1256日目・・・恐ろしきもの・・・「人間」であると「己を自覚させる自分自身の認識・思惟機能」・・・

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 枕草子
 (一五〇段)・・・百五十・壱百五拾・壱百五拾
          1+5+0=6=六=陸
          1×5×0=0=零

 おそろしき・・・於素賂詞記
 もの・・・・・・模之
 橡の・・・・・・「木(十ハ)+象」之
         十八=足を捌るカタチ
            十八番のカタチ  
         とち・栃
         くぬぎ・功刀・椚
         ショウ・ゾウ
 かさ。・・・・・化作
         雨傘= umbrella・日傘= parasol・sunshade
         折りたたみ式の傘=a folding umbrella
         巻いた傘=a neatly furled umbrella
         CASA
         computational auditory scene analysis
         音環境理解
         カーサ(スペイン語・casa)の
              家・住宅・house
         加佐・量・瘡・笠・傘・嵩・暈
         暈が月や太陽ににかかる
嵩にかかる・・・攻勢に出る
         笠にきる・・・・虎の威を借る
         傘をさす・・・・雨を防ぐ
         瘡蓋をはがす・・
 燒け・・・・・・やけ・埜懸・自棄・妬け
 たる・・・・・・他留
 所。・・・
 みづぶき。・・・視事武記・視頭部記・密武器・密付記
         見頭「葺き・附記・不帰・不羈」
            ウガヤフキアエズ
         ヒコナギサタケウガヤフキアエズ
         日子波限 建 鵜草 葺 不合命
         彦波瀲  武 盧茲草葺 不合尊
         みずぶき・・・山菜・三菜→三歳
         水蕗
         オニバスの別名
         ウワバミソウイラクサ科)
         かたは
         水拭き・水を絞った雑巾などで拭くこと
ーー         
 菱。・・・ひし(菱)
      リョウ
      水草の名・ヒシ→「菱花・菱形」
      アイヌ語ではヒシの実を
      「ペカンペ」と呼び、重要な食糧の一
      「ベカンベカムイノミ(菱の実祭り)」は
      「ひし」の収穫祭
ーーー↓
 ・・・ナゼ、「菱」が「おそろしきもの」なのだろう・・・?
 「水生の一年草。池や沼に生え、茎は細長く、泥水中を伸びる。葉は菱状三角形で、葉柄の一部にふくらみがあり、四方に出て水面に浮かぶ。夏、葉の間から短い花柄を伸ばし、水上に白い四弁花を開く」・・・
 沼や池に群生。茎は水中を伸びて各節に細根を生じる。
 葉は菱形で、葉柄はふくれて空気を含み、水面に浮く
 果実はかたい殻でおおわれ
 両側に鋭い
 トゲがある
 家紋の一
 菱形を組み合わせたもの
 松皮菱・割菱(武田菱)・三階菱など。
 武器の一
 鉄製で菱の実形に作り、先端をとがらせたもので、
 地上や河中に立てたり、まいたりして
 敵の進入を妨げる。車菱(くるまびし)。
 ・・・「菱形」とは「菱の実の形」でもあるらしい・・・三菱創業者の土佐藩士「岩崎彌太郎」の会社マーク・・・トランプの「3◆」・・・「金剛石」が三つ・・・
 スリーダイヤ・マークの原型
 「岩崎家の家紋(三階菱)」+「土佐山内家の家紋(三ツ柏)」
 組合せに由来
 「九十九商会」が船旗号として採用したマーク
ーー↓以下はウイッキペデア、その他のブログ記事から参照抜粋・・・
 千葉県の
 「九十九里」町は
  ↓
 「伊能忠敬=神保三治郎」の生地だったが・・・房総半島は、関東地方の南東部、太平洋に面した半島で千葉県の大部分を占める。
  ↓
 「房総」という地名は、
 令制国
 「安房国」+「上総国」+「下総国」の三国に由来
 「千葉県」と「茨城県」の間に
 「古鬼怒湾」があり、
 ほとんど「島」の状態であった・・・あったらしい・・・
 「総国(ふさのくに・捄国)」は、上古の坂東の国
  律令時代以降の「房総三国」で、
 古くは「総」ではなく
 「捄(扌+上+氺)or(扌+ト+求)」の字で記録されていた
 ・・・類字かどうか?曖昧だが「扌+求」・・・
 「捄=救」と同義で異体字、訓音は「もる・キュウ・グ・ク」?
 「救」は「救=求+すくう・キュウ(キウ)・ク」で「救援・救急・救護・救済・救出・ 救助・救難・救命」、「名のり」は「すけ・たすく・なり・ひら・やす」で「捄=もる」の訓はない・・・だが、「扌(手=シュ→主・種・取)を求める」なら・・・?・・・求めている主人とは?
