1273日目・・・「おふよう」とは「麻薬」、「阿片」のことのように記憶しているのだが・・・憶えたモノが「不用」とは思わないが、「不要」なモノはあるかな・・・これらの熟語に「意」がつくと、また微妙である・・・

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 枕草子
 (一六七段)・・・百六十七段・壱佰六拾七段・壱六七段・陌陸足漆段
          1+6+7=14=十四=壱拾四=足肆
          1×6×7=42=四十二=四拾弐=肆足仁

 昔・・・
 おぼえて・・・
 ふよう・・・芙蓉・不用・不要
       不溶・浮揚・扶養
 なる・・・
 もの・・・
 繧繝縁・・・糸+雨+云+糸+開(門月)+糸+彖
       繧繝=昔の彩色法
       繧繝=錦の織物
       繧繝=縦縞の境をぼかして織った織物
       ↓
       繧     繝   縁
       うん    げん  べり
       う     げん  べり
       ↓     ケン
       ↓     カン
       ↓     ↓
       ↓    あや・にしきもよう
       繧=日本の国字
                 ↓
                 縁
                糸+彖
                 ↓
      「彖(タン・シ)=彐(彑)+豕」=猪の口(頭)
       彖=論断する・判断する
       彖辞(タンジ)・「易経」の各卦(ケ)
       ↓
      袁彖(エンタン・447年〜494年)
       南朝宋から斉にかけての官僚
       字は偉才
       小字は史公
       本貫は
       陳郡陽夏県
       宋の
       武陵郡太守の
       袁覬の子
       伯父の袁邈が雍州で起兵して殺害されると、
       宋の
       明帝は袁邈の遺体を江中に投棄、埋葬を許ず
       袁彖はひそかに伯父の遺体を探し、
       四十一日かけて発見
       石頭の後方の丘に埋葬し、明帝の死後、
       袁邈の遺体を改葬した
       安成王劉準の下で征虜参軍や主簿をつとめ、
       入朝して尚書殿中郎
       出向して廬陵郡内史や豫州治中
       蕭道成の下で太傅相国主簿・秘書丞
       国史の編纂にあたって、
       日食を天文志ではなく
       五行志に載せるよう主張
       処士伝の立伝に反対
       斉が建国されると、
       始興王友に任じられたが、固辞
       蕭道成が吏部尚書
       何戢に・・・何って?なに、なん、カ?
        ↓
        戢=口+耳+戈(カ・ほこ・矛・鋒・鉾)
          シュウ      牟=ム・ボウ
          ソウ
          おさめる
          to put away, to cease, store up
          口と耳が(鉾)尖がっている・・・猪?
          465年(景和元年)
          何戢の妻の
          劉楚玉は、前廃帝の黙認をえて
          三十人の 情夫を侍らせた
          褚淵(イケメン)を自分に侍らせようと、
          再三迫ったが、褚淵に拒否された
       ↓
       宣旨させると、
       袁彖はやむなく就任
       中書郎に転じ、太子中庶子を兼ね
       中書郎のまま御史中丞を兼ねた
       御史中丞を兼ねたまま
       黄門郎に転じた
       謝超宗を糾弾する上奏をし
       事実と異なることが判明して免官
       安西諮議・南平郡内史に任じられた
       黄門に任じられ、受けないうちに
       長史・南郡内史に転じ、荊州の事務を代行
       召還され太子中庶子
       本州大中正をつとめた
       冠軍将軍・監呉興郡事として出向
       武帝が便殿にいて、金柄の刀子で瓜を剥いていたのを
       王晏が帝の側で
      「世間では金刀の言」、・・・?
