1323日目・・・石油ストーブの火を消しても家の中は暖かい本日、12月18日・・・朝からガンガンのお天気で眩しく、雪解けの滴る軒の音・・・

 再三、再四・・・ボクの「日記の下敷き」はホトンドがインターネット上の「ウイッキペデア百科字典」、諸々の「辞書・字典・事典」、あるいは「他の人のブログ掲載記事」からお借りした「記録文」のモノで、その下敷きに重ねている文章が「現存・古事記」、「日本史(日本書記〜現代史、世界史を含む)」で、ソレに対する「ヨミ方」と、その「存在」に対する僅かな「疑問と類推、妄想」の「展開部分」だけがオリジナル・・・「一般的な関連説明記事(注釈的なモノも含めて)」のホトンドがインターネットで「文字、タイトル、記事」検索をすれば、即、調べるコトができるモノで、あえて「出典」を示していません。
 「ボクの家頁(プラトン、コジキをカタル)」では「大修館漢和字典・コンサイス英和字典」、「平凡社発効の百科事典」、「新旧聖書」、「史記」等からの引用がホトンド・・・
 兎に角、「一般化されている緒説や緒解釈」、「異説」も含めて過去的な「共有財産」と考えています。コレを踏まえて、面白い、面黒い、面赤い、面青い、面キイロい、とヨンでくれるコトを・・・ヒマならネッ・・・
 ・・・「ニホンゴ使用の漢字文字」の考え方の「アソビ」の「モウソウ」、メモ程度と・・・
ーーーーー
 枕草子
 (三一九段)・・・「三百十九・参百壱拾九・参壱九・参百壱足玖」段
          3+1+9=13=十三=壱拾参=足参
          3×1×9=27=二十七=弐拾七=仁足漆
 前の・・・・・・サキの・マエの・ゼン埜
        「の」は同音異字漢字のスベテ
 木だち・・・記(紀)ダチ・小太刀・コだち
           断ち・絶ち・裁ち
         ダチ・拿地・妥地→俀地
            立ち・建ち→倭建
                舘・太刀
         タチ・経ち
            性質・質
            多知・他知・・多知他知多?
                   知多半島
                   渡辺華(崋)山
                   慎機論
            多地・他地・・・田原藩
            発ち
            三河国
            田原藩家老・渡辺崋山
            慎機論
            渡辺崋山の著・一巻
            1838年(天保九)10月15日
            尚歯会の席上で英船モリソン号に対し
            幕府が撃攘策をもって臨むという
            噂を耳にした崋山が批判し著作
           「秘密文書」だったが
            鳥居燿蔵の罠に填められ押収された
ーーー↓
 (「日本福祉大学知多半島総合研究所
  所長 「福岡 猛志」氏のコラム)から・・・本文は以下の頁
   ↓
http://www.n-fukushi.ac.jp/chitaken/publication/bulletin/vol17/file/07.pdf
   ↓
 から参照、参考にした「原文」を抜粋して少々「改作」して添付させてもらいました・・・無断で申し訳アリマセン・・・御容赦ください・・・「?」と「・・・」、「ーーー↓↑」はボクの疑問と、妄想のツブヤキの部分です・・・
ーーー↓
 ・・・地名を表記するにあたって・・・
 漢字が持っている
 意味を使用してそれを当てる
 日本語の地名の「発音」に合致する
 「漢字の音」だけを利用して表記する
 前者は、その文字自体が、
 本来の地名の意味を反映しているのに対して、
 後者は、本来はまったくの
 「借字」であるにもかかわらず、・・・?
 とかく
 文字面から「地名の語源」を
 考えてしまうという誤りを犯しやすい・・・?
 たとえば、
 「林」には元来「はやし(ばやし)」という
 漢字(音)の読みはないが、・・・漢字音は「リン」・・・
 意味が日本語の
 「はやし」に当たることから用いられ、
 逆に「はやし」という訓ができてしまった、と言う説もある・・・?
