1291日目・・・蝦夷地、渡島、松前藩、北海道、空知郡・・・地名・・・三笠、美唄、夕張、光珠内、茶志内、奈井江、豊沼、砂川、上砂川、歌志内、滝川、幌向、妹背牛、芦別、西芦別、富良野・・・北海道、蝦夷、炭鉱、石炭、隗炭・・・軍艦燃料・・・海戦・・・沈粉、沈没、海没、溺死・・・オボユル・・・

ーー
 北海道空知郡
 南幌町奈井江町上砂川町
 上富良野町中富良野町南富良野町・・・
ーー
 1879年(明治十二年)
 行政区画としての郡域
 上記六町のほか、
 岩見沢市・美唄市芦別市赤平市
 三笠市滝川市・砂川市・歌志内市
 富良野市、および深川市の一部
 石狩川以南
ーー
 江戸時代
 空知郡域は西蝦夷地に属し松前藩
 文化四年、空知郡域は天領
 文政四年、一旦松前藩領に復す
 安政二年、再度、天領庄内藩警固地)
      石狩役所の
      荒井金助によって石狩炭田が発見
 1869年
 戊辰戦争箱館戦争終結直後
 大宝律令の国郡里制に倣い
 空知郡が置かれた
 明治二年八月15日
 (1869年
  9月20日)
 石狩国および空知郡が設置
 開拓使が管轄。
 十月九日
 (11月12日)
 一部の区域が伊達邦直・伊達宗広の領地
 十一月十四日
 (12月16日)
 一部の区域が亘理胤元の領地
 明治四年八月二十日
 (1871年10月4日)
 廃藩置県により再び開拓使の管轄
 明治十二年(1879年)
 七月二十三日
 行政区画として
 空知郡、発足
 明治十三年
 (1880年)
 三月
 石狩郡外
 七郡役所
 (石狩・厚田・浜益・上川・樺戸
  雨竜・空知・夕張郡役所)の管轄
 明治十五年
 (1882年)
 二月八日
 廃使置県により札幌県の管轄
 明治十七年
 (1884年)
 四月
 札幌郡
 五郡役所
 (札幌・夕張・空知・樺戸・雨竜・上川郡役所)の管轄
 明治十九年
 (1886年)
 一月二十六日
 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄
ーー
 明治三十三年
 (1900年)
 七月一日
 北海道一級町村制の施行
 岩見沢村の一部(北村を除く)の区域を
 岩見沢村(一級村)としてえ発足(一村)
ーー↓
 明治三十五年
 (1902年)
 四月一日
 北海道二級町村制の施行
 奈江村(二級村、単独村制)が発足。(二村)
 明治三十六年
 (1903年)八月二十三日
 奈江村が・・・?「奈井江」ではなく「奈江」・・・
 改称して
 砂川村となる(二村)
ーー↓
 明治四十二年
 (1909年)
 四月一日(一町十一村)・・・四月馬鹿
 北海道二級町村制の施行
 音江村、幌向村が発足
ーー↓
 音江村(おとえむら)
 1963年
 五月一日に
 深川町・一已村・納内村と合併し
 深川市となった
 地名の由来
 アイヌ語
 「オ・トゥイェ・ナイ」
 (川尻が崩れる川)・・・
  カワジリがクズれるカワ
  掛話字裏臥句事例留掛話
  センコウがホウれるセン
  先 攻  砲   戦(船)
  ↓
  選考・潜行・潜航・閃光
  専攻・専行・先行・先攻
  遷幸・染工・鮮紅・選好
  選鉱・銑鋼・繊巧・先考
  戦功・線香・先皇・潜幸
  千稿・千項・千行・潜幸
  選好
ーー↓
 滝川村の一部が
 分立して
 江部乙村(二級村)が発足
 (エベオツ)→乙(イツ)→弟(テイ・ダイ)→音
 沼貝村・滝川村・栗沢村が
 北海道一級町村制を施行
ーー
 昭和十九年(1944年)四月一日
 砂川町の一部
 字奈井江町および奈井江・東奈井江の各一部が
 分立して
 奈井江村が発足(八町十一村)
ーー↓・・・奈江〜奈井江・・・?
