1238日目・・・加減乗除・・・イイ加減にしろ・・・乗って除く・・・嘉元(1303年八月五日〜1306年十二月十四日・後二条天皇の年号)・下限(数量枠の最低限)・下弦(下弦の月)・寡言(多言の逆意)・・・こんな溝(どぶ)臭いモンは「嗅げん」・・・

ーー以下、ウイッキペデアより参考参照抜粋、少々改作・・・
 嘉元(かげん)
 乾元の後、徳治の前
 乾元二年八月五日改元
 天変(彗星・日照)の
 凶事、凶兆を避けるため改元
 1303年〜1306年
ユリウス暦
 1303年9月16日
   〜
 1307年1月18日)
 後二条天皇の期間の年号
 鎌倉幕府将軍は久明親王
 執権は北条師時

 嘉元の乱
 鎌倉時代
 嘉元三年(1305年)
 四月二十二日〜五月二日の
 鎌倉幕府内の騒乱
 北条宗方の乱とも
 越訴頭人
 北条宗方らが
 連署の・・・・・連署は執権に次ぐ役位
 北条時村を討つ
 宗方は
 執権の
 北条師時の館で殺される
ー↑
 霜月騒動(しもつきそうどう)
 鎌倉時代後期の
 弘安八年十一月十七日
 (1285年12月14日)
 鎌倉幕府の政変
 八代執権
 北条時宗の死後
ーー↓
 「橘守部」は
 蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾・・・守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感・・・?・・・
 橘守部(たちばな もりべ)
 天明元年四月八日(1781年5月1日)
   〜
 嘉永二年五月二十四日(1849年7月13日)
 江戸時代後期の国学者
 伊勢国朝明郡小向村(朝日町)の庄屋の家に生まれた
 通称は飯田元輔・源助
 号は池庵・椎本・生薬園
 父の飯田元親は
 国学者
 谷川士清の門人
 守部自身は独学で国学を研究
 本居宣長を痛烈に批判し、
 「古事記」よりも
 「日本書紀」を重んじた・・・・?・・・
 神話の伝説的な部分と
 史実の部分の区分の必要性を説く
 晩年は江戸に住んで
 肥前国・・・・西海道に属し、
        佐賀県と長崎(壱岐対馬を除く)
        にあたる。肥州
        火国、後の肥国の分割で七世紀末に成立
        肥後国が「続日本紀」に初めて見える
        持統天皇十年(696年)までに、
        肥前国肥後国との分割があった
       「肥前国風土記」は、全国で五つだけの、
        ほぼ完全な形で残る
       「風土記」の1つ
        室町時代末期にポルトガル、スペインの
        宣教師が相次いで来訪
        天正少年使節団を出す
         ↓
        豊臣政権時代の肥前の大名
        寺沢広高=上松浦郡八万三千石
             1600年(関ヶ原の戦い後、唐津藩
        鍋島直茂(主君は龍造寺政家
        松浦鎮信
        大村喜前
        有馬晴信
        五島純玄
        豊臣秀吉九州平定後にも本領安堵
        江戸時代の藩としても存続
        波多親は一旦は本領を安堵されたが、
        その後秀吉の不興を買い、
        1593年に所領没収
       「秦(はた)」氏

 平戸藩主・・・・長崎・平戸・出島
 松浦氏の知遇を得
 「死後安心論」にも関心・・・天国、極楽?