ーーー↓↑
 ・・「はやし」のニホンゴは「囃子・速し・早し・早志・生やし」でもあるけれど・・・ニホン語音声は「はやし=林」であった、かも。で、それに漢字の文字を当てた人間は「漢字」の「意味も音」も既に「勉強」していたのである・・・それを踏まえて漢字は「同音異字漢字」として「ニホン語」としての「文字」になったのである・・・
ーーー↓
 音だけを借りる場合でも、
 多少とも「意味の近い文字」を
 選ぶということはあった・・・
ーーー↓↑
 ・・・のサッ・・・
ーーー↓
 確かめる
 すべは多くの場合
 ありません。
ーーー↓↑
 ・・・マッタク、「仮説・推量・推理・妄想」の枠内である・・・だが、その「意味するトコロ」の手がかりは記録された「漢字文字」しかないのである。他にあるとしたら「歴史的な口承、伝承記録」がある場合だろう・・・その「歴史的記録」も事実というよりは原本、写本も、「文字記録」されたモノであるから、その「事実」は推量、推理の枠内で「?」である。
 更には「歴史の記録」も、改作、改竄も意図的、恣意的になされたカモ、である・・・「オリエンタル急行殺人事件」は乗客全員が犯人だった・・・「記録」の改竄が「国家規模」でなされたならお手上げである・・・幕末、明治は「文明・文化」の微妙な時代である・・・
ーーー↓
 「知多」郡には、古代にも
 「阿具比(阿久比)」
 「富具」(美浜町富具崎)という地名
 これは音のみで表記されたもの・・・
 「あく(ぐ)ひ」
 「ふく(ぐ)」という「音」があらわす
 日本語の意味は
 何かということのみから
 考えなければなりません・・・?
ーーー↓↑
 あくび=欠伸
     唖(蛙→カエル)具備(愚尾)
 ふく=伏・附句・複・副・福
    葺く・吹く・噴く・拭く
 ふぐ=不具・附愚・不虞
    河豚
 ・・・「漢字」も「日本語」なっちまったのに
 ・・・「漢字文字の意味」からも考えるのサッ・・・
 ・・・「仮名(一音)」になれば意味がワカラナくなる
 ・・・「ア・あ」の文字の複数の意味は「漢字」からのみ
 「和気清麻呂」は「和気汚麻呂」にされたからね・・・
ーーー↓
 「知多(チタ)」はどちらも、
 「音の借字」です。・・・?
ーーー↓↑
 ・・・「訓」なら「しるおほい(おおい)」、音訓混合なら「しるタ」、「チおほい(おおい)」である・・・
ーーー↓
 その地名の由来は、
 「ちた」という
 日本語が何を意味していたのか
 「知恵」も「多少」も、埒外・・・?
 「ち」という
 日本語の意味するものとして
 「父・血・乳・茅・道・霊・鈎」
 などがあり、
 「た」には
 「誰・手・田」などがある
 どれを組み合わせても、
 しっくり来ません・・・?
ーーー↓↑
 ・・・既に「漢字」は「記録されたニホンゴ漢字」になっていたのである・・・「シックリ」は個々人の「主観的な問題」では?・・・「古事記」が日本最古の「記録文」であるならば、「古事記序文」が記述している如く、既に時代は「音訓混同のニホン語文」なのである・・・
ーーー↓
 海を生業のこの地にあわせ、
 「鈎手(鈎=釣り針)=ちた」だが、
 「わからない」というのが、正解
 「藤原宮出土木簡」に、
 「知田」とある・・・?
ーーー↓↑
 鉤=鈎=かぎ・はり・こま・ク・コウ
 手=て・で・シュ・ス・・・た
   右手→「又」=また・ユウ・ウ
 知田・・・
 これが「音訓混用」だとナゼ、ワカルんだか・・・「チデン・しるた」かも・・・
 元号、年号の「年月日時」の「数字」に疑問はナイのか?
