1242日目・・・キュウリが五本・・・窓枠の設置作業は捗らず・・・右目の眼圧高く頭痛・・・オフクロ高熱・・・「科学と化学」の結集技術、イプシロン飛んだ・・・台風デスか・・・「科学と化学軍事兵器」・・・日常生活は「科学と化学危険物」が蔓延・・・シリアの問題・・・「戦争」で儲け、それによって「生活」している「人々」が世界中に存在させしめているシステム・・・

ーーーーー
 枕草子
 (一三六段)・・・百三十六段・壱佰参拾六段・壱参六段・陌参足陸段
          1+3+6=10=十=壱拾=足
          1×3×6=18=十八=拾捌=足捌

 「頭辨の・・・トウのベン=蔵人頭を兼務する弁官
               ↓
        蔵人(くろうど・藏人)
        律令制下の令外官の一
        天皇の秘書的役割を果たした
        唐名
        侍中(じちゅう)・・・字中
        夕郎(せきろう)・・・籍中
        夕拝郎(せきはいろう)・・・籍は遺漏
        蔵人所
        事務を行う場所
        内裏
        校書殿の北部に置かれた
        蔵の出納・管理を職掌とする下級官人
        倉人とも書く
        奈良時代
        造東大寺司に置かれ
        史生・案主等の
        下位に位置付けられた
        810年(弘仁元年)三月に設置された
        蔵人も「蔵人所」が
       「校書殿(きようしよでん)」に置かれた
        ・・・「蔵人」は字面からすれば
       「蔵の番人・管理人」であるが
       「帳簿・書籍」の蔵である
       ・・・歌舞伎では
        忠臣蔵
       「大石蔵之助」・・・息子は「主税」である・・・
        弁官・・・弁=わきまえる
        ↓
        弁=ム+廾
          異体字=辯(辩)・辨・辧・瓣・辮(辫)
              辦(办)
             花弁→花しべ→はなしべ=話し部
                 ↓
          花蕊・花蘂=カズイ・花のしべ
                雄しべと雌しべ
                花心
          王建
          蜀一国を平定
          903年朝廷より蜀王に封
          唐滅亡後
          五代十国前蜀の高祖
          妻
         「花蘂夫人(カズイフジン)」
          名は「小徐妃」(しょうじょひ)
          女流詩人で「宮詞(キュウシ)」を作る
          また、後に
         「花蘂夫人」とは別人の
         「二花蘂夫人(にカズイフジン)」が登場
          姓は「費 or 徐」?
         −−
          前蜀を乗っ取った
          孟知祥(もうちしょう)
          五代十国
          後蜀の初代皇帝
          在位期間は明徳元年(934年)
          姓・諱は孟知祥
          字は保胤
          諡号
          文武聖紱英烈明孝皇帝
          廟号は高祖
          咸通十五年四月21日
          (874年5月10日)
            〜
          明徳元年七月二十六日
          (934年9月7日)
          父は孟道
          皇后は李皇后(李克用の姪)
          陵墓は和陵
          邢州龍岡に孟道の子として生まれる
          父や叔父と共に
          後唐の荘宗の武将
          後唐前蜀を滅ぼすと、
          荘宗より
          西川節度使に封
          長興元年(930年)
          後唐に叛旗挙兵
          長興二年(932年)
          蜀の地より後唐勢力を駆逐
          懐柔策の明宗より蜀王に封
          応順元年(934年)
          国号を大蜀とし皇帝を称し、
          明徳と改元
          即位後
          七か月で崩御
         −−↓
          孟知祥
          の三男、
           ↓
          孟昶(永+日)=モウチョウ・昶)
          後蜀の第二代皇帝
         「後主」と称されている
           ↓
          行軍司馬を務め、
          明徳元年(934年)
          東川節度使に封
          旧臣の李仁罕や張業らを誅殺
          農業
          養蚕を推奨
          科挙を実施
          諫言を重用し政治改革実行
          彼の後宮
          花蕊夫人
          晩年は奢侈に溺れ、朝政が乱れた
          広政十八年(955年)
          西北四州が後周に略奪され
          広政二十七年(964年)
          宋に攻められ
          広政二十八年(965年)
          宋に降伏し後蜀は滅亡
          亡国後は
