1248日目・・・九月二十一日・・・ケニアのナイロビのテロ事件・・・商業施設「ウエストゲート・ショッピング・モール」を襲撃・・・「キチガイ(発狂人)にハモノ」、「狂信者に銃」でなくても・・・「正常人も武器」を持てば「市民社会」で殺人を犯す・・・武器を持たなくても無防備な他人を「素手でも殺(や)る」・・・「瘋(フウ・ホウ)」=「疒+風」とも表記・・・「疒(やまいだれ)」の「風(かぜ・フウ)=几+ノ+虫」で、「虫(むし・チュウ)」は「地を這うモノ」だが「虫=中+ム(よこしま・シ→私)」で、更に「ム=む」であ

 「狂(くるう・キョウ)」=「犭+王」の漢字を観ていると、この漢字はツクヅク日本人が「己自身のモノ」にした「カンジ」だと、思う・・・
 「狂う」は「痴呆=ボケ=認知症」ではない。「獣(けもの)」になった「王」である。類字の「枉=木+王」は「まがる・まげて・オウ」である・・・「曲げる」は「曲(キョク・コク・まげる)」で、「よこしま(邪)」とも訓じる・・・
 「王(おう)」は「玉(たま)=王+ヽ」が「元々(本々・もともと)」の「漢字」だったらしいから・・・
 「ヽ(テン・印し)」は「瑕=きづ=疵」の意味らしいから「きづ・テン」が除かれた「王」は人間ではなくなった・・・元々「玉(たま)」とは「瑕=きづ=疵」の有るもの、「不完全」で「キヅ」を有する「霊魂=タマしい=魂魄(コンパク)=心」と考えたのだろう。「全能の一神は完全」で「人間は完璧・完全」ではないと・・・
 「弄」=「王+廾(キョウ・ク)」、「玩」=「王+二+儿」で、「他人の命」を「玩(もてあそぶ・ガン)」、「玩具(おもちゃ)」にする「アたま=頭」が「オカシク(凶暴化)」なった「支配者・独裁者・専制主義者・指導者」なんだろう・・・そいつ自身の個人の仕業か、あるいは、彼の「意思」と、その「意志・命令」に盲従、追従し実行する徒党(凶暴化)集団・・・「命令」はコトバの「命」の「令」である・・・
 合体漢字の左右、上下の部首文字は「左・上」が「主語」で、「右・下」が「説明述語」だろう・・・合体漢字の読みの順序は左→右、上→下、上の左→右→下の左→右であろう・・・
 「狂=獣になったのは王」、
 「弄=王は廾(こまねく)、あるいはサ(唆・そそのかす)」、
 「玩=王は二(次・二心)の人」・・・
 前回記した「旧約のレビ記=モーゼ」は「神の言葉」でなくてもイイ。「無心論者」でもあっても「人間個々人相互の社会」での「アタリマエの掟=法」である・・・時代的状況を踏まえても人間の「社会原則」は「だますな・ぬすむな・殺傷するな・差別するな」である・・・家族は勿論、隣人にも、(外国)居留人にも・・・そして「七日目、七月目、七年目」と「七×七」は、この「社会原則」の「反省の点検時期」である・・・
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 枕草子
 (一四二段)・・・百四十二段・壱佰四拾弐段・壱四弐段・陌肆足仁段
          1+4+2=7=七=漆
          1×4×2=8=八=捌

 つれづれ・・・徒然→トゼン=賭全
 なるもの・・・名留摸之→鳴る摸埜
 所・・・・・・ところ・常呂・ジョ・序・叙・除
 さりたる・・・作理他留
 物忌。・・・・ものいみ・摸之意味
 馬・・・・・・うま・宇摩・得真・バ・場・歯・葉
 おりぬ・・・・降りぬ・下りぬ・居りぬ・織りぬ
        於理塗・緒理貫
 雙六。・・・・すごろく・双六・ソウリク・総理矩
 除目・・・・・じもく・耳目・字摸句
        のぞくめ・覗く目・覘く目
        除目(じもく・じょもく)
        平安中期以降の京官、外官の諸官を任命
        任命儀式自体・宮中の年中行事
        任官した者を列記した帳簿の除書
       「除」は前官を除いて新官を任ずる
       「目」は目録に記すこと
 官・・・・・・カン・漢・巻・刊・換・奸
        カン発音の同音異字のスベテ
 得ぬ・・・・・
 人の・・・・・ひとの・比賭之
 家。・・・・・いえ・云え・言え・謂え・居得・射得
        カ・可・化・仮
        歌・過
        花・椛・華・荷・茄
        渦・禍・佳
        靴
        蝦・鹿・蚊
        掛・加・科
 雨・・・・・・あめ・あま・ウ
 うち・・・・・得知
 降り・・・・・ふり・振り・付利・不利・不離
 たるは・・・・他留葉
 まして・・・・真詞出
 徒然・・・・・つれづれ
 なり。・・・・名理
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 ・・・まして、「徒然草」の「兼好法師の成り(生り)」である・・・以下はウイッキペデアやブログ記事を参考、参照した抜粋記事を若干改作したモノ・・・
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 吉田兼好
 弘安六年(1283年)頃?
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 文和元年・正平七年(1352年)以後?