ーーー↓
 和銅六年(713)
 行政地名表記の基準を定めた法令
 地名を
 二字・好字・嘉名、
 「佳字・吉字」で表記せよとの命令
 三字で表記されていた「あゆち」を
 二字で表記する便法として、
 「愛」という文字を「あゆ」に充て
 「あゆち」を「愛知」と表記した
 「本居宣長」が明らかにしている・・・?
ーーー↓↑
 その明らかにした「あゆち→愛知」の「理由」はナニか?
 「愛・知」を選択し、表記した時代的背景である・・・
 「愛」の漢字は上杉氏の家老の
 「直江兼続(1559年〜1620年1月23日)」の兜の装飾の漢字でもあった・・・「愛=皀+心=牙+心」は「食い物が咽喉、気管支に詰まりむせぶ、息が詰まる」、「満腹に食わせる、食う」で、その結果、身体を「のどける=長閑ける」が漢字の原義であるらしい・・・が、「めでる・いとしい」と「あわれ・かなしい」の両義があり、カナしい、ウレしい、元気がない、そして、「おしい(惜しい・もの惜しい)」である。要は「心苦しい・心が詰まる」の「心情=愛憎」のコトバである・・・
 ・・・和銅→和(金)同・六=陸(おか・リク・ロク)・年=歳・齢・・・
 ・・・ナゼ、「本居宣長」を疑(うたがわ)ないんだか・・・                     ↓↑
 歌川、宇田川・・・なぜ、「うたがわナイ」んだか・・・
  ↓
 歌川 広重(うたがわ ひろしげ)
 寛政九年(1797年)〜
 安政五年九月六日(1858年10月12日)
 浮世絵師
 本名は安藤鉄蔵
 江戸の定火消しの安藤家に生まれた
 ‎東海道五十三次 (浮世絵)
 ‎歌川広重 (三代目)
 ‎歌川広重 (五代目)
 ‎歌川広重 (四代目)
 ↓
 歌川国芳
 寛政九年十一月十五日〈1798年1月1日〉〜
 文久元年三月五日〈1861年4月14日)
 歌川広重とは同年の生まれ
 号は一勇斎
   朝桜楼(ちょうおうろう)
   採芳舎(さいほうしゃ)
 ↓
 歌川国貞
 天明六年〈1786年〉〜
 元治元年十二月十五日〈1865年1月12日)
 浮世絵師・三代目歌川豊国
 初代歌川豊国の門人
 本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)
 後に庄蔵、肖造と改名
 号は五渡亭・香蝶楼・一雄斎・琴雷舎
   北梅戸・富望山人・富望庵・桃樹園
   月波楼・喜翁・浮世又平・不器用又平
ーーー↓
 「愛」=「え」にも充てられた
 だから、
 「愛知」の当初は
 「あゆち」と読まれたハズです・・・?
ーーー↓↑
 「愛」→「恵」→「愛(よし・めご」姫
 「尾張・目子(めのこ・めご)」媛
  ↓
 「真砂(まなご・まさご)」の里の庄司の娘
  ↓
 「清媛」→「安珍
    道成寺←「今昔物語」が出典、原典?
  道成寺
  文武天皇の勅願で
  大宝元年(701年)の創建
  寺の創建から230年経った、
  延長六年(931年)の物語
  701+230=931年
  延長年号923年〜931年までの期間・・・?
 「清姫」は
  和歌山県西牟婁郡中辺路(なかへち)町の
 「真砂(まなご)」の里の庄司の娘となっている
  ↓
 「今昔物語集・巻第十四第三」の説話では
 「真砂(まなご)」の里の庄司の娘で
  安珍清姫の名前はない
 「今昔物語」の成立時期は
  1120年代〜1449年の期間であるそうだ?
 「安珍清姫」、931年の物語の「原典」であるハズの
 「今昔物語」が後から出来たとは?
  更にナゼか
 「全三十一巻」で
 「八巻・十八巻・二十一巻」は
  欠けているらしい
 ウイッキペデアによれば
 原文(鈴鹿本)
 漢字仮名交じり文(和漢混淆文)で
 「カタカナ」で書かれ、
 古文としては比較的読みやすい・・・「古文」だったのか?
