1316日目・・・本日は「認知ショウ・サミット」ですか・・・オフクロ、回復しつつあったのに、一進一退・・・気管支、呼吸が苦しそうに二拍子で歌っている・・・イキナガタラヒメにイノリます・・・
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枕草子
(二九三段)・・・「二百九十三・弐佰九拾参・弐九参・仁陌玖足参」段
2+9+3=14=十四=壱拾四=足肆難
2×9×3=54=五十四=伍足肆
僧都の・・・ソウズの・素得事・挿通図之・祖渦
姐宇受=宇受女=猿女
君の・・・・「きみ・クン=訓・薫・釧・勲」之
御・・・・・音
乳母の・・・メノトの
ままと、・・侭と=儘と・「間々・真間」賭
御・・・・・音
匣・・・・・はこ・くしげ・こばこ・コウ・ゴウ
箱・タマクシゲ=玉手箱→乙姫←浦島太郎
殿の・・・・デンの・出ん之・伝之
御局に・・・オツボネに・乙母音に
オンキョクに・音曲に
居たれば、
男・・・・・オトコ・音呼
ある
板敷の・・・イタジキの・意他字記埜
もと
近く
寄り來て、
「辛い・・・・ツラい・カラい
めを
見候ひつる。
誰
にかは・・・ニカハ・爾化葉・ニカワ・膠
うれへ・・・ウレへ・得例重
申し
候はん
とて
なん」
と
泣きぬ・・・ナキヌ
ばかりの・・ハカリの
氣色・・・・キショク・けしょく・けいろ
記職・懸食・経路・径路・毛色
ケシキ・ケショク
化識・懸初句
にて
いふ。
「何事ぞ」
と問へば、
「あからさまに
物へ
まかり・・・参かり・マカリ
摩借り→ヤマ借り
罷り・負かり
たりし
間に、
きた・・・・キタ・北・来た
喜多・喜田
紀他・記太
なぐ・・・・名具・納虞・那愚・拿愚
和ぐ・凪ぐ・薙ぐ
侍る所の・・ハベるトコロの
葉部留書 埜
燒け
はべりに
しかば、・・史家葉・詩歌葉・死か場
日ごろは
寄居蟲の・・・ヤドカリ(宿借、寄居虫)
十脚目ヤドカリ上科 Paguroidea
巻貝の貝殻に体を収め、
貝殻を背負って生活する甲殻類
古語では「かみな」
転じて、
かむな・かうな・がうな・ごうな
海老(蝦)や蟹と同じ十脚
やうに、
人の家に
尻を
さし入れて
なん侍ふ。
厩・・・・・・馬屋
寮の・・・・・リョウの
御・・・・・・音
秣・・・・・・秣(まぐさ)とは馬や牛の飼料とする草
「蒭」とも表記
「和名類聚抄」では、
秣=「万久佐」
蒭=「加良久佐(乾草)」
「馬草」
まぐさ・古くは「まくさ」
飼葉(かいば)
積みて
侍りける
家よりなん、
出でまうで
來て
侍るなり。
ただ
垣を
隔てて
侍れば、
よどのに
寢て
侍りける
童も
ほとほと
燒け
侍りぬ
べくなん、
いささか
物も
とうで
侍らず」
などいひ居る。
御
匣殿も
聞き給ひて、
いみじう
笑ひ給ふ。
ーー↓
みまくさを・・・美馬句作を
美馬作・美作国(みまさかのくに)
令制国の一つ・山陽道に属
美作市(みまさかし)
岡山県の北東部に位置、
兵庫県および
鳥取県と境を接する
↓
和銅六年(713年)四月三日
備前守の
百済王
南典と
備前介
上毛野堅身により
備前国から
英多郡、
勝田郡、
苫田郡、
久米郡、
真嶋郡、
大庭郡の
六郡を分けて設けらた
初代美作守は
上毛野堅身が就任
↓
美作の分立
吉備国の国分け
鉄資源を吉備氏から直接、
ヤマト政権の管轄下に置き
吉備氏弱体化をはかった
美作には
英田・・・英多郡・古来は
「あがた(県→懸)」と読む?
エイデン・エイタ
白猪屯倉・
錦織・・・美咲町錦織(にしこり)
久米・・・久米(くめ)南町弓削
弓削・・・ゆげ
などのヤマト王権と直結する
部民が配置
↓
英多郡(あいたぐん)
延宝元年(1674年)に
英田郡と改称・・・?
後、
北部が吉野郡に分かれ、
1900年(明治三十三年)に再合併し
英田郡・・・「英伝群→英吉利の伝、愚務」?
