1347日目・・・オフクロとは一歳年下の大正11年生まれ・・・ウイッキペデアによれば、「小野田 寛郎(おのだ ひろお)、1922年(大正十一年)3月19日〜2014年(平成二十六年)1月16日16時29分)・・・日本陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒・・・情報将校として太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にフィリピン・ルバング島から帰還」・・・「干支」は異なるけれど、「変通」が類似する・・

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 小野田寛郎さん死去、
 終戦知らずルバング島
 30年間任務続行
 自然塾で育成に尽力
 産経新聞1月17日(金)9時48分

 戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが
 16日午後4時29分、
 肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。
 91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。
 遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
 大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。
 50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。
ーーー↓ウイッキペデアより抜粋↓
 1944年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、遊撃戦指導の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)。
 8D長横山静雄陸軍中将から
 「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
 の訓示を受けた。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった・・・らしい・・・
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 小塚金七
 (1921年〜1972年10月19日)
 ルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵
 1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。
 小塚の死に対し小野田は
 「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」
 と後年、述べている。
 小塚は母親に手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は
 「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく昭和四十七年十月十九日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです」
 と手記を残した・・・
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年干支・・・壬 戌(辛・丁・戊)
年天干変通 偏官・・↓地支蔵干変通   12運
年蔵干・・・・・戌(正財・劫財・食神)・・墓
年月支関係・・支合・丙丁(劫財)
月干支・・・癸 卯(甲・ ・乙)
月天干変通 正官・・↓地支蔵干変通    12運
月蔵干・・・・・卯(偏印・  ・印綬)・・沐浴
格式変通・・・・・・偏印or印綬
月日支関係・・支合・丙丁(劫財)
日干支・・・丙 戌(辛・丁・戊)午未←空亡
日天干変通 比肩・・↓地支蔵干変通   12運
日蔵干・・・・・戌(正財・劫財・食神)・・絶
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大運    壬 子(壬・ ・癸)
      偏官
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年運支関係 癸 巳(戊・庚・丙)年
      正官年
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月運支関係 乙 丑(癸・辛・己)月
      印綬月  
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日運支関係 生月・流日三合乙(印綬
      丁 亥(戊・甲・壬)日
      劫財日   
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時運支関係 大運・流運三合壬(偏官)
      戊 申(己・壬・庚)時
      食神時
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