1285日目・・・「一八八(壱百八拾八)段」〜「百九十(壱百九拾壱)段」まで「三段跳び」・・・単純な理由・・・「文段」が短いからネ、ッ・・・それにしてもアッチ、コッチの「場所の想い」が語られているが・・・女の足で旅人になって現地の後景、景色を実際に見たんだか、それとも他人から訊いたのか、「名所の書物」類からの得た知識のイメージなのか・・・いと、をかし・・・実際の「見聞」を「記録」したなら宮廷に勤める前はヨッポど余裕と暇があったか、「女忍者」だったんだろう・・・

 今現在・・・午後十八時三十分ころ・・・雷の音が凄まじい・・・モモは雷鳴に怯えて家の中をウロウロしている。ブブはテーブルの上で熟睡・・・TV画面では、子ネコの「わさび」のニュース・・・札幌ではJRの電車の信号機に落雷で、不通・・・秋田では突風災害・・・
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 枕草子
 (一八八段)・・・百八十八段・壱佰八拾八段・壱八八段・陌捌足捌段
          1+8+8=17=十七=壱拾七=足漆
          1×8×8=64=六十四=六拾四=陸足肆

 島は・・・・・・「しま」は・「嶋・志摩・死魔」者
縞・・・縦縞・横縞→経度・緯度
縞模様→虎の皮
揣摩→読心術→読唇術
 浮島。・・・・・うきじま
         フトウ・附等・不等・府等・不倒・・・
         フトウの同音異字漢字のスベテ
 八十島。・・・・やそじま・耶蘇字磨
         摂津の難波津の島々
         八十・八拾・捌足
 たはれ島。・・・風流島=煙草(たばこ)島
         たはれ島=熊本県宇土市住吉町
              宇土半島の北側に位置
 水島。・・・・・岡山県倉敷市の水島地区
         水島灘の諸島
 松が浦島。・・・仙台松島の「七が浜」を巡る一つの浦
         二番目に存在する
         鴻ヶ崎=松が浦島・江観台・御殿崎
         等と呼ばれているらしい
         平安初期、行ってみたい島七の一
         伊達政宗、歴代の仙台藩主が
         松ヶ浦島の風景を愛でた
 籬の島。・・・・まがきのしま
         宮城県
         塩釜港内海岸にある小島
         曲木神社を祭る
         曲木島(まがきしま)ともいう
 豐浦の島。・・・とようらのしま
         帶中日子天皇=第十四代仲哀天皇
         ↓
         帶中日子天皇
         坐
         穴門之・・・・長門国の古称
                関門海峡長門
         豐浦宮、
         及
         筑紫訶志比宮。治天下也。
         豊浦大臣=蘇我大臣を謂う也。
         豐浦大臣=蘇我蝦夷
         島大臣=蘇我馬子蝦夷の父
         豐浦皇子=田目皇子
         ↑
         蘇我大臣
         稻目宿禰(馬子の父)の女(娘)
         石寸名(いしきな)を?
         ↓   セキスンメイ
         ↓   尺 寸 名=名を測る尺寸
         ↓   いわすな?
         ↓   言わすな?
         ↓ 伊志支那郎女とも記される?
         ↓ 支那は一般的に幕末明治の概念
         ↓    ↓
         ↓ 遺子支那(唐)郎(将)の娘?
         用明天皇の元年一月一日
         (586年1月26日?)、
         甥である用明天皇の嬪とし、
         是、田目皇子を生めり・・・伝目
         更の名は豐浦皇子
         ↓
         倭名に
         河内国
         河内郡
         豊浦と鈔。
         大津=和泉国和泉郡に在り
         ↓
         愛媛県
         西宇和郡伊方町
         豊之浦
         ↑
         広島の南
         宇和島の北西
         大分国東半島の東
 たと島。・・・・たととう・・・他、豊島?