 1890年 奈江村が設置される。
 1895年 奈江村戸長役場が設置される。
 1897年 一部を歌志内村
      (歌志内市芦別市赤平市)として分離
 1902年 二級町村制施行「奈江村」
 1903年 奈江村を砂川村と改める。
 1907年 一級町村制施行「砂川村」
 1923年 町制施行「砂川町」
 1944年 砂川町の南部が
      奈井江村(奈井江町)として分立
      ↓
 ・・・「奈江(なえ)」村から「奈井江(ないえ)」村に・・・ナゼ、「井」の文字が加えられたのか・・・?
 「奈 江」・・・な え・ナ コウ・・・苗・萎・綯
 「奈井江」・・・ないえ・ナイコウ・・・内攻・名移項
   ↓
 アイヌ語の「ナヱ」から転訛したもので 「砂多き川」
 アイヌ語の「ナイェ(その川)」が訛って地名
   ↓
 「奈」が「ナィ」と発音するならば「井」は無くても「ないえ」と音声発音していたか、「井」を加えて「なぃいえ」と音読をしたかった?・・・「井(い・ゐ・ショウ・セイ)」は平仮名、片仮名では「ゐ・ヰ」である?・・・「ゐ」は「猪・亥」で、「ヰ」は猪の「彑(ケイ・カイ)」か、「牙」ではないのか・・・兎に角、「井戸の井桁」、「田圃の井田」で、「囲碁の盤の縦横罫線」か、「地図上、地球儀の縦横の経度、緯度の罫線」である。「緯度」は地球儀南北を「横に輪切の線」で、「経度」は「縦割りの線」である・・・アイヌ語のオタウシナイ(砂の多い川)、「オタ」は砂、「ウシ」は多い、「ナイ」は川・・・「音」を採った地名が「歌志内」である。スナワチ(乃)、「砂川」は意味を採った・・・では、「奈江(ナエ・ナィエ)=奈井江」は・・・?・・・「音の意味」なら「川」である・・・「綯(なう・な・トウ・ドウ)い得」か「萎(なえる・イ)+ヰ+荏(え・ジン・ニン)」・・・?・・・松浦武四郎がココを訪ねた時に「埃及(エジプト)のナイル河」を妄想したのではないかと・・・砂地の石狩川を見下ろす「ピンネシリ(山)」はピラミッドで、北海道「樺戸郡新十津川町」と「石狩郡当別町」の境にある「カムイの山」である・・・樺戸(カバト→「河馬・樺・蒲・椛」渡)、石狩(石の狩)、当別(アテワケける)・・・
   ↓
 「萎=イ(ヰ)・なえる・しぼむ・しおれる」
 「萎縮・萎靡(いび)・陰萎」
 「荏=エゴマ・荏胡麻
    シソ・紫蘇・・・ムラサキの蘇我
    柔らかい
    段々と」
    そら豆=空豆・蚕豆
 ・・・「空知」は「そら豆」・・・?・・・別名、「ノラマメ(野良豆)・ナツマメ(夏豆)・テンマメ(天豆)・シガツマメ(四月豆)」・・・揚げて塩をふったものは「いかり豆」・・・「枝豆=大豆」はどうなのか・・・明治時代、北海道で収穫可能な農作物は「蕎麦・粟・稗・豆類」など、「馬鈴しょ・亜麻・除虫菊・ハッカ・てん菜」・・・開拓し、その農地を自分のモノにするには「豆」と「蕎麦」であったのだが・・・「米」の収穫は難しかった・・・「空知」は漢字分解では「空=宀+八+エ」で「知=矢+口」だが、「矢」は「ノ一(髪挿し)」+「大」で、更に「大」は「一(はじめ・イチ)」+「人(ひと・ジン・ニン)」である。
 ・・・「イ=藺」→「藺草=燈芯草」に似たものはススキ(薄)、アシ(芦・葦・蘆)、カヤ(葺・萱)で「フキ」は「フガヤフキアエズ」だが・・・「伽耶」は「加羅」だろう・・・
 ↓