          検校太師兼中書令、
          秦国公に封ぜられ、
          乾徳三年(965年)に
          開封で没した(趙光義による毒殺説)
          死後は楚王に追封され、
          恭孝の諡号が贈られた
          この
          孟昶(永+日)
          の寵妃
           ↓
         「二花蘂夫人」を
          宋帝国の太祖・趙匡胤
          蜀の都・成都を陥とし、
          この花蘂夫人に惚れたが
         「貞女二夫にまみえず」
         「二花蘂夫人」は皇帝・匡胤の前で、
          亡国を偲んだ詞を詠み
          匡胤の弟の
          趙匡義が弓で「二花蘂夫人」を射殺
          ↓
ーーーーーーーーーーー
        弁える(わきまえる)・見分ける・物事の違いを識別
        理解する・心得る・善悪を判断し処理する
        弁別する=捌
        是非・善悪を区別する
        思弁
        けじめをつけて処理する
        弁済・弁償・勘弁・支弁・自弁
        弁当・駅弁・腰弁(こしべん)
        わきまふ
        区別する
        物事の道理をよく知っている・心得ている
          ↓
        房室弁
        心房と心室の境にある弁
        左房室弁を僧帽弁・二尖弁(にせんべん)、
        右房室弁を三尖弁
        半月弁
        心臓の心室から動脈への出口にある
        半月形をした三枚の弁膜
        大動脈弁と肺動脈弁の総称
        心室が収縮すると開いて血液を送り出し、
        弛緩(しかん)すると閉じて逆流を防ぐ
        三半月弁
        ↓
        弁識
        弁舌=speech
        方言=a dialect〈なまり〉
        ↓
        弁官(べんかん・辨官)
        朝廷の最高機関、
        太政官の職で
        左大弁(さだいべん)
        右大弁(うだいべん)
        左中弁(さちゅうべん)
        右中弁(うちゅうべん)
        左少弁(さしょうべん)
        右少弁(うしょうべん)
        の総称
        唐名(漢風名称)は
        尚書・通説は四等官
        律令制の官職組織の一
        和訓は弁官〈おおともいのつかさ〉
         ↓
        左弁官と右弁官は
        太政官(だいじようかん)に所属
        これを構成するおもな官職は
        左、右弁(大弁、中弁、少弁の三等・定員各一)
        と
        史(大史・少史)
         ↓
        左弁官は
        太政官に属し、
        八省のうち
        中務(なかつかさ)
        式部
        治部(ジブ)
        民部
        を監督
         ↓
        弁官=辨官
        律令制で、太政官(だいじょうかん)に属し、
        文書事務や、
        諸官司・諸国との連絡などを司どった官
        左弁官と右弁官に分かれ、
        それぞれ
        大弁・中弁・少弁が置かれ、
        その下に
        大史・少史があった
ーーーーーーーー↓
        弁韓(べんかん)
        紀元前二世紀末から四世紀にかけて
        朝鮮半島南部に存在した
        三韓の一つで
        弁辰とも言う
        弁韓十二ヶ国
        三韓時代の
        駕洛国金官伽耶
       「卞韓」・「牟韓」とも記録
       「弁辰」という名は、
       「半跛国」・・・「跛(ハ)」は「足なえ」
                跛行爬行
                ↓
        以下、「差別用語」としてではなく、
       「歴史的使用言語」としてブログ記事から抜粋し、
        そのコトバを添付します
       「現存・古事記」の
        ヤマトタケルの息吹山から下山した
        三重(村)懸でのタギタギしい状況の重なりです
        ↓
        跛(ちんば)
        片方の足に障害がありうまく歩けないこと
        対になっている物の形・大きさ・色が
        揃っていないこと
        両方の端がちがう「かたちんば」
        片足が不自由で、普通に歩けないこと
        対(つい)のモノが形や大きさが揃わないこと
        めくら(視力障害者)、
        つんぼ(耳の不自由な人)
        あきめくら(字の読めない人・文盲)
        おし(口の不自由な人・聾唖者)
        どもり(言語障害者・吃音)
        びっこ・ちんば・いざり(足の悪い人)
        かたわ(身体障害者
        がちゃ目(ロンパリ・斜視)
        ちんばの同義語
        足萎(なえ)・片ちんば・不揃い・片跛
        博多弁・・・?
