1244日目・・・高熱、嘔吐、点滴・・・オフクロ・・・(辛酉・庚子・乙丑)×(癸巳・辛酉・丁亥)・・・

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 枕草子
 (一三八段)・・・百三十八・壱佰参拾八・壱参八・陌参足捌
          1+3+8=12=十二=壱拾弐=足弐
          1×3×8=24=二十四=弐拾四=念肆

 故殿の御ために、
(古伝の音矯め爾)
 月ごとの十日、
 (解通語渡の問う可)
 御經佛供養せさせ給ひしを、
 (音響、譜通、共用、施作是、他真、比詞記)
 九月十日、
 (句解通、読比)
 職の御曹司にてせさせ給ふ。
 (私記→史記→子規→死期→指揮の音蔵詞)
 上達部、
 (漢立ち目・韓絶ち目・定立つ辺)
 殿上人いとおほかり。
 (伝條比渡、意図、於補仮理)
 清範講師にて、
 (審判乞うし爾出・新版合史にて・侵犯行使にて)
 説く事どもいとかなしければ、
 (読異度摸、意図、仮名詞、化例葉)
 殊に物のあはれふかかるまじき若き人も、
 (言爾、摸之埜、亜葉例譜化掛留、混記、和歌記比渡摸)
 皆泣くめり。
 (視名、納句目理→拿組めり)
 終てて酒のみ詩誦じなどするに、
 (尾張出手、作化之視、史、生じ等素留爾)
 頭中將齊信の君、
 (頭注、将に再審→再診の訓)
 月と秋と期して
 (解通→通記と、亜記→亜紀→安岐→安芸と記して)
 身いづくにか
 (実、何処爾化)
 といふ事を
 (問い符言緒→渡移付言於→賭、委付異於)
 うち出し給へりしかば、
 (得知出し他真重理詩歌葉→詞花葉→視河馬→視椛)
 いみじうめでたし。
 (意味、字得、目出、足し)
 いかでかは思ひいで給ひけん。
 (異化出化葉、尾摸比→緒摸意→重い、出、他真比懸)
 おはします所に
 (於葉詞、真諏、常呂、爾)
 分け參るほどに、
 (和気→訳→別け→湧け、真意留保努爾)
 立ち出でさせ給ひて、
 (他知意出、作施、他真意出)
 「めでたしな。
 (目出度し→芽出度し→愛でたし)
  いみじうけうの事にいひたる事にこそ
 (意味字得、稀有の言爾、意比他留言爾、故素)
  あれ」
 (亜例→亜鈴→阿礼→古事記序文)
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      稗田阿礼(ひえだ の あれ)
     「古事記・編纂者の一人」
      時有二 舎人一。 姓稗田、名阿礼。
      年是廿八。為レ人聡明、度レ目誦レ口、
      拂レ耳勒レ心。即、勅_語二阿礼一、
      令レ誦_習二帝皇日継及先代旧辞一。
      然、運移世異、
      未レ行二其事一矣。
        ↓
     「あ(生)れ・有れ・在れ」
      賀茂祭の幣帛(へいはく)
      榊(さかき)に種々の綾絹(あやぎぬ)や
      鈴などをつけたもの
ーー↓      
 とのたまはすれば、
 (と、之他真葉諏例葉→場・羽・馬・婆
            歯→尚歯会)
               ↓
            ショウシカイ
            老人の敬老会
            中国の風習、唐の
            白楽天が最初に行ったが
            江戸時代の「尚歯会」は
             ↓
            構成員
            高野長英・小関三英・渡辺崋山
            江川英龍川路聖謨
            シーボルトに学んだ
            鳴滝塾の卒業生や
            吉田長淑に学んだ者などで結成
            天保の大飢饉などの相次ぐ
            飢饉対策を講ずるために結成された
            主宰者
            遠藤泰通(遠藤勝助・遠藤鶴洲)
            寛政元年(1789)〜嘉永四年(1851)
            紀州藩士遠藤新右衛門泰陳の次男
            幼名は竹松・勝助から新右衛門と改名
            字は子同
            号は古愚・鶴洲
             ↓
            泰通儒学者で「志学問答」の著者
            天保八年(1837)の