ーー↓ーーーー    ↓
    きんとうてん(金刀点)・・・金武等・均等添・筋等・菌等
       ↓
       書道で、「大」の字の右下に引く最後の一画
           「刀」に似るところからいう
       ↓
      「金刀比羅宮(ことひらぐう)」
       香川県仲多度郡琴平町に鎮座
       大物主神崇徳天皇を合祀
       象頭山金毘羅(ぞうずさんこんぴら)大権現
       長保三年(1001年)勅命による社殿修築があり
       保元の乱讃岐国へ移された崇徳上皇が参籠
       古来海上守護、祈雨の神
       明治元年(1868年)
       仏教色を一掃して金刀比羅宮と改称
       旧国幣中社
       例祭十月十日
       その十日夜0時より渡御
       前後三日のあいだに金比羅
      「こんぴらさん」、「金毘羅宮」、「琴平宮」と記録
       明治維新神仏分離廃仏毀釈が実施される以前は
       真言宗
       象頭山
       松尾寺
       金光院
       神仏習合象頭山金毘羅大権現と呼ばれた
       大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、
       戦後の
       朝鮮戦争における・・・?
       海上自衛隊
       掃海殉職者慰霊祭も毎年開かれる
       参道の石段がは、奥社まで登ると
       1368段
       金刀比羅宮倉敷市にある
       由加山蓮台寺、由加神社本宮)の
       両方を参拝する両参りという習慣
       由緒は二つの説
       一
       大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った
       琴平神社から始まり、
       中世以降に
       本地垂迹説により仏教の金毘羅と
       習合して金毘羅大権現と称した
       二
       もともと象頭山にあった
       真言宗の松尾寺に
       金毘羅が鎮守神として祀られており、
       大宝年間に修験道
       役小角神変大菩薩)が象頭山に登った際に
       天竺毘比羅霊鷲山象頭山)に住する
       護法善神金毘羅の神験に遭ったのが
       開山の縁起との伝承
       別説
      「生駒記讃陽綱目・金刀比羅宮の條」
       延喜式神名帳に名が見える
       讃岐国多度郡の
       雲気神社が金刀比羅宮という記述
       長寛元年(1163年)
       崇徳上皇象頭山松尾寺金光院に参籠
       修験道御霊信仰の影響で
       永万元年(1165年)
       讃岐国に流されたまま崩御した
       崇徳天皇象頭山松尾寺金光院に合祀
       宥盛は死の直前には神体を守るために
       天狗に身を変えたとの伝説
       死後は本堂付近に祀られた
       江戸時代初期には、
       別当象頭山松尾寺の
       宥光が参拝の土産物として○に金の印を入れた
       うちわを作ることを思いつき、大和国より技術者を招いた
       江戸時代中期に入ると
       金毘羅参りは伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだった
       その様子は、
       浮世絵の東海道五十三次の一つである
      「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、
       滑稽本東海道中膝栗毛に書かれた主人公の
       弥次さんと金毘羅参りの男との饅頭の食べ比べの話
       江戸時代末期には
      「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて
       シュラシュシュシュ まわれば
       四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」
       の民謡
       明治元年(1868年)
       主祭神の名は大物主神
       相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った
       9月13日に勅祭神社
       象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた
       宥盛は
       厳魂彦命と名を変え、
       明治三十八年(1905年)
       奥社へと遷座
       金毘羅大権現本地仏として祀られていた
       本尊
       十一面観音像は信仰の対象から外された
       不動明王毘沙門天
       二体の脇侍仏は破却の危機に直面したが
       象頭山松尾寺の末寺である
       万福院住職
       宥明によって救い出された
       その後、所在は転々としたが、
       明治十五年(1882年)
       裸祭の岡山市真言宗寺院、
       西大寺の住職光阿によって同寺に勧請
       あらためて金毘羅大権現本地仏として祀られている
ーーーーーーー↓袁彖のツヅキ      
      「これは袁彖が臣に説いた」といった
       武帝は怒って、袁彖が呉興郡に到着すると、
       禄銭の過大な使用を理由に免官して
       東冶に流した
       武帝が孫陵で遊んだとき、
       東冶を眺めて袁彖のことを思い出し
       武帝は東冶におもむいて宴会を催し、
       囚人に酒肉を賜り、袁彖に語り、
       袁彖は翌日に釈放された
       無官のまま南徐州の事務を代行
       司徒諮議や衛軍長史をつとめ、
       侍中の位を受けた
       袁彖は武帝
       ↓
       雉射ちを
       おこなうたびに随行したが、
       肥満のために
       数人で支え助けて、
       やっと歩くことができた
       ↓
       494年(隆昌元年)
       死去・享年は四十八
       諡は靖
       「南斉書・巻四十八・列伝第二十九
       「南史・巻二十六・列伝第十六
ーー↓彖=猪の頭・・・猪の肉は牡丹・・・
           牡丹の家紋
           ↓
           藤原氏宗家である近衛家の正紋
           徳川時代には
           菊、桐、葵の紋についで
           権威があった
           公家では鷹司、難波の両家、
           武家では島津、伊達、津軽などの大名家、
           寺院では興福寺東本願寺平等院など
ーー↓彖=猪の頭・猪の口
     井の頭=公園は武蔵野市吉祥寺駅からだが、
         公園の大部分は
         三鷹市
        「井の頭」
         井の頭の池・神田上水の水源
         鷹狩りに訪れた
         徳川家光が、
         辛夷(コブシ・木蓮・田打ち桜)の木に
        「井の頭」と記したのが由来・・・?