         多度島→多度津
         多度津香川県仲多度郡
         瀬戸内海の行政区部内
         塩飽諸島の高見島、佐柳島
         1889年(明治二十二年)五月
         丸亀-琴平間に四国で初の鉄道
         四国鉄道発祥の地
ーー↓ーーーーーー↓
      ・・・「枕草子」の文章をダレが分類して
     「物は尽くし」なんかと言い出したのか?・・・
     「モノの葉・場」は「筑紫」だろう・・・
      伊勢の「豊受」も豊後、豊前、豊国を
     「受けた」と、云うことであるかな・・・
     「伊勢神宮(三重)」よりも
     「宇佐神宮(大分)」を
     「阿倍女帝」が信頼していたのだ・・・
      裏切ったのは
     「和気清麻呂=和気汚麻呂」であった・・・
      彼を持ち上げたのは
     「水戸黄門」である・・・
      尊皇攘夷の根幹は「廃仏」であった・・・
     「豊受大神宮」は、
      内宮の「天照大神=織姫」に対して
     「外宮(げくう)」と呼ばれるのは
     「月読命ツクヨミ)=食姫」だからである。
         ↓
         豊臣→豊聡耳→豊玉姫命→豊姫→豊島
         久留米市北野町大城=豊姫神
         備後国安那郡=天別豊姫神
         ↓         
         豊田(尾張・名古屋・愛知)は
         豊田織機
         豊島区(武蔵国豊島郡・東京都)
         豊島氏(桓武平氏)は
         1477年
         江古田・沼袋原の戦い
         太田道灌に敗れて滅亡
         ↓
         豊島(てしま)は
         香川県の「豊島石材」の産地
         唐櫃岡(からとおか)の湧き水
         産業廃棄物の「捨て場」事件
         ↓
         豊島
         広島県呉市
         ↓
         豊島(とよしま)
         瀬戸内海の中央、上島諸島の一つ
         愛媛県越智郡上島町に属する
         弓削島の南東に位置
         大正時代に
         花崗岩の採石         
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 枕草子
 (一八九段)・・・百八十九段・壱佰八拾九段・壱八九段・陌捌足玖段
          1+8+9=18=十八=壱拾八=足捌
          1×8×9=72=七十二=七拾弐=漆足貳

 濱は・・・・・・はま・ヒン
 そとの濱。・・・ 外ヶ浜町・・・?
          青森県津軽半島の北東部に位置
         (東経140°38′、北緯41°2′)
          東は陸奥湾に面し、
          西は中山山脈を隔てて
          北津軽郡の市町村が隣接
          南は蓬田村と隣接し、
          北は今別町をまたいで
          本半島最北端の
          三厩地区があり、
          津軽海峡を隔てて
          北海道と相対
          津軽国定公園
          龍飛崎
        「外ヶ濱」は焼酎の銘
         蔵元の「西田酒造店」は
         明治十一年(1878)創業
         外が浜
         青森市大字油川大浜
 吹上の濱。・・・1)
         和歌山市
         紀ノ川口の
         湊(みなと)から
         雑賀(さいか)の
         西浜に至る海岸
         2)
         兵庫県
         南あわじ市
         阿万吹上町
         淡路島の名所
         3)
         富士川の河口
         蒲原の「吹上の浜」
         昔、製塩業が盛ん・・・?
         塩→赤穂・吉良・・・・松の廊下
         潮→鯨の噴き上げ・・・捕鯨
 長濱。・・・・・滋賀県北東部に位置
         羽柴秀吉長浜城の城下町
         大通寺の門前町
         北国街道や琵琶湖水運の要衝
         姉川古戦場
         国友は近世に
         鉄砲生産拠点として繁栄
         ↓
         国友 一貫斎
        (くにとも いっかんさい)
         九代目
         国友藤兵衛
         安永七年十月三日
        (1778年11月21日)
           〜
         天保十一年十二月三日
        (1840年12月26日)
         鉄砲鍛冶師・発明家
         幼名は藤一
         号は一貫斎・眠龍
         諱は重恭・能当(能當)
         日本で最初の
         実用空気銃や
         反射望遠鏡を製作
         自作の望遠鏡を用いて
         天体観測を行った