 内得(ないえ・ナイドク・うちどく・内徳とも書く)はどうか?・・・ブログ記事の説明では「内之得分」の略称であるらしい・・・↓
 室町・戦国期の近江、越前、美濃など畿内周辺諸国の「田畠売券」や「寄進状」などに現れる用語で、「名(みよう)之内得・名内得分」などと表現され、多くの場合「名主(みようしゆ)」の「私的得分」である「加地子(かじし)分」を指し、売買などで移動した。越前西福寺文書の1515年(永正十二年)二月九日付「春庾田地売券」は、平内名(みよう)所属の田地二反を売却したもので、それには「名の内得分を売る」の意味で、本役などは自分(名主)の方で負担し、この田地には「万雑公事(まんぞうくじ)」は一切かからない旨が記されている・・・
 「万雑公事」
  ↓
 平安中期以後、荘園・公領で賦課された年貢以外のさまざまな夫役や雑税の総称。十四世紀以後は銭納も多かった。
 荘園において、年貢以外の、夫役を含むすべての雑税
 年貢以外の夫役雑物を含めた全ての雑税
 ↓
 「奈多(なだ)」氏も「万雑公事」でトラぶっていたらしいコトがブログ記事に掲載されていた。
 ↓
 豊後国
 安岐(あき)郷
 奈多八幡 (杵築市) 大宮司
 宇佐大宮司の公基(きみもと)より出自の一族
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 北海道は「不在地主」の大地でもあった・・・「農地」が「株式会社」で経営されると「あぐら農場」にも・・・「小作地は農地改革で強制買収され、不在地主農地法で禁じられたが1970年の改正で小作地平均1haまでの制限付で認められた」・・・「農地」が「国有化=共産党化=擬似資本主義化」されると・・・かってのソビエト、そして今現在の大陸中国の農民はルンペン・・・小説「大地」は・・・無纏足で泣いた「王龍」の妻、「黄家」の奴隷、「阿藍」の執念・・・「薄熙来(ポー・シーライ・1949年7月3日」と、その妻「谷開来(薄谷開来・ポー・グーカイライ)」・・・愚、傀儡・・・虞、傀儡・・・木偶の坊だった?
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 年干支・・・己 丑(癸・辛・己)
 年天干変通 正財・・↓地支蔵干変通  12運
 年蔵干・・・・ 丑(印綬・正官・正財)冠帯
 年月支関係・・・害
 月干支・・・庚 午(丙・ ・丁)
 月天干変通 偏官・・↓地支蔵干変通  12運
 月蔵干・・・・・午(食神・  ・傷官)死
         刑     格式食神・傷官
 日干支・・・甲 午(丙・ ・丁)辰巳←空亡
 日天干変通 比肩・・↓地支蔵干変通  12運
 日蔵干・・・・・午(食神・  ・傷官)死

 大運    甲 子(壬・ ・癸)
       比肩・生年支合己・生月日沖     

 年運    癸 巳(戊・庚・丙)年
       印綬
 月運    壬 戌(辛・丁・戊)月
       偏印・生月日三合丙食神
ーー  ↓
 「奈(大+示)」=「柰(木+示)」
 音読
 呉音=ナ・ナイ
 漢音=ダ・ダイ
 訓読=からなし・いかん・いかんせん・いかんぞ
     いかん=如何=奈何
     「いかに」・・・事の次第・なりゆき・ようす
     疑問文、反語文
     疑い問う意=どうか?・どうであるのか?