            「救荒便覧」・・・
            「尚歯会」の中心メンバー
            渡辺崋山
             ↓
            天保七年(1836年)から翌年の
            天保の大飢饉の際には、食料備蓄庫(報民倉)を
            築き、
           「凶荒心得書」という対応手引きを著し
            倹約の徹底、領民救済を徹底させ
            餓死者を出さなかった
           「蘭学にて大施主(と藤田東湖が賞賛)」
            紀州藩儒官
            遠藤泰通(勝助)が設立した
           「尚歯会」に参加
            高野長英などと飢饉の対策
            長英は
            ジャガイモ(馬鈴薯)と
            ソバ(早ソバ)を
            飢饉対策として提案
           「救荒二物考」を上梓し
            崋山がその挿絵を担当
            モリソン号事件後
            海防問題を議論し
           「シーボルト事件」に連座            
ーー↓
 「それを啓しにとて、
    (啓→もうす・ひらく
     ケイ→啓蒙・啓発・啓示→形而)
     ↓
    拝啓→ハイケイ→背景→敬老
     ↓       ↓
     ケイシ(軽視・刑死)にとて
             ↓
           高橋景保
ーー↓  
  物も
  見さして
  參り侍り
 (纂理・字理→事理)
  つる
  (鶴・蔓・弦・都留・津留・吊る・釣る)
  なり。
  (納裏・名裏・拿理)
  猶
  (尚・名捕・名保)
  いとめでたくこそ思ひはべれ」
  (意図芽出度く故措、重い、葉部例)
 と聞えさすれば、
 「ましてさ覺ゆらん」
  (真詞出、於簿喩覧)
 と仰せらるる。
 (賭、於補施等留瑠)

 わざと呼びもいで、
 おのづからあふ所にては、
 「などかまろを、
  まほに近くは語ひ給はぬ。
  さすがににくしなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、
  いと怪しくなん。
  さばかり年ごろになりぬる得意の、
  疎くてやむはなし。
  殿上などに明暮なきをりもあらば、
  何事をかおもひでにせん」
 との給へば、
 「さらなり。
  かたかるべき事にもあらぬを、
  さもあらん後には、
  え譽め奉らざらんが口惜しきなり。
  うへの御前などにて、
  役とあつまりて譽め聞ゆるに、
  いかでか。
  ただおぼせかし。
  かたはらいたく、
  心の鬼いで來て、
  言ひにくく侍りなんものを」
 といへば、
 笑ひて、
 「などさる人しも、
  他目より外に、
  誉むるたぐひ多かり」
 との給ふ。
 「それがにくからずばこそあらめ。
  男も女も、
  けぢかき人をかたひき、
  思ふ人のいささかあしき事をいへば、
  腹だちなどするが、
  わびしう覺ゆるなり」
 といへば、
 「たのもしげなの事や」
 との給ふもをかし。
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 猶(なお・ユウ)=犭+酋(おさ・シュウ・ジュウ)
 ↓       =追加説明・および・そして・アンド
 ↓        猶太(ユダヤ人の漢字名)
 ↓    「酋」の部首漢字は・・・
 ↓     遵(したがう・ジュン)
 ↓     鄭(かさねる・テイ・ジョウ)
 ↓     ↓
       周王室と同じ姫姓の国
       紀元前806年に周の窅王の末子である
       姫友(桓公)が鄭の地(陝西省華県)に封
       桓公の跡を継いだ
       武公は、周の東遷後の平王の治世を支え、
       新鄭(河南省新鄭市)に国を移した
       紀元前375年
       幽公の時に韓によって滅亡
 ↓     ↓
       鄭和(1371年〜1434年)
       永楽帝の宦官
       南海への七度の大航海の海軍提督
       本姓は馬、初名は三保
       イスラム教徒・・・?
