1326日目・・・「マクラのソウシ」の「322の段」は「纂の比訳の似を拾い、仁」、「惨を撚(念)じて似」を比べる目の「談」・・・「サルタ比古」の溺死・・・祀ったのは「サル女のクン=宇受女」・・・「白村江の戦い」・・・「日本帝国海軍」の「ミッドウエイ海戦」・・・

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 枕草子
 (三二二段)・・・「三百二十二・参佰弐拾弐・参弐貳・参陌貮拾弐」段
          3+2+2=7=七=漆
          3×2×2=12=十二=壱拾弐=壱足仁
 左・・・・ひだり・サ
 中・・・・なか・チュウ
 将・・・・まさに・ショウ
 の・・・・之
 いまだ・・未だ・今だ・今田・居間拿
 伊勢の・・イセの・「伊の勢い」の
ーー↓   「伊」=イ・いさ・おさむ・これ・ただ・よし
          かれ・かの・これ・この
          あの、その、かの、あたな、
          と代名詞に用いられる
          これ=是・之・此れ
          伊
          神の意志を伝える聖職者
          治める人の意
          調和をさせる様
          殷初期の伝説の宰相
          伊尹(イイン)に因む嘉字
          とされ、人名、地名に用いられる
          殷の聖人
         「阿衡(アコウ)」は
          殷(いん)の大臣、「伊尹」の官名
         「尹(イン)」は長官・次官・監督
          伊藤博文
          伊号潜水艦
          伊太利亜
          伊万里
          伊賀
          伊豆大島
           ↓ウイッキペデアから参考、参照抜粋
   推古天皇二十八年(620年)八月条
   掖玖(やく・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着
         ↓
   ・・・ナゼ「掖玖(ヤク)」なのか?
   ・・「掖」→わき=「腋・脇=わき)」
   ・・・和気・沸き・湧き・涌き→わけ・訳・約
      別け・和気・分け・捌=八
   ・・・玖=九・9・IⅩ・ナイン=NINE
        ↓ 6(SIⅩ)の逆字
        ↓
   天武天皇四年四月十八日条(675年5月20日)
   麻績王の子、流刑
   天武天皇六年四月十一日条(677年5月20日)
   田史名倉などが伊豆島に流刑
  (日本書紀
   神亀元年(724年)
   伊豆国
   安房国常陸国佐渡国などとともに
   遠流の地に定められた
   文武天皇三年五月二十四日(699年6月29日)
  「役小角」が「伊豆嶋」に流刑
          ↓
   ・・・ナゼ「役小角(エンのオズ)」なのか?
         ヤクのショウカク→約=訳の章化句
                    厄の章較
                    薬の小核 
         エキのチイサイツノ→知意歳通埜(之)
          ↓
  「扶桑略記」の同日条では
   ↓
   フソウ→伏そう・臥そう・附そう
   ↓
  「仍配伊豆大島」と記録
   (続日本紀
   ↓
   仍配
   ↓
   仍=ジョウ・ニョウ・よる(因)
     もとのままに從ふ
     なほ・かさぬ・かさなる(重)
     しきりに(頻)
     すなはち=乃
     仍仍は志を得ざる貌・又、衆き貌
     遠きち筋の子孫
     説文解字=因るなり、人に従ふ、乃を聲とす
          よって=因って・依って・仍って
     理由を述べた文を受けて、
     結論を述べる文へ導くのに用いる語
     「そういうわけで」
     よる・したがう・かさなる
     もとの物事につけ加わる
     かさねて・しきりに・しばしば・なお
     仍世(ジョウセイ)=代々・累代
     仍孫(ジョソン)=自分より
              七代後の子孫
              子・孫・曽孫・玄孫
              来孫・昆孫(コンソン)の次
     仍って(よって)
        ↓
  「殿暦」
   永久元年十月二十二日条(1113年12月9日)
   醍醐寺
   仁寛(立川流の祖)が伊豆大島に流刑
   琉球王国の正史
  「中山世鑑」、「おもろさうし」、
  「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、