 守部独自の国学の説は、
 武蔵国北部から
 上野国にかけての
 機業家などに・・・機織(はたおり)
          養蚕(ヨウサン)・桑葉・扶桑
          絹(きぬ・布)
          綿(わた・棉)・腸(わた)
          秦の河勝・・・デキスギデス・・・
          ↓
          秦氏・姓は造・秦丹照、秦国勝の子
          冠位は「大花上」
          渡来人集団・祖先は秦の始皇帝・・・
          聖徳太子の側近として活躍した・・・
          ↓
          本名は厩戸(うまやど・うまやと)
          別名は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)
          上宮王(かみつみやおう)
          上宮太子聖徳皇
          厩戸豊聰八耳皇子
         「古事記和銅五年・712年」では
          上宮之厩戸豊聡耳命
         「日本書紀・養老四年・720年」では
          厩戸皇子
          豊耳聡聖徳
          豊聡耳法大王
          法主
          東宮聖徳と記録
         「聖徳太子」の記録は
          天平勝宝三年(751年)の
         「懐風藻」が初出
           ↓
          秦氏は、
          平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わった
          聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り
          広隆寺を建てそれを安置
          610年
          新羅使節を迎える任
          644年
          駿河国富士川周辺で、
          大生部多(おおふべのおお)の
         「常世神」を崇める集団(宗教)を、
          河勝が追討
          赤穂の坂越で死没
          坂越浦に面して
          秦河勝を祭神とした大避神社が鎮座
          神域の
          生島には秦河勝の墓
          本拠地とした京都市右京区
          太秦(うずまさ)や、
          墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す
          かつて
          川勝寺とよばれる寺があり、
          近隣には
         「秦河勝終焉之地」の碑がある
          この地域は明治の初めまで
          川勝寺村(せんじょうじむら)と呼ばた
          秦氏の後裔は戦国大名
          土佐国の長宗我部氏
          幕臣川勝氏も河勝の子孫を称す
          金春流
          「大和ノ長谷川党」・・・と
          金春禅竹が「明宿集」で記録
          長谷川党は大和の
          国衆
          十市氏を刀禰とする武士団で
          薩摩国の島津氏の系譜と密接な関係がある
          河勝は猿楽の祖でもあり、
          能楽
          観阿弥
          世阿弥親子も河勝の子孫を称した
          東儀家は河勝の子孫である
          ・・・らしい・・・?
          厩・・・・ク·キュウ・キウ・うまや・まら
          厩=厂(がけ・カン・ガン)
            +
            既(すでに・キ・ケ)
          がけ、すでに、キ、ケ
               ↓   
          厩戸・・・木戸
          豊聰・・・豊臣
          八耳・・・八字・野次・埜字
          皇子・・・みこ・ミコ
               視拠・みどころ・見処・見所
 秦皮(シンシ)=とねりこ=梣(シン)=さととねり
 ・・・トネリコギ・ash (tree)・・・
    舎人古儀(狐疑・近木・扱ぎ・漕ぎ)・・・?
 モクセイ科の落葉高木
 本州中部以北の山地に自生
 葉は長卵形の小葉からなる羽状複葉
 雌雄異株で、
 春、
 葉より先に淡緑色の
 小花を円錐状につけ、
 長い翼のある実を結ぶ
 田のあぜなどに
 稲架(はさ)木として植えられ、
 材は家具・スキーなどに用いる
 榛
 カバノキ(樺の木・椛の木)科の落葉低木
 葉は広卵形で鋸歯(のこば・キョシ)がある
 若葉には紫褐色の斑紋がある