         ・・・「北拳(北辛夷)」は北海道の呼称
         アイヌ語で「オマウクシニ」、「オプケニ」
         「古武士」は無用・・・         
ーー↓
 (うげんばし)の・・・ 繧繝縁
           (うんげんべり・うげんべり)
            格の高い畳縁
            天皇
            三宮(皇后・皇太后太皇太后
            上皇が用いた
            繧繝錦のへり
            そのへりをつけた畳や茵(しとね)
            畳の縁(へり)の一種
            白地の綾に雲形や菊花などの紋を
            黒く織り出したもの
            紋に大小があり、
            親王・大臣などは大紋、
            公卿は小紋を用いた
            後は、
            白麻布に黒の小紋を染めたもの
            高麗縁(こうらいばし)とも
ーー↓
 疊の・・・多々実之
 舊・・・・旧=舊・ふるい・ふる・キュウ(キウ)・ク・もと
 (ふ)りて・・・
 ふし・・・付し・伏し・臥し・附し
      父子・不死・節・賦し
 出・・・
 でき・・・
 たる。・・・
 唐繪の・・・からえ之
      「倒壊・東海・韜晦・倒潰」之
       投下異之   
 屏風の・・・平封之
 表・・・・・平
 そこなはれ・・・
 たる。・・・
 藤の・・・・藤(原)之・・・天然痘
 かかり・・・罹りたる
 たる・・・
 松の・・・・末之
 木・・・・・松(平)の紀(記)
       俟つ之生
 枯れ・・・・借れ・刈れ・駆れ
 たる。・・・
 地摺の・・・地図理之
 裳の・・・・摸
 花・・・・・葉名
 かへり・・・替え理
 たる。・・・
 衞士の・・・英史之
 目・・・
 くらき。・・・
 几帳の・・・・記帳之
 かたびらの・・帷子之・片平・化他比良
        過多比良之
 ふり・・・・・振り
 ぬる。・・・・塗る
 帽額の・・・もこう之
       御簾(みす)や御帳(みちょう)の
       懸けぎわを飾るために、
       上長押(うわなげし)に沿って
       横に引き回す布帛(ふはく)。
       水引幕の類。額隠(ひたいかく) し
       窠紋(かもん)
       窠(か)=瓜(うり)を輪切りにした形の模様
      「木瓜(もくかう)」
       ひたいかくし
       窠紋(かもん)・もっこ
       御簾(みす)や
       御帳(みちょう)の懸けぎわを飾るために、
       上長押(うわなげし)に沿って
       横に引き回す布帛(ふはく)
       水引幕の類・額隠(ひたいかく)し
       紋(かもん)の異称・もっこう。
 なく・・・
 なり・・・
 ぬる。・・・塗る
 七尺の・・・死地酌之
 かづらの・・数等之
 あかく・・・閼伽句
 なり・・・
 たる。・・・
 葡萄・・・武道・無道
 染の・・・
 織物の・・下り物之
 灰・・・・栄え
 かへり・・帰り
 たる。・・・

 色好の・・死期交之
 老い・・・
 くづ・・・屑
 をれ・・・
 たる。・・・
 おも・・・面
 しろき・・白記
 家の・・・異重之
 木立・・・記(紀)立
 やけ・・・自棄
 たる。・・・
 池・・・・異化
 などは・・・
 さながら・・・
 あれど、・・・
 萍水草・・・ 「浮き草」・水面に浮かんで漂う水草全般を指す
 (うきくさみくさ)・・・
      萍(うきくさ)=ねなしぐさ根無し草
      地中に根を張らず、水に浮いている草
      定まらない物事や、
      確かなよりどころのない生活のたとえ
      ねなしぐさ=根無草
     「根南志具佐」
      ↓
      談義本・五巻
      風来山人
     (平賀源内=天竺浪人浄瑠璃号「福内鬼外」)
      作
      宝暦十三年(1763)刊
      女形
