1367日目・・・昨日(2/7)は母の教会での知り合いの女医の「T」先生と、幼稚園の「N」先生、そして従姉が来てくださった。「T」先生からはお肉の煮物、「N」先生からはお花、従姉からはカレーとカボチャと御菓子を頂戴した・・・母が亡くなってから一ヶ月・・・感謝です・・・一昨日はドカ雪、昨日は降ったりやんだり、今日はお天気、だが寒波で冷え込みが激しい。モモとブブはストーブの前の椅子の上でオネムリ・・・2006年〜2007年の「日記の製本」が届いたので目を通した・・・「時代」は第一次「アベちゃん」の時代・・・
現在的な極東の大陸中国、北朝鮮、韓国、そして日本は「壬申の乱(672年7月27日〜8月24日)」前夜の「唐(中国)」、「新羅・高麗(北朝鮮)」、「百済(韓国)」、そして「倭国(日本)」の関係に酷似しているようなカンジがする。だが、「壬申の乱」にはアメリカとロシアの存在は無い。
登場してくるは幕末の
以下、ウイッキペデア、その他のブログ記事ナドを参照添付。少々改作・・・
ーーー↓
「ペリー艦隊の嘉永六年(1853・7/8)六月三日、黒船軍艦(旗艦ミシシッピ号)四隻で浦賀沖に出現」
・・・「ペルリ(漢字では彼理)」と表記・・・
「1854年2月13日(嘉永七年一月十六日)に旗艦サスケハナ号など七隻の軍艦で横浜沖に停泊」
・・・「サスケハナ」
・・・「Susquehanna=サスクェハンナ」は
「アメリカ原住民」の言葉で「広く深い川」・・・
「3月31日(三月三日)に神奈川で日米和親条約を調印」
後、那覇に寄港、
「7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結」
そして
「ゴローニン事件の文化八年(1811年)、ロシアの軍艦(ディアナ号)艦長のゴローニンが日本に抑留」
・・・「ディアナ(ダイアナ)=Diana」は
ローマの「狩の女神・月の女神」
・・・ギリシアの
「アルテミス
(ΑΡΤΕΜΙΣ
Ἄρτεμις・Artemis)」と
同神で・・・アポロとは双生児の兄妹・・・
「プチャーチンの乗艦ディアナ号の安政元年(1854年)11月の安政大地震の津波で下田沖で大破、戸田沖で沈没、その後、戸田港で帰国の代船を建造」・・・
ーーー
である・・・
アメリカとロシアの存在は無いが西洋では672年・・・キルペリク2世(Chilperic II・672年〜721年2月13日)は、「メロヴィング朝」の12代目の国王(在位・715年〜720年)が生まれた年である。彼は「キルデリク2世」の息子で、幼名は「ダニエル」である。
メロヴィング朝(仏: Mérovingiens・英:Merovingian dynasty・ 独:Merowinger)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族の「サリ族」が築いた「フランク王国」における最初の王朝である。
「メロヴィング」の名は、
始祖
「クロヴィス」の
祖父
「メロヴィクス」にちなむ・・・
四子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返し衰退
ーー
フランドルを支配していた
小国の王
クロヴィス1世
(465年〜511年、在位481年〜511年)が
領土を拡大し全フランクを統一
481年、メロヴィング朝を建てる
496年、クローヴィスはカトリック教徒であった
妻との約束により、
ゲルマン人に定着していた
アリウス派キリスト教(異端宗派)より
家臣4,000名とともに
正統派の
アタナシウス派キリスト教(カトリック)に
改宗した
(クロヴィスの改宗)
ーー↓↑
グロビウス
↓
「高橋景保(かげやす・1785〜1825)」は
字は子昌
通称は作左衛門
号は観巣・玉岡・求己堂主人
オランダ名(キリスト教洗礼名?)は
グロビウス
グロビウス=Globius
ーー↓↑
蘆田文庫特別展・・・・・アシ拿?
