1312日目・・・ナマ、ケシ、からヌ、似非、モノ・・・

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 枕草子
 (二八三段)・・・「二百八十三・弐百八拾参・弐八参・仁百捌足参」段
           2+8+3=13=十三=壱拾参=足参
           2×8×3=48=四十八=四拾八=四足捌

 宮仕・・・給事(官)・・・少納言
 する
 人々の
 出で
 集りて、
 君々の・・・訓々の
 御事・・・・音言
 めで
 聞え、
 宮の
 内外の
 はしの
 事ども、
 互に
 語り
 合せ
 たるを、
 おのが
 君々、・・・訓々
 その
 家
 あるじ・・・有る事(字)
 にて
 聞く
 こそ
 をかしけれ。

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(二八四段)・・・「二百八十四・弐百八拾四・弐八四・仁百捌足四」段
         2+8+4=14=十四=壱拾四=壱足四
         2×8×4=64=六十四=六拾四=陸足四

 家
 廣く
 清げ
 にて、
 親族は・・・シンゾクは・シンソクは
       審測葉
       新属・新足・真足
       秦足・辛足・清足
       晋足・・・足=王
 更なり、・・サラなり
       ↓
       沙良・沙羅
       讃良=持統天皇(第四十一代女帝)
       持統天皇(諱=鸕野讚良)
              うのさらら・うののささら
       和風諡号
      「大倭根子天之廣野日女尊」
       大宝三年(703年)十二月十七日
       の火葬記録(続日本紀
       養老四年(720年)
      「高天原廣野姫天皇」(日本書記)
       ↓
       大化元年
      (645年)
        〜
       大宝二年
       十二月
       二十二日
      (703年1月13日)
       称制
       朱鳥元年九月九日
      (686年10月1日)
       ↓
       在位
       持統天皇四年一月一日
      (690年2月14日)
        〜
       持統天皇十一年八月一
      (697年8月22日)
       讃良→サンラ→纂等
       持統女帝→「字統」・・・?
             ↑
            白川静・・・・?
             ↓
         甲骨文・金文
       日本に
       亡命中の
       郭沫若が、
       昭和八年(1933年)
       「卜辞通纂・(ぼくじつうさん)」、
       昭和十年(1935年)
       「両周金文辞大系考釈
       (リョウシュウキンブンジタイケイコウシャク)
       を刊行
       卜辞=甲骨文
       金文よりも古く、古代王朝形成期のもの
       清朝の学者も参照していない
       最古の漢字の字形を示す資料
             ↓
           郭 沫 若
         (グオ モールオ・Guo Moruo)
           カクマツジャク
       1892年11月16日
         〜
       1978年6月12日
       出身地=四川省楽山県
       1914年に日本へ留学
       第一高等学校予科で日本語を学んだ
       後、
       岡山の
       第六高等学校を経て、
       九州帝国大学医学部を卒業
       1921年に文学団体「創造社」の設立に参加
       設立の仲間に、
       郁達夫
       成仿吾
       張資平
       鄭伯奇など
       後、国民党に参加、
       北伐軍の総政治部主任
       蒋介石と対立し
       南昌蜂起に参加、直後に中国共産党に加入
       蒋介石に追われ、
       1928年2月日本へ亡命
       千葉県
       市川市に居住
       1937年に日中戦争が勃発
       日本人の妻らを残し帰国して
       国民政府に参加
       重慶で戯曲「屈原」発表
       戦後は中華人民共和国に参画
       政務院副総理、中国科学院院長に就任
       1950年
       全国文学芸術連合会主席
       1954年
       全人代常務副委員長
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   ・・・?・・・「漢字の文字研究」は「古代史の甲骨文・金文」からの「始原」からの「論理展開」とはなるが、個々人、研究者、学習者の「漢字分析」と、その結果の「意味認識の判断」は、時代的な「立場=一般的認識知識(感情も含め)」からも免れないであろう・・・音声として「コトバ」が始原としてあったのは理解できる。その後に「音声コトバ」を「文字」としたのもプロセスとしては理解できる。問題は「文字・記号」が出来た後の、その「使用プロセス」である・・・「記号」それ自体は「音声」を伴なわなくても「記号自体」が「視覚」からの意味納得を前提にしているモノだろう。「音声の意味」を前提にしている「文字」も、最初は視覚的な「形象」の「音声化」で、そして、その「音声」の「文字化・記号化=記録」である。時間的=歴史的に「文字」は「当初の源元の意味」を保持していくとは限らない。
 「ニホンゴ」に関しては「漢字」の知識を「学習で既得」した人間が「ニホンゴ音声の意味」として「万葉漢字文字」で記録表現したのである。
 「ニホンゴ」の「音声」は既に知識となった「漢字の知識」を前提にして「記録」されたのである。当然選ばれた「漢字」には「漢字の意味」があった・・・
 「ニホンゴ」の音声意味、「万葉漢字文字(単音文字)」は「漢字の意味」も「漢字の音」も「ニホンゴ音声と意味」を重ねて選択された・・・
 理由は簡単である・・・「漢字」は、その「異なった意味」に於いて「同音異字漢字」が多数ある。「漢和字典」を手に取れば理解できるであろう。
 ア=亜·亞・悪・阿·娃·哇·唖・婀·堊·蛙·窪·鴉・Y・・・あ・・・
   堊・椏・猗・痾・襾・錏・鐚・閼
   呀
   アア・ああ
   唖・式・于・吁・咨・嗚・嗟・噫・・・溜息

