1349日目・・・昌三、笑三、曲田(1894)、咲三・・・「このはなさくやひめ」←「木花之佐久夜比売」→木花咲耶姫→「現存・古事記」は「木花之佐久夜毘売=神阿多都比売(カムアタツヒメ)」、「現存・日本書紀」の「木花開耶姫=鹿葦津姫=葦津姫(カヤツヒメ)」は・・・

 天照大神の「孫のニニギノミコト瓊瓊杵尊邇邇芸命)」の妻。「大山積神大山津見神大山祇神」の娘である。
 ・・・「このハナシ、作句、究、夜の秘め」である・・・姉に「イワナガヒメ=石長比売=磐長姫)がいる。
 「ニニギ=瓊瓊杵尊邇邇芸命)の妻として、
 「ホデリ=海幸彦」と
 「ホスセリ=ホオリ=山幸彦」を生んだオンナ(女性)であった・・・
 ・・・稿チャウ、藁チャウ、和良ちゃう、「話が等しく知って椰、有」・・・笑ちゃう・・・哂ちゃう・・・
 咲(わら)ちゃうカナ「木花之佐久夜毘売」、「咲(捨松)」の夫になった「大山(大山巖)の罪」だろう。ではブスだったらしい長生きを保障する「石長比売=磐長姫」ってダレ?・・・姉の「常磐」さんなの・・・
 「山川 浩」は「エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけた(ウイキペデア)」らしい?・・・が、「山川浩」の名前が一行にあるのか?
 ・・・第一次の竹内保徳、徳川遣欧使節団・・・「文久元年十二月二十二日、(1861年1月21日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲートオーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発した。長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った(4月3日・2月20日(一行がカイロに到着した翌日)に「文久→元治元年」と改元・西暦1884年4月4日)」のエジプトでのコトなのか?
 ・・・第二次の池田長発、徳川遣欧使節団・・・文久三年十二月二十九日(1864年2月6日)にフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮って、後地中海を通って、マルセイユに入港。
 パリに着いた一行は皇帝ナポレオン三世に謁見。
 横浜
 「鎖港(サコウ)交渉」を途中で打ち切り、
 五月十七日(6月20日)、フランス政府とパリ約定を結んで、
 同年七月二十二日(8月23日)に帰国した・・・その時のエジプト寄港でのコトなのか?
 ・・・活版印刷を創めた日本のオッサンの名前と号・・・「本木 昌造」のオッちゃん・・・
 「モックン」の「おくりびと」はよかったけれど・・・縁戚?・・・「本木 雅弘(もとき まさひろ)・1965年12月21日〜・本名・内田 雅弘(うちだ まさひろ)・旧姓・本木)・・・?・・・同姓でも関係ないか・・・
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 以下はスベテ「ウイッキペデア」からの抜粋で、少々改作したモノです・・・・
ーーー原文↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E6%98%8C%E9%80%A0
ーーー↓
 本木 昌造
 (もとぎ しょうぞう・もとき しょうぞう)
 文政七年六月九日
 (1824年7月5日〜1875年9月3日)
 江戸幕府の通詞、教育者
 諱は永久
 幼名は作之助、元吉
 異表記
 昌三、
 笑三(或は号とも・曲田(1894))、
 咲三
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 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋の興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して築地活版へと繋がった。私塾の関係者に築地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者である陽其二がいる。
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 文政七年(1824年)
 長崎に生まれる。生家は本木家の親戚である
 北島家、もしくは
 馬田家とされる。
 十一歳(天保五年・1834年)
 本木昌左衛門のもとへ養子に出される。
 本木家は
 平戸の
 ポルトガル通詞に始まる
 オランダ通詞の家系で、
 本木の二代前の正栄は、
 英和辞典や
 仏和辞典を作っている。
 本木家へ行った後は
 オランダ語を学び、
 オランダ舶来の書物によく接して
 西洋の技術に強い関心を寄せた。
 父の職を襲ったのち、
 嘉永六年(1853年)
 ロシアの使節
 エフィム・プチャーチンが長崎へ来航し、翌年の
 安政元年(1854年)に下田に向かった件で、
 下田での条約交渉の通詞を担当した。
 十一月に彼らの乗艦が嵐により破損すると、ロシア側との交渉を取り持ち、無事に建造せしめるなど、通訳以外の仕事へも強い関心を保っていた。
 同元年投獄
 嫌疑は
 蘭通弁書の印行の咎、
 英和辞書を印行しようとした咎、
 他人の罪の身代わりなど定まらない。
 出獄して謹慎となった本木は、
 パンチ父型の製造などに取り組むが、技術の未熟や材料の不足もあって成功しなかった。
 万延元年(1860年)十一月
 飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、
 イギリスより
 蒸気船を買い入れ、自ら船長となり
 文久元年(1861年)や
 元治元年(1864年)などに江戸などへ航海をした。
 後年の弟子の
 平野富二は、機関士として同船することもあった。
 寸暇を見ては
 活版印刷を考え、また、
 長崎版の印行に関係した(関与のほどは不明)。
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 本木は
 長崎町版と呼ばれる、
 安政六年(1859年)の
 『和英商賈対話集』、
 万延元年(1860年)の
 『蕃語小引』を、名義を藉りて印行