        ほんらい食い違っている様子
         ↓
        ・・・「ベートーベン」の
            交響曲第9番、
           「ミサ・ソレムニス
           (misa solemnis)=荘厳ミサ(祭儀)」
        ・・・「座頭市・検校」の按摩
        ・・・「高橋竹山」の三味線
        ・・・「平家物語」を語る「琵琶法師」など・・・
         ↑
       「歴史的使用言語」として理解すべし・・・
ーーーーーーーー↓半跛国
        を中心とする
        韓の諸国の意味
        三世紀には「十二国また王あり」
        狗邪国・安邪国・半跛国が強国
        弁韓
        古代に朝鮮半島の南部に居住した韓族の名称
       「弁辰(弁辰韓)」
       「三国志魏志東夷列伝・韓の条」による記録
        ↓
        弁韓
        弁韓(弁辰)「後漢書・弁辰伝」
        弁辰與辰韓雜居、城郭衣服皆同、
        言語風俗有異。
        其人形皆長大、美髮、衣服虜清。
        而刑法嚴峻。其國近倭、故頗有文身者。
        紀元前3世紀〜2世紀に掛けて
        朝鮮半島の南部の辰国
        中国の春秋戦国時代
        韓の国が蓁の国に滅ぼされ、
        山東半島に移住した韓族
        韓族が山東半島経由で朝鮮半島の南部に
        馬韓辰韓弁韓等を建国・・・
        弁韓
        古代朝鮮の三韓の一
        現在の慶尚南道西南部
        後、
        加羅(から)任那(みまな)となり、
        六世紀に
        新羅(しらぎ)に併合
        朝鮮半島南部
        馬韓辰韓弁韓
       「弁韓」とは - 紀元前二世紀から四世紀にかけて
        朝鮮半島南部に存在した三韓の一
        十二ヶ国に分かれ
        馬韓の東で
        辰韓の南
        後の任那である・・・・・・?
        ↓
        当弁・答弁・唐弁・問う弁
ーー↓枕草子のツヅキ
御許
より」とて、
 主殿司、・・・主伝詞・取伝史
 繪
 など
 やうなる物を、
 白き
 色紙につつみて、
 梅の花
 いみじく
 咲きたるに
 つけてもてきたり。
 繪にやあらんと
 急ぎ取り入れて
 見れば、
 餠餤・・・・・・・へいだん、べいだん、へいたん
          ↓
          餅腅
          食べ物の一つ
          阿比留、鴨の卵と
          野菜を煮て
          餠の中に入れこみ、
          四角に切ったもの
          ↓
          兵団・兵站・兵端・米談
          平談→平家物語
          
 とい・・・・問
 ふ・・・・・譜
 ものを、
 二つ
 竝べて
 つつみたるなり。
 添へたるたて
 文に、
 解文の
 やうに書きて
 「進上餠餤・・・・「真情・心情・身上・信条」兵団・平談
           ピアノ、楽器の「進上の併弾」
  一つ
  つみ、・・・・・・罪・摘み・抓み・積み・詰み
  例によりて
  進上
  如件、・・・・・如件(くだんのごとし)
          くだん・九段・句段・苦談・件(くだん)
  少納言殿に」・・章名言伝爾
 とて、
 月日かきて、・・・解通比
 「任那成行」・・・任那の成り行き・・・日本府
          南朝鮮の東端・・・辰韓弁韓
              駕洛国金官伽耶
ーーーーーーーーーー↓
          任那・・・?が系譜
         任那→清和→源氏→清水氏・・・?