 「あ・ア=仮名(カナ)」の音声文字を「漢字文字」で「選択」すれば、異なった意味となる。「遊び」と同時に「あ・アの秘密」も隠せる・・・曖昧にも出来る・・・
 「漢字」が文字として増大したのは「時代的なコトバの意味」が増えたと云う事である。だが「漢字」の構成をバラバラに分解すれば原則的に
 「点(・)=テン・てん」
 と
 「線(―・|)=セン・せん」
 の組み合わせである・・・
 「漢字」を理解するのはそれ自体の意味だけではない・・・その時代の「意志・意思・遺志」である「文章の書き手の発信の立場」であり、同時に「文章の読み手の享受する立場」である・・・時代の流れの中で「始原の意味の共通項」は薄れ、そして異なった時代背景の中で読み手の「自由な解釈」の中の拡大に埋もれていく・・・「カンワ字典」は「閑話・緩和」で「官話字典」になっていく・・・「コゴ辞典」は「虚語・庫語」の「治填」だろう・・・
 ニホンゴ使用の漢字は「日本歴史の記録事件」を踏まえ、個々人の「ニホンゴ」でモウソウ「解釈(介錯)」するよりは他にない・・・妄想も「てろ」・・・?
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 唯
 うち
 かたらひ
 などする
 人には、
 宮づかへ
 人、
 片つ方に
 すゑて
 こそ
 あらま
 ほしけれ。

 さる・・・猿・申・沙流・然る・去る
      作留・差留・叉留・査留
 べき
 折は、
 一所に
 集り
 ゐて
 物語し、
 人の
 詠みたる
 歌、
 何くれと
 語り
 あはせ、
 人の
 文など
 持てくる、
 もろ
 ともに
 見、
 返
 事
 かき、
 また
 睦しう
 くる
 人も
 あるは、
 清げに
 うち
 しつらひて
 入れ、
 雨など
 降りて
 え
 歸らぬ
 も、
 をかしう
 もてなし、
 參らん
 折は
 その
 事
 見入れて、
 思はん
 さま
 に
 して
 出し
 立て
 など
 せばや。

 よき人の
 おはします
 御
 有樣
 など、
 いと
 ゆか
 しき
 ぞ、
 けし
 からぬ
 心
 にや
 あらん。

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(二八五段)・・・「二百八十五・弐百八拾五・弐八五・仁百捌足伍」段
         2+8+5=15=十五=壱拾五=足伍
         2×8×5=80=八十=八拾=捌足

 見
 ならひ
 するもの
 欠伸
 (あくび)。
 兒ども。
 なま
 けし
 からぬ
 えせ
 もの。
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 ・・・ナマ、ケシ、からヌ、似非、モノ・・・