)島内に木花咲耶姫命を祭る神社が在ったので
   島を「咲耶島」と呼んでいたが、
   転訛して桜島となった
   『麑藩名勝考』、『三国名勝図会』
 2)十世紀中頃に大隅守を勤めた
   桜島忠信の名に由来
   『麑藩名勝考』
 3)海面に一葉の桜の花が浮かんで
   桜島ができたという伝説由来
   『麑藩名勝考』
ーー↓
 ‎島原大変肥後迷惑
 ‎姶良カルデラ
 桜島爆発記念
 碑拓本作成会(鹿児島市)を開催
 日本における20世紀以降最大の火山災害
ーーーーー

 呉承恩(ゴショウオン)・・・語承音・誤承音・・・後承怨・後承恩?・・・互承オン・・・呉承音・・・
ーーーーー
 呉承恩(ゴショウオン)・・・
ーー
 「呉」=「口+L+l+一+ハ」・・・L=乙
     「口+|+¬+一+ハ」
     「口+└┐+一+八」
 呉の旧字体
 吳=口+L+犬(一+人+丶・ゝ・ヽ)
   「吳は大言なり」・・・?・・・大納言
    大言壮語・・・・荒唐無稽・大法螺
 呉(吳)の字形
 夨(L大・ショク)+口の会意
 夨(L大・ショク)は頭を傾けた人の象形
ー↓ー
 呉(くれ・くれる・たのしむ・ゴ)
ー↓ー
 承(うけたまわる・うける・つぐ
   うけたまわる・ささげる・なりたつ・ショウ)
ー↓ー
 恩(ありがたみ・いつくしむ・いつくしみ
   たいせつ・めぐ,めぐみ,めぐむ・おき・オン)
ー↓ー
 起「承」転結の「承」
ーーー↓ー
 承=了+フ+≡+ト(Y)
   フ+子+二+ト(Y)
   マ+水+=
   ア+水+=
 絶句の句の一
 熟語
 承意・承允・承引・承運・承恩・承歓
 承顔・承休・承教・承業・承句・承継
 承差・承旨・承志・承嗣・承事・承守
 承受・承順・承正・承制・承接・承前
 承寵・承統・承継・承前
 継承
 口承・相承・伝承
 承諾
 相手の意向を受け入れる
 承諾・承知・承認・承服
 拝承・了承
 相手の意向を受け入れない
 不承不承(フショウブショウ)
ー↓ー
 恩=口+大+心
   囗(国)+一+人+心
   ↓
   ロ(ろ)
     口(くち・コウ・ク)
       囗(くに・エ・イ)
ーー
 1896年6月15日21時〜22時
 申(猿・沙流
 午(馬・宇摩・龍)
 亥(猪・豚)
 亥(猪・豚)

 23時以降ならば「子(鼠・禰事・根津)」・・・?
 「孫悟空」の登場怪物の「沙悟淨・河童」の時間帯である・・・
 「沙悟浄(さ ごじょう)=沙悟淨・沙悟净」は、
 小説『西遊記』に主要登場する神仙・・・
ーー
 沙悟浄
 ↓
 天界の役人
 捲簾大将(けんれんたいしょう)
 天帝の御側役の一人
 霊霄殿(れいしょうでん)で
 謁見を求める者が罷り出た時に、
 天帝の前の
 御簾の側にいて、天帝と謁見を受ける者の間に入り、
 天帝を守護する役目の
 近衛の大将
 「霊山の大将」
 雑劇でも
 水官大帝が
 四海竜王達へ差し向けた
 上使の役回り
ーー
 沙悟浄
 蟠桃会で
 天帝の玻璃の器を割ってしまった罪で
 鞭打ち800回の刑の後、天界を追われた
 下界では
 七日に一度は
 鋭い剣を飛ばされ
 脇腹を貫く罰を受け続け、
  ↓
 プロメテウスのハナシに類字・・・
 人間に火を与えたプロメテウスは
 ゼウスの怒りをかい、
 コーカサスの岩山に鎖でつながれ、
 禿鷹に腹を引き裂かれ、蘇生しては
 繰り返し、叉
 肝臓をついばまれ続ける刑に処された
  ↓
 沙悟浄
 飢えと寒さから
 三千里もあるという
 弱水の
 流沙河で人を喰らう
 妖仙となった
ーー
 沙悟浄
 天竺に経典を取りに行く
 取経者を探していた
 観音菩薩と出会い
 突然、
 観音菩薩に襲いかかるが、