         ↓↑
        光孝天皇
        天長七年(830年)
         〜
        仁和三年八月二十六日(887年9月17日)
        第五十八代天皇
        在位
        元慶八年二月二十三日(884年3月23日)
         〜
        仁和三年八月二十六日(887年9月17日)
        諱は時康(ときやす・ジコウ)
        仁明天皇の第三皇子
        母は贈太政大臣藤原総継の娘
        藤原沢子
        兄弟は
        文徳天皇、宗康親王
        人康親王本康親王
        源多、
        源光
        女御(皇太后)は
        班子女王(833〜900)-仲野親王の女
        宮人は
        布勢氏・滋水清実の女(?-?)・・・布勢=阿倍
        子は
        宇多天皇(定省親王
        嵯峨源氏
        源是茂を養子
        ↓
        千人万首・十五の作者
         君がため・・・訓固め
         春の野に・・・葉留之埜爾
         いでて・・・・意出氐(弖)
         若菜・・・・・話仮名
         つむ・・・・・通務
         わが・・・・・倭臥
         衣手に・・・・故賂摸出爾
         雪は・・・・・行記葉
         ふりつつ・・・振り通々
        十六歳で元服
        上野大守・常陸太守など親王任国の長官
        陽成天皇藤原基経によって廃位された後
        五十五歳で即位・・・・?
        藤原基経に政治を任せ、
        基経が「関白」職の初め
        桓武天皇の先例の鷹狩復活
        親王時代に
        相撲司別当
        即位後相撲を奨励
        光孝天皇諡号
        漢風諡号を持つ古代最後の天皇
        漢風諡号の奉呈は
        その千年後、
        江戸末期の
        光格天皇時代に復興
        怨霊封じで
       「徳」字を奉られた
        崇徳・安徳・顕徳・順徳の
        四帝は除く
         ↓
        仁和帝(にんなのみかど)、
        あるいは
        山陵の名を以て
        小松帝(こまつのみかど)
        小松山陵は・・・章証綴纂漁・・・?
        正式の陵号を
        後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)・・・?
             之知廼他務等之視作詐欺(詐偽)
              後(誤)伝憂慮
        嘉祥二年(849年)
        渤海国大使の
        王文矩が必ず天子の位に就くと予言・・・?
         ↓
        渤海使
        728年〜922年までの間に
        34回(他に遼からの派遣が1回)
        の使節が記録「類聚国史」に残っている・・・?
         ↓
   回   日本年号 渤海年号 使節  天皇 渤海王 記録
   20 821年 弘仁12年 建興03年 王文矩 嵯峨 大仁秀 国史
   21 823年 弘仁14年 建興05年 貞泰  嵯峨 大仁秀 国史
   22 827年 天長4年 建興09年 王文矩 淳和 大仁秀 国史
   23 841年 承和8年 咸和11年 福賀延 仁明 大彝震 後紀
   24 848年 嘉祥元年 咸和18年 王文矩 仁明 大彝震 後紀
   最期は
   35回目の
   927年(日本年号・延長七年?)、
       (契丹年号・天顕二年)   
   耶律阿保機(太祖)
  「大聖大明神天皇帝」で漢名は「億」
  「阿保機・耶律阿保機
  (在位907年〜926年7月)
   の死後の権力者は
  「淳欽皇后」で漢名は「」・・・?
  「月里(ユリド)・述律平」・・・「朵(えだ・ダ)」=几+木(十八)?