ーー↓ーーーーーー↓
     国友藤兵衛
     文化八年(1811年)
     彦根藩の御用掛となり
     二百目玉筒を受注し
     鉄砲職人年寄同士のトラブル、
    「彦根事件」
     文政元年(1818年)に勝訴
     文政二年(1819年)
     オランダから伝わった
     風砲(玩具の空気銃)を元に
     実用の空気銃、
    「気砲」を製作
    「気砲記」を著し、後には
     20連発の早打気砲を完成
     天保三年(1832年)頃
     グレゴリー式反射望遠鏡を製作
     口径60mmで60倍の倍率望遠鏡
     天保の大飢饉等の天災で
     疲弊した住人のために大名家等に売却
     上田市立博物館(天保五年作)、
     彦根城博物館に存在
     玉燈(照明器具)、
     御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、
     鋼弩、
     神鏡(魔鏡)などを発明
     自作の望遠鏡で
     天保六年(1835年)
     太陽黒点観測
     月や土星、その衛星のスケッチ
     天保十一年(1840年)
     国友村にて死去
     享年六十三
ーー↓
 打出の濱。・・・うちでのはま
         福島県石川郡石川町沢井打出
         富山県富山市打出
         愛知県名古屋市中川区打出
         愛知県名古屋市中川区打出町
         愛知県名古屋市中川区打出本町
         滋賀県大津市打出浜
         兵庫県芦屋市打出小槌町
         兵庫県芦屋市打出町
         島根県松江市打出町
         高知県土佐市高岡町打出神
         鹿児島県川辺郡知覧町郡打出口
         群馬県安中市秋(飽)間(馬)馬場
         打出(うちで)
         世田谷
         吉良氏初代
         吉良冶家(はるいえ)が
         鎌倉時代末期に居城
        「軍勢が打ち出た所」・・・
         秋間川低地を見渡せる
         秋間丘陵上、東山道との交差点
        「日本武尊」も通った伝承場所
        「打ち出の小槌」ってコトバもあるけれど・・・
        「ウチデ」=「打=手+丁」と「出=山+山」
               手帳・手帖の山々(纂同)
        「得知出」・・・「裡」で・・・
ーー↓
 諸寄の濱。・・「もろよせ・モヨロ」のハマ
         ショキのハマ・・・書紀の葉真?
         諸寄駅(もろよせえき)
         兵庫県美方郡新温泉町諸寄字岡
         ↓
         前田純孝
         明治十三年(1880)
         兵庫県
         二方郡
         諸寄村で生まれた歌人
         兵庫県御影師範学校
         東京高等師範学校を卒業
         大阪府
         島之内高等
         女学校教頭
         肺結核で諸寄村で
         明治四十四年(1911
         三十一歳で死亡
         東の
         啄木(たくぼく)、・・・?
         西の
         純孝(じゅんこう)と・・?
         並び称された
         明治末期の詩人
        「風吹かば松の枝なる枝なれば
         明石を思ふ妹と子思ふ」
         ↓
         諸寄(もろよせ)近辺
         餘部鉄橋
         明治四十五年に完成
         山陰線鎧〜餘部駅間の
         谷間にかかる
         高さ41m,長さ310mの
         高架鉄橋
         昭和61年(1986)
         回送中の列車が突風にあおられて転落
         下にあった水産加工工場を直撃
         ↓
         最寄(もよろ)
         モヨロ貝塚
         北海道網走市北一条東から北三条東に存在
         オホーツク文化の代表的遺跡
         網走川河口左岸、
         オホーツク海のそばに位置
         指定名称は
        「最寄」貝塚
         本貝塚名は、当時のアイヌ人が
        「モヨロ・コタン」と呼んでいた
        「モヨロ貝塚」の命名
         1913年(大正二年)
         青森の考古学研究者
        「米村喜男衛
        (よねむらきおえ)」が発見し
         1918年(大正七年)
         米村によって付けられた
        「モヨロ」は「入江の内、所」という意味
         ↓
         石川 啄木
         岩手県岩手郡
         日戸村生まれ
         本名は一(はじめ)
         明治十九年
         1886年2月20日
       or 1885年(明治十八年)10月28日?
          〜
         明治四十五年
         1912年4月13日
         明治三十七年
         1904年
         九月〜十月
         青森、
         小樽を旅行、
         小樽駅長の義兄宅に宿泊
         1906年
         明治三十九年二月十七日
         函館駅長の義兄を訪問
ーー↓ーーーーーー↓
     3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る
     4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員
     6月、小説を書き始める。
     12月、評論「林中書」を脱稿
     1907年(明治40年
     1月
     函館の文芸結社苜蓿社より原稿の依頼
     4月1日、新生活を北海道でと、辞表退職
     する
     5月5日、函館に移り松岡蕗堂の下宿
     5月11日から5月末日まで
     函館商工会議所の臨時雇い
     6月、弥生尋常小学校の代用教員
     8月には「函館日日新聞」遊軍記者も兼ねる
     函館大火によって離れる
     9月、札幌で『北門新報』の校正係
     9月末、小樽に移り、『小樽日報』の記者
     12月には社の内紛で退社
     小樽日報では同僚に野口雨情
     1908年(明治41年
     1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で、
     西川光二郎と面識を得る
     家族を小樽に残し、
    「釧路新聞社北海道新聞社)」に勤務
     創作活動へと釧路を離れる決意
     1910年(明治43年
     3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終え
     出版事務全般を受け持つ
    「大逆事件
     5月下旬から6月上旬
     小説『我等の一団と彼』を執筆
     6月3日、幸徳秋水拘引の記事解禁
     7月1日、入院中の夏目漱石を見舞う
     8月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆したが
     「朝日新聞」には掲載されず
     9月15日、『朝日新聞』紙上に
    「朝日歌壇」が作られ、その選者となる
     8月の朝鮮併合後の作として
    「地図の上朝鮮国にくろぐろと
     墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、
     歌集には収録せず
     12月、第一歌集「一握の砂」を東雲堂より出版
     1911年(明治44年)1月、友人で弁護士の
     平出修と会い、
     幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用
     1月10日、アメリカ合衆国で秘密出版され、
     日本国内に送付された
     ピョートル・クロポトキン著の
     小冊子「青年に訴ふ」を
     歌人
     谷静湖より寄贈され、愛読
     1月13日、土岐哀果と会い、
     雑誌『樹木と果実』の出版計画を相談
     5月、幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに
    「A Letter from Prison」と題し前文を書く
     6月15日から17日にかけて長編詩を執筆、
    「はてしなき議論の後」と題す
     1912年(明治45年)
     3月7日、カツ死去
     4月9日、土岐は第二歌集出版の話を啄木に伝える
     4月13日、啄木、小石川区久堅町にて死去
     妻、父、友人の若山牧水に看取られ、享年26
     ↓
  東海の 小島の磯の 白砂に
           われ泣きぬれて 蟹とたはむる
  砂山の 砂に腹這い 初恋の
           いたみを遠く おもひ出づる日
  いのちなき 砂のかなしさよ
        さらさらと 握れば指の あひだより落つ
  たはむれに 母を背負いて
        そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
  はたらけど はたらけど猶
        わが生活楽にならざり ぢつと手を見る
  友がみな われよりえらく 見ゆる日よ
             花を買い来て 妻としたしむ
  ふるさとの 訛なつかし 停車場の
             人ごみの中に そを聴きにゆく
  かにかくに 渋民村は 恋しかり
             おもいでの山 おもいでの川
  石をもて 追はるがごとく ふるさとを
             出でしかなしみ 消ゆる時なし
  やわらかに 柳あをめる 北上の
             岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
  ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし
             ふるさとの山は ありがたきかな
   ↓↑
 ・・・所謂、「たかり魔」で、困窮した生活ぶりゆえ、
       よく友人知人からお金をせびっていた
         墓地は
         北海道函館市立待岬
ーー↓
 千里の濱・・・千里の浜(和歌山県日高郡みなべ町
 こそ・・・
 廣う・・・・・ひろう・コウう
        拾う・疲労・披露・卑陋
 おもひ・・・
 やらるれ。・・・
ーーーーー
 枕草子
 (一九〇段)・・・百九十段・壱佰九拾段・壱九拾段・陌玖足段
          1+9+0=10=十=壱拾=壱足
          1×9×0=0=零

 浦は・・・・・・・うらは・裏葉
 生・・・・・・・・うまれる・いきる・はえる・セイ
(おう)の浦。・・・おう
          奥・王・汪・欧・凹・姶・墺
          追う・負う
          の・之・埜・野・の
            乃(すなわち=砂和地)
          うら・ホ
          裏→得等
ーー↓
 鹽竈・・・・・・・鹽(エン)竈(ソウ)
          沿層・演奏・縁総
 (しおがま)・・・しほがま・詞保臥真
          塩・潮・汐・志雄・・・大石蔵之助
 の浦。・・・・・・塩竈塩釜市
          宮城県のほぼ中央、
          仙台湾に位置
          陸奥国一宮
          鹽竈神社門前町
ーー↓
 志賀の浦。・・・・こころざすくにのうら
          滋賀の浦
          史臥之裏・詞臥之得等
 名高の浦。・・・・なだかのうら
         「なだか・灘か・名拿掛
          メイコウ」のウラ
 こりずまの浦。・・・こりづまのうら
           懲り・凝り・狐狸・古里
           虎里→故里→楚←於菟
                 楚→木木疋
           記紀を疋(ひき・あし・ショ・ソ)
           つま・都万・妻・褄・嬬
              端・爪
              通真
 和歌の浦。・・・・・和歌の裏
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