 観音菩薩のお供の
 恵岸行者と戦う。
 沙悟浄
 相手の名を聞くと
 菩薩の一行であったので
 ひれ伏して慈悲を乞い、これまでに
 9名の取経者を殺したこと告白
 菩薩は沙悟浄
 次に来る取経者の弟子となるように諭し、
 「沙悟浄」という
 「法名」と「戒律」を与え、
 殺した取経者の
 髑髏を持っておくように命じた
 悟浄という名は
 「実名敬避俗」に準じ
 師や兄など
 目上の者からの呼びかけのみに使用
 普通は通称の
 「沙和尚(しゃおしょう)」と
 僧侶名で呼ばれ、これは
 孫悟空は「孫行者」、
 猪悟能は「猪八戒」と呼ばれるのと同じ。
ーー
 別のハナシでは
 沙悟浄
 玄奘三蔵の一行が
 流沙河を通りかかり、
 相手を確かめることなく、襲いかかり、
 三蔵を掠おうとした試みは、
 水戦が得意な
 猪八戒に阻止されたが、
 三度戦ってもなかなか打ち破れないので、
 孫悟空
 觔斗雲(きんとうん)で
 観音菩薩に助けを求め
 観音菩薩
 恵岸を派遣して、
 悟浄を降参させ、
 瓢箪を渡して、
 9つの髑髏とあわせて
 法船(筏)とし、
 三蔵一行を流沙河の向こう岸へと渡した
 法船(筏)が渡りきった後に、
 沙悟浄と恵岸は
 瓢箪と・・・・・・・
   ヒョウタン=氷炭=相違の甚だしいモノを
            例えて云う
 髑髏を取りに戻り、
 ヒョウタンは
 恵岸が持ち帰るが、
 9つの髑髏は九筋の
 陰風(いんぷう)となって
 音もなく消え去った。
ーー
 以後、三蔵に弟子入りし、剃髪して僧形となる
 孫悟空猪八戒らと共に
 天竺まで経典を求めて旅をすることになった
 原作では、弟子の中では唯一、僧形をしている
 人間とは異なる濃色の容姿から
 「竈君(竈の神様)」としばしば間違われる。
ーー
 名前の遍歴
 捲簾大将(天帝の任命)
 河伯(流沙河の水怪)・・・・・河童の音に近い
 沙悟浄観音菩薩命名)・・・サゴジョウ
 金身羅漢(釈迦如来命名
 沙和尚(三蔵法師が付けた呼び名)
 沙僧(沙和尚の別称)
ーー
 沙悟浄
 容姿と特徴
 紅い炎のような色の毛
 ふわふわの髪
 (三蔵に弟子入りするときに髪を剃った)
 光る円い目玉
 黒いとも青いとも言えないような、
 藍色の顔・・・インド人の貴族上流階級の肌色
        灰色がかった薄いニビ色
 雷や太鼓の音のような声
 衣服は美しい黄錦の
 直綴=直裰(じきとつ)、
 腰は
 白藤を束ねたもので隠す
 9個の
 髑髏のネックレスを首にさげ、手に宝杖
ーー
 沙悟浄
 二次作品とは違い
 原作では
 孫悟空とは直接対決のハナシは無く、
 猪八戒
 三回も互角の戦い
 雲に乗って飛ぶことが出来る
 本編では、
 妖仙(沙悟浄)が現れると
 悟空から
 三蔵の警護を命じられる役回りで、
 大きな活躍はない
 生真面目で実直な性質描写
 元代の
 朝鮮の資料
 「朴通事諺解(ぼくつうじげんかい)」
 悟空と八戒のみが紹介
 沙悟浄が登場する
 流沙河の段が現存していないため
 西遊記物語の
 沙悟浄の登場は悟空や八戒よりも早い
 「大唐三蔵取経詩話」
 北宋末から南宋に成立したとされる
 通俗小説話本に登場する沙悟浄
 玄奘三蔵
 流沙河という砂漠で
 幻想を見、
 励ました
 「深沙神」が沙悟浄とされる
ーー
 揚子江−河海豚(カワイルカ)がモデルという説・・・
 蘇州刊本
 『李卓吾先生批評西遊記』の
 翻訳を引き継いだ
 中野美代子は、
 自著内で
 ヨウスコウーカワーイルカ(海豚)説を
 ヨウスコウーアリゲーター(鰐)説にした
ーー
 日本の沙悟浄
 河童
 水の妖怪
 流沙河の水中から現れたとする
 間違った解釈に由来