 雌雄同株で、三、四月に葉より先に開花
 雄花穂はひも状
 榛名(はるな)・・・
 榛名山(はるなさん)は、関東地方の北部の
 群馬県にある赤城山妙義山と共に上毛三山の一
 日本海軍の戦艦名で、金剛型戦艦の3番艦
 榛名神社
 中世以降は
 「満行権現」と称され、
 「元湯彦命」が祭神とされていた
 「榛名山志」には
 東殿・饒速日
 中殿・元湯彦命
 西殿・熟真道命と記されている
 明治元年に現在の二柱に改められた
 現在の主祭神
 火の神・火産霊神
 土の神・埴山姫神である
 水分神・高靇神・闇靇神
 大山祇神大物主神
 木花開耶姫神を合せ祀る
 秦=三+人+禾(ノ十ハ)
 秦皮(とねりこ・シンシ)・・・秦(はた)の皮(かわ)
               秦     河(勝)
 奉(たてまつる・ホウ・ブ)・捧
 奏(かなでる・ソウ・ス)
 湊(みなと)
ーー
 湊川の戦い
 延元元年=建武三年(1336)
 九州から東上した
 足利尊氏・直義の軍が、
 湊川
 新田義貞楠木正成らの軍を破った
 義貞は敗走、正成は戦死
ーー↑
 斯波 高経(しば たかつね)
 南北朝時代の武将、守護大名
 越前・若狭・越中守護
 足利氏の有力一門
ーー↓
 足利泰氏
 鎌倉時代前期の鎌倉幕府御家人
 足利家三代目当主
 足利義氏の嫡男
 足利宗家四代当主
 「泰」は鎌倉幕府
 三代執権の
 北条泰時
 (泰氏の外祖父)からの偏諱
  ↓
 斯波氏(尾張足利氏)四代当主
 元弘三年(1333年)
 足利尊氏の挙兵に従って
 鎌倉幕府に反旗を翻し、
 建武政権において
 越前守護職
 尊氏が建武政権に反するとこれにも従って
 北朝軍の有力武将となる
 北陸方面の司令官
 南朝軍の司令官であった
 新田義貞を討つ
ーー
 観応の擾乱
 1350年(北朝年号観応一年)
南朝年号正平五・北朝年号観応元年
 〜
 1352年(観応三年)
 南朝年号正平七・北朝年号文和元年
 の
 室町幕府
 尊氏(兄)+高師直足利義詮(尊氏の実子)と
 直義(弟)+直冬(尊氏の実子)との
 尊氏の同母弟と
 尊氏の実子兄弟の確執
 内訌で
 当初
 足利直義陣営に属して尊氏と戦うが
 尊氏、直義両陣営の間で
 離反と帰参を繰り返した
 足利直義は鎌倉で毒殺され決着
ーー↓斯波氏
 尊氏の死後、
 斯波 高経は
一時室町幕府の最高権力を得たが
 佐々木道誉らの策謀により失脚
 洛中、都落で
 越前杣山城で病死
 斯波氏
 足利宗家
 四代当主の
 泰氏の長男
 家氏から始まる
 成立当初より「足利」の名字を公称
 代々の当主は尾張守を称した
 足利高経も
 足利尾張守高経と表記される
 足利高経の
 「高」字は
 足利尊氏
 初名である「高氏」と同じく
 北条得宗家の
 北条高時
 偏諱とみられる
 高経と尊氏は同年生まれ
 室町幕府成立で
 四男
 足利義将が管領となり、
 足利高経(斯波高経)はその後見をつとめた
 本格的に
 「斯波氏」を称するのは
 足利義将以降のこと
 室町時代を通して三管領の筆頭
 ・・・足利義将(?〜嘉吉元年七月二十一日(1441年8月7日)
 足利直冬の孫、足利冬氏の次男、「嘉吉の乱」の際、赤松満祐に擁立された足利義尊の弟・・・「嘉吉の乱」は、嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府「六代将軍足利義教を暗殺」し、領国播磨で幕府方討伐軍に討たれるまでの騒乱である・・・「嘉吉の変(かきつのへん)」とも・・・
 「芝草(昔はカガといった)」で「アシク(亜示紅・悪しく)茂るカガ」・・・ 「アシ」は中国東北部(旧満州)の言葉で、「金属」のこと。「カガ」は「利息の利」のこと・・・アイヌ語の数詞の「5」は・・・「あしく・あしきね・あしきねぷ・あしきねぷ」の「加賀」・・・?
 1  「しね・しねぷ・しねぷ」
 2  「つ・つぷ・つんない」
 3  「れ・れ・れぷ・れぷ」
 4  「いね・いね・いねぷ・いねぷ・ゆーぴ」
 5  「あしく・あしきね・あしきねぷ・あしきねぷ」
 6  「いわん・いわん・いわんべ・いわん」
 7  「あらわんぺ・あらわんぺ・ふぷぶら」
 8  「と゜・ぺし・とべさんべ・つべし」
 9  「しねぺさんぺ・しねべさんべ・はいな」
 10 「わんぺ・わん・わんべ・わんべ・はちけ」
ーー斯波氏
 斯波氏は、
 足利家氏
 陸奥
 斯波郡
 (岩手県紫波郡
 所領としたことから
 斯波氏と称するを・・・?
 「紫波」と「斯波」は漢字が異なる・・・
 明治十一年(1878年)
 行政区画
 紫波町(しわちょう)
 矢巾町(やはばちょう)
 天正年間
 奥州斯波氏の
 斯波詮直(最後の斯波御所)が
 北上川遊覧の折、川底の赤石に陽が射し、紫色に輝く川波を瑞兆として  「けふよりは
  紫波と名づけん
  この川の
  石に
  うつ波
  紫に似て」
 と詠み、
 古代以来
 「斯波郡」と書いていたものを
 「紫波郡」に改めた・・・・・・?