   源為朝は「保元の乱」に敗れて捕らえられ、
   伊豆大島に配流された後に島々を掠領し
   工藤茂光に攻められ、伊豆諸島の人々の助けで
   沖縄の地に逃れ、その子が
   琉球王家の
   始祖
   舜天になった記録が・・・あるそうだ
   この話が
   曲亭馬琴
  「椿説弓張月」の下敷きになった
   大正十一年には沖縄県に為朝上陸の碑が建立
   表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下に
   東郷平八郎の名が刻まれている
   応永三年七月二十三日(1396年9月3日)
   伊豆守護・上杉憲定に伊豆国の所領が交付
   この所領は
   応永二年七月二四日に
   父・上杉憲方の遺領として
   安堵されたものだった
   その後は
  「八丈島年代記」には
   金川(神奈川県横浜市神奈川区)の領主
   奥山宗林が
   八丈島、小島、青ヶ島
   三宅島、御蔵島
   代官となった記録があるらしい・・・
   戦国時代
   後北条氏が伊豆諸島全体を支配
   天文二十一年九月十九日(1552年10月17日)
   島は噴火
   天正十八年(1590年)
   北条氏の旧臣の支配が続いた後に
   江戸幕府の代官が治めた
   生類憐れみの令
   鳶・鷹・雉子などが
   宝永五年(1708年)まで
   20年余り島に放鳥
   寛文十年(1670年)に
   代官の渡島禁止、
   享保八年(1723年)には
   手代の渡島禁止
   新島村
   神主である
   藤井氏が行政担当
   地役人を世襲で助ける島の有力者を
   島代官と称した
   享保二年(1717年)の改革
   島へ渡る役人と島の有力者を、
   島役人、地役人と呼ぶようになった
   元禄十六年十一月二十三日(1703年12月31日)
   元禄関東地震
   大津波で、
   湖だった波浮港が外海とつながる
   江戸時代にも流刑地とされ
  「伊豆大島志考」に
   慶長十二年(1607年)
   岡部藤十郎
   慶長十七年(1612年)
   キリシタン
   ジュリアおたあ
   天和二年(1682年)
   越後騒動の
   小栗兵庫
   元禄十六年(1703年)
   赤穂浪士
   間瀬正明の次男
   間瀬定八が流刑
   日蓮宗
   不受不施派の僧などが流刑
   寛政八年(1796年)
   流刑地から除外され、
   島開所が設けられた
   1882年(明治十五年)
   秋広平六が
   西洋帆船を建造し、本土との往来
   1897年(明治三十年)
   相陽汽船が
   伊東(静岡県伊東市)との間で開航路
   翌年には同航路で
   実業家・杉本が和船の運航
   1900年(明治三十三年)
   逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始   
ーー↓「伊勢の」からのツヅキ          
 守と・・・「カミ・まもる・シュ」と
 聞こえし・キこえし・「モン・ブン」こえし
 とき、・・トキ
      時・説き・解き・溶き・融き・梳き
      土岐・怒気・退き・(風)土記
      朱鷺・鴇
      鬨・辰・穐
      トキ・賭記・徒祈
      渡記
 里に・・・サトに・リに
 おはし・・オハシ
 たり・・・タリ
 しに、・・シニ
 端・・・・ばた・タン
 (はし)
 の・・・・之
 方・・・・ホウ
 (かた)
 なりし・・ナリシ
 畳を・・・タタミを・ジョウを
 さし・・・サシ
 出・・・・イ・スイ・で
 で・・・・デ・テ・弟
 し・・・・シ・・・子
 物は、・・モノは
 この・・・コノ
 草子も・・ソウシも・クサコも
 乗りて・・ノりて・ジョウりて
 出・・・・イ
 で・・・・デ・て・弟
 に・・・・ニ
 けり。・・ケリ
 まどひ・・惑ひ・円居ひ・団居ひ
 取り・・・トり
 入れ・・・イれ
 しか・・・シカ
 ども、・・ドモ
 やがて・・ヤガテ
 持て・・・モて・ジて
 お・・・・オ
 はして、・ハシテ
 いと・・・意図
 久しく・・シサしく・キュウしく・クしく
 ありて・・アリテ
 ぞ・・・・ゾ・ソ
 かへり・・カエリ・返り・孵り・還り・帰り
     「変え・換え・代え・替え」り
     「飼え・買え」り
      蘇生・甦生
 にし。・・ニシ
 それ・・・ソレ
 より・・・ヨリ
 染め・・・ソめ・センめ
 たる・・・タル
 なめり・・ナメリ
 とぞ。・・トゾ
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 ・・・ボクの妄想道理の企てがあったとしたら・・・荒唐無稽・・・