1276日目・・・?・・・臥薪嘗胆・・・野球、サッカー、勝負の世界はスポーツとゲームの中だけにして欲しい・・・それに、腕相撲ですかね、八重さん、大山巌君・・・「捨て松」もカッコいいけれど・・・「鹿鳴館」・・・ロック名換・・・

 「鹿鳴館(ロクメイカン)」・・・「録名鑑」・・・
 「六=亠+八=陸」の「名鑑・名換」・・・
 「鹿=deer・ディーア・ディアー」
 「親愛なる=dear・ディーア・ディアー」
 「6=six(スィクス→疾駆す→疾苦素)」
 「陸=land(ランド→覧度)・shore(ショァ→書亜) 」
    ・・・・・「陸亀tortoise」→トォタス→十足す
    ローマ字読みなら「トぅトィス」→尊い
 「鹿の鳴き声(bell・ベル→部留)」
 「館=palace→はれ素・城=castle→脚素留・伽諏留→お伽」
 「舞踏室=Dancehall→箪笥(団子)補於留・dance hall
      ballroom→ボールルーム=舞踏会場
          「玉・球・まり」の「部屋」
           望得留・暴得留・謀雨流
      バレ(ばれ)留得武」
      バレル(バーレル、barrel)=樽(木+尊)→足る
      バレー(volleyball・バレーボールの略)
          舞踏
          valley=谷
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 ボクには「キキトレナイ、クベツデキナイ、ドウショウモナイ、ワカンナイ」英語です・・・で、以下はボクの「家頁の小説(novel・ノベル→述べる)」です・・・ヒマなら・・・トライ(渡来)してみる・・・
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http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/hime12.htm

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/hime12a.htm

http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/hime12a2.htm
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 臥薪嘗胆の発端とエピソード
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 楚の霊王(在位・540年〜前529年)
 諸侯や淮夷らと
 申で会盟したのを機会に
 淮夷は楚に朝貢し、盟を守った
 後に
 越が琅邪に遷都すると、
 越王の勾践は淮夷を征伐し、
 諸夏を撃って
 山東地方の小国を侵略した。
 秦が六国を併合して中国を統一(前221年)
 淮夷や泗夷はすべて分散し、
 秦の民戸となる。
 中国東北部の東夷
 陳勝呉広の乱
 秦朝が滅ぶと(前207年)、
 燕人の
 衛満は避地である朝鮮に拠り(前195年)、
 その国の王となった
 (衛氏朝鮮
  100余年後、前漢 武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされると(前108年)、
  中国東北部の東夷諸族は漢王朝朝貢
 新の
 王莽が帝位を簒奪すると(8年)、
 貊人は辺境を寇した。
 後漢建武(25年・56年)の初め、
 東夷諸国はふたたび朝貢
 遼東太守の
 祭肜の威勢は北方の諸族を畏れさせたため、
 その名声が海の向こうにまで届き
 濊
 貊
 倭
 韓
 諸族が中国に朝貢
 章帝・和帝以後は使節が往来
 安帝の永初年間(107年〜114年)
 後漢の政治が多難になると、
 東夷諸族が初めて入寇
 桓帝霊帝の失政
 後漢末期の動乱
 遼東地域には
 公孫氏が三代が割拠
 中国と東夷諸国との国交が断絶
 魏の
 景初年間(237年〜240年)
 明帝(曹叡)は
 司馬懿 に命じて
 公孫淵の討伐
 楽浪郡帯方郡までを支配(238年)
 東夷諸国は魏に屈服
 その歴史は
 二十四史の各『 東夷伝』に記録
 周代以前の「夷」は
 江蘇省山東省付近の種族を指していた
 「夷」の意味
 「後漢書東夷伝
 初めの「夷」には侮蔑的な意味合いはない
 東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、
 「東夷」という言葉は
 中国東北部朝鮮半島
 「濊・貊・倭・韓」といった諸族を指す用語となった
 「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。
  これは他の三方の蛮夷(北狄西戎・南蛮)と異なる」とし、
 「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、
  俎豆(そとう)の礼がある。
  中国ではすでにその礼を失ってしまったが、
  東夷ではそれがまだ信じられている」
 と記録
  日本では
 「夷」を「えびす・えみし・ころす・たいらげる」と訓読
 東国の武士を
 「蝦夷(えぞ・えびす)」や「東夷(あずまえびす)」
 と呼称・・・
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 枕草子
 (一七八段)・・・百七十八段・壱佰七拾八段・壱七八段・陌漆足捌段
          1+7+8=16=十六=壱拾六=足陸
          1×7×8=56=五十六=五拾六=伍足陸

 宮仕人の
 里なども、
 親ども
 二人
 あるはよし。
 人しげく出で入り、
 奧のかたに
 あまたさまざまの
 聲多く聞え、
 馬の音して
 騒しきまで
 あれど
 かなし。