 元来の名は
 志賀理和気神社(全国最北の式内社)から
 「志和」と書かれた、という説がある・・・
 (この赤石を御神石として引き上げ祀ったので、
  この神社は後世
 「赤石神社」とも呼ばれている)・・・?
 奥六郡最北となる
 「岩手郡」の建郡以前に
 志波城が置かれ、後にこの地が岩手郡
 「岩手郡」も元は
 「志波(斯波・志和)郡」である
 斯波氏の旧居城であった
 高水寺城は
 天正十九年に
 郡山城と改称
 ほぼ同じ頃に郡名も改められた・・・怪しい・・・
 江戸初期、盛岡藩の米穀供給地
 八戸藩分立によって、
 寛文五年(1665年)
 土館村、稲藤村、片寄村、上平沢村の四村が、
 飛地領として編成され、
 同藩
 紫波通に属し、単に
 志和とも書かれていた
 幕末時点では陸奥国に所属
 「通」は
 天和年間(1681〜83年には、代官所統治区域)
  ↓
 斯波氏
 本姓は源氏
 清和源氏の中の
 河内源氏の棟梁・鎮守府将軍
 源義家の子である
 源義国を祖とする
 足利氏の一門
 室町幕府三管領筆頭
 越前・若狭・越中・山城・能登遠江
 信濃尾張・加賀・安房佐渡などを領した
 守護大名戦国大名
 一門は
 奥州探題
 羽州探題を代々歴任
 九州探題関東管領にも任じられた
ーー
 秦(はた・シン・ジン)=三+人+禾
 湊(みなと・ソウ・ス)=氵+奏(三人夭)
       夭(わかい・ヨウ)→妖しい・妖艶 
 凑(あつめる・あつまる・ス·ソウ)=冫+奏
 (散らばっている人や物、金をなんとか1か所に)
  集める・寄せ集める・「拼凑」
 機会に乗ずる・ぶつかる・近づく・近寄る
 子供の面倒を見る・子供の世話をする
 凑乎(còuhu・我慢する・間に合わせる
    だまし・だましやる・お茶を濁す
 泰(やすい・タイ)=三+人+氺(水)
 春(はる・シュン)=三+人+日
 舂(つく・ショウ・シュ)=三+人+臼
 摏(うつ・ショウ)
 樁(トウ)
 憃(おろか・シュン・トウ)
ーーー↓橘守部
 門人を広げた
 著書
 「神風問答・伊勢物語箋・待門雑記・山彦冊子・稜威道別
  稜威言別・神代直語・難古事記伝・湖月抄別記」
 などがある。
ーー↓北条時宗
 幕末
 尊王攘夷の中
 北条時宗に対する礼賛は高まる
 明治時代
 元寇受難者への追贈で
 時宗にも
 従一位が追贈
 湯地丈雄によって元寇記念碑が設立
 太平洋戦争の皇国史観時宗に関する評価があがった
 戦後
 モンゴルの使節を殺害して対日交渉を決裂させ、
 徹底した抗戦の姿勢を
 国際情勢の無知とし、非難が起こった・・・?・・・この時代、戦わずして、どうする・・・
ーー↓嘉元の乱
 有力御家人
 安達泰盛
 内管領
 平頼綱の対立
 平頼綱
 安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた
 弘安合戦、
 安達泰盛の乱、
 秋田城介(あきたじょうのすけ)の乱とも
 源頼朝没後に繰り返された
 北条氏と有力御家人との間の最後の抗争
 この騒動の結果、
 幕府創設以来の有力御家人政治勢力は壊滅
 平頼綱率いる
 得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立
 ・・・ようは、この事件はハッキリしない「曖昧な事件」であるが・・・明治初期の「事件」と重なる・・・「佐賀の乱」・・・

 嘉元百首(嘉元仙洞御百首)
 嘉元元年秋〜冬(1303年秋〜冬)
 鎌倉時代の宝治期以降、
 勅撰和歌集の撰定に際して、
 その資料とするために当代の人々から
 百首和歌を召すことが慣例
 詠進時の年号により
 宝治百首などと称される
 冷泉家
 「時雨」亭文庫には
 「嘉元百首」以下、
 その詠者による詠進当時の原本が伝存
 嘉元百首は
 「新後撰和歌集」の撰定に際して
 後宇多上皇が召した百首
 正安四年(1302)六月に
 百首詠進の命が下り、
 翌
 嘉元元年(1303)十二月の
 「新後撰集」奏覧までに詠進