         「朵」は花や雲を数える数詞
  (926年7月〜927年11月)
   の年号は「天顕二年」
  「孝武恵文皇帝(太宗)」で漢名は「徳光」
  「堯骨・耶律徳光」
  (在位926年11月〜947年4月)
   国号は大契丹国で、
   947年、「遼」の国号を立て、
   983年に「契丹」に戻され、
   1066年にまた「遼」に戻された
    ↓
   日本への使節
  「斐璆」で、
      斐(非+文・ヒ・ハイ)璆(王+翏・キュウ)
                 翏=羽+人+彡
           「羽人=仙人・僊人」の痕(跡)
  「醍醐天皇」の時代、
   派遣した王は「耶律突欲」で、記録は「日本紀略」・・・
    ↓
   渤海入朝使
  「文籍太夫
  「斐璆」、着、「丹後国竹野郡・大津浜」
  (日本紀略・延長七年・929?・十二月二十四日条)
   丹後国言上、渤海客到来由、左大臣参、被定召否之由、
   件客九十三人、
   去年十二月二十三日、
   着丹後国竹野郡
  (扶桑略記・裏書・延長八年正月三日条)
    ↓    
   耶律突欲(ヤリツトツヨク・899年〜936年)
   916年
   契丹(キタイ)帝国の皇太子(図欲)
   漢風の姓名は
   劉倍(耶律倍)
   諡号は譲国皇帝
   廟号は義宗
   父
   契丹帝国初代皇帝・耶律阿保機(太祖)
   母
   月里朶(ユリド、述律皇后)
   の長男
   後、
   東丹国の国王
   926年に渤海を滅ぼし、渤海国を改めて東丹国とし、
   突欲を国王(人皇王)
   阿保機を「天皇帝」
   ユリド皇后を「地皇
   927年
   弟の
   堯骨(太宗)が契丹帝国を継ぐ
   沙陀族(後唐)の
   李嗣源は、突欲に亡命を促し
   突欲は
   930年、山東半島の登州に渡り、亡命
   李嗣源から「東丹慕華」の名を与えられ
   さらに国姓の李と賛華の名を与えられ
   滑州節度使に任命された
   933年、李嗣源の死亡後
   後唐国内は養子の
   李従珂らが権力を握り混乱
   突欲は
   同母次弟の
   耶律堯骨(太宗・劉徳光)に後唐への介入を促し、
   石敬瑭(後晋を建国)を支援し、
   後唐を滅亡させたが
   李従珂が放った刺客に暗殺
   ↓
 「国史類聚国史(るいじゅこくし)」
  菅原道真の編纂
  892年(寛平四年)に完成・成立
  古典の中から必要な箇所を抜書きして分類編纂
  「日本三代実録」の部分については、
  同書は901年(延喜元年)完成直前に道真が大宰府に流刑
  故に同書部分は後世の加筆の説と
  「三代実録」の編纂には道真流罪前に
  その草稿を元にして加筆されたとする説がある
  本文二百巻・目録二巻・系図三巻の計二百五巻であったが、
  応仁の乱で散逸し、現存するのは六十二巻のみ
  平安前期の史書で特に先例を調べるのに便宜を図っており、
  原文主義をとって
  余計な文章の改変を一切排している・・・?
  「日本後紀」の多くが失われているため、
  復元する資料としても貴重である・・・・?
 「後紀=日本後紀
  弘仁十年(819年)
 嵯峨天皇が、藤原冬嗣藤原緒嗣藤原貞嗣良岑安世
 に編纂を勅旨。
 未了のまま緒嗣を除く三人が死亡
 後に
 淳和天皇清原夏野、直世王、坂上今継、
      藤原吉野、小野岑守、島田清田に続行を命じた
 仁明天皇の代になってさらに詔し
 藤原緒嗣、源常、藤原吉野、藤原良房、朝野鹿取に遂行を命じた
 さらに後、
 布瑠高庭と山田古嗣を加え、
 承和七年十二月九日(841年1月5日)完成
 編纂までにかかった期間は
 二十一年間、
 三代の天皇にわたる事業にずっと携わったのは、
 藤原緒嗣一人
 「続日本紀」の後
 桓武天皇の治世の途中から、
 平城天皇嵯峨天皇淳和天皇の治世を記録
 四十巻揃っていたが、その後散逸
 「塙保己一はなわ ほきいち)」の門人
 「稲山行教」が・・・・・トウサンギョウキョウ
             当て纂の 行の教え?
 十巻分の写本を
 三条西家で発見(異説として柳原紀光の校訂本説もある)し
               ↓
              流言起稿(紀行・紀綱・寄稿)
 初めて刊行
 現存分は
 巻五・八・十二・十三(桓武)、十四・十七(平城)、
 二十・二十一・二十二・二十四(嵯峨)の
 十巻
 淳和天皇の代は全部欠落・・・?
 六国史などの抜粋版である
 「日本紀略」と、
 六国史の項目分類である
 「類聚国史」の引用から本文を少々復元・・・?