 どの地域の、
 何という人の話かということを
 明記する方針で書かれ、
 それらが明らかでない場合には
 意識的な空欄を設け、
 他日の補充を期す形で文章が構成されている
 例えば、典拠となった文献で
 その人名が具体的には伝わっていない場合であっても、
 その話を『今昔物語集』に収録する際には
 「今ハ昔、(  )ノ国ニ(  )トイフ人アリケリ」
 との形で記述され、
 後日それらの情報が明らかになった場合には直ちに
 (  )内に加筆できる仕様になっている。
 このような
 編纂意図から発生した
 意識的な
 欠落部分が非常に多いのが、
 本説話集の大きな特徴である。
 コレは・・・明治文部官僚のヤリ方ではないのか・・・
  ↓
 「叡智(えいち)=ソフィア→上智(大学)」
 「比叡山(ひえいさん)」
 「愛宕山(あたごやま)」
 「英彦山(ひこさん)」
 ・・・「愛知」は「叡智」だった・・・そして「名古屋」である・・・
ーーー↓
 (逆に、もともと
  「年魚市」も「あいち」と読まれていた説も)・・・?
ーーー↓↑
 漢字教養人には
 「年魚市」は
 「ネンギョシ」か
 「としウオいち
  としマナいち
  としナいち」であろう・・・「年・魚」の各漢字の訓音に「あ・ゆ・あ・い」は無く、「いち(市=シ)」のみは「ち」と重なるが・・・「あゆ=鮎・香魚・阿諛」は別字としてある・・・
 「阿諛便佞(あゆべんねい)・阿諛追従・阿諛迎合」
  を
 「揶揄」しているのだ・・・
ーーー↓
 それが、
 「文字面」に惹かれて、
 「あいち」と読まれるようになった。
 他の例
 渥美郡→元々「飽海郡(あくみ)」・・・?
 ・・・「アクミの音」の説明がない・・・
 で、それが「渥美」に変化し、
 「あつみ」になった・・・
 「穂」という郡は、二字にするため
 「宝飫」と引き伸ばした・・・
 それが
 「宝飯」と誤記されて・・・?・・・意図的に
 読みまで
 「ほい」に変わった・・・?・・・意図的に
 「林」は、
 「拝師」に、
 「阿具比」は
 「英比」となり、
 後者では
 「英比(海老)丸伝説」まで作り出された
 「久麻久」が
 「熊来」となったことが原因で、
 「能束」と誤記・・・?
ーーー↓↑
 ・・・意図的、恣意的にである・・・
ーーー↓
 「神」が
 「美和」になり、
 「碧海」は元々「青見」で
 「あおみ」と呼んだハズですが・・・?
 「へきかい」となった・・・
 文字面から考えることが
 「危険」である・・・ナゼ「キケン」なのか?
 余談・・・
 文字のほうが変化したのに、
 読みのほうが従来通りであるために、
 「こう読むのだ」と「丸暗記」しなければ
 読めない地名がある・・・?
ーーー↓↑
 当然である・・・
 ニホン語の訓文字は漢字文字への当て音声だから・・・
 躑躅(テキチョク・てきちょく)は「ツツジ」とは漢字音では読まない。「躑・躅」は部首から訓を採れば「奠(まつる・さだめる)+阝(邑・くに・むら)」、「蜀(いもむし)」で、音ならば「テイ・ショク」、「ジョウ・ゾク(ドク)」・・・「躑(ただずむ・たちもとおる・ためらう)・躅(あしあと・足跡・よい行跡)」を訓で「つ・つ・じ」とヨムことは「論理的な漢字文字教養人」には無理かも・・・「国語」として丸暗記があるのみである・・・
ーーー↓
 「上野」は
 「うえの」ですが、
 「国名」としては
 「上野」は「こうづけ」、
 「下野」は「しもつけ」
 「近江」が「おお(う)み」で、
 「遠江」が「とおとお(う)み」
 これらは、いずれも、「歴史」を踏まえれば、
 元来の意義が納得できる・・・?