           どうしたらよかろうか・どうしようか
 いかん=如何(ジョカ)=奈何(ナガ)
    「如・・→い←・・奈」+何(カ・ガ)
     ↓          何(なに・なん) 
 「垓下之歌・(がいかのうた)」
 楚と漢の「垓下の戦い」で
 西楚の覇王「項羽(項籍)」が「虞美人」に贈った詩
 「史記・巻七項・羽本紀 第七」や
 「漢書・巻三十一・陳勝・項籍・傳第一」に記録
     ↓
 「虞や、虞や、若(なんじ)を奈何(いかん)せん」
 「力抜山・・・力、山を抜き
  兮・・・・・や(ケイ・ゲ)
  気蓋世・・・気は世を蓋(おほふ)
  時不利・・・時、利あらず
  兮・・・・・や(ケイ・ゲ)
  騅不逝・・・騅(愛馬)は逝かず
  騅不逝・・・騅(愛馬)は逝かず
        騅(あしげ=葦毛の馬・スイ)
          葦毛=灰色の毛並みの馬
  兮・・・・・や(ケイ・ゲ)→八+丂
          丂=(まがる・コウ)
             曲がった釘  考
  可・・・・・すべきか
  奈何・・・・いかんと
  虞兮・・・・虞や・・・虞(おそれ・おびえる)
  虞兮・・・・虞や
  奈若何・・・若(なんじ)を奈何(いかん)せん
        若=艸+ナ+口・・・匿=匚+若 
ーー↓
  奈、若(わかい・もしくは・ジャク・ニャク)、何
     「若」が「虞」のコトなのか?
ーー↓
 なんぞ・いかん・この・〜できる
 耐える
 サンスクリットなどの「音訳」に使われる
 「柰=木+示」が本字
 「柰」=大きめのリンゴ(林檎)・カラナシ(唐梨)
 「奈」は果物の意味では使わず、
    「柰」と「奈」には使い方に区別がある
    「柰」は「説文解字・巻六(段注本)」に
    「柰果」なりとある。
 字形
 声符は示・もと果実・「なんぞ」の意味は仮借
 音訓
 音=ダイ、ダ(漢音)・ナ、ナイ(呉音)
   ダイの同音異字は
  「廼(の・すなわち・そこで・かくて)」
   廼=西(にし)+廴(ひく・イン)」でもある
   いんにょう(廴繞)
   えんにょう(延繞)
   は「長い道のり」で、
  「廼」ならば「西への長旅」である
 訓=いかん・なんぞ・いかんぞ
 声符
 「奈・柰」を声符とする漢字
    捺(おす・ナツ・ナチ)→捺印・捺染
      捺染=おしぞめ・ナッセン・ナセン
    渿(うるし・シツ・シチ)→漆黒・漆喰
      漆塗り
    漆=「氵+木+人+氺(したみず・スイ)」
    黍(きび・ショ)に似ているが
    黍=「禾+氺」
      である・・・
      「*(アスタリスク)」で「示」ではない
    隸(しもべ・レイ・ライ)→隷属・奴隷
    隶(およぶ・イ・タイ)
   「奈」が音符、声符とも思えない
   「捺(ナツ・ナチ)」と、「隷(レイ・ライ)」の
    「異音読」である。
    これは「捺印」→「奴隷」の「意符」である。
    「捺印」は奴隷管理の
    「刺青・刺青・焼き鏝」の意味だろう・・・
 語彙
 奈何(いかん)・奈辺(ナヘン・那辺)
不定称の指示代名詞
「どのあたり・どのへん・どこ」は
    「那(いかん・いかんぞ・いかでか
       どうか・どのようか・どうして
       どれ・どの・ナ・ダ)」が
    「那=尹+邑」で国や港の監督・長官なら
     文字道理である
     ↓
   富楼那(ふるな、サンスクリット=Purna)
   釈迦十大弟子の一人
   説法第一・十大弟子中では最古参
   弁舌家
  「富楼那・弥多羅尼・弗多羅(プルナ・プンナ)」
    ↓
「奈落(ナラク)の底」は地獄である
  「奈」は「な」の平仮名・「ナ」の片仮名の字源
    「奈良=那羅・寧楽・平城」
  兎に角、
 「奈=大+示=一+人+示(二亅八)」で
 「柰=木+示=十+八+示(二亅八)」である・・・  
ーー↓
  奈勿尼師今(ナコツ ニシキン)
  ?〜402年
  新羅の第十七代の王
 (在位=356年〜402年)
  姓は
 「金」
  「三国史記・分注の別名」は
  「那密(尼師今)」・・・奈勿→ナなかれ
              那密→ナひそか
  第十三代
  「味鄒尼師今(ミスウ ニシキン)」の
         ミシュ ニシコン
  甥
  父は
  「仇道葛文王(キュウドウ カツブンオウ)」
   の子の
  「末仇角干(マツキュウカクカン)
           一等官の別名)」
  母は
  「金休礼」夫人
  王妃は
  「味鄒尼師今」の娘の
  「保反」夫人
   ↓
  「三国遺事・王暦」は
  「奈勿麻立干」
  「味鄒尼師今」の弟
  一説で
  「味鄒尼師今」の
  甥と伝承
  先代の
  「訖解尼師今」が
  356年四月に子の無いまま死去し
  「奈勿尼師今」が王位を継いだ
  以後、五十三代の
  神徳王(在位=912年〜917年)まで、
  新羅の王統は
 「金」氏で占められた
 ・・・?