 前者は
 欧文が鋳造活字、さらに和文を整版で併せたもので、
 後者は
 和文欧文ともに鋳造されたものであった。
 それ以前、
 嘉永四年(1851年)に
 流し込み活字を作り、
 「蘭和通辯の事を記せし一書」を印刷したと伝えられるが、
 これは、
 『蘭和通辯(弁)』を印刷したものともされ、
 あるいは
 訛伝で
 長崎町版の一書を指すとも云われる。
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 1869年
 長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立し、
 グイド・フルベッキの斡旋で
 美華書館の
 ウィリアム・ギャンブル(ガンブル・Gamble, William) から
 活版印刷のために
 活字鋳造及び
 組版の講習を受けた。このとき、
 美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。
 川田久長
 『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、
 小宮山博史
 「明朝体、日本への伝播と改刻(『本と活字の歴史事典』、2000年)」では
 十一月より翌三月までとする。
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 1870年、同所を辞し、
 吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは
 長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に
 新街活版製造所を設立した。
 ギャンブルの活字には
 「ひらがな」はなく新たに開発する必要があった。
 その版下は
 池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。
 同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、
 1872年、小幡と平野を東京に派遣し
 長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。
 本木は新塾の経営が苦しくなると、
 製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。
 また、
 陽を神奈川に送り、
 横浜毎日新聞を創刊させたり、
 池田らとともに
 長崎新聞を創刊したりした。

 1872年、学制が施行されるが、それに従わず、県からの圧力で1874年ごろに新街新塾を閉鎖させられる。
 1875年から病床につく回数が増え、夏に京都へ旅に出た後病状は悪化し、
 9月3日、死去。
 彼には一子
 小太郎があったが、彼の没後平野の後見するところとなった。
 本木のほかにも、
 大鳥圭介や島霞谷、
 日本初の
 電胎母型による活字を製造した
 三代目木村嘉平など、さまざまな人が自身での
 日本語の活字開発に取り組み、ある者は一定の成果を得、ある者は中途に挫折するが、結局は、
 本木らにより
 ウィリアム・ギャンブルから伝来された
 西洋式活版術が市場を覇していくことになる。
ーー
 「もとぎ」か「もとき」か
 本木の
 発音については、
 「もとぎ」または「もとき」の二説はあるが、
 日英和新条約(安政元年)の条文に、
 オランダ語翻訳に携わった
 本木昌造
 「Motoki Shiozo」という自筆サインを書き込んでいることから、
 発音は
 「もとき」であった可能性が高い。
ーー
 号数活字の大きさは
 鯨尺によるものか
 号数活字の大小の関係は、
 初−二−五−八、
   一−四−七、
   三−六
 の三系統に分かれるが、これらの系統には相互の倍数関係がなく、理由もはっきりしていなかった。そこで、その制定を巡ってさまざまな解釈がなされてきた。たとえば、
 築地活版による
 スモールパイカをもとに基準にしたという説、
 三谷幸吉による
 鯨尺基準説、
 小宮山博史らによる
 輸入説である。
ーー
 築地活版は、この号数活字の大きさの由来を明らかにしてこなかったが、明治末期に
 ポイント活字を普及させようとするころにいたって、
 「欧米ではパイカ (pica = 12ポイント) サイズが主流だが、日本字には大きすぎるため、一回り小さい
 スモール・パイカ (small pica=11ポイント) サイズを
 五号として、それを基準に、本木は整然とした倍数関係を作りあげたが、複製したり、各社で混乱したりしていくうちに崩れた」との旨発表し、その説明がひろく受け入れられていた。しかし、三谷幸吉が『本木昌造平野富二詳伝』(本木昌造平野富二詳伝頒布刊行会、1933年)にて
 「本木の自筆記事によれば、
  鯨尺の一分を基準に、
  2厘5毛乃至5厘の間隔で大きさを定めたのである」
 との旨著し、「外国の基準に由ったのではない」とすると、日本独自の測り方によっているということやその検証から、疑問を持つものはあっても多くの印刷史の研究書や規格に援用された(JIS Z 8305など)。しかし、
 小宮山博史
 「導入期明朝体活字稿・『タイポグラフィックス・ティ』138号、日本タイポグラフィ協会、1991)などの論考で、
 美華書館の活字との比較検討から美華書館の活字をそのままいれ、その後整備されて今の形になったと結論付け、三谷の説に賛同するものは減っていった。ただし、
 小宮山の号数活字は
 フルニエ・ポイントに従うものだ、という説には、
 美華書館がポイント・システムを導入していた証拠はないとする異論も見られる。
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 本木家系図
 1.本木 庄太夫(栄久)
 2.本木 仁太夫(良固)
 3.本木 仁太夫(良永、養子)
 4.本木 庄左衛門(正栄)
 5.本木 昌左衛門(久美)
 6.本木 昌造(永久、養子)
 7.本木 小太郎
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