 写本等により
 二七名の百首
 勅撰集の詞書等により
 三名の詠歌が知られ、
 実際の出詠者は
 三〇名余と考えられている
 冷泉家時雨亭文庫
 内大臣一条内実
 左中将二条為藤の二名の百首の原本
 「冬日詠百首應 製和謌」(内実)
 「冬日侍 太上皇仙洞同詠百首・應 製倭歌」(為藤)
 本文
 春二十首(十四題)
 夏十首(八題)
 秋二十首(十五題)
 冬十首(八題)
 恋二十首(九題)
 雑二十首(十六題)
 各一首を上句・下句の
 二行に分けて書いている
 内実の百首の中に一箇所後筆の押紙で
 「続千載」とあるほかは書き入れ等はなく、
 内実の巻末には
 墨付のない
 一紙まで当初のままに存している・・・?・・・漢白・巻白・刊白・・・関白・・・
 関白太政大臣の事件・・・豊臣秀吉豊臣秀次羽柴秀次)・・・豊臣秀吉の姉(とも・瑞竜院日秀・日秀)の子で、秀吉の養子。通称、「孫七郎」・・・永禄十一年(1568年)〜文禄四年七月十五日(1595年8月20日)・・・?
ーー↓
 織田信長の北近江浅井攻めに際し、宮部継潤の養子
 信長四国攻で
 阿波国の三好康長に養子・・・三好信吉と名乗る
 天正十(1582年)六月
 信長の死後、秀吉の縁者として重用
 天正十一年(1583年)
 賤ヶ岳の戦いで武功
 天正十二年(1584年)
 小牧・長久手の戦い徳川家康軍に惨敗
 天正十三年(1585年)
 紀伊雑賀攻めで千石堀城を落し
 近江国蒲生郡八幡山城近江八幡市)43万石
 領内の統治で善政
 近江八幡には「水争い裁きの像」が残る
 天正十四年(1586年)
 十一月
 豊臣の本姓を秀吉から授与
 天正十八年(1590年)の小田原征伐で、
 山中城攻撃で城を半日で陥落させた
 改易された
 織田信雄の旧領である
 尾張国伊勢国北部五郡、百万石の大領を与えられた
 天正十九年(1591年)奥州に出兵
 葛西大崎一揆及び九戸政実の乱を鎮圧
 天正十九年(1591年)八月
 秀吉の嫡男・鶴松が死去後
 十一月に秀吉の養子
 十二月に関白就任
 文禄二年(1593年)
 秀吉に実子・秀頼が生まれ
 文禄四年(1595年)
 七月八日
 秀吉に高野山に追放され、出家
 出家した元の関白=禅閤となり、
 豊禅閤〈ほうぜんこう〉
 七月十五日に切腹を命じられ
 青巌寺・柳の間で切腹
 享年二十八
 辞世の句
 「磯かげの・・・記掛解之
  松の・・・・・真通之
  あらしや・・・亜等詞埜
  友ちどり・・・渡摸知怒理
  いきて・・・・意記出
  なくねの・・・名句音之
  すみ・・・・・素視
  にしの・・・・似史之
  浦」・・・・・裏
 八月二日(9月5日)
 秀次の首は秀吉によって
 京都の三条河原に曝され
 三条河原において、
 秀次の家族及び女人らも処刑
 遺児(四男一女)
 側室・侍女(三十九名)
 十一番目に処刑されたのは・・・伊達政宗の従妹、駒姫(こまひめ、天正七年(1581年)〜文禄四年八月二日(1595年9月5日)は、最上義光と大崎夫人の二女で、羽柴(豊臣)秀次の側室候補。別名、「伊万(いま)」・・・彼女の名は「御駒山」からとられている・・・
 辞世の句は、
 「罪をきる
 弥陀の剣に・・・ 弥陀(ミダ)の「ツルギ」で、
        「阿弥陀」ではない
 かかる・・・・・
 身の
 なにか
 五つの
 障り
 ある
 べき」
 ・・・ウエのカイシャク・・・「何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから」・・「いっしょに消えていくのですから」デハ、ないだろう・・・
 約5時間の処刑
 遺体は一箇所に埋葬
 慶長十六年(1611年)
 角倉了以によって再建された
 秀次に関連した大名は監禁
 聚楽第も破却
 ・・・「この若者(秀次)は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」、「穏やかで思慮深い性質である(ルイス・フロイス・日本史)」・・・?