ーー↓
 神武天皇の時、
  ↓
 「太玉命(ふとだまのみこと)」・・・「太=おほの・タイ・ダイ」
  の孫
 「天富命(アメのトミのミコト・アマのトミのミコト)」が・・・
  ↓
 「天日鷲命(アマのヒワシのミコト)」の孫達を従え、
 阿波(四国・徳島県)の麻植(後の麻植郡)で、穀物や麻を栽培していたが、後に「総の国」へ移住した・・・
 「天富命(アメのトミのミコト・アマのトミのミコト)」の
 「富(とみ)」が「登美(とみ)」なら
 「那賀須泥毘古=登美能那賀須泥毘古=登美毘古」と関連する?
 「登美毘古」には兄弟(安日毘古)がいたらしく東北(津軽)へ逃げたとの説もある・・・「安日彦」とは中世日本神話に伝わる伝説の人物の一人。「曽我物語」に蝦夷の祖を流罪にされた「鬼王安日=あにおうあび・おにおうあび」とする伝承が記載されている。「長髄彦」の「兄(あに)」とされている・・・らしい・・・「曽我物語」も「蘇我物語」だろう?・・・
ーー↓
 建久四年(1193年)五月二十八日
 富士の
 巻狩りで起きた事件
 記録文書は「吾妻鏡」のみ
 記載されたのも事件の
 百年後
 「真名本・曽我物語」の記述に似る
 「曽我物語」を広めた(洩らした)のは、
 物語にも登場する
 「虎御前」こと「虎女」だという・・・?
 彼女から口承に口承を重ねて徐々に広まり、
 南北朝時代から
 室町・戦国時代を通じて語り継がれ
 曽我兄弟や虎女に関する史跡や伝承は、
 北は
 福島から
 南は
 鹿児島まで広い範囲に拡散
 口承は、
 巫女や
 瞽女などの
 女語りで行われた
 やがて能や人形浄瑠璃として上演
 江戸時代に歌舞伎化され
 「曾我もの」
 演目として定着
 延宝四年正月(1676年二月)
 初代市川團十郎
 「寿曾我対面」を初演
 正月興行の定番の出し物となった・・・らしい。
ーー↓
 異本
 真名本・曽我物語
 重須本・曽我物語
 大山寺本・曽我物語
 曽我記
ーー↓
 所領争いで、
 工藤祐経
 叔父の
 伊東祐親に恨み
 安元二年(1176年)十月
 工藤祐経は郎党の
 大見小藤太と
 八幡三郎に狩に出た
 伊東祐親と
 嫡男
 河津祐泰の暗殺を命令
 河津祐泰が殺され
 彼の妻の
 満江御前(満行)は
 曾我祐信と
 再婚
 一萬丸と箱王丸は連れ子とし成長
 治承・寿永の乱
 平家方の
 伊東祐親(祖父)は捕らえられ自害
 源氏方の
 工藤祐経(仇敵)は源頼朝の寵臣
 ↓
 兄の
 一萬丸は、曽我の家督を継ぎ、
 曾我十郎祐成
 弟の
 箱王丸=筥王丸は、
 箱根権現社に稚児として預けられた。
 文治三年(1187年)
 源頼朝が箱根権現に参拝した際、
 箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、
 復讐しようと付け狙うが、
 逆に工藤祐経に諭されて
 「赤木柄の短刀」を授けられた
 ↓
 建久四年(1193年)
 五月
 二十八日
 曾我兄弟の仇討
 源頼朝が行った
 富士の
 巻狩りの際に、
 曾我祐成(一萬丸)と
 曾我時致(箱王丸=筥王丸)の
 兄弟が父親の仇である
 工藤祐経
 討った・・・
ーー
 「赤穂浪士」、「伊賀越え」と並ぶ、
 日本「三大仇討ち」の一・・・
ーーー↓「房総の国名」からのツヅキ・・・
 国造制から律令郡国制へ
 大化元年(645年)〜大化五年(649年)以前に
 令制国としての上総国下総国が成立
 和銅六年(713年)
 「好(佳)字二字令」によって
 「上総国」、「下総国」と表記が改められたらしい・・・
 これ以前は
 「上捄国」、「下捄国」と記録
 養老二年(718年)
 上総国から、
 阿波国造および
 長狭国造の領域だった
 平群郡、安房郡、朝夷郡長狭郡
 四郡を割いて
 安房国とした
 令制国としての
 「房総三国」の成立
 天平十三年(742年)
 安房国
 再度
 上総国に併合
 天平宝字元年(757年)
 再び安房国を分け、明治維新にまで至る
ーー↓
 「捄・上捄・下捄」、「阿波」等の表記であったものが、
 「総・上総・下総」、「安房」に改められた・・・
 「麻=総」という
 図式(古語拾遺)が成立するが、・・・?