      荻野八重桐の溺死事件を題材
      当時の世相を風刺
     「根無草後編・(五巻)」は
      明和六年(1769年)
ーーーーーー↓
      序
   風来山人
   登万国之東側観娑
   大劇場有小舞臺之志於
   是以紅毛千里鏡観冥土楽屋
   仰天堂俯地獄末香啖(抬?扌+尓・扌+乞)
   閻魔
   被犢鼻
   于地蔵
   倒舎利弗
   智嚢
   振冨楼
   邦辨舌
   三摩佛面
   始知黄金層
   嘆日地獄天堂
   金次第矣
   退著一書寓言
   八重
   桐間・・・・「桐の間御殿」=稚児専用の屋敷
          江戸城中、猿楽の者のいる桐の間
          能役者を厚遇した
          第五代将軍綱吉が
          天和元年(一六八一)から設け
          宝永六年(一七〇九)、
          綱吉の没とともに廃止
   聞
   柏車・・・柏(かしわ・はく・ポー・ブナ科の木
          かしは・かへ
          ひのき・このてがしわ
          いぶき・さわら
          等ヒノキ科の植物を指す
   薪水
   御無常
   風継
   為此編以傳諸借本屋二子
   追善
   莫大焉此編也
   掛一枚省版而行(抬?扌+尓・扌+乞)
   三箇津矣
   明和戊子秋
   寐惚先生
   陳奮翰撰
ーーー↓・・・・以下はウイッキペデアから参照抜粋・・・
   平賀源内
   享保十三年(1728年)
   〜
   安永八年十二月十八日(1780年1月24日)
   本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、
   戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家
  「源内」は通称で、
  「元内」とも書いた
   諱は国倫(くにとも)
   字は子彝(しい)
   画号は鳩渓(きゅうけい)
   俳号の李山(りざん)
   戯作者は風来山人(ふうらいさん じん)
   浄瑠璃作者は福内鬼外
   殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)
   細工物を作り売りした頃には
   貧家銭内(ひんか ぜにない)
   父は白石茂左衛門(良房)、
   母は山下氏の娘
   讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)に生まれる
   平賀氏は讃岐高松藩足軽身分の家で、
   元々は
   信濃国佐久郡の豪族だったが、
   戦国時代
   平賀玄信の代に
   甲斐の武田信虎・晴信父子に滅ぼされ、
   奥州の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた
   伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農
   杉田玄白
   中川淳庵らと交友
   安永八年(1779年)
   酔って修理計画書を盗まれたと勘違いして
   大工の棟梁二人を殺傷
   十一月二十一日に投獄
   十二月十八日に破傷風により獄死
   享年五十二
   明和六年(1769年)
   歯磨き粉
  「漱石膏」の作詞作曲
   安永四年(1775年)
   音羽屋多吉の清水餅の広告
   浄瑠璃作家
   時代物、作品は五段形式や多段形式
   狂歌大田南畝
  「寝惚先生文集」に序文
   鈴木春信と共に絵暦交換会
   博覧会の開催
   江戸湯島で博覧会
  「東都薬品会」を開催
   文章の「起承転結」
  「京都三条糸屋の娘
   姉は十八妹は十五
   諸国大名弓矢で殺す
   糸屋の娘は目で殺す」の作者との説・・・
ーー↓
 しげりて。・・・史解理出・・・示、下痢、で・・・
ーーーーー
 ・・・おぼえて、ふようなるもの・・・不用か、無用か・・・不要か、フヨウ・・・卯の俟つ爺は何を考えてイタンだか・・・