・・・蘆=芦=葦=あし=足・脚・肢・悪
明治大学図書館所蔵
古地図コレクション
「蘆田文庫」は高名な地理学者
蘆田伊人(あしだこれと)の
古地誌、古地図などの旧蔵資料で構成する
図書館のコレクションです。
http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2004/index.html
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=4,62,0,a
ーー↓
新訂萬國全圖 / 高橋景保
文化七年春三月(凡例)
-- 銅版 -- 1舗 --
104.8×184.7cm(49.4×28.5cm)
日本文化七年春三月
測量所
臣
高橋景保 謹識
ーー↓全文抜粋添付
幕命によって天文方高橋景保が製作した
銅版図による東西半球世界図。
アロースミスの世界図が基本になっている。
アロースミスの世界図は
クックの世界探検航海の成果によって、
架空の
南極大陸
「メガラニカ」を消滅させるなど当時最新のもので、
文化元年(1804)
ロシア使節
レザノフが長崎へ将来した。
本図はアロースミスによりながらも、
多くの
西洋の地理地誌関係書を参考にして完成した。
間宮林蔵の調査成果を取り入れ、
樺太は島として描く。
これまでの東西半球図では
右端に位置していた日本が
図面の
中央にくるように、
左右を入れ替えていることも注目に値する。
周囲の副図には、
南北両極を中心にした図、
京都を中心に描いた図(経度の起点を京都にとる)、
この図と
地球の裏側にあたる図を付している。
地形の細密な表現、
海岸沿いの地域にはびっしりと
書き込まれた
地名など、細密な表現が求められ、
亜欧堂田善による
銅版印刷によって刊行された。
最新の知識を取り入れた、
当時としては世界的にも最も優れた
世界図であった。
この世界図が成立した後も、
旧来の
リッチ系世界図が刊行されて流布していた。
ーー↓
高橋景保=グロビウス
↑
外国の書物を翻訳の
蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)
書物奉行
来日したロシアの使節が、
満州語で書かれた文書を、長崎奉行に提出
これを翻訳
『満文強解』
「和・漢・満・蘭語辞典」の
『亜欧語鼎(あおうごてい)』を著作
文政十一年(1828年)
十月
十日
逮捕
↓
元
肥前平戸藩主
松浦静山(せいざん)の著書
『甲子夜話続編』に
↓
「十月十日ノ夜、天文台ノ下、
高橋氏ノ屋鋪ヲ
猿屋町ノ方ト
御蔵前ノ方ヨリ
大勢取囲ミタリ。
夜陰ノ事ユエ灯籠夥(おびただ)シク、
其中ニハ御紋ノ高張モ見エシガ、
ヤガテ
高橋ガ
屋鋪ヨリ青網ヲカケタル
駕(かご)ヲ
舁(かつぎ)出タリ」
↓↑
シーボルト事件
シーボルトが私有の
ロシアのクルーゼンシュテルノン提督の
『世界周航記』という本と
オランダ領
東インドの
地図九枚と
伊能忠敬の測量に基づいて作られた
「大日本沿海輿地全図」を
シーボルトと交換
ーー↓
高橋景保の
父親は
「高橋至時(よしとき)」
明和元年十一月三十日(1764年12月22日)
〜
享和四年一月五日(1804年2月15日)
天文学者
字は子春
号は東岡・梅軒
通称は作左衛門
妻は
永田元左衛門清賢の娘
志勉(しめ)
子供に
高橋景保の弟の
渋川景佑
他に三人
ーー↓
至時らが
歴学を学ぶ際に参考にしていたのは、
授時暦や貞享暦などの日本・中国の暦法、
『暦算全書』、『天経或問』
重要視されたのが、
『暦象考成上下編』
『暦象考成上下編』は、
何国宗
梅殻成らによって編纂された、
西洋天文学をまとめた書
天体の運動については
ティコ・ブラーエによる円軌道を基軸
間重富が
『暦象考成後編』を入手
『暦象考成』とは著者も内容も異なる別の書
『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、
円軌道ではなく、
ヨハネス・ケプラーの唱えた
楕円軌道で説明
寛政七年(1795年)
幕府から、改暦のため
四月に江戸へ赴任
四月二十八日に測量御用手伝
十月妻の
志勉(しめの)が二十九歳で死去
十一月十四日に幕府天文方
十月妻の志勉が二十九歳で死去
寛政八年(1796年)
正式に改暦の命
十月からは京都にて観測及び改暦作業に当たった
当時の改暦は京都の
土御門家が形式的な責任者となっていた
改暦に当たっての資料としては
『暦象考成後編』を活用したが、
同書には太陽系の
5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の
運動記述がなかったため、それらについては
『暦象考成上下編』を参考にした
麻田剛立によって理論づけられた
消長法
(太陽などの運動が年月を経るごとに少しずつ変化してゆく説)
も採用した
寛政九年(1797年)十月
「暦法新書」八巻が提出
新暦は
寛政暦と名付けられ、
寛政十年(1798年)より施行
ーー
至時の元に
伊能忠敬が弟子入り
至時は
十九歳年上の忠敬に
暦学や天文学を教えた
至時は忠敬を
「推歩先生」と呼んだ
享和三年(1803年)
至時は
若年寄の
堀田正敦から、
ジェローム・ラランドが著した
天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられた
文化元年(1804年)に死去
享年四十一
上野の
源空寺に葬られた
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、
日本全国の測量事業を完了
文政元年(1818年)死亡
至時の長男である
景保は至時の死後、後継として
天文方に任命
『ラランデ暦書』の翻訳事業や忠敬の測量事業にも関わった
シーボルト事件により
文政十二年(1829年)獄死
次男の
景佑は天文方として『新巧暦書』の編集にかかわり、
天保暦の作成で中心的な役割を果たした
ーー↓↑
クロヴィス1世の
全フランクを統一の
メロヴィング王朝
↓
崩壊した西ローマ帝国貴族の支持を得
領内のローマ系住民との関係も改善
506年に西ゴートを
ヴイエの戦いで破り、
その王を戦死させ、
イベリア半島へ駆逐
クローヴィスの死後、
王国は四子に分割され国力は衰え
七世紀に入ると王国はさらに分裂し、
次第に分割された
分国(地域)の宮宰に権力が移った
この状況下で
アウストラシアの
カロリング家をはじめ
ネウストリア、
ブルグンド三分国(地域)の宮宰の権力が増大
七世紀後半
王国の行政および財政を取り仕切る
宮宰(きゅうさい, major domus)に実権が移行
714年
宮宰のカロリング家の
カール・マルテルは
教会から没収した土地を
家臣たちへ与えて
軍を再編
732年には
イベリア半島から領内に進攻してきた
イスラム帝国の
ウマイヤ朝軍を
トゥール・ポワティエ間の戦で破り、
西欧キリスト教世界に対する
イスラム勢力の進出を食い止めた
751年
マルテルの子、
ピピン3世(小ピピン)が
ローマ教皇の支持を得て
カロリング朝を開いた
ーー
・・・「国家主権」の形成と、「国家権力者」の主張での軍事的緊張が高まれば、どのような時代でも同じような傾向をたどるのは当然かも・・・