 治部少輔
 卜部兼顕の子
 本名
 卜部兼好
 (うらべ かねよし・うらべ の かねよし)
 執筆後、約百年間は注目されなかった・・・?
 同時代の史料に
 「徒然草」の言及は皆無・・・?
 室町中期に
 僧
 正徹が
 写本し作品が兼好法師のものとし注記・・・?
 だいたいからして「正徹」自体が怪しい人物である・・生まれたのは備中、岡山県岡山市である・・・和歌を「今川了俊」に学んだ人物であるらしく、「キビ団子」と「今川焼き」のかさなりである・・・
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 清巌正徹
 永徳元年(1381年)
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 長禄三年五月九日(1459年6月9日)
 神戸山城主
 小松康清(または秀清)の
 次男
 幼名は
 尊明、
 または
 尊明丸
 長じて
 正清(信清とも)と名のった 
 室町時代中期の
 臨済宗の歌僧
 道号は「巌」
 庵号は招月庵
 石八幡宮に仕える祀官一族の出身
 父は
 小松康清、
 備中国小田郡(岡山県岡山市)の
 小田荘の知行主
 俗名は正清
 和歌を冷泉為尹
 今川了俊に学ぶ
 藤原定家を崇拝・・・百人一首の撰者である
 応永二十一年出家
 法号を正徹と号
 京都
 東福寺の書記で
 徹書記とも呼ばれた
 「正しさ」に「徹する」・・・問う附句字の書記であるかな・・・
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 江戸時代には
 加藤磐斎の
   ↓
 加藤磐斎
 寛永二年(1625年)
  〜
 延宝二年八月十一日(1674年9月10日)
 歌人俳人、和学者
 出生地は摂津国山田
 通称は新太郎
 軒号は踏雪・臨淵
 号は冬木斎・等空・磐斎
 「清少納言枕草子」の著
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 「徒然草抄・(1661年・寛文一年)」
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 北村季吟
  ↓
 北村季吟(きたむら きぎん)
 寛永元年十二月十一日(1625年1月19日)
  〜
 宝永二年六月十五日(1705年8月4日)
 京都で生まれる
 歌人俳人、和学者
 名は静厚
 通称は久助・ 再昌院
 別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭
 祖父は宗竜
 父は宗円
 ともに
 近江野洲郡北村(滋賀県野洲町)の
 医師で、連歌をよくした
 二十五歳で俳書
 「山の井」を出版
 六十歳で新玉津神社宮司
 六十六歳で幕府の歌学所に入って、
 法印まで昇進
 「徒然草文段抄」・「源氏物語湖月抄」
 「枕草子春曙抄」・「八代集抄」・
 「万葉集集穂抄」など古典注釈
 芭蕉は、
 旧主蝉吟の縁故で
 季吟の門下に入り、
 秘伝の免許皆伝の証しである
 「埋木」を与えられたらしい・・・「埋木(うめき・マイボク・バイボク)」は「埋(うめ・生・楳・梅・宇目・倦・)られたキ」で、「ウマるキ」の「呻き(うめき→得目規)」だろう・・・?
 ・・・大日本史」は「徳川光圀(梅里)=水戸黄門」の編纂だった・・・
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 徳川光圀
 常陸国水戸藩
 第二代藩主
 諡号は「義公」
 字は「子龍」
 号は「梅里」
 神号は
 「高  譲   味   道根  之 命」
 (たか・ゆずる・うまし・みちね・の・みこと)
 水戸藩初代藩主
 徳川頼房の三男
 徳川家康の孫
 彰考館を設立
 「大日本史」を編纂
 生年月日は
 寛永五年六月十日
 1628年7月11日
 死没
 元禄十三年十二月六日
 1701年1月14日
ーーー↓埋木(秘伝奥義)
 「此の書は家伝の深秘といえども、
  宗房生、俳諧執心浅からかざるによって、
  書写を免じて、
  且つ
  奥書を加うるものなり。
  必ず、
  外見有るべからざるもののみ
  延宝二年弥生中七・・・・・延宝(延寳)二年二月十七日?
               延宝二年(甲寅)二月(丙寅)
               1674年3月24日
                ↓
               五年
               延宝十勝沖(陸中)地震
               延宝房総沖地震
               六年
               宮城県北部沖地震
                ↓
               清国
               康熙十三年
               鄭氏政権・永暦二十八年
               楊起隆・広徳二年
               呉三桂・周王元年
               朝鮮
               李氏
               顕宗十五年
                ↓
               寛永通宝四貫=金一両と定める
               古銭の通用を停止
               江戸市中の非人を改める
               アントニ・ファン・レーウェンフック
               細菌を発見
               トーマス・ウィリス
               糖尿病存在を確認
  季吟 花押」
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 「徒然草文段抄・(1667年・寛文七年)」の
 注釈書がある・・・
 写本は江戸時代のものが多く、・・・?
 室町時代のものは非常に少ない・・・?
 ・・・本人も実在しなかったのでは・・・?・・・
 だが、内容は「人災」と「天災」の記述と、それからの「解放」である・・・「諦め」ではない、それらの「明らめ」と、それからの「解放」の「客観主義的」な、「傍観主義者的」な個人的願望であろう・・・「庵」を結んで住んでいたのだから・・・?・・・「生きてイオリ生活」が出来る奴って・・・何者?・・・