ーーー↓↑
 ナゼ、その「日本歴史」を疑わないんだか?・・・明治、文化、文明・・・開化・・・開花・・・カ・イ・カ・・・の・・・基点、原点、起点・・・記紀転々・・・
ーーー↓
 五市五町の由来
 「明治」のはじめ、
 知多半島には、
 新田村を含め150の村があった
 字名などに遺る地名の中には、
 歴史的な意味を負っているものある
 地名は、ひとつの文化です。
 それを丹念に紐解いていくと、
 その地域の歴史的な特質を明らかに
 していくための手がかりが得られることも
 決して少なくはありません。
 失われてしまった地名を
 掘り起こすこともこの地の「風土」を
 理解するうえで、大切なことだと思われます。
ーーー↓↑
 ・・・まったく、同感デス・・・
ーー↓枕草子の「木だち」からのツヅキ・・・
 高う・・・・・タカう
 庭廣き・・・・庭広→庭→広→庭
        欽明天皇
        継体天皇三年
       (509年?)
         〜
        欽明天皇三十二年四月十五日
       (571年5月24日?))
        第二十九代天皇
        和風諡号
        天国排開
        広庭天皇(あめくにおしはらきひろ
         ↓
        阿倍広庭(あべ の ひろにわ)
        斉明天皇五年
       (659年)
         〜
        天平四年二月二十二日
       (732年3月22日)
        奈良時代前期の公卿
        右大臣
        阿倍御主人の子
        子には毛人、嶋麻呂
         ↓
        斉明天皇
        朝倉
        橘
        広庭宮
       (三連水車のある福岡県朝倉市
        橘の広庭公園・国道386号線
        朝倉街道
        橘−廣庭宮之蹟
        東北十八町 須川
ーー↓
 家の、
 東南の・・・・トウナンの
        未申(羊猿)の・坤の
 格子ども
 あげ
 渡したれば、
 涼しげに
 透きて
 見ゆるに、
 母屋に
 四尺の・・・・史訳の
 几帳・・・・・記帳・基調・貴重・帰朝
 立てて、
 前に
 圓座を
 おきて、
 三十餘・・・・ミソアマリ
 ばかりの
 僧の、
 いと
 にくげ
 ならぬが、
 薄墨の衣、
 羅の
 袈裟など、
 いと
 あざやかに
 うち
 さうぞ
 きて、
 香染の
 扇・・・・・・おおぎ・おほぎ・あおぐ・セン
        奥義・奥儀
 うち
 つかひ、
 千手
 陀羅尼・・・・ダラニ・拿羅爾
        俀羅尼→阿舞王朝のオオケミ
 讀み
 居たり。
 物怪に・・・・モノノケに・ブッカイに
 いたう・・・・イたう
        イとう
 なやむ人
 にや、
 うつす・・・・写す・移す・遷す
 べき人とて、
 おほ
 き
 やかなる
 童の、・・・・ワラベの・ドウの
 髮など・・・・カミなど・ハツなど
 麗しき、・・・ウルワしき・レイしき
 生絹の・・・・セイケンの・ナマキヌの
 單、
 あざ
 や
 かな
 る
 袴・・・・・はかま・コ・ク
 長く・・・・ナガく・オサく
 著なして、・キなして・チョなして
 ゐざり
 出でて、
 横ざまに・・ヨコざまに・ヨコシマざまに
 立てたる
 三尺の・・・纂訳の・三役の
 几帳の・・・記帳の
 前に
 居たれば、
 外ざまに
 ひねり・・・捻り・比音理
 向きて、
 いと
 ほそう、
 にほ
 やかなる
 獨鈷を・・・・ドッコ・トッコ
        密教法具・寺院仏具の独鈷杵
        独顧(拠・子・児・雇)を→独逸雇用
 取らせて、
 を
 をと目
 うち
 塞ぎて
 讀む