↓
勝田郡(かつまたぐん)
英多郡と苫田・久米郡の間に位置
「勝間田(かつまた)」を中心に後に
勝南郡と勝北郡に分かれる
1900年(明治三十三年)に合併し
勝田郡(かつたぐん)・・・「召伝」?
↓
苫田郡(とまたぐん)・・・「ト・マタ」?
中央部の吉井川より北
後に苫西郡・苫東郡に
更に苫北郡・苫南郡が分かれ、
西西条郡・西北条郡・東南条郡・東北条郡と
名称が変わり、
1900年(明治三十三年)に再合併し
苫田郡・・・苫=篷=とま・セン
菅(すげ)や
茅(かや)などを
粗く編んだ
「蓆・筵・むしろ」
「苫小牧」は北海道
↓
久米郡(くめぐん)
中央部の吉井川より南
後に久米南条郡・久米北条郡に分かれ、
1900年(明治三十三年)に再合併し
久米郡・・・組め・汲め・酌め・粂・区目
キュウマイ・キュウベイ
くべい→矩(句)は亜米利加?
↓
大庭郡(おおにわぐん・おおばぐん)
西部の内、
蒜山と東半の領域
1900年(明治三十三年)
真島郡と合併し
真庭郡(まにわ)・・・・真綴(マテイ)
↓
真島郡(ましまぐん)・・真っ当
西端備中国境の領域
1900年(明治三十三年)
大庭郡と合併し
真庭郡
↓↑
平家全盛期には平氏の知行国
江見氏、豊田氏などは平家方
鎌倉時代は、
梶原景時、和田義盛が守護
両者は鎌倉幕府の政権内部の抗争で族滅
後、北条氏の領国
この時代、久米郡・苫田郡を中心に
足利氏の荘園が多く存在
美作国は安定勢力が出現せず、
南北朝時代の動乱から戦国時代の終焉まで、
山名氏、赤松氏、
尼子氏、浦上氏、
毛利氏、宇喜多氏など
周辺勢力の浮沈に巻き込まれ
足利幕府期も
支配領主が変遷
1600年の関ヶ原の戦いに
東軍に参与した
小早川秀秋が
備前・美作両国を領するが、
二年で改易
↓
近世
小早川家断絶後は
森氏が・・・・・・・・・森鴎外?
津山に築城して
入封(津山藩)が成立
五代、九十四年間で
九(玖・仇)拾(足)四(肆)
改易
津山城は日本三大平山城の一
後に徳川政権直轄の代官所設置
越前松平家が十万石で封じられ
再び津山藩
美作国内は小藩に分割
近代
明治四年(1871年)
廃藩置県
津山県、真島県、倉敷県、鶴田県、
挙母県、古河県、生野県、明石県、
沼田県、竜野県に別れて属し、
同年十一月整理統合され
美作国と領域的に一体の
北條県となる
その後
北條県も明治三年(1876年)
岡山県に合併
ーーー↓
もやすばかりの
春のひに
よどのさへなど・・・予土・澱・淀
余土
の作重名土
殘らざるらん・・・・ノコら
ザル
ラン
と書きて、
「これを取らせ給へ」
とて投げ遣れば、
笑ひ
ののしりて、・・・・罵しりて・埜之・乃廼
「この
おはする人の、
家の
燒けたりとて
いと
ほし
がりて
給ふめる」
とて取らせたれば、
「何の
御
短策にか・・・タンサクにか
短冊・短尺
丹作・旦叉句
丹後・但馬
譚作句・・・乙姫・浦島
侍らん、
物
いくら
ばかりにか」
といへば、
「まづ
よめ
かし」
といふ。
「いかでか、
片目も
あき・・・・安芸
仕う・・・・つかう
まつら・・・松浦
では」・・・出羽
といへば、
「人にも見せよ、
只今召せば、
頓にて・・・・トミにて・トンにて
うへ
へ
參るぞ。
さばかり・・・・サバかり・・・「鯖・佐波」カリ
サばかり
サ・バ・カ・リ
めでたき
物を得ては、
何をか
思ふ」
とて
皆
笑ひ
惑ひて
のぼり
ぬれば、
「人にや
見せつらん。
里にいきて、
いかに
腹立たん」
など、
御前に參りて、
ままの
啓すれば、
また
笑ひさわぐ。
御前にも、
「など
かく
物
ぐる
ほし
か
らん」
とて
笑はせ給ふ。
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・・・星・補詞・補史・・・カ・・・ラン・・・