ーー
 半月刃の杖
 「降妖宝杖=降魔の宝杖」
 材質は月に生えている
 桂で、
 芯には金の筋が1本通され、
 たくさんの宝珠が付いている
 ドラマでは
 月牙または釵を使用
 本来の鈅は農具の
 踏み鋤の一種で
 西洋農具のスコップと相同
 髏の首飾り
 一説には
 玄奘三蔵
 前世の9人の首
 三蔵一行が流沙河を渡る際に
 首から外され、
 恵岸行者の持参した瓢箪と
 組み合わせて
 筏にされた。
ーー
 1.妖怪でありながら妖怪を憎み、
  常に
  「自分とは何か」を自問している存在
 2.一攫千金を目論むマイペースな存在
 3.冷静沈着なクールな存在
ーー
 中島敦
 沙悟浄を主役とした
 小説「悟浄出世」、「悟浄歎異」では、
 虚無的な性格
ーー
 呉承恩(ご・しょうおん)
 1506年(正徳元年)頃
  〜
 1582年(万暦十年)頃
 明代の中国の官吏、文人
 字は汝忠
 号は射陽山人
 江蘇省
 淮安府
 山陽県の人
 魯迅
 『中国小説史略』で
 『西遊記』の著者とした
ーー
 呉承恩
 父は浙江省仁和県の教諭
 後に妻の実家を継いで
 絹物商を継ぐ
 承恩は
 「側近の子」として生まれた・・・?
 幼少から
 文才ありとして近隣に知られ、
 文章の代作をして収入を得ていた
 1544年(嘉靖二十三年)
 歳貢生に選ばれ、
 何度か郷試を受けるが失敗
 1553年
 長興県の県丞の職についた
 誣告され、1年あまりで
 「袖を払って、帰った」
 晩年まで売文業をなし、
 80才まで生きた
ーー
 清代に
 朱彝尊の編んだ
 『明詩綜』に七篇
 後七子の
 徐中行とも親しく、徐が進士となった時には北京に訪問
 『天啓淮安府志』(天啓年間1621-27年)には、
 「性は敏にして智慧は多し、
  博く多くの書物を極めた。
  詩文をなし、
  筆を下ろしては清雅流麗を立成し、
  秦少游の風があった。
  また諧謔を善くし、
  ところに
  雑記を幾種も著しては、
  一時、その名を震わした」
 著作に
 『射陽集』
 『春秋列伝序』
 『西遊記』が挙げられているが
 呉承恩
 没後の記録である?
       ・・・だから何?
       呉承恩
       記録では無い、と言うコトか・・・
 生家が貧しく、子女もない
 怪奇小説
 『禹鼎記』も名前のみ伝わり、
 内容は失われている
 後世に編まれた
 『射陽先生存稿』全四巻があるだけ
 1958年
 劉修業が
 『呉承恩詩文集』を編集・刊行
ーー
 西遊記と後世評
 『西遊記』に関しては、
 「最後の改訂をした作者」とみなされ、
 明刊本「世徳堂本(新刻出像官板大字西遊記)」の
 陳元之による
 序(1592年)では作者は不明とされている
 乾隆帝の時代に
 淮安出身の学者が
 承恩の顕彰を始め、
 呉玉搢『山陽志遺』、
 丁晏『石亭記事続編』、
 阮葵生『茶余客話』で事蹟が記され、
 これらでは『西遊記』を
 承恩の作とされており、
 魯迅
 胡適はこれらを元に
 承恩を西遊記作者とした・・・
ーー
 日本において
 1963年に刊行された、
 太田辰夫と
 鳥居久靖の訳による
 平凡社版で
 「呉承恩作」と明記
 岩波文庫
 小野忍訳(3巻目まで)も、
 留保付きで「呉承恩作」と踏襲したが
 太田辰夫は、後に
 『西遊記の研究』などの論考で、
 呉承恩
 『西遊記』という
 著作があったことが
 事実だとしても、
 それは
 三蔵法師孫悟空の物語ではないことを立証
 中野美代子訳(四巻以降、岩波文庫)では、
 呉承恩は明記されず、
 改訳版(全十巻)でも
 呉承恩作者説は採られていない・・・
ーーーーー
 ・・・