 陀羅尼も、
 いと
 たふとし。・・タフトシ・トウトシ
        他附年  当 歳
        問う俊  等 歳
 顯證・・・・・けんしょう
        撥音「ん」は無表記
        あらわで、はっきりしているコト
        けそう・ケンソウ
 (けしょう)
 の
 女房
 あまた
 居て、
 集ひ
 まもらへ
 たり。
 久しく
 あらで
 ふるひ
 出で
 ぬれば、
 もとの
 心失ひて、
 行ふ
 ままに
 隨ひ
 給へる
 護法も、・・・・ゴホウも
 げに
 たふとし。
 兄の
 袿・・・・・・・うちかけ・うちぎ・ケイ・ケ
 (うちき)
 したる、
 細冠者
 どもなどの、
 後に
 居て
 團扇・・・・・・うちわ・おうぎ
         団扇
 するもあり。
 皆
 たふ
 とがり
 て
 集りたるも、
 例の
 心ならば、
 いかに
 恥しと
 惑はん。
 みづからは
 苦しからぬ
 事と
 知りながら、
 いみじう
 わび
 歎き
 たる
 さまの
 心苦しさを、
 附人の
 知人などは、
 らうたく
 覺えて、
 几帳の
 もと
 近く居て、
 衣
 ひき
 つくろひ
 などする。
 かかる
 程に、
 よろしとて、
 御湯
 など
 北面に
 取り次ぐ
 ほどをも、
 わかき
 人々は
 心もとなし。
 盤も
 引き
 さげながら
 いそいで
 くるや。
 單など
 清げに、
 薄色の
 裳など
 萎え
 かかりて
 は
 あらず、
 いと
 清げなり。

 申(さる)の
 時にぞ、
 いみじう
 ことわり
 いはせ
 などして
 許しつ。
 「几帳の
  内に
  と
  こそ
  思ひつれ、
  あさましう
  も
  出で
  にける
  かな。
  いかなる
  事
  ありつらん」
 と
 恥し
 がりて、
 髮を
 振り
 かけて
 すべり
 入り
 ぬれば、
 しばし
 とどめて、
 加持・・・・・カジ
 少しして、
 「いかに、
  さわやかに
  なり
  給へりや」
 とて
 うち
 笑みたるも
 恥しげなり。
 「しばし
  侍ふべきを、
  時の
  ほど
  にも
  なり
  侍りぬ
  べければ」
 と
 まかり
 申して
 出づるを、
 「しばし、
  ほうちは
  うたう
  參らせん」
 など
 と
 どむるを、
 いみじう
 急げば、
 所に
 つけたる
 上臈と
 おぼしき人、
 簾の
 もとに
 ゐざり
 出でて、
 「いと
  嬉しく
  立ちよらせ
  給へり
  つる
  しるしに、
  いと
  堪へがたく
  思ひ
  給へられ
  つるを、
  只今
  おこ
  たる
  やうに
  侍れば、
  かへす
  がへす
  悦び
  聞えさする。
  明日も
  御暇の
  隙には、
  物せさせ給へ」
 など
 いひつつ。
 「いと
  しう
  ねき
  御物怪に
  侍るめるを、
  たゆませ
  給は
  ざらん
  なん
  よく
  侍るべき。
  よろしく
  物
  せさせ
  給ふ
  なる
  を
  なん、
  悦び
  申し
  侍る」
 と、
 詞ずくなにて
 出づるは、
 いと
 尊きに、
 佛の
 あらはれ
 給へる
 と
 こそ
 覺ゆれ。

 清げなる
 童の
 髮
 ながき。
 また
 大やか
 なるが、
 髯
 生ひたれど、
 思はずに
 髮うる
 はしき
 又
 したたかに、
 むく
 つけ
 げ
 なる
 など
 多くて、
 いと
 なげにて、
 ここかしこに、
 やんごと
 なき
 おぼえあるこそ、
 法師も
 あらま
 ほしき
 わざ
 なンめれ。
 親など
 いかに
 嬉しからんとこそ、
 おし
 はからる
 れ。
ーーーーー
 ・・・推し測らる、例・・・科し金庫・・・