 「総(ふさ)」という字には
 「麻(あさ)」に関係する意味は存在しない・・・?
  ↓
 昭和四十二年(1967年)藤原宮から発掘された
 木簡に
 「己亥(699年)十月
  上捄国
  阿波評(安房郡、後の安房国)・・・」
  と記録された文字が発見
  発見当初はこれを「上狭国(=上総)」の
  別字体であると解釈されていた
  同じ藤原宮から
 「天観上〈捄〉国道前」の記録木簡も発見
 「捄」と読む説も出たものの、
 「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留
 その後の研究で
 「捄」という字の和訓は「総」と同じ「ふさ」であること、
 「天観」という上総出身の
 僧侶がこの時代の実在者と判明し
 律令制以前の表記は
 「総」ではなく、
 「捄国・上捄・下捄」など
 「捄」の字が用いられていた
 可能性が高くなった
 「捄」とは
 「房」を成して
 「稔る果実」の事を指し(大漢和辞典の説)・・・?
ーー↓
 ・・・「捄=手+求」→訓は「モル?」だが、字面からし
 「捥(も)ぎ取る・握(にぎ)る」ではないのか?
 あるいは
 「手で丸める」だろう
 「総」もナゼ「ふさ」と訓じるんだか・・・「すべる」だろう
 「総」=「糸(いと)+ハ(葉)+ム(よこしま)+心」である
 ・・・「房」は「ふさ」であるが
 ・・・「戸(と・へ・コ・グ)+方」で、「戸籍の方」
 あるいは
 ・・・「一(はじめ)+尸(しかばね)+方(かた)」だろう?
ーー
 「麻の実」も収穫時には「捄」に該当することから、
 「麻の稔る姿」より「捄」の字が用いられ、・・・?
 ・・・ナゼ、ここで「麻」なんだか・・・「太玉命」が栽培した「穀物や麻」を前提にするよりも「太玉命(別称=布刀玉命=大麻比古神(オオアサヒコのカミ?)、木匠神(鏡・玉・矛など種々の神宝工芸の技術者?)」の「たま」名が「捄」であるだろう・・・?「太玉=ターワン」って「タンメン」・・・?「玉(ギョク)=翡翠(ヒスイ)」で「ユィ」・・・
ーー
 令制国成立後
 「同じ和訓」を持つ「佳字」である「総」に書き改められた・・・
 とすれば、
 「古語拾遺」の記述も信憑性が高いと再評価・・・
ーー↓
 「古語拾遺(こごしゅうい)」
 平安時代神道資料
 斎部広成
 大同二年(807年)二月十三日・・・?
 全一巻
 斎部広成の伝記は『日本後紀』の
 808年(大同三年)11月17日の条に
 「正六位上」から「従五位下」に昇ったとあるのみ
 本書の跋には「従五位下」とあり、
 807年(大同二年)当時は
 「正六位上」だったはずで、
 これは後世の改変だと考えられている・・・らしい・・・?
ーー↓
 伊勢神宮の奉幣使の役職をめぐって
 忌部氏と中臣氏の間で長年争われてきた。
 大同一年八月十日に
 忌部氏に対する勝訴判決
 本書が上程された
 大同二年二月十三日はこの判決の後
 「勝訴」のあとに陳情を出すのは不自然
ーー↓ 
 序
 本文
 神代古伝承
 神武天皇以降の古伝承
 古伝承に抜けた11カ条
 御歳神祭祀の古伝承
 跋
 天地開闢から天平年間(729年〜749年)まで記録
 「古事記」、「日本書紀」などにはない
 斎部氏に伝わる伝承が取り入れられている
 斎部氏は
 天太玉命の子孫
 天太玉命ら斎部氏の祖神の活躍が記紀よりも多く記録
 岩戸隠れの場面では
 天太玉命が中心的役割を果たしている・・・
ーーー↓枕草子のツヅキ
 髮・・・
 おほかる・・・・・多借る
 男の・・・・・・・音故
 頭洗ひて・・・・・当選比出
 ほすほど。・・・・補諏程(歩度)
 栗の・・・・・・・栗=西+木(十八)・・・西紀
 いが。・・・・・・威が・伊賀・意臥
ーーーーー
 ・・・どうやら「細長く、トゲ状のモノ」は「おそろしきもの」であるらしい・・・