 各所の逸文を収集したものに
 「日本逸史・日本後紀逸文」がある
 ・・・「日本史の改作に手を込んだ?」としたら幕末明治だろう・・・だいたいからして盲目の幕末学者「塙(はなわ)保己一(ほきいち)」の門人である「稲山行教」が出てくるのが・・・?・・・である、カナ・・・しかも貧乏時代のエピソードが「徒然草」に記録されている・・・?・・・
  ↓
 塙(はなわ)保己一(ほきいち)」
 延享三年五月五日
 (1746年6月23日)
  〜
 文政四年九月十二日(1821年10月7日))
 幼名は
 丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ
 失明後に辰之助(たつのすけ)
 多聞房(たもんぼう)とも名乗る・・・
ーー↓「マクラのソウシ」のツヅキ・・・
 とて、
 奧に、
 「この
  男は・・・・・・音故葉
  みづ・・・・・・自・「水=壬・癸」
  から
  參・・・・・・・まい
          サン・纂
  らん・・・・・・乱・覧・蘭
  と・・・・・・・徒・賭・渡
  するを、
  晝は・・・・・・晝(昼・ひる・チュウ)
       類字は書(かく・ショ)
          畫(画・えがく・限る・エ・カク)
  かたち
  わろし
  とて
  まゐらぬ
  なめり」
 と、
 いみじく
 をかしげに
 書き給ひたり。
 御前に
 參りて
 御覽ぜさすれば、
 「めでた・・・・目出度
  く・・・・・・句
  も・・・・・・模
  かかれ・・・・懸か例
  たる
  かな。
  をかしう
  したり」
 など
 譽めさせ給ひて、
 御文はとらせ給ひつ。
 「返事は
  いかが
  すべ
  か
  らん。
 この
 餠餤もてくるには、
 物
 など
 や
 とらす
 らん。
 知りたる
 人
 もがな」
 といふを
 聞しめして、
 「惟仲・・・・これなか・「イチュウ・ユイチュウ」
  が
  聲し
  つる、
  呼びて
  問へ」
 との給はすれば、
 はしに出でて、
 「左・・・・・よこしま(邪)・ひだり(比拿理)
  大・・・・・代
  辨・・・・・弁・偏・篇・変
  に
  もの
  聞えん」
 と、
 侍・・・・・・はべら(葉部等)
 して
 いはすれば、
 いと
 よく
 うるはしう
 てき
 たり。
 「あらず、
  私事なり。
  もしこの
  辨
  少
  納
  言
  などの
  もとに、
  かかる物
  もてきたる
  下部などには、
  することやある」
 と問へば、
 「さる事も侍らず、
  唯とどめて
  くひ侍る。
  何しに
  問はせ給ふ。
  もし
  上官のうちにて、
  えさせ
  給へるか」
 といへば、
 「いかがは」と答ふ。
 唯返しを
 いみじう
 赤き
 薄樣に、
 「みづ
  から
  持て
  まう
  で
  こぬ
  下部は、
  いと
  れい
  たう・・・・当・問う
  なりと
  なん
  見ゆる」
 とて、
 めでたき
 紅梅に
 つけて奉るを、
 すなはち
 おはしまして、
 「下部さぶらふ」
 と
 の給へば、
 出でたるに、
 「さやうのものぞ、
  歌よみして
  遣せ
  給へると
  思ひつるに、
  美々しくも
  いひ
  たり
  つる
  かな。
  女
  少し
  われはと
  思ひたるは、
  歌
  よみがましく
  ぞ
  ある。
  さらぬ
  こそ
  語ひ
  よけれ。
  まろなど
  に
  さる事
  いはん
  人は、
  かへりて
  無心
  ならん
  かし」
 との給ふ。
 「則光、・・・・・のりみつ・即効・速攻・即行
  成康・・・・・・なりやす・成りやす・名理埜素
  など、
  笑ひて
  止み
  にし
  事を、
  殿の・・・・・伝之・出ん之・伝埜
  前に・・・・・
  人々
  いと
  多かりけるに、
  語り
  まを
  したまひ
  けれ
  ば、
  いと
  よく言ひ
  たる
  と
  なんの
  給は
  せし」
 と
 人の
 語りし。
 これこそ
 見苦しき
 我ぼめ
 ども
 なり
 かし。
ーーーーー
 ・・・見苦しき、我ぼめどもなりかし・・・話例補目度摸名理可視・・・