       通称
       宦官最高位の太監・三保太監・三宝太監
       1404年に特使として十万人を率い、
       日本に派遣され
       足利義満倭寇取締りを要請し、
       朝貢形式の勘合貿易に同意・・・
       1405年7月11日
       永楽帝の命で第一次航海〜
       蘇州から出発
       1431年12月
       第七次航海は永楽帝の死後に彼の孫の
       宣徳帝の命令で出発
       アフリカ東海岸
       マリンディ(ケニアのマリンディ)まで
       宝船(ホウセン)
       全長は120メートル超の大型船)で航海
 ↓     ↓
       鄭成功(テイセイコウ)
       寛永元年
       大明の
       天啓四年七月十四日(1624年8月27日)
        〜
       永暦十六年五月八日(1662年6月23日)
       諱は森
       字は明儼
       幼名は福松
       父、芝龍は福建省の人
       平戸老一官と称し、
       第二十八代藩主
       宋陽隆信の下で川内浦に住む
       母は浦人田川マツ
       十五歳
       院考に合格し、南安県の生員
       明の南京で
       東林党の
       銭謙益に師事
       1644年
       明国滅亡
       清の侵略に明を擁護の抵抗運動をし
       1661年に台湾を占拠していた
       オランダ人を追放
       承天府及び
       天興、
       万年の二県を、
       澎湖島には
       安撫司を設置し
       台湾の鄭氏政権の祖となった
       俗称は国姓爺・鉄人
       倭銃隊(日本式の鎧・鉄砲隊・騎馬兵)を指揮
 ↓     ↓
 ↓     奠(まつる・さだめる・テン・デン)
 ↓     樽(たる)
 ↓     尊(みこと・とうとい・とうとぶ)
 ↓     ↓
 尚(とうとぶ・なほ・なお・ショウ・ジュウ)
 歯(は・シ)
 会(あう・あい・カイ)
   ↓
 「尚」の類字は
 「向」=むく・むける・コウ・キョウ・・・
 考史会・後史解・・・視界、美濃、文多・・・
   ↓
 「向」の同音異字は
  ↓
  嚆矢会・・・嚆矢(かぶらや・コウシ)は先端に「鏑=(金+啇)・かぶら・やじり・テキ、チャク」という、矢が飛行中に大きな音響を出す仕組みの矢・会戦の始まりを知らせる用具」で「鏑矢(かぶらや)」は「流鏑馬(やぶさめ)に用いる矢」・・・ものごとの始まり・・・「嚆」は「呼ぶ(さけぶ)・鳴り響く(なりひびく)・ キョウ(ケウ)・コウ(カウ)・かぶら矢・・・「最初」の意味である・・・
  ↓
 尚=なお=猶=直=名緒・・・
 異体字、旧字は「尙(小+冋→ケイ)
 朝鮮の
 尚真王、旧字で「尚眞王」
 1465年(成化元年)
  〜
 1527年1月12日(嘉靖五年十二月十一日)
  ↓
 琉球王国
 第二
 尚氏王統の
 第三代国王(在位1477年(成化十三年)
  〜
 1526年(嘉靖五年)
 童名は真加戸樽金(まかとたるかね)
 神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもけい)
 尚氏(しょうし)は、琉球国琉球藩の王家およびその姓
 途中、金丸(後の尚円王)の王位簒奪により王家交替
 第一尚氏第二尚氏として区別している
  ↓
 第一尚氏は「尚思紹王尚巴志王」を始祖とし
 七代六十三年間続いた
 1406年(永楽四年)〜1469年( 成 ...第二尚氏 -
  ↓
 第二尚氏は「尚円王」を始祖とし
 尚円王即位の
 1469年(成化六年)
  〜
 1879年(光緒五年)までの
 410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家
  ↓
 尚寧王(しょうねいおう)
 1564年(嘉靖四十三年)
  〜
 1620年10月14日(万暦四十八年、泰昌元年九月十九日)
 琉球王国
 第二尚氏王統
 第七代目の国王
 在位1599年〜1620年
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 ・・・関連アルや、ナシや・・・