ーーーーー
 枕草子
 (一三二段)・・・百二十三・壱百弐拾参・壱弐参・壱百弐拾参
          1+2+3=6=六=陸
          1×2×3=6=六=陸

 關白殿の
 黒戸より出でさせ給ふとて、
 女房の廊に隙なくさぶらふを、
 「あな
  いみじの
  御許
  だちや
  翁をば
  いかに
  をこなりと
  笑ひ
  給ふらん」
 と分け出でさせ給へば、
 戸口に
 人々の、
 色々の袖口して
 御簾を引き上げたるに、
 權
 大
 納
 言
 殿、
 御沓
 取りて
 はかせ
 奉らせ給ふ。
 いと
 ものものしう
 きよげに、
 よそほしげに、
 下襲の
 裾ながく、
 所狹くさぶらひ給ふ。
 まづ
 あな
 め
 でた、
 大
 納
 言
 ばかりの人に
 沓をとらせ
 給ふよと
 見ゆ。
 山井の・・・「やまい・病・
        サンイ・三位・参位・
            賛意・産医・纂意
        サンセイ・賛成・参政・酸性
             三星・三世・三省」之
 大
 納
 言、
 その
 つぎづぎ
 さらぬ
 人々、
 くろきもの・・・黒着物・黒装束→喪服・葬儀服・燕尾服
 を
 ひきちらし
 たる
 やうに、
 藤壺の・・・・・「ふじつぼ・不治都簿
          トウコ・問う拠」之
 へいの
 もとより、
 登華殿の・・・・「トウカデン・問う家伝」之
 前まで
 居竝み
 たるに、
 いと
 ほそやかに
 いみじう
 なまめかしうて、
 御太刀
 など
 引き
 つくろひ
 やすら
 はせ給ふに、
 宮の
 大
 夫
 殿の、
 清涼殿の・・・・セイリョウデンの
        「声量・星陵・青陵・精良」伝之
 前に
 たたせ
 給へれば、
 それは
 居させ給ふ
 まじき
 な
 めり
 と
 見る程に、
 少し歩み出でさせ給へば、
 ふと居させ給ひしこそ、
 猶いかばかりの
 昔の
 御行の
 ほどならんと
 見奉りし
 こそ
 いみじ
 かり
 しか。
 中
 納
 言
 の
 君の・・・「くん・訓・汲む・きみ・紀視」之
 忌の・・・「いむ・異夢・医務・意務」之
 日とて、
 くすし
 がり
 行ひ・・・・おこない・・・お子無い
 給ひしを、
 「たべ、
  その
  珠數・・・たまかず・霊数→死霊
       シュスウ・シュズ・→数珠    

  しばし。
  行ひて
  めでたき身に
  ならんとか」
 とて
 集りて
 笑へど、
 なほ
 いとこ・・・従妹
 そ・・・・・措・曾・蘇
 めでたけれ。
 御前に
 聞しめして、
 「佛になりたらんこそ、
  これよりは
  勝らめ」
 とて
 打ち
 笑ませ給へるに、
 又
 めでたくなりて
 ぞ
 見まゐらする。
 大夫殿の居させ給へるを、
 かへすがえす聞ゆれば、
 「例の思ふ人」
 と笑はせ給ふ。
 ましてこの後の御ありさま、
 見奉らせ給はましかば、
 理と
 おぼしめ
 され
 な
 まし。
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