ーーーーー
 枕草子
 (二一五段)・・・(百二十五・壱佰弐拾五・壱貮五・陌仁足伍)段
          1+2+5=8=八=捌
          1×2×5=10=十=壱拾=足

 廊に便なき人なん、
 (郭似、他より無き比賭、何
  くるわ・カク・・・・・難・納・男)
 曉に笠ささせて出でけるといひ出でたるを、
 (アカツキにカササセテ・・・
       リュウ、篠差出、意出懸留、
            問い比、意出他留緒)
 よく聞けば我がうへなりけり。
 (・・・・雅臥、得重名理懸理)
 地下などいひても、
 (時下、時価、字掛、等、意比出摸)
 めやすく、
 (目安句→目安の規矩)
 人に許されぬばかりの人にもあらざめるを、
 (比賭爾、諭留されぬ葉借り之、
           比等爾摸新座女留尾)
 怪しの事やと思ふほどに、
 うへより御文もて來て、
 「返事只今」と仰せられたり。
 (反す言、只、今現在・・・・)
 何事にかと思ひて見れば、
 (何語賭かと・・・・)
 大笠の繪をかきて、
 (大龍、滞留之、絵(海)をカキテ
         重尾、書き手)
 人は見えず、
 (比等葉、見えず)
 唯手のかぎり笠をとらへさせて、
 (ただ、ユイ、て、シュ、之、
    掛義理、
       劉、柳、隆を・・・)
 下に
 (史摸、詞摸、解爾)
   三笠山やまの端あけしあしたより
  (北海道三笠市・戦艦三笠、
      纂、桟のハシ、は
          明史、明石、
              明日、朝・与裏)
ーー↓
 とかかせ給へり。
 (渡河、賭掛、枷、加勢、弾減り)
 猶はかなき事にても、
 (なお、墓無き、墓泣き、コト似て喪)
 めでたくのみ覺えさせ給ふに、
 (目出度く、芽出度く、愛でたく、之、身
       記憶・・・)
 恥しく心づきなき事は、
 (ハズカシク・・・)
 いかで御覽ぜられじと思ふに、
 (以下出・・・)
ーー↓
 さるそらごとなどの出でくるこそ苦しけれと、
 (猿、空言・空事・空毎・虚言・・・加羅
    空知郡は北海道・・・)
 をかしうて、
 (可笑しうて)
 こと紙に、
 (糊塗史爾・事詞爾・如し似・・・ゴト師)
 雨をいみじう降らせて、
 (あめ、ウを、
   意味字得、振らせ、触らせ、付等施出)
 下に、
   雨ならぬ名のふりにけるかな
   (アメ、那等ぬ、名の振り爾懸留仮名)
 さてや濡れぎぬには侍らんと啓したれば、
 (作出也、塗れ偽ぬ爾葉、
          ハベ乱賭、ケイ詞他例場
          刃部乱徒、刑 死、誰場)
 右近内侍などにかたらせ給ひて、
 (ウコンナイジ=得今、無い字・・・)
 笑はせ給ひけり
 (話等葉施、他真意懸理)
ーーーーー
 ・・・夕張、三笠炭鉱・・・三笠、大日本海海戦・・・