 されど
 忍びても
 あらはれても、
 おのづから、
 「出で給ひけるを知らで」
 とも、
 「又いつか參り給ふ」
 なども
 いひに
 さし
 のぞく。
 心かけたる人は、
 「いかがは」
 と
 門あけなどするを、
 うたて
 騒しう
 あやふげに、
 夜半まで
 など
 思ひたる
 けしき、・・・・景色・気色・懸史記
 いと
 にくし。
 「大御門は・・・代音文葉
  さしつや」・・叉詞通哉
 など
 問は
 すれば、
 「まだ人の
  おはすれば」
 など、
 なま・・・・・・名真
 ふせ・・・・・・伏せ・臥せ・附せ・布施・譜施
 がし・・・・・・掛詞・賀史
 げ・・・・・・・解・気・下・外
 に
 思ひて
 答ふるに、
 「人
  出で
  給ひなば
  疾く・・・・・とく・読・説く・得・涜・解・匿
  させ。
  このごろは・・「此の頃・今頃・この語路」葉
  盗人・・・・・唐人・当人・読訊
  いと
  多かり」
 など
 いひ・・・・・・意比
 たる、
 いと
 むつかしう、・・「六つ・陸奥・睦・武都」可視得
 うち
 聞く
 人
 だに・・・・・・拿似
 あり。

 この人の供なるものども、
 この客今や出づると、
 絶えずさしのぞきて、
 けしき見るものどもを、
 わらふ・・・・・・・話等附
 べかめり。・・・・・部科目理
 眞似うちするも、
 聞きては
 いかに・・・・・・・異化似・如何に
 いとど・・・・・・・意図度・緯渡度
 嚴しう・・・・・・・きびしう・吉備史有
 いひ
 咎めん。・・・・・・とがめん・渡臥面・図画面
 いと
 色に
 出でて
 いはぬも、
 思ふ
 心なき人は、
 必來などやする。・・・筆記・比津基
 されど
 健なる・・・・すこやかなる
 かたは、
 「夜更けぬ、
  御門も
  あやふか
  なる」
 といひて・・問い出
 ぬる・・・・ヌル→間隙をヌル
 も
 あり。
 誠に
 志・・・・・・アンビシャス→札幌→農学校
        魏志倭人伝
 ことなる
 人は、
 「はや」
 など
 あまた
 度やらはるれど、
 猶
 居あかせば、・・・・意明かせば
 たびたび
 ありくに、
 あけぬ
 べき
 けしきを
 めづらかに
 思ひて、
 「いみじき・意味字記
 御門を、・・語文
 今宵ら・・・こよい羅・古与意等
 いさうと・・位座得図→伊邪有途
 あけ
 ひろげて」
 と
 聞え
 ごちて、・・・語知出
 あぢき・・・・味気・安食・阿字記
 なく
 曉に・・・・・あかつきに
       「赤・閼伽・垢・銅・淦・亜科」付き爾
 ぞ
 さす
 なる。
 いかが
 にくき。
 親
 そひ
 ぬるは・・・・塗る葉
 猶
 こそあれ。
 まして
 誠ならぬは、
 いかに
 思ふらんと
 さへ
 つつま・・・・津津摩・津通摩(摩=摩天楼=山)
 しうて。
 兄の・・・・・ケイの・罫之・あにの・エ之
 家
 なども、
 實に
 聞くには
 さぞあらん。

 夜中
 曉ともなく、
 門
 いと
 心がし
 こくも
 なく、
 何の宮、・・・南之視也・納埜視也
        名似の究(求・球→球磨)
 内裏・・・・・名意理
 わたりの・・「渉り・渡り・亘り・亙り」之
 殿ばらなる・・伝バラ名留
 人々の
 出で
 あひなどして、
 格子・・・・・合史
 なども・・・・等摸
 あげ・・・・「揚げ・挙げ・上げ」
 ながら・・・・長柄・乍・名臥等
 冬の・・・・・ふゆの・トウの
        附喩之
        不愉之
        トウの
        問之・島之・当之
        等之・読之・答之
 夜を・・・・・与緒・余於
 居・・・・・・意
 あかして、・・明かして→解き明かす
 人の出で・・・日渡之意出
 ぬる・・・・・塗る
 後も、・・・・語
 見出し
 たる
 こそ
 をかしけれ。
 有明・・・・・有明(海)
 などは
 まして
 いと
 をかし。・・・可笑しい・可変しい・お貸し
        御菓子→甘い
        侵し・犯し・冒し・丘氏・オカシ
 笛など
 吹きて
 出で
 ぬるを、
 我は
 急ぎても
 寢られず、
 人のうへなどもいひ、
 歌など
 語り
 聞くままに、
 寢いり
 ぬる
 こそ
 をかしけれ。
ーーーーー
 ・